武田義統(1526~1567)とは、若狭武田氏の8代目当主であり幕府に接近しすぎた結果畿内政治史の混乱にただでさえ巻き込まれていた若狭武田氏をさらにgdgdにさせてしまった人物である。
ここまでのあらすじ
若狭武田氏という在京大名
若狭武田氏とは、南北朝の際の失敗で守護の座を奪われわずか三郡を治めるに過ぎなかった安芸武田氏(豆州家)が、足利義教の命で若狭・丹後・三河守護・一色義貫の殺害に成功した功で若狭守護の地位を手に入れたことに始まる。
殺害の下手人であった初代・武田信栄は傷がもとですぐに亡くなり、弟である武田信賢が父・武田信繁の補佐の下若狭を新たに治めることになり、官職も大膳太夫という今までにない高官についた。
もともと一色氏とは対立していた上に、瀬戸内をめぐる大内と細川の対立では大内と敵対した結果細川に接近、その結果応仁の乱では東軍につき両軍の最初の直接的な対立であった一色義直邸襲撃では一軍を率い、乱が地方に波及すると丹後へと進出し丹後守護職のゲットを目論んだのである。
乱中に亡くなった信賢に変わり、さらにその弟の武田国信が跡を継ぐことになるが、乱が終結した結果せっかく確保した丹後を失うこととなり、さらに後継者であった嫡子武田信親も早世、国信は失意の中亡くなる。
そして登場したのが中興の祖、5代目・武田元信である。明応の政変では真っ先に足利義澄・細川政元陣営についた一人であり、赤松政則が亡くなった後、細川政元の有力な同盟者かつ足利義澄にとっては数少ない政元以外の在京大名として中央で重要な存在となったのである。相伴衆にはなれなかったものの若狭武田氏として初めて四位以上に昇進することとなった。
しかし、細川政元との協力のもと大規模な一色氏攻撃に出ているさなかに、肝心の細川政元が暗殺されてしまったのである。一色氏の逆襲に対し赤沢朝経と違い戦死は免れ、元信は消極的足利義澄、細川澄元派として中央から離れ状況を静観する。やがて足利義植が逐電し、細川高国が義澄の子である足利義晴を迎えると中央に復帰、高国は貴重な味方として彼を重用し従三位にまで官位を上げさせた。そして間もなく元信は亡くなった。
その陰り…
しかし若狭武田氏の輝きもここまでであった。ここまで読んだ読者の中にお気づきの方もいられるだろうが、中央に近すぎて中央政治の動向に影響を受けすぎているのである。
続く6代目・武田元光は細川高国派になった状況で跡を継ぐことになる。そう、大物崩れである。細川高国と運命を共にした結果家臣の多くを失うこととなり、なんやかんやの結果細川晴元が足利義晴側についたため幕府と疎遠になることはなかったものの大幅に求心力を低下させることとなった。
そう細川晴元派になったのである。おわかりだろうか、7代目でありこの記事の人物武田義統(やっとでてきた)の父親・武田信豊はある一族を相手取る必要になったのである。ただでさえ叔父の武田信孝らを相手取る羽目になっていた信豊は、1542年に細川晴元の命で出兵する。その相手こそ三好長慶率いる三好家だったのである。1552年には足利義輝の命で丹後に出兵するが松永久秀の弟、松永長頼にもう散々な目にあわされて、結果家臣の多くを失うこととなり大幅に(ry
この状況下で信豊は家督を譲りいよいよ武田義統の代になるのである…
さらなる失墜
しかし、この状況下でさらに面倒なことが起こる。弟・武田元康(のちの武田信由)との家督継承をめぐる争いである。そして父親である武田信豊も元康側についてしまったのである。その結果1558年以降若狭は義統派と信豊派に二分されることとなってしまい、信豊は義統によって国外追放されることとなった。
さすがにこの状況を見かねた足利義輝は六角氏に調停を依頼、ひとまずの和議がなる。しかし国内では両者の小競り合いが続き、信豊が帰国できたのは1561年のことであった。信豊はその後織田信長の時代まで生き残るものの、もはや全く影響力のない存在として、顧みられることはなかった。
武田義統は足利義輝に重用され、史上初めて足利氏から妻をめとった人物である。しかしもはや大名として統治していくには求心力が落ちすぎてしまっていた。1561年、ようやく信豊と和議がなった直後重臣である逸見昌経の反乱がおこる。その背後にいたのは松永長頼だった。
もはや義統に自力でこれを抑え込む実力はなかった。そこで行ったのが、西が敵なら東に頼もう、という理論である。そう、朝倉氏の介入である。ここで借りを作ってしまった結果、後年ややこしいことにつながる。
義統にはもはや永禄の変で足利義輝が殺害され、足利義昭からまっさきに協力を呼びかけられても、それにこたえる実力はなかった。なぜなら反義統勢力が息子である武田元明を担ぎ上げ、反乱を行っていたからである。もはや若狭は混乱の極みとなっており、足利義昭は朝倉氏の下に移っていった。そして1567年武田義統は亡くなるのである。
そして…
跡を継いだ9代目・武田元明は1562年生まれ…つまりまだ十にも満たない幼児であった。彼は朝倉氏に半ば保護される形となり(さすがに拉致されたわけではないようだ)、若狭は親朝倉・反朝倉に分かれつつも次第に朝倉氏の勢力が浸透していった。
そして織田信長に朝倉氏が滅亡させられると、旧臣である逸見氏らと同様に、丹羽長秀の与力として取り扱われ、大名として復帰することはなかった。
そして1582年本能寺の変が起こると京極高次らと同様旧領復活を目論み明智光秀に組し、戦後自害させられることとなるのである。そして嫁は羽柴秀吉にとられた。かの有名な松の丸殿である。
元明には二男一女がいたとされ、生き延びた子が津川内記、ついで佐々義勝を名乗り京極家の重臣として高浜城代になったという
補足
能力以前に立地が非常に悪い。上級者向けの勢力の一つに挙げられる。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 102 | 智才 | 60 | 政才 | 106 | 魅力 | 75 | 野望 | 49 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 51 | 戦闘 | 36 | 智謀 | 43 | 政治 | 49 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 37 | 智謀 | 30 | 政治 | 39 | 野望 | 32 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 33 | 知略 | 29 | 政治 | 36 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 71 | 武勇 | 61 | 知略 | 43 | 政治 | 40 | ||||||
創造 | 統率 | 64 | 武勇 | 60 | 知略 | 47 | 政治 | 44 |
関連項目
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