永禄の変単語

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永禄の変 / 永禄の政変とは、永8年(1565年)5月19日に起きた室町幕府13代将足利義輝三好義継松永久通率いる三好軍に殺された事件である。

概要

室町時代の一転換点となる足利義輝の殺された政変。ニコニコ大百科でもセイバーのごとくをとって戦った彼の姿が有名だが、実は21世紀になるまでほとんど研究されておらず、松永久秀の関与度などのは多い。

というか、三好義継の軍勢が突然してきたと思われていたが、実は足利義輝偏諱を与えられて名前が変わったころ(なのでおそらく三好義継は変後ではなく変前からの名乗りではないかといわれるようにもなった)からずっと京都にいたことが2019年になってようやく分かったレベルであり、足利義輝政権も含めて基本的な事実関係の整理すら発展途上の段階にまだある。

【読まなくていい資料論】

※なお、以後のイエズス会文書は『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第2巻〉』、『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第3巻〉』の和訳の引用であり、原文はラウレスキリシタン文庫開している"Iesus. Cartas que os Padres e Iros da Companhia de Jesus, que andão nos reynos de Japão escreverão aos da mesma Companhia da Índia, o Europa, des do anno de 1549. até o de 66. Nellas se conta o principio, socesso, e bondade da Christandade daquellas partes, e varios costumes, e idolatrias da gentilidade. Impressas por mandado do Illustrissimo e Reverendissimo Senhor dom João Soarez, Bispo de Coimbra, Conde de Arganil. &c. Forão vistas por sua Senhoria Reverendissima, e impressas com sua licença, e dos inquisidores, em Coimbra em casa de Antonio de Mariis. Anno de. 1570. [colophon:] Foy impressa a presente obra na muy nobre e sempre leal cidade de Coimbra em casa de Antonio de Maris Impressor e livreyro da Universidade. Acabouse o derradeyro dia do mes de Agosto, do anno do nacimento de nosso Senhor Iesu Christo, de mil e quinhentos, e setenta."、そこにないものはFicha Bibliográficaが開している"Cartas que os padres e iros da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580."を併記しただけなので、筆者が訳したわけではないことを注意(なお、言い訳をすると近世文書なので前者と後者ではアルファベットの表記などに微妙にブレがあり、本来は全部そろっている後者で統一したほうがいいのだが、前者のほうが読みやすかったのでこっちを使った…正直等位接続詞の表記法とかわかりやすいので逐一典拠は示さない感じで…)

※また『右記』、『康雄記』あたりは一人として翻刻していないため、筆者が勝手に気合で活字に起こしただけなので合ってるかどうかは参考程度にしてほしい。

『資定卿記』?読めん!『北野日記』?『中臣磯記』?見れん!『継記』の前半?そもそも行方不明だ!

5秒で分かる(ry

  1. なぜ殺した
  2. どうしてこうなった!どうしてこうなった!
  3. 信長勇気が幕府を救うと信じて…!ごありがとうございました

ここまでのあらすじ

三好長慶と足利義輝の戦い

明応の政変で二流に分かれた足利将軍、永正の錯乱で二流に分かれた細川、その他畠山尾州畠山総州六角氏や赤松氏、若狭武田氏、大内氏といった在京大名、に近い在大名を巻き込んだ畿内の泥沼の戦いは、三好長慶の台頭によって三好本宗細川晴元(とそれに巻き込まれた足利義晴)の戦いという構図に収束していった。

そんなさなか生まれたのが足利義輝である。文5年(1536年)に誕生した彼は、実である近衛氏出身の慶寿院に育てられ、六角定頼を管領代として文15年(1546年)に元する。しかし上述の三好本宗細川晴元の戦いによって文18年(1549年)に近江に動座。翌年足利義晴近江したため将軍位につく。六角定頼支援の下朽木に移り、文21年(1552年)に和し、京都に戻ることとなった。

しかしまだ年若い足利義輝三好、反三好の近臣の対立を巻き起こし、上野信孝杉原晴盛細川広、彦部晴直細川某、の「六人衆」から三好長慶への人質を差し出す羽になってしまった。しかし反三好近臣に接近した足利義輝文22年(1553年)に細川晴元を赦免。和は破断し三好長慶との戦いに至る。しかし東山霊山での戦いに敗北し、朽木に動座。以後5年間にわたって三好本宗京都を単独支配する「三好政権」が生まれることとなった。

足利義輝臣はほとんどが京都に戻り、母親実家である近衛等一部の側近のみが彼を支えていった。そんな中足利義輝地方の大名と音信を取り、和調停などに積極的に乗り出す。しかし永元年(1558年)坂本に移った後、六角義賢の仲裁で再度三好長慶と和することとなったのだ。

足利ー三好体制と亀裂

後の足利義輝は武衛御所を築き、織田信長一色義龍長尾景虎といった上者も現れるなど安定した統治を行うことができた。しかしそのほころびとなるのが、永5年(1562年)三好長慶とそれに対抗する六角義賢畠山高政、そして伊勢貞孝子や一部の奉公衆が戦いに至った「幕府分裂抗争」である。足利義輝はこの戦いで八幡に避難。両者を仲介したものの、結果として三好氏による将軍の単独擁立がより強まってしまったのだ。

しかし足利義輝もこれに対抗する。先の戦いで伊勢貞孝が討ち死にし、摂津晴門を政所頭人に送り込んで足利義満以来の政所における伊勢氏の独占体制を終了させたのである。

しかし表では協調し、裏では冷戦状態にあった三好氏にも三好長慶の支配体制にほころびが出始めていった。十河一存三好実休安宅冬康といったたち、後継者だった三好義興が相次いで亡くなっていったのである。そして三好長慶も永7年(1564年)についにすることとなった。

そして跡を継いだのは養子の三好義継。そしてそれを支えたのが三好三人衆松永久秀松永久通子であった。

そしてついにD-デイが訪れる!

運命の日

ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~~~!

じゅべべべべんっ!

卯、、八専、申刻降、天一東 三好人数松永衛門佐等、以一万計御所へ乱入取巻之、戦暫々、奉公衆数多討死々、大樹午初点御生々、不可説不可説、先代未聞儀也、州之武可有御上々、御殿放火春日殿焼、慶寿院殿殿々、御小袖之唐櫃、御、御護等櫃三、伊勢加賀守貞助為警護、禁中へ被預申々、
討死人数大樹鹿苑寺殿、慶寿院殿畠山九郎、十四才、大館岩石、予州子十才、上野兵部少、同予八郎摂津いと、十三才、細川宮内一色淡路守、同又八郎、予八郎也、雅楽頭、同孫八郎小林荒川治部少武田兵衛尉、小林、進士美作守、同頭、沼田上野介、杉原兵庫助、逃死、朝日新三郎結城正、有馬次郎、奉行治部三郎衛門、福弥、台廿四か手資、慶、御末田弥四郎、同二宮三郎足軽衆大弐、同谷口民部、慶寿院殿小林西面允、松井二郎高木右近、森田新左衛門尉、鹿内衆蔵首座、河端兵部木村小四郎、小川屋、十六才、高名、春日内衆飯田兵衛尉、松原小四郎、三郎五郎西川新左衛門尉、中井勘左衛門尉、畠山九郎内、十六才、杉原内村田彌介、八田十右衛門尉、進士内高橋ヽヽヽ、一河ヽヽヽ、小者、其外雑兵数多々、

朽木刑部少綱来、頼之由被申、にて一勤之、葉室へ予送之、今逗留了、同女房衆方に逗留也、

三好松永人数討死手負数十人有之

――『言継卿記』永八年五月十九日

 四時分ニ上意ヘ三好京大夫 右衛門佐取りかけ上意御をめし 同慶寿院殿自害

三度御対面にてやり伊勢加州上意ミおまほりよろい禁中へあつけ参ゝ又くれ〱に御はた又伊勢加州大和宮内りょうにんあつけ夕方夕立

――『右記』永八年五月十九日

ふるみよしふけをとりまきて。ふけもうちしににて。あとをやき。くろつちになしちかころ〱ことのはもなき事にて

――『お湯殿の上の日記』永八年五月十九日

一、十九日、方様御召也、其外数人、是ハ長左、三吉左京大殿御両人より、然ハ御てん火かけ被申也、但時者ミこく也 鹿尾院殿も同前、同慶寿院も同前、

――『永八年代慶世引付』永八年五月十九日

五月十九日、四時、方様ヲコロス、三好、幷篠原衛門殿諸勢八千騎斗京都登、方様取コメ、カリマタノ矢ニテヰル、マワリヨリ火ヲ付悉焼、殿中打死、方様御女房衆十三人、慶寿院殿御自カイ畠山九郎殿十四才、間不見十二才切腹大館岩石殿上野兵部殿・同与八郎殿細川宮内殿一色淡路殿・同又三郎雅楽殿・同孫四郎・荒川治部殿朝日新三郎殿・近士美作守殿・同殿有馬五郎殿武田兵衛殿・いと沼田上野殿結城殿・治部三郎衛門殿小林殿・福ミ・ミ・さミ・ミ・慶寿院殿・全弥・二宮三郎・介田弥四郎・大弐・谷口民部・松井二郎森田新左衛門殿・西允・松原三郎飯田澤甚三郎・縫子宮千代殿・宮垣与五郎中井助左衛門西川鹿園院殿・貞首座・一色殿・香端兵部・高木右近・木村小四房十六才、類動キ

