森徹とは、以下の人物の事を指す。
この記事では1について記述する
森徹(1935年11月3日~2014年2月6日)とは、中日ドラゴンズ、大洋ホエールズ、東京オリオンズに所属していた元プロ野球選手である。
大学及びプロ野球においてスラッガーとして活躍し、引退後はグローバルリーグや野球振興会で活動した。
概要
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1935年に満州にて生まれ、少年時代は北京で過ごすが、戦争が始まって間もなく父・兄・妹を亡くす不幸に見舞われる。
終戦後の1946年に日本の函館に引き上げ、東京の早稲田大学高等学校に進学すると、高校時代は柔道と野球の二束の草鞋を履いて体を鍛え上げていく。
大学では2年生から野球一本に絞ると、秋の早慶戦3回戦では慶応のエース藤田元司から優勝を決める決勝ホームランを放つ。
3年からは同級生で立教大の長嶋茂雄と共に4番打者として競い合い、アジア大会では長嶋を差し置いて4番に抜擢されたこともある。
プロでは1年目の開幕戦にいきなりホームランを放ちそのままレギュラーに定着、同じくプロ入りを果たしていた長嶋茂雄と本塁打王のタイトルを争い、4試合連続ホームラン等の活躍を見せるが、途中病気で一時離脱したこともあり23本塁打79打点の成績で、29本塁打92打点の長嶋には及ばず、本塁打打点及び新人王のタイトルは取得できなかった。
2年目の1959年はプロで唯一となる全試合出場を果たし、打撃でも31本塁打87打点で本塁打王と打点王の2冠を達成。
だが1960年から中日の指揮をとる濃人渉監督とはウマが合わず、濃人監督は1961年にはプロ入り後初めて20本塁打に届かなかった森に変わり、自身が社会人時代から面倒を見ていた江藤愼一を可愛がるようになり、森は大洋ホエールズに金銭トレードで放出される。
大洋では三原脩に主軸を任され、62年、63年ともにそれぞれ22本塁打、24本塁打と活躍するが、64年以降は乱視で打撃の感覚が狂ってしまい成績を落とすこととなる。
66年からは東京オリオンズに移籍し出場機会を得ていたが、皮肉なことにかつて自分を放出した濃人渉が1967年途中から監督に昇格、すると68年はわずか7試合の出場に終わり、この年限りで現役を引退した。
引退後
現役を退いた後は代理店の経営などを行っていたが、1969年にアメリカのウォルター・ディルベックによるメジャーリーグに続く第三のリーグである「グローバルリーグ」を作る運動に参加する。
森は日本代表として古賀英彦などと共に「東京ドラゴンズ」を結成し、その監督に就任。チームのトライアウトにもプロアマ含めおよそ90人が集まった。
しかし肝心のリーグはなかなか客が集まらず、給料の支払いもすぐに滞るようになり、2か月もするとすべてのチームが経営難で破産寸前、そしてプエルトリコやドミニカのチームが撤退していき、さらには発起人のディルベックもトンずらする。
結局道具や泊まる場所も確保できなくなったチームは大使館に助けを求め、リーグ参戦から半年後にたった数日分の給料だけを手にして失意のまま帰国、グローバルリーグはこの1年で打ち切りとなっている。
その後は社会法人の全国野球振興会の役員及び理事長を務め、プロとアマの交流に尽力していたが、2014年2月6日に肝細胞がんのため亡くなった。享年78歳。
人物
前述のように大学からは野球に専念していたが、柔道も有段者であり、北京にいたころは野球がなかったためスケートを嗜んでいたこともある。
また国民的スターである力道山と親交があり、61年オフに森が濃人監督との対立でトレードされそうになったときには力道山が介入し、「森を放出するなら原因である濃人も首にして喧嘩両成敗とすべき、さもなくば森は森が希望する球団に出すべき」と球団に直談判したため、森はトレードではなく金銭で森が希望する大洋に放出となっている。
通算成績
野手成績
通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1177 | 4164 | 3868 | 432 | 971 | 189 | 585 | 56 | 9 | 31 | 228 | 28 | 568 | 115 | .251 | .298 |
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関連項目
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