曹真とは、三国志に登場する人物である。
虎豹騎隊長
字は子丹。曹操の甥にあたる。父の曹邵(一説によると秦伯南という曹操の友人)が曹操の旗揚げ時に豫州刺史の黄琬に殺され、曹操はその遺児である曹真を実子の曹丕らと一緒に育てた。曹真が狩猟で、馬上から虎を射た事があり、曹操は直属の部隊「虎豹騎」の隊長として率いさせた。
曹操が漢中を領有するようになると劉備との戦いで戦功をあげ、夏侯淵の戦死後は曹洪と共に陳倉に駐屯した。魏が建国されると鎮西将軍となり、雍州・涼州の軍事を統括する任務を帯び、異民族や領内の反乱を鎮圧する役割を担った。その後中央に戻り、呉征伐に従軍している。曹丕の死に際して、跡継ぎの曹叡の補政を陳羣、司馬懿と共に依頼されている。曹叡が即位すると大将軍となった。
孔明との戦い
太和2年(228年)に諸葛亮率いる蜀の北伐軍が魏に侵攻する。南安、天水、安定の三郡が蜀に奪われる中、曹叡は長安まで親政し、曹真は蜀軍の迎撃にあたり、趙雲や鄧芝の部隊に備えた。張郃の活躍で蜀軍を撃退することができたが、曹真は諸葛亮は次は陳倉を攻めてくると読み、郝昭に陳倉を守らせた。果たして同年諸葛亮が再度攻めてくると郝昭は陳倉を固く守り蜀の攻撃に屈せず、曹真が援軍を送ったため蜀軍は撤退した。
蜀軍との戦いの功績から太和4年(230年)曹真は大司馬となり様々な特権を与えられる。曹真は蜀からの攻撃に防衛するだけでなくこちらから攻める事を提案、子午谷より蜀に攻め入る。同時に荊州にいた司馬懿に漢水から漢中を攻撃させるなど大規模な軍事行動となるはずだったが、秋の長雨のため補給が困難となり、やむなく曹真は撤退する。
洛陽に戻った曹真は重病にかかり、翌太和5年(231年)に病没。元侯と諡された。
逸話
- 若い頃同僚だった、従弟の曹遵や同郷の朱讃が早くに亡くなったため、その子らに自身の封地を分け与えたり、恩賞が足りない将兵がいれば自らの私財を分け与えた。このため将兵らの信頼が厚かった。
- 相当肥満だったと史書に記録されている。曹丕の寵臣だった呉質が私宴を開いた時、芸人を使って曹真と痩せていた朱鑠を一緒にからかった。曹真は怒ったが同席していた曹洪と王忠から「曹真殿が肥っていると認めさせるためには、まず貴公が痩せているのを認めるべきだな」とよく分からないフォローを呉質にして、結果として宴会はメチャクチャになっている。
- 清朝の道光年間(1821年~1850年)に、陝西省西安の近郊で曹真が諸葛亮の侵略を撃退した業績を称えた石碑が発掘された。
曹真の家族
- 曹邵 - 父。三国志の注にある『魏略』だと、曹真の父は曹操の友人だった秦伯南という人物とある。
- 曹彬 - 弟。曹操の同名の弟とは別人。曹丕の代に列侯に封ぜられる。
- 徳陽郷主 - 妹。夏侯尚の夫人で夏侯玄の母。
- 曹遵 - 従弟。曹真と一緒に曹操に仕えたが早死にした。演義では孔明の第一回北伐で魏延に討ち取られている。
- 曹爽 - 長男。大将軍、録尚書事、侍中。
- 曹羲 - 次男。列侯、中領軍。
- 曹訓 - 三男。列侯、武衛將軍。
- 曹則 - 四男。列侯。
- 曹彦 - 五男。列侯、散騎常侍侍講。
- 曹皚 - 六男。列侯。
- 曹文叔 - 甥。早死にしたが、その妻夏侯令女は壮絶なまでの貞淑を貫き再縁を拒んだ。
- 曹熙 - 族孫(甥の子)。
曹叡の死後、曹真の長男の曹爽が大将軍として権勢を極めたが、司馬懿のクーデターに遭い、三族皆殺しになった。しかし曹真の生前の功績を考慮され、曹真の族孫にあたる曹熙が跡を継ぐことを許されている。
各メディアにおける曹真
三国志演義
司馬懿が謀反を疑われた時にこれを弁護したり、病気中に蜀や呉が攻めてきた時、都督の印を直接司馬懿に手渡したり、基本的にいい人である。
しかし諸葛亮の智謀には歯が立たず連戦連敗、正史にある功績も司馬懿の手柄にされてしまっている。最後は抜擢した王双が斬られたと聞くや病に倒れ、諸葛亮の挑発の手紙を見て怒りのあまり憤死する。
諸葛亮には勝てず、司馬懿の才能に叶わなかったことが後の曹爽の運命に影を落としている気がする。
それにしてももっと評価されるべき、という言葉を曹真に捧げたいくらい正史とは正反対のかませ犬ぶりである。もしあそこで賭けに勝っていれば仲達さんの女装姿見れたのに
横山三国志
三国志大戦
Ver2.1に登場、いったん排出停止になった後Ver3.5で再登場。
崩射の号令を上手く使って正史の如き活躍ができるか。
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関連項目
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