――『享文之記』永八年五月十九日

当年(永五月十九日。三好京大夫。松永衛門佐。武衛御所以軍勢取巻。征夷大将軍(御歳三十)御生。同慶寿院殿。幷北山鹿殿(是ハ路次)御生(御供若衆一人。御川端一人)。御供衆上野兵部大輔畠山九郎。御部屋衆大館岩福丸(伊予息)細川宮内一色淡路守。上野八郎一色三郎。同三郎有馬次郎摂津登丸。武田兵衛。御走衆荒川治部少。進士美作守。同息頭。子。杉原兵庫助。沼田上野結城允。治部三郎衛門同朋衆弥。弥。慶弥。台弥。輪弥。外打死霊数十人。幷小御局東山智恩院生

――『東寺過去帳』

五月十九日午時大樹有事。御儀慶寿院殿。御舎鹿苑寺殿同時。討手三好京大夫義継。松永衛門佐久通以下也。

――『卿補任』

四月三好六郎松永衛門佐上シテ。五月朔日室町殿ヘ出仕申。孫六郎京大夫ヲ望申之間。則被成。同廿二日殿中御一献可申沙汰由申入。御油断処ニ。十九日着ニテ殿ヘカケ入。御ノ内外多人数ニテ取巻申。御近所ノ衆身命ヲ捨雖合戦。多勢ニ各討死。午刻ニ将軍(宰相中将。三十歳)御自害。同御慶寿院殿五十二歳)御自害将軍御舎鹿苑寺殿(十七歳)御生波衆平田和泉鹿苑寺殿ヲ討申。後御若衆ウシヨリ和泉守ヲ一ニ切落。其身打死。殿人打死。其外以下数ヲ不知。御自害以後御所ニ火ヲ懸焼失。

――『永以来年代記』

八年五月十九日三好松永兵囲将軍御所。世謂将軍所居謂之御所也。義自殺

――『永以来大事記』

五月十九日三好義長弑将軍。三十歳。

――『享保以来年代記』

経過

概要

三好長慶が死んだよ、どうなる三好

後は…頼んだ…
三好長慶
は!
松永久秀
上ー!
三好義継

ひとまず挨拶にみんなで上したっぽいよ

まあ色々あったが…これからもよろしくな?
足利義輝
ははー!
三好義継

本題

8年(1565年)、三好義継代替わりした三好本宗は、土地の安堵すら系統が一本化されず、有者それぞれに保める事態になっていた。そして4月30日三好義継三好長逸松永久通などを率いて上し、翌5月1日足利義輝に出仕した。その結果足利義輝は義継と久通を好待遇したのである。

【史料】

一 永八四、従飯守(盛)三孫六郎殿三好義継、至西院着宿刻、松永久通八条ニ寄宿

一 五月朔日、出仕、供和(和久基久)・寺遠(寺町通昭)・三向三好長逸右出仕、先春日殿へ被参、小付ニテ御アリ、仍御字・官途之儀内々以進作進士晴舎為各申入之、被成御意得良被仰出、申次 進作 伊勢貞知、仍 御対面之次第如常、節朔一番御供衆申次上地院マテ、其次面々ト申入之、三孫六御対面当年始之(間カ)、御太刀進上之、其次節朔衆、其次公家(中略)衆各御対面過テ 御盃参御相伴衆、各クミタル御盃参、二ツノ御盃ノ時、官途幷御字被下良、直ニ被仰出間、悉之旨申上之、御礼被申上之、一番に官途左京大夫御礼、御太刀・御代・二千、次ニ御字御礼、御太刀・御馬鹿毛・三千進上之、然ニ録ニ官ヲ認間、名乗ノ下字モ先重ノ字、録文面略)

ノ御礼事テ、三ノ御盃参、右御酌

――『雑々聞検書』
補足はによるもの

従来はここで一旦戻り5月18日三好義継松永久通らに引きつられた三好軍が入したと考えられてきたが、史料を見ていった結果ずっと三好軍は在してあちこちの公家を訪れるなどしていたようだ。なお、5月6日には山科言継に諱を今後どうするかいくつか案がある旨を相談している。

【史料】

為御焼香御成刻。。御走衆六人(小民。進。安兵。兵)。肩衣。太刀帯之。御小者六人(左ニ参、御小者御扇持之)。御乗(御カタ衣。御也)。御供大与。御。足ナガ。モヽダチヲ取之。一式。細兵。ウツボ太刀打刀如常。ユガケヲバ不用之。中間共長被持之。走衆ハ打ヲ被持之

――『伊勢貞助記』永八年五月四日

【史料】

 武へゐくす玉参る也申次伊勢七郎衛門也詰山如図衆よりマキからすみ長谷川三跡一希マキ食お送礼ニ来也内民取次申す也見参らて也物上意御対面三好京大松永衛門佐名参也

――『右記』永八年五月五日

【史料】

あさ御さかまいる。あさかれいは。すゑの物ともくわんらくにて御人なくて御まいりなし。ふけゑの御くすたまの御つかゐくわんしゆ寺一位さいこくにて中納言御つかゐなり、めヽすけとのよりまきまいる。

――『お湯殿の上の日記』永八年五月五日

【史料】

天一上、 高辻へ罷向、先日借用之被之系図返遣之、一了、次門へ参、南都之松井兵部卿兄弟、御有之、

宮内卿枝賢臣来、三好京大名字切之事申之、七調之、一勤了

当番之間暮暮参内、相番予、大蔵卿、豊等也、

下刻倉部大霍乱々告来之間、退出了、富小路所へ罷向、招寄脈取之、所望、三度吐瀉之後落入了、

――『言継卿記』永八年五月六日

【史料】

一、六日、西吉積民部数年上保御本役未進」仕、御門跡様と事ニ成申、然者今日落居仕、則衛門殿より上使出し被申、西上保之さし出しさせ申、因幡殿等も罷出也、万成物御門跡様へ落申也、

――『永八年代慶世引付』永八年五月六日

【史料】

天一上、 近所蔵坊来従西園寺今日会短冊一枚勅題、持来、午時可持来之由有之、

柳原へ罷向、今日和歌談合了、

門へ参、殿伏見殿、南御方等御出也、

午時西園寺三条亭へ罷向、又一首可詠之由有之間、当座に読之、未下刻始、人数西園寺、左府、四亜相、予、冷泉民部、三条門、四新相、甘露寺頭弁、予州之松葉五十六才、厳斎紹、等也、各着帽子直垂、先冷麺吸物、にて一有之、次短冊置之、次冷泉被取重之、次講領有之、講師民部卿、講師頭弁発亜相等也、十五首也、次はう飯、吸物、食籠、台物等にて盃三出了、唱歌、被読、音曲等有之、及大飲、乗刻各帰宅了、予和歌題夏草露、述懐等也、

暮て見む茂る河辺夏草そ露の色をそへゐる

いかにせは身ひとつも四の二のに名をもしられん

三好京大夫礼に被来々、太刀糸巻、被送之

自吉祥院取に来、又三包遣之、

竹内殿下女子昨日今日之、

中山亜相女中綱女、今刻死去々、

――『言継卿記』永八年五月九日

【史料】

 御大工惣官終こわいふなのすしニ送み正法寺使来也

正法寺導一こふしきろう持来被申次様体申也

三好京大太刀にて礼ニ役来同太刀にてら来也

西こほりよりうたいニ枚ちゃんニ朱也口 室二通かいまき也 五十

――『右記』永八年五月九日

【史料】

申、降、天一上、土方、(六日) 亡卿忌日之間、院代小侩、斎に来、相伴了、

勧修寺中納言三好へ礼に可罷之由処、降之間延引了、

――『言継卿記』永八年五月十二日

【史料】

、八専、土地中(十日) 勧修寺中納言礼に罷向、先三好日向守、知恩寺之内、太刀、糸巻、門外へ出対面、次三好京大夫義重、宿、河堂之内、太刀、糸巻、見参、奏者金山駿河守也、金山太刀遣之、次松永衛門佐義久、宿、大森嘉観所、当徳院之内、太刀、糸、奏者海老名石見守、見参有之、清宮内卿枝賢臣、馳走、以次伊丹玄哉等礼申了、河堂之内に金山相待之間に、予誓願寺へ罷向、長老見参、一有之

吉田咲隠軒書状有之、先日約束芷之種生廿本被送之、ズルニ項重出

――『言継卿記』永八年五月十八日

【史料】

 山科と申合 三好京大夫同松永衛門太刀礼申お右衛門佐所

――『右記』永八年五月十八日

特に緊迫した雰囲気はなく、皆日常を過ごしていった。ただし、ルイス・フロイスによると、この前日に異変を悟った足利義輝が脱出を図ったものの、取って返した騒動があったらしい(他の史料で裏付けも取れず、なんで宣教師がそんなことを知っているのか不明なので事実関係は不明だが、『日本史』の流布で有名な逸話になってはいる)。

【史料】

三好殿は幾度か彼を訪問し、その都度大いに歓待された。三好殿外にある僧の僧院において彼を饗応することに決めたが、その経費は少なくとも五、六千クルザードに上り、しかもこれは料理にではなく、習慣に従って彼らの各人が方様に贈る甚だ高価な品々に要するものであった。

方様は三好殿が伴って来た多数の兵を見てその饗応を怪しみ、辞退することに努めた。三人の大身はいずれもそれを受けること再度懇請し、彼が恐れているのを悟ったので、三人とも己れの偶像に対して誓いを立て、各自が彼に書付を送り、饗応する以外に何もなく、(終われば)直ちに各に帰るのであり、いっそうの安全のため、彼の宮殿の敷地内にある彼のの邸で饗応したい旨を伝えた。

方様は彼らにそれを受ける素振りを見せたが、彼らが何らかの謀反を企んでることを大いに恐れ、その懸念がますます強まったことから、また、もし謀反が起きた場合、対抗するがないことを認めたが故に三位一体日曜日の前の土曜日、他に逃れようとして、己れの最もしく、かつ寵している大身数人を伴い、大いに人びつつ宮殿を出た。

内外およそ一里の所まで来た時、彼は同行者に己れの意図を明かしたが、彼らは皆彼に反対し、謀反の企みが明に認められないにもかかわらず、臣から逃れることは彼のいとも高き権威を損なうものであり、彼は特によき君にして臣の何びとも苦しめたことはなく、もし謀反が起きたならば、彼ら全員、死を共にするので戻るべきであると言った。かくして同行者らに説得され、彼は帰還した。

Foy Mioxindono visitalo algūas vezes, e sempre ihe fez muyto gasalhado. Determinou Mioxindono de lhe dar hū banquete fora da cidade, em hnm mosteyro de Bōzos, qpolo menos lhe auia de custar algūs cinco, ou seys, milcruzados, nāo igoaas, mas nas peças, qem cada hum delles se apresentāo ao Cubucama, consorme a seu costume, quesam de muitavalia.

Teue o Cubucama fospeyta do banquete vendo a muita gente que consigo trazia Mioxindono, e trabalhou poe se escusar delle.Tornarāo todos ostres senhores afazer instancia que o aceytasse, e porsentirem nelle temor fizerāo todos tresjuramentos grandes sobre seus idolos, e mandoulhe cada hum hum escrito seu, que nāo aueria ourra cousa mais queseruiremno com aquelle banquete, e logo setornarem perasuas fortalezas e qpera mais segurolho queriā dar em casade sua māy, dērro nocircuytodos seus paços.

Mostrādolhe o Cubucama, que o aceytaua, todauia com grande temor de lhe ,acjomare, algūa treuçāo, crecendo cada vez mais nelle estes areceos sabado antes do domingo da Trindade muito ocultamente se sahio de noite de priuados, e amigos com entençāode se recolher em outro Reyno, vendoque nāo tinhaposse pera lhe resstirse ouuesse algūa treyçāo.

E estando ja obra de hūa legoafora dacidade, descobrindo sua entençāoaos q consigoleuaua, todos lhe forāo a māo, dizendolhe, q seus criados, sem lhe constar claramete, que dlles ma chinauāo treyçāo, mayormente sendo elle tam bom principe, e que a nenhūs dos seus tinha agrauado, q setornasse, porque todos morreriāo com elle qunado ouuesse algūareuolta, e assi persuadido por elles se tornou a recolhee.

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

概要

あの進士晴舎って幕臣、うざくない?
三好義継
なー
松永久通
ええー……
足利義輝

三好さんたら幕府を囲んだ

というわけで、な?
三好義継
死にます!(グサッ)
進士晴舎
おい
足利義輝

よくわからないけど、幕府と三好パイプが自害したよ!戦争か?戦争か?

(なんかかっこいいBGMが流れる)ブッピガンドカッバシッバシュシュ

わーぎゃー
雑兵
あれー…?
三好義継

足利義輝死体

……
三好義継松永久通
ヨシ!
三好義継松永久通
ええー……
松永久秀

本題

だが、5月19日三好軍が武衛御所を取り囲む。『足利季世記』やルイス・フロイスによれば、三好軍はまず、それまで三好氏との大名申次を担当していた進士晴舎と交渉を行った。しかし三好側(軍記では石成友通とされるが不明)が要したのは進士晴舎足利義輝の側室の小従局、その他多数の側近の殺であったのだ。

【史料】

、すなわち一昨日三位一体日曜日、(謀反の企みを)いっそう隠すため、三好殿は休息のため外一里の所にある某僧院へ行くと言って、騎兵七十人とともにで出かけたが、少し外に出たところで急遽引き返し、方様の宮殿に向かった。
まだであったことから、方様の傍には約二名がいるに過ぎず、しかも彼らのほとんどは都の大身であった。方様の邸はたちまち一万二千人に包囲され、三好殿は一つの門に取ったが、そこには宮殿にかけられたが通じている。
他の二人の大身は他の門に位置した。宮殿内ではこのような尋常ならざる謀反に備えていなかったので、敷地内の門はすべて開け放たれていた。

多数の隊が侵入し、方様に箇条書を渡したいので取りに来るようにと言った。前述のように、方様に甚だ寵されていることから、らを導いて彼に紹介してくれた老人が進み出で、箇条書を受け取るやすぐにそれを読んだ。その第一箇条は、方様が方と同老人の、その他多数の大身を殺すこと、そうすれば彼らは(穏に)引き返すであろうというものであった。老人は欺瞞を見て取ったので、書付を地面に投げつけ、彼らが己れのかつ君に対して、かくも忌まわしき謀反を起こすことにほとんど畏れも恥も感じていないことを大いに責め、今やかかる状況になった以上は、自ら切腹すると(言った)。これは日本の一般的なもっとも古い習慣で、大身らは敵に抵抗することができなくなると、大身も臣もを取って自らを切るのである。

老人は邸内に入ると、方様の面前で自害した。

Ao outro dia polla manhaā que era domingo da santissima Trinadade, que foy antontem, pera mais disimulaçāo caualgou Mioxindono com obra de setentade caualo, dizendo qunchia folgar a hum mosteiro obra de hūa legoa fora desta cidade, sendo ja hum pedaçofora, voltou muyto depressapera os paços do Cubucama, porque porser ainda pola manhaā, nāotinha maisconfigo que obra de duzentos homens, quasi todos senhores principaes deste Meaco. Foy logo cercada a casa do Cubucama, por estes doze milhomēs. Mioxindono se pos a hūa portapor onde se passa hūa ponte, que esta sobre hūa caua dospaços, eos outros dous senhoresem outra porta, epolo descuydo que dentor auiade tam sestranhattreyçāo, estauāo com as portas dosterreyros todas abertas.

Entrando ali grande golpe de gente despingardas, desserāo, que queriāo mandar huns apontamentos ao Cubucama, e qos viessem tomar, Sahio porderpinkor o velho, Que atras disse, que aqui conuidamos, que nos apresentou ao Cubucama, por ser muytoo priuado seu, etomando os apontamentos, leologo o primeyro, que o Cubucama matasse a sua molher, filha deste mestimo velho, e que matasse muytos outros senhores, e que fazendoo assi, se tornariāo em paz. Comoo vello vio osenganos, deytou o papel no chāo, ecomeçou os a reprender muyto do pouco termor, e vergonha que tinhāo de cometerem contra seu Rei, e senhor tam nefanda treyçāo, e ja que assi era, queelle mesmo crtaria abarriga, que he vniuersal, e antiquissim o costume de Iapāo, quando os senhores nāpodem resistir a seumigos, Ieuarem das adagas, e cortarem a barriga a si mesmos, ssi senhores, comocriado.

Entrando o velhoperadentor matouse diātedo Cubucama.

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

この要に対して進士晴舎足利義輝の前で切腹。このことは交渉の決裂を意味した。そこで三好軍は御所を襲撃。奮戦の末頃には足利義輝らは討ち取られ、この戦いは終了した。

【史料】

らと甚だしい彼の息子が出てしばらく戦ったが、彼らは直に彼を殺し、外から邸に向けてしく撃した。方様の四名の人が門に到着し、門を開くよういたが、内からもそれがわぬと答えると、彼らはを取りを切って死んだ。

かの暴君たちの悪事はますます増長し、その心はいとも邪悪な望みをこれ以上延期することに堪えられなかったので、彼らは宮殿に火を掛けるよう命じた。方様が自ら出ようとしたが、その堂は彼に抱きつき(引き留め)た。彼女らを大いに歓迎した尊敬すべき老婦人であった。しかし、彼は火と必要に迫られ、臣とともに出て戦い始めたが、に一と額に一矢、顔に二つの傷を受け、その場で果てた。

Sahio hufiho seu muyto amigo nosso, e pelejando hum poucologoo matarāo, etirauam defora muytas arcabuzadas ascasas. Chegarāo quatro fidalgo do masmo Cubucama aporta, baterāo que lhes abrissem, erespondendo lhes de dentro, que ja nāo podia ser, leuaraodas abagas, e cortarāo asbarrigas, cayndoali mortos.

Feruendocada vez maysamdade destes tyrannos, e nāo podendo sofferrlje o coraçāo dilatarsepo mays tempo seu peruersissimo desejo, mandarāo por fogo aos paços. Querendo o Cubucama sayrse, abraçouse com elle sua māy, que era hūa venerauel matrona, de quem nos tinhamos recebido muytos gasaljados:todauia constrangido do fogo, e da necessidade sahio com os feus, e começndo a pelejar, derāolhe hūa lançada pola barriga, e hūa frechada pola testa, e duas cutiladas polo rosto, e aki cahio morto.

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

概要

とりあえず進士晴舎は始末しとこ
三好義継
様、今行きます!(グサッ)
従局

本題

そして、あとは後始末のみであった(ちなみに公家たちの日記では申の刻に夕立が降ったことがわかる)。

なお、足利義輝鹿苑寺周暠が一緒に殺されたことになっているが、「山崎吉家朝倉連署状」では別の場所で死んだことになっており、実のところよくわからない(軍記では後者記憶されていくこととなった)。

【史料】

邸内には堂とともに方様の兄弟なる二十歳の青年がおり、彼らは同人もたちまち殺し、方様の堂を捕らえた。る者は命を助けてやれと言い、またる者は殺せと言った。甚だ有な大身のである(宮中の)婦人が、炎上する宮殿から逃れ始めると、兵士彼女らをり始めた。十五、至二十名が武器を恐れて一軒のの下に入り込み、その後、火から逃れようと欲したがわず、その場で全員焼死した。

さらに兵士らは逃れ出た数人の婦人から衣服着物を奪い、人の言によればその中に方がいたとのことだが、未だに現れない。今、彼らは方を死刑に処するため探しており、彼女のいるを見つけた者に多額の銭を、また彼女をつかんで彼らの前に引きずって来る者にはさらに多額の銭を(与えると)約束した。

方様の二人の兵士らの足元に投げ出されていた。某キリシタン彼女らのことを知って、る人に彼女らを救ってに収容することを請うた。いともなる者たちよ、当の人々が生命をいかに尊重せぬかを尊師らが知るため(申し上げるならば)、十三、四歳の年少の人が方様の前に現れ、大いに奮闘し始めたので、謀反人側の人々は口々に、彼を生け捕りにせよ、殺してはならぬと叫んだ。少年方様がすでに亡くなったことを知り、己れが生きれば大きな不名誉になると考えたので、手にしていたを捨て、短を抜いて喉の一部を切り、続いてに突き立て、その上に(被さるように)倒れた。

同所では方様とともに、当中で最も著名にして身分高き人約九十、名が死んだ。(敵兵らは)宮殿が焼ける前に、宮殿および殺した全大身の邸をことごとく略奪した。以上は一時間半か二時間で行なわれたことであった。

僧らが訪れ、方様の遺体埋葬するために運び去った。三好殿はその他あらゆるものを燃やすことを命じ、同宮殿の一物すら残さぬようにした。

Estaua dentrocom a māyhum jrmāo do Cubucama Bonzo, mancebo devinte annos Logo omatarāo, e tomarāo a māy do Cubucama: hūs diziāo quelhe dessem a vida, outros q amatassem. Alicom muitascutiladas a matarāo junto do filho. Asdamas filhas de senhores muy grandesem começando a sayr dospaços, que ardiāo, comarāo os soldados a cortar nellas. Meterāpose debayxo de hūa casa quinze, ou vinte, por temordas armas, quando depois sequiserāo saluar do fogo, nāo poderāo, e ali seqymarāo todas. A outras algūas q sahiāo, tomau āolhes os so;dados os vestidos, e quymōes, entreasquaes dizem, quefoy a Raynha, queaindaaparece. Agora andāo em buseadella, com promessas de muito dinheiro, a quem deseobrir a casa onde esta, e muyto maisaquem a leuar a rasto polos cabelos diante delles pera a justarem.

Duafilhas do Cubucama estauāo ahideitadas antre ospees do soldados. Conheceoas hum Christāo, e rogou a hum homem que as saluassse, e as deytasse ahi em algūa casa, e pera saberem carissimos quam pouco esta gente esti ma a vida vinha diantedo Cubucama hum moço fidalgode treze, ou catorzeannos, e começou a pelejar com tanto esforço, que todos os da patre dos aleuā tados bradarāo que o tomassem viuo, eo nāo matassem.O moço vendo que o Cubucama eramotto, e qelle ficauaem deshōra frande viuendo, deitando a espada fora damāo, leou da adaga, e cortou hum pedaçoda gargāta, e depois embedeoapolas eatranhas ecayo sobre clla.

Morrerāo aqui como Cubucama o bra de nouenta, ou cem fidalgos, os mais illustres, e nobres de todo este Reino. Saquearā os paços antes de arderem, eascasas de todos estes Senhores que ma tarāo. Feyto isto em obra dehū ora, e mea , ou duas.

Vierāo os Bonzos eleuarāo a enterrar o corpo do Cubucama. a todos os mais mandou Mioxindono por o fogo, de maneyraque nāo ficassee daquelles paços cousanenhūa em pee.

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

やがて小従局も発見されて、処刑された。

【史料】

三位一体日曜日のすぐ後の水曜日方様の方が発見された。年の頃は二十七歳で、二人のがあった。彼女はこのから半里ほど外にある某僧院に隠れていた。弾正殿三好殿彼女を殺すよう命じたことを伝え聞いたので、彼女汁を請い、自らの手での一人に書状をしたためたが、それは読む者の心を大いに動かすものであり、後に書状を読んだ人はもが多くのを流した。

結局、その書状は、彼らが彼女を殺すよう命じることは、君たるを殺したのと同様、いとも不当なことであるが、彼女は死によって少しも悲しみや嘆きを感じず、むしろこれはの計らいにして限りなき慈悲であり、彼女を速やかに極楽、すなわちの栄に導こうと欲して、かくも多大な恩恵を垂れたのだと信じており、その極楽において彼女は必ず君なる方様に見え、彼とり合って楽しむであろうと伝えるものであった。

書状を封じた後、彼女は甚だ明るく同僧院の僧らに別れを告げ、二、三日の滞在中に受けたもてなしを感謝した。続いて、の祭壇の前に行き、両手を挙げ、その名を十度称えて祈った。僧院の長老は、彼女の名を称えたことにより、彼女のあらゆる罪が全に免じられた印として、彼女の頭に両手を置いた。それから、甚だ明るい様子で別の部屋に行き、聞くところによれば、両手を挙げての名を称えながら首をられ、こうして果てたとのことである。

彼女の首をった兵士は他の者を伴っており、他になす術もなかったので彼女を殺したが、その後、彼はかくも大なる不正と非に立ち会うことのないよう、もう二度と軍務を行なうことを望まず、武器を棄て、剃髪して僧院に入るだろうと言った。

A quarta feyralogo seguinte depoys do domingo da santissim Trindade foy achada a raynha molher do Cubucama, que poderiaser molher de vinte e sete annos: daqual tinhaduasfilhas. Tinhase elli recolhida em hum mosteyro, obrade mea legoa fora desta cidade. Sendolhe dado recado, que a mandauāo matar Dajondono, e Mioxindono, pedio papel e tinta, e escreueo hūa carta porstua māo muy larga pera hūa filha sua que era muyto pera mouer o coraçāo de quem a lesse, e todos os que depoys a hāo, chorauāo muytas lagrimas de a ver.

Resoluiasse a carta em dizer, que a ella a mandaouāo matartam in justamēte, como matarāo a el Rey seu senhor, porem queella nāo reccbianenhūa tristeza, nem desconsola çao com a morte, antestinhaperasi, que fora ordenaçāo, e infinita misericordia de Amida gazerlje tamanhamerce, que em tam breue tempo a queria porem seu gocura, que he a gloria domesmo Amida, donde tinha porcerto que veria a seusenhor Cubucama, e gozaria desuacōmunmcaçāo.

Fechada a carta fovse despedir dos Bonzos daquelle mosteyro muyto alegre, dandolhes agardecimentos do gaslhado que lhe fizerā aquelles dous, outresdras, que ali esteue. Depoysdisto se foy por diante do altar de Amida e com asos aleuantadasinuocou dez vezes o seu nome: poslhe o superior do molteyro anmāos fobre a cabeçaem sinal, que por chamar o nome de Amida recebra plenaria remissāo de todos oss seus peccados.Foy se entāo dali pera outra camara muyto alegre, e dizem que com asos aleuantadas, e chamando o nome de Amida a degolarāo, eassi acabou.

O soldado quelhe cortou a cabeça, porque hia acompanhado de outros muytos, e nāo podia alfazer, acabando de a matardisse, que nāo queria mais v sardo officio militar, mas que auia de deixarasarmas, e rapar se, e meterse num mosteyro, por nāo ver tamagrandes injustas, e sem rezōes.

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

ルイス・フロイスの書状では小従局に続いて幕臣たちの迫も描かれている。

【史料】

騒乱と非常な残虐行為を見るのは実に嘆かわしいことであり、かの二人の暴君はあたかも初期の教会の信徒に対する皇帝たちの迫をそのまま演じて見せているかのようである。方様の臣や友人は何処であれ発見されると、直ちにその財産収され、本人は殺されるか捕らえられ、いは逃亡する。

方様には二、三人の姉妹があり。宗のる大きな尼僧院に入っており、甚だ尊敬されていた。兵士らは姉妹であるという理由で、同僧院に行って彼女らを嘲り侮辱し、彼女らは自害せぬよう絶えず他の尼僧から見られている。三好殿は都の外およそ一里にあって方様の臣に属する二つの集落を破壊させた。

また、当地から半里の所にいるジェンキオンドノ(Ienquihondono)と称する人を欺いて殺するため招かせたが、同人は仕掛けられたに気付いたので、八名の兵士を彼のに入れ、(敵が)彼をめて来たならば兵士らとともに抵抗することに決した。方様の一人は謀反が起こる少し前に、偶像の寺院を幾つか参拝するために出かけ、すでに当地から離れていたが、途中で報に接し、三日間で都に戻った。宮殿といっさいの物が破壊されてになり、の重立った大身らが死んだのを認めると、過ぐる火曜日方様が己れの葬儀のために甚だに造った僧院に行き、墓前でを切り、息絶えた。

当地の民衆は非常におびえ、動揺しているので、少年青年路を走ると、別の残虐行為か新たな事件かと確かめるため門に出て来るほどである。

Certo que ver a perturbaçāo, e grandes cruezas que vāo nesta cidade he muyto pera se ter lastima dellas, porque parece representarem muyto ao natural ester dous tyrannno a perseguiçāo dos Enperadores contra os catolicos daprimitiua Igreija. Onde quer que se acha criado, ou amigo do Cubucama, logo lhe he confiscada a fazenda, e elle morto, ou preso, ou fogido.

Tem o Cubucama duas, ou tres jrmaās muy honradas metidasem hum grande mosteyro de Bonzas da seyta dos Genzuns: ali vāo esearnecer os soldados, e afrontar por serem suas jrmaās: as quaes sam continuamente vigiadas das outras, por que se nāo matem a si mesmas.Dous lugares mandou Mioxindono assolar, e destruyr obra de hūalegoa fora deste Meaco, que erāo dos criados do Cubucama.

A hum fidalgo, por nome Ienquinhondono man dou chamar falsamēte pera o matar, que estaua daqui mea legoa, e conhecendo a treyçao quelhe estaua armadameteo oytocentos soldados em sua casa, e determina com elles de lhe resistirse o forem buscar. Hum fidalgo do Cubucama a pouco antes dstas treyçōes era ido a ourtos Reynos em romaria a visitar certos templosde seus idolos, sendo elle ja daqui longe em o caminho dandolhe a noua em tres dias tornou a este Meaco, e vendo os paços assolados, e tudo deestruydo, efeyto em cinza, cos senhores do Reyno principaes mortos, foy se estaterça feyra passada ao mosteyro, que o Cubucama tinhafeyto muy suntuoso pera seu enterramento, esobre sua sepultura cortou a barriga, e cayo ali morto.

Esta este pouotam atemorizado, e che o de perturbacāo, que qualquermenino ou moço que corre por hūa rua todos saem asportas versesam outras cruezas, e nouidades.

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

変の原因

変の原因に関する説1

山田裕之らのするもので、そもそも足利義輝を討ち取るつもりはなく、もともとは室町時代に恒例だった「御所巻」を行うつもりが、交渉決裂によって流れで殺してしまったという説である。

その典拠となっているのが永8年6月19日に発給された以下の文書である。

【史料】

京都之儀、自是可申之所、去十四日之御状、被閲、去十九日、号三好京大(義継)松永衛門(久通)訴訟、 方様御門、人数御殿江依打入、直ニ度々御手を下され、数多被為討捨、類雖御働、御人之条、不及御了間、被召御恣之仕立、前代未聞、是非次第、限沙汰ニ鹿殿様も路次御生、慶寿院殿殿中御自害、其外諸侯之面々人計、女房衆も少々被相果旨一条殿御別儀南都ニ御座之由、先以可然御儀と申事ニ、定可為御同意京都意儀旨、時合方々注進、従方差登飛脚等申之趣、乍同前少相替様ニ、従衛門尉)具被申下由間、注之進入不申、然、彼江儀、先日御報ニ委曲如申入、来前後御出張肝用(要)、又遅々てハ、不可有曲京都之時者、覚尚以被相急度事歟、委細、御使僧江間、不能再三、恐々謹言、

六月十九日

        朝倉允)

        山崎山崎新左衛門尉)

 直和直江大和守政綱)

  参 御返報

――『上杉文書』504「山崎吉家朝倉連署状」
字は上越市史収録時の補足

三好軍にとっては義澄流と義稙流の「二つの将軍」問題を義稙流の足利義栄ラインへの統一を実現するために変を起こしたというわけなのだ。しかし↓からは足利義維の時点でほとんどがなかった義稙流にどの程度のがあったかを批判されている。

変の原因に関する説2

天野忠幸のするもので、九条を外戚とした三好義継といった三好の若い世代がこれまで対立してきた足利義輝との関係を清算してしまい、そもそも足利将軍の擁立事態を放棄しようとしていたという説である。こちらの説では足利義栄の擁立は、その後の三好中の対立で、三好康長といった三好の協を得るために彼らの方針を受け入れたとされる。

その典拠となっているのが永8年5月26日に発給された以下の文書である。

【史料】

々も分由ても連々頼存事間、偏ニ万端頼ニ存事、尚以正体、又一様ニ罷成事、具撨江ニ申合間、可申入、口惜敷外不申、南都一条殿今日間、先以大慶外不申

急度、仍去十九日三好六郎(義継)松永衛門(久通)方様へ取懸申処、奉公衆数刻戦申、然共人々時節間、被御、同時ニ慶寿院殿鹿殿御生、其外奉公衆六十余人打死、前代未聞絶言儀去年野原篠原長房へ罷上、足利義栄調段、御時刻哉、上下共曽以間、不慮出来方様御動様樊噲様ニ申、慶寿院殿も御自害類事ニ、其外奉公衆何も御動不及是非事、さて〱、申方事、忘前後拙者存命曲次第、併御分別専一、猶撨江斎可申、恐々謹言、

五月廿六日       霊在判

切封上ニ

   河野京大殿(通宣)     霊

     進之

上包 同断

――『河野文書』仙軒霊書状写
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

このためこちらの説は殺自体を当初から的としていたとする。しかし↑からは史料から構築された事実関係からは乖離しだしていると批判されている。

それはそれとして…

一方でそもそも基本的な事実関係復元できとらんやんけ、という至極もっともな理由から両者から距離を置いて基礎研究が行われている。

木下規やらによって、進士晴舎三好軍の在中に取次を独占しつつあったことがトラブルになったのではないか、ということが2019年までに言われるようになった。

また、木下規は2020年に幕府女房の中で小従局のみ執拗に殺の対となり、日野氏の縁者の春日局、近衛家出身の義正室が殺されていないことから、公家社会への配慮はしつつも進士晴舎-小従局ラインの排除が的だったとも述べている。

結局のところ…

ただ、そもそも足利義輝がこの交渉に応じる可性が低いことからその後の三好軍の的は何だったかわからないということ、結果的に足利義輝死亡していること、といったことから結論を出すのは難しいと思われる。

被害者一覧

死者

死者かどうか微妙な人物

被害者ではあるが生き残った人物

変そのもの主な登場人物

足利義輝
被害者父親と違って、まだ全然研究の手が付けられておらず、実は評価が定まってない感がある。というか現在進行形クロスカウンターキマってる。
鹿苑寺周暠
被害者足利義輝。以上。
慶寿院
被害者足利義輝母親で、近衛。つまり、足利近衛体制の一員。
でも兄弟久我通としこりがあったりと、微妙に統一感ないメンバーである。
従局
被害者足利義輝の側室。
幕府女房という立な官僚であり、取次の父親進士晴舎ともども、三好側からはとにかく消す必要があった要注意人物。
進士晴舎
被害者。幕臣。三好軍が在中に取次を独占した結果トラブルになったとかなんとか
そして多分勝手に切腹した。
春日局/陽
被害者足利義輝摂津晴門の義理の姉妹
殺されなかったので、ずっと京都にいた。その後その足利義昭方の拠点になっていたっぽい。
三好義継
容疑者その1。最近評価は良くなってきたけど、この事件に関しては何がしたかったのかよくわからん。
松永久通
容疑者その2。松永弾正の息子という以外、特に特色を残せないまま退場した人。
三好長逸
容疑者その3。セット売りされているが、この事件以前に三好三人衆は存在しない。
変以前に松永久秀ともども中を差配していた重要人物
松永久秀
風評被害その1。でもなんで足利義輝確保していたのかはよくわからん。
この変がきっかけで、彼の人生変したのは確かである。
三好長慶
風評被害その2。きっちり死亡を秘匿できてたばっかりに…。
松永長頼/内藤宗勝
松永久秀。この余波で盛大に死亡

事件の鎮静化

概要

ま…まあ一人は確保しとくか(ガシッ)
松永久秀
おいおいおいマジ
足利義昭
あれ?
松永久通

やることはやっておこう

ええー……
朝廷
チラ)
三好
はい
朝廷

足利義輝が死んだという知らせが全に届いたよ

ええー……
朝倉義景
畠山秋高
武田義統
上杉謙信
織田信長
etc...

本題

変自体はその日のうちに終わり、小従局を除いては以後殺されたものもなかった。

変の翌日にはすでに武田義統が慌てて朝倉義景に連絡している。

【史料】

(封書ウハ書)
「      武田大夫義統
  謹上朝倉衛門(義殿」」

、仍 方様足利義輝断之次第意如何哉、自然之儀者、弥可申談、尚大野右京進可申、恐々謹言、

(永八年)五月廿日  大大夫義統(押)

謹上 朝倉衛門殿

――『島津文書』1191号武田義統書状」
字は島津文書収録時の補足

翌日には足利義輝の外戚である近衛や、その縁戚の久我にも類が及ぶと噂されたが、5月21日三好長逸の参内を受け入れ、沈静化することとなった。朝廷は、彼らの行為を非難することはなかった、というよりもできなかった。

【史料】

、晩頭降、 朝食以後、自葉室罷帰了、

見舞了、久我高辻等雑説有之、殊事、近衛殿雑説申之間参、殊事、次柳原殿に参、三好下野守、岩成悦助、長軒等、御取乱々、次南御所見舞申、瑞慶院にて一有之、

――『言継卿記』永八年五月二十日

【史料】

、八専、時々小雨降、 三好日向守長逸臣禁裏ヘ為御見舞参、籐宰相申次了、小御所之御庭御被下了、被参之輩万里小路大納言、予、勧修寺中納言、籐宰相、経元臣、重通臣、豊、英、以継等也、次局万大、予、籐宰、万弁、頭中将白川、極臈等一有之、

朽木女房衆北隣に置之、刑部生寺被来、一有之、

明日奉公衆、奉行衆、悉三好松永等に礼被申々、朽木同礼可然之由、生寺被申之間、迎ぶ及黄昏次郎遣之

今日当番代薄に申了、

慶寿院殿上臈畠山上野介猶子、下式部少女、自害々、但死去々、

――『言継卿記』永八年五月二十一日

【史料】

 禁裏へ以日向三好より根し也申次也返事万里と宰相両人して下也一上下大坂より以使者給わせ上

――『右記』永八年五月二十一日

【史料】

みよしひゆか。みよしみやう代に御れいにまいる。こ御所にて一くたさるゝ。みな〱おとこたらしこう。うらつしよりとしゝのたけまいる。

――『お湯殿の上の日記』永八年五月二十一日

さらに22日には奉公衆右筆方奉行衆も三好義継松永久通のもとに御礼に行くこととなり、混乱は3日ほどで沈静化していったのである。

【史料】

午、、 奉行衆角田采女正使有之、今日朽木刑部少被罷出事、奉公衆今日各見参々、雑説有之間不可然、可申留之由有之、然者路次罷向可相留之処、路次相違方へ被来、予は葉室へ罷向、則葉室罷帰了、晩頭朽木刑部葉室被同

局へ罷向、殊事、自先日禁中触穢々、内所庭見舞了

――『言継卿記』永八年五月二十二日

ただし、おおよそ小従局の探索が終わるまでは三好松永勢が中を騒がしていたようだ。

【史料】

己未、、八専、 三好松永以下悉一乗寺破之、地下人悉退散々、悉放火了、木伐之

自葉室秋田予左衛門尉来、葉室へ雑説申来之間、去朽木刑部少若州へ被送之々、

柳原へ罷向、一品と暫雑談了、

倉部広亜相番代に参

――『言継卿記』永八年五月十三

【史料】

申、、八専、自申刻降、天一、 殿、長局等へ立寄了、東隣長寺へ罷向、先日預物之礼申了

澤路隼人木、暫雑談

中御門軒、布施太郎以来談了

之同疵今々、同小殿久我内之竹村所に被居之処、松山新人物請取之、知恩院殺々、痛敷之様体、不可説々々々、

慶寿院殿御あこ死去々、

――『言継卿記』永八年五月二十四日

一方松永久秀は『清水別当記』の永8年6月4日条によれば、多聞山におり、永禄の変そのものには関わっていなかった。

【史料】

一 征夷大将軍耀五月十九日三好之一類輩奉討之間、当門跡一乗院覚慶少僧都御兄弟鹿園寺儀慶寿院殿一日御落。当門跡御一所残侘之間御恐怖不浅也。仍本願観行御書状心元御尋下リ使小姓之間当体之由申鎌倉ヨリ持進之処、返事坊願信如常認遣之者也。

多聞山之ニハ松永弾正少弼久秀在之、京都ヘハ子息右衛門佐久通上シテ如沙汰之。古今未曾有事也。武衛陳御新造之御殿共ハ一時頓咸燼成了。

――『清水寺別当記』永八年六月四日

また、松永久秀は、以下の文書によれば、一乗院覚慶、後の足利義昭を保護していた。息子松永久通君である三好義継と構想自体が違っており、その思惑はよくわからないが、覚慶を討つことを阻止していたのである。ちなみに分かりづらいが、この書状は一乗院覚慶本人が、松永久秀に守られてるから安心しろと松永久通に言っているのである。

【史料】

今度方様御儀、題是非に及ばず、其れに就き、進退の儀気遣い処、霜台誓をもって別儀あるべからず由間、安堵せしめ、弥粗略なきにおいては、別して祝着たるべく、尚委細は竹下へ申し、憑み存ず他なく、恐々謹言、

五月廿二日

松永衛門

――『円満院文書』
書き下し文は天野忠幸によるもの

とはいえ、叔父の大覚寺義俊によれば、厳しく監視されたものであった(詳細は脱出の欄で)。

6月7日には歴代の室町幕府将軍の中では官位が低いままだった足利義輝が従一位の左大臣に叙任されていた(なお、本来と違い代理で儀式を担った中級官人の中原康雄がかなり愚痴っぽく当日の様子を描いている)。

【史料】

申、、自申刻降、 少外記盛厚来、今日宣下実不之事尋之、対面、奉行に可尋之由返答、次同一﨟康雄来、対面、同前返答了、次官人来、同前、

借用之物共袍、久我、表、持明院、裾、甘露寺、雑色狩衣二具、久我、等貸寄了、

亜相富小路所に被居之間罷向、宣下之事談合、同庭田へ罷向、門昨晩自大坂、一了、中山被来、次伊勢加賀守被来、総用之事十日十一日之間に可渡之由有之、加州被請乞了、諸に為奉行被申遣、予暮々帰宅、未下 刻脱カ 儀種々儀共有之

下刻治定、深深泥之間、布衣帽子着共供少々略之、供大澤兵衛大夫、早瀬民部、宮千代、雑色二本、小者三人計也、殿上着束帯、籐宰相相半に参集、儀也、先予宣仁門官人に問刻限、午刻と答、常には刻と答歟、相違之儀也、次入門座、大納言座、四度之揖如例案祝儀、次移端座、裾引寄直沓、次召官人敷軾、次頭中将重通臣吉書持来、予置笏取之、被見如例了気色、次頭中将退、以次官人召弁、右中弁こなたへ、次弁豊来、下吉書、弁被見之、次退、次召官人撤軾、次起座出宣仁門了、次儀始、先予着座、中納言、次頭中将征夷大将軍参議左中将臣義、可被贈左大臣従一位作宣命位記、次移端座召官人敷軾、次以官人召内記、大内こなたへ、次大内記盛長来、仰詞同前、次少内記康雄、宣命位記等納一筥持参、宣命被見、位記予懐中、康雄に持宣命奏聞、儀、殊西軒短之間、孔雀間頭中将に渡之、次返賜之、次帰着端座、被見了康雄退、次召少納言盛長少納言こなたへ、軾、下宣命位記懐中取出之、等気色、次召内記筥返下、次召官人撤軾退出了、深頭之至也、少納言直に持向相頂院、集尭長老被請取之々、御寺不在之間、作法々、

高辻門長卿、東坊城大内記盛長、永三年以来勅勘、今日御対面々、東坊城内々衆也、今日外様之由被仰出々、根本外様之仁也、祖和長卿内内に始也、

中将抜衣文、予先刻調之

少外記所役雖之、毎度参之儀先例々、

――『言継卿記』永八年六月七日

【史料】

 あきよりひんき長谷川よりみ来子来一送ミ今日伊勢加州来

御小袖唐櫃鳴動させる間以留い申字其御沙汰間め折紙加州かたへ申

御小袖唐櫃鳴動ミ世上其沙汰坐形御尋 禁中□□□御沙汰しめ何之儀寺い面申也    中山と談合し

 七日     

 伊勢加賀殿 折紙

今日おくり号し被上御山科参奉行以中庭田也 幷も参ら也は時分より大雨時分猶いふり也

――『右記』永八年六月七日

【史料】

八年六月日光殿贈官宣下 義大将五月十九日御生

外記予息康政信任今度初る相当少年み間相盛厚也内記予外記参役御不審予其例勘之記み後進嘉吉元年同三年文安大永徒故度々例如也史参之例在之ル今度不参也助不参右御坊名上雑職事大内記少内記外記宮皆同也三百宛但名未下向六月十八日廿六日両食努奉行職事庭田左中将~~上山科権中納言言継卿大内記坊菅原盛仲同少納言兼役也詔書一通清書一通以上二通又位記一巻大内中給之諸取之者也方よりる催促申給之者也

儀次矛器々

上卿山科中納言言継職事庭田左中将進仰勅征夷大将軍故参議第近衛中将従四位下可以贈官右大臣従一位書位記よ 次上卿移敷軾次上卿以官人分内記大内菅原臣為仲進軾上卿仰贈官位詔書位記宝如職事大内記仰詞聞退次少内記予位記入莒ツラノ持参軾上卿覧ミ就飛代奏聞今度間ノ向上ノ軒下にて奏聞職事出向奏聞終返給其時上卿清書と仰予詔書清書懐中にて当座に取替〻をは懐中にて清書入莒奉之又奏聞々々帰予上卿の前に置莒退次上卿納言菅原臣為仲進軾詔書位記給之退次内記予進軾莒返給予取之退出之次撤軾上卿職事各退出大内記不参ミ時着予如大内記仰詞之也両儀者不引裾之職事山上卿一人裾引給之如何可尋注者也

――『康雄記』永八年六月七日

【史料】

ふる。ふけそうくわんのせん下あり。左大臣。しやうけい山しな。ふ行頭中将。弁右中弁なり。

――『お湯殿の上の日記』永八年六月七日

【史料】

従四位下。左中将征夷大将軍五月十九日有事。同六月七日贈左大臣従一位宣下。号院。法名融山円。上卿中納言。奉行職事重通臣。

――『卿補任』

【史料】

五月十九日大将軍薨。法名円。号融山。院号。後安御広徳軒。仍軒号作院。

――『相寺考記』

6月9日にはの中葬儀が行われたが、相寺以外の寺院は参列せず、昵近衆も来ていないことは山科言継も嘆いている。ただし、正親町天皇は3日間の朝廷の停止を命じており、表立って悲しむ行為が禁止されていたわけではなかった(ちなみに入江殿足利義輝である)。

【史料】

降、 殿贈左大臣従一位融山図御葬礼々、等持院(北山)但及天明之由有之昵近之公家前々悉参、今日一人も不参、又御丘尼御所々々、五山十札諸宗之経悉以々、御子孫之歟、相寺衆、奉公衆、奉行衆計也

自禁裏召之間、長参、大典殿御使入江殿に参、武慶寿院殿御事御訪之儀斉、参可申之由有之、

入江殿へ参、為禁裏御使殿鹿苑寺殿、慶寿院殿御儀、御落御愁疵被察申之由申之、則御座敷へ可之由有之、一乗院殿之御使高麗、武之万弥等也、御被下之又予盃被聞召、過分之至也、次返事、御使者也、得其意可申入之由有之、帰路之次一条殿へ参、御盃被下之、次東坊城出仕重之由、礼罷向申了、

局へ参、入江殿御返事申入了、次大典殿へ参、御言伝之御返事申了、

物之卿之下襲長局へ持返進了

久我諸大夫刑部少招寄、談合之事有之、一勤之、

勧修寺門来儀、殿御焼香に可参歟否之由被申、万院御時不参、又御経不持参者可見苦、用歟之由返答、被同心

殿御儀、禁中七日至今日三ヶ日々、清殿階間御簾被垂之、御拝之間御格子之本不被取之也、王大臣之外雖之、武御儀各別之儀也、三位以上者一日々、

――『言継卿記』永八年六月九日

【史料】

一、九日方様御さう有、東寺院寺へ、

――『永八年代慶世引付』永八年六月九日

なお、6月15日には山科言継に大和晴完がこうなる予兆があったことを話していた。

【史料】

降、土用、 竹内殿に参暫御雑談双六有之、次長局へ立寄了、

大和宮内大輔来儀、被診之、少験々、同銘五包随身、暫雑談松田二郎以下来談如例、

外様日野代薄に申了、

大和雑談、武之御小袖之間鳴動之事、普広院殿御生之時、兼日鳴動、慈照院殿御代鳴動、被御座所之処、当御所悉頸倒々、今度鳴動、又後日に重て一日に三度鳴動々、然に御用心之段、御運尽故也

――『言継卿記』永八年六月十五日

7月5日には遺三好方によって納められた。

【史料】

就 方様御之儀、様体承、則申届之処、如有来と被申、就者今御使へ委自相寺被申、送状事者、今奉行衆他行間、不調、以後御取可然、恐々謹言、

「(折紙三好日向守」

七月五日     長逸

多田院知事

――『多田神社文書』三好長逸書状

【史料】

みよしみな〱くだりたるよしさたあり

――『お湯殿の上の日記』永八年七月五日

7月7日には内裏で穢れを祓う催しが行われた。

【史料】

けふの御がく、しよくへにておがくなし。けふもしよくにて。あさがれいまいらず。廿一日条 五月のしよくにて。りんじの御はいにならぬみしん。けふよりりんじの御はいになる。めでたし

――『お湯殿の上の日記』永八年七月七日

そして北天皇を護持する将軍徴として視されてきた御小袖が、10月26日三好氏に下賜されたのである。

【史料】

ふけの御こそてのからひつみよしあつけまいらせを。まつなかとひろはしの文にて。おと〱つかゐにてとりにまいり。くわんしゆ寺中納言していたさるゝ。

――『お湯殿の上の日記』永八年十月二十六日

足利義昭の脱出

概要

甥の敵取ってやるか
大覚寺義俊
手伝う
畠山秋高
もー
上杉謙信ほか多数

本題

ところがである。河内畠山秋高(当時は畠山政頼)とその配下・安見宗房6月24日には既に上杉謙信に対して足利将軍の再三好氏の打倒を呼びかけ始めた。さらにその企てに、足利義輝叔父であった大覚寺義俊も加わる。彼らは朝倉義景武田義統織田信長にも調略にあたった。

なお、この書状がかの有名な足利将軍下諸と呼んだ一の事例である。

【史料】

態被申上、仍 方様去五月十九日、三好松永以下以所行、被召 御、先代未聞之仕合、是非次第下諸処、三好仕様念之儀、善悪被申合、御弔矢被仕度覚悟者、従 大門跡様(大覚寺義俊)可被入仰間、度其 御屋形様上杉謙信御上者、下御再可為御名誉南方北条氏之儀者、方屋形畠山政頼)併同名新次郎安見宗房被相催、可被及行、越州・若州・尾州、其外々之儀者、従 大門跡様被仰調由間、定其方へも可為御入、就其政頼・新次郎以書札被申、御取成肝要存京都之儀定具相聞可申間、不能申進、殊更今度  上意様御被召儀、其方上杉替ニ成被申、為御礼御在者、三好御成敗之段、被仰合由説故、如旨世上申事間、御弔矢可被遊□□□(儀肝心哉)、毎事可然様御取合奉頼、恐々謹言、

六月廿四日     宗房

川田豊前守殿河田長親
直井大和殿直江政綱)
           御宿所

ー『越佐史料』4-534「安見宗房書状」
字は上越市史収録時の補足

観音寺騒動で内紛中の六角氏、一色義龍三好義興と同盟関係にあったため息子の一色龍興は同盟に加わらないと判断された後斎藤氏を除いた形となったが、皆何らかの形で足利義輝方として行動を行った人物であった。

なお、大覚寺義俊は永10年1月12日に亡くなるため、ごく初期にしか関わっていない。そしてこれは畠山研究者や六角研究者がガチギレする案件だが、安見宗房畠山政頼が江戸時代に勝手に六角氏にされたのを未だに踏襲する研究者がいるため、注意である。

ちなみに、一色龍興であるが、足利義輝に追い出された伊勢氏と以前と変わらず通交している。このタイミングに乗じて伊勢貞為の上を勧めているのである。

【史料】

モトウハ書ナラン、)
「  野村越中
   夕
   蜷丹後殿(貞栄)
   蜷三郎殿長)
   蜷将監殿御返報
(端裏切封) ――」    野村貞邦」

今度 儀の御様子、中々難述筆舌存、仍 虎福殿伊勢貞為)様御上之事、之御事、就其、三上(秀大蔵殿被越申、則申聞、年寄共以連署、幷使僧被差上、猶三大可有御伝語、恐々謹言、

(永八年)六月廿日     武井夕庵押)
                  野村貞邦(押)

丹後入殿
三郎殿
将監殿
     御返報

――『蜷文書』808号野村貞邦・武井夕庵連署状」
補足は石川美咲によるもの

反発を強めつつも軍的脅威にならなかった反三好方であったが、事態は急変する。7月28日に、覚慶が脱出したのである。翌29日には和田に到着し、居を構えた。

【史料】

、八専終、未刻小雨、自刻終、 従大典殿殿心元、若可受用歟之由有之、一包廿六、賜之、

葉室之大方殿迎昨夕来、今日被帰在所了、

今日者吐事忠一有之、大和宮内ヽヽ同銘二包到、和中散三

遍照心院へ麝香所望、二到、

南都一条院 殿御舎、去御逐電之由必定々、

――『言継卿記』永八年七月二十九日

【史料】

廿八日一乗院覚慶僧都、廿九才、御離寺了、御落所翌日ニモシレス、甲賀ノ和多カヘ被入了、去五月十九日将軍御生、三十歳、御舎鹿殿、同上、廿一才

――『多聞院日記』永八年七月二十八日

【史料】

七月廿八日、一乗院ニ御祈祷、大般若経有、幷御間一万度御沙汰有之、御師北郷玄番承ル、同、一乗院殿、東ノ築地ヲノリ越、大湯トヲリ、大鳥居入リテ、野田ウシロ山ヲトヲリ、野荒ヨリタキ越テ、狭ヨリ置渡シテ、有大川原ヲトヲリ、甲賀ノ和田殿ヘ御入有由也、人数御房マテ以上八人、送ル衆、大川殿和田殿殿川合殿、人数五十人、土橋う所ニテ、賀屋形様ヨリ御一献有由也

――『享文之記』永八年七月二十八日

ただし、この事件に関しては極秘任務で脱出させたという見方と(山田ら)、交渉と調略で解放させたという見方(天野忠幸)の2つの見方が存在し、実ははっきりしたことはわからない。

脱走ルート

旧来から軍記をソースにこれは脱走劇だといわれていたため、和田文書が見つかった際もその関連文書だとされた。というわけで以下がそれなのだが、何が書いてあるかよくわからないものしかない(なお、仁木長頼はこの事績のみしか残っていない人物である)。なお、『享文之記』によると和田中で賀守護・仁木長政が援助しているので、賀の仁木氏が以後も味方だったのは事実である。

【史料】

仁木刑部大輔
  和田賀守殿   長頼」

御動座之儀付、御内」書畏拝受、聊以」疎意御供可申、」勝寺江御加勢之儀」被仰出旨、御動座」近日者、御門跡様被」得御意、可然御取成専」用、御使者可被」申上、恐々謹言、

七月十八日        長頼

和田賀守殿

――『和田文書』仁木刑部大輔長頼書状

【史料】

和田」申」儀」不可他言」其段」可心安也」かしく

「~~
  和田賀守とのへ」

――『和田文書』一乗院覚慶自筆書状

解放ルート

以下の大覚寺義俊の書状によれば、朝倉義景の交渉によって解放させたと読み取れなくもない。なお、こうなると和田文書の仁木長頼らはどこに行くのか、という問題が発生するが、天野忠幸はこれを翌年のの上計画の際の文書だと定しなおしている(というのも文から勝がすでに味方となっていることがわかり永8年ではいろいろと齬が出るからである)。

【史料】


上杉弾正少弼殿   義俊」

急度注進申、 一条殿(覚慶)南都御座所儀、居御番松永(久通)堅雖申付朝倉衛門督(義)種々調略、去付廿八日、至甲賀和田引退儀御督相定間、先以重存、就其当之人数モ可有出勢由、将又、丹州儀モ、去二日荻野惣右衛門(直正)手前、内藤備前守其外七余人討捕、一均ニ成申間、可有御出張条、々御上之儀奉待、是非共以御才覚、御当御再、偏所仰、仍扇子十本進献、表賀儀計、猶水原可申入間、不能再筆賢〱、

八月五日      (大覚寺義俊)

上杉弾正少弼殿虎)

――『上杉文書』507「大覚寺義俊副状」
字は上越市史収録時の補足

足利義昭陣営の形成

概要

ま…まあここまでは想定通りだし……
松永久秀
義昭逃がしちゃった(テヘペロ)
松永久秀の部下
えっ?
松永久秀

本題

覚慶が脱出であれ、解放であれ(ただ『享文之記』見ると逃げてきたっぽいんだよなあ…)、こうして覚慶の発した御内書に大名や、公家も応じ、幕臣も集まっていった。なお大覚寺義俊は先ほどの書状の副状で直江景綱に上するのは今だともあてており、玉をあっけなく手に入れたことで上り調子となっていた。

【史料】

急度注進一条殿義、(久秀)雖居御番居候、種々朝倉衛門(義申談、調略、至甲賀被引退、今度 儀為可散憤、自当茂可有出勢相定々有御上、御当御再肝要、以一書申、可然様御取成所仰、猶(永原)可申也、賢、

「永八年」
八月五日

 直江大和殿綱)

――『越佐史料』4-544「大覚寺義俊副状写」
字は上越市史収録時の補足


なお、覚慶の容は、『足利季世記』という軍記だけをソースにされてしまうので実際のところ怪しいが、仕方ないので列挙はしておくと

ということらしい(実在しない人名が見られるためやっぱり怪しかったりする)。

8年頃には覚慶は和田惟政のもとで朝倉義景上杉謙信を筆頭に、島津義久相良義陽大友義鎮毛利元就武田由良成繁松平家康らに内書を送っている。その一つが義就流畠山氏の史実上の最後の記録である以下のものである。

【史料】


 和田賀守殿   尚

今度 儀至其表、致」移 御座之由、就其近」日御進発之旨、重」存知、然者元之儀、」毎事応上意、以可致」其意覚悟由断万」方調略、則可得」 上意之処、依存其憚、」先如等之次第」被達 上聞、急度被仰」出之様者、可畏存、」段別馳走憑入、」仍平野賀守差越、入」肝要、猶誉田三郎衛門尉」・豊前守・小柳越前」可申、恐々謹言、

 八月廿六日        尚

  和田賀守殿として

――『和田文書』畠山尚誠書状

おおよそどの時期にに送っているかをまとめると、以下になる久野とか水野嶺とかがちゃんとまとめなかったのでまだ東の方とか未完成

日時 相手 ソース
8年
8月5日
上杉謙信 上杉文書506号等
8年
8月14日
前波吉継 和田文書
8年
8月26日
畠山尚誠 和田文書
8年
9月28日
武田信玄 9年3月8日に返信されたのが、戦国遺文武田氏編981号
8年
10月28日
島津貴久
島津義久
島津文書89号
相良義陽 相良文書520号
8年
11月20日
北義斯
岡本
佐竹氏)
茨城県史資料編IV
岡本哲の方は永7年と書かれているが、もろもろおかしいのでこちらに
松平家康 和田文書
8年
12月2日
上杉謙信 覚上御書集
9年
1月26日
河野通宣 愛媛県史1910号
愛媛県史と異なり中介に再定された
9年
2月16日
河野通宣 愛媛県河野文書2064号
愛媛県史と異なり中介に再定された
9年
3月10日
上杉謙信
上杉景勝
色部勝長
斎藤朝信
上杉文書511号
上杉文書513号
新潟県1063号
上越市501
9年
7月1日
河田長親 新潟県史3703号
9年
7月13日
武田信方 尊敬閣文書
9年
7月17日
兵部少 多聞院日記
9年
9月13日
上杉謙信 上杉文書1130号
10年
2月24日
上杉謙信 上杉文書1187号、1131号1132号
10年
3月2日
吉川元春 閨閥録
10年
7月1日
上杉謙信
直江景綱

河田長親
上杉文書1133号
上杉文書1134号
上越市史958号
新潟県史3703号
10年
9月13日
上杉謙信 覚上御書集
10年
11月20日
由良成繁 由良文書
11年
3月6日
上杉謙信 上杉文書1135号
11年
7月12日
上杉謙信 上杉文書1136号
13年
7月9日
河野通直 愛媛県河野文書2042~2044号
愛媛県史と異なり中介に再定された

ちなみに、このころは彼らがいた近江の守護でもあった六角氏は事情を把握しつつ、和泉上守護細川刑部大輔にあてた書状を見る限り、観音寺騒動の対応に手いっぱいで旗印をはっきりさせてはいなかったようだ。

【史料】

芳札に本望の至りに。よって中の者共少々帰参せしめ。然りといえども当初の者共結構せしめの間、楯半ばに。涯分行に及ぶべき存分に。したがって方様足利義輝の御事、是非く存じ一条殿御退座重に。その表各の仰せ談ざるる由、もっともに。ここもと合期せざる儀にの間、毎事御推量あるべく。なお香西玄蕃助へ申さしめ。かたがた後音を期し。恐々謹言。

八月廿八日     沙弥承

謹上 刑部大輔殿

――『戦国遺文 佐々木六角氏編』補遺42
書き下し文・補足は村井によるもの

やがて12月21日和田から矢島に移り(和田惟政には事前の了解はなかった急な話である)、しばらくそこを拠点にしていた。おそらく織田信長へ送られていたため梯子を外された和田惟政には以下のように弁解している。

【史料】

今度元出座」事、更対惟政殿疑心之段、再三」雖申聞、尚以」春日八幡可有照」覧、非偽、然者」明晩村井間、」方へ罷越、出張」之儀弥馳走者、」可喜入、為其遺」貞、猶孝可」申也、

十二月廿九日

(宛名ウハ書)

「~

     和田賀守とのへ」

――『和田文書』覚慶書状

言継卿記』を見る限り、永8年末には誓願寺と円福寺の訴訟に対し、圧されていた二条晴良が覚慶のを借りようとしていたらしい。近衛前久とその近衛が動けない中、二条晴良が次第に覚慶の朝廷内の橋頭保となりつつあった。

なお、この頃書状を送られた人物で、上を強く推進したのは織田信長松平家康である。

【史料】

(包ウハ書)

「     蔵人
  和田賀守御返報 家康

如仰、今度 儀之」御様是非次第、就」其 一乗院殿様御入」之故、近出勢之事」被仰出之旨、当之」儀不可存疎意等趣」御意得専要、猶重」可得御意条、不備、恐々謹言、

十一月廿日     家康押)

和田賀守殿御返報

――『和田文書』松平家康書状

織田信長に関しては後述するとして、このうち永9年12月松平家康は、近衛前久で三河守・徳川家康となった。そう、足利義昭に追い出される近衛前久でである。というわけで、家康は、足利義昭政権においてはずっと蔵人と呼ばれ続けることになる。

松永久秀の失脚

概要

ま……まあこの程度なら……
松永久秀
ギャー
松永長頼
えっ?
松永久秀
久秀使えなくね?(チャキッ)
三好三人衆成立
そ…そうっすね…
三好義継
えっ?
松永久秀

松永久秀、後がない!どうする?

本題

極秘ミッションによる逃亡、調略による解放、どちらにせよ覚慶を手中から取りこぼしたことは全に松永久秀の失態であった。このことは全に裏に出たのである。

一方、大覚寺義俊の副状にもあった通り、赤井時家荻野直正が勢回復させつつあった丹波で、8月2日松永久秀の丹波方面軍を担当していた内藤宗勝が討ち取られる。

【史料】

丁卯、、 駕二位煩気為見舞罷向、以外煩敷之由有之、次殿へ参、双六有之、次竹内殿へ参、久我、甘露寺、中御門、遍照心院等、御連歌有之、次正親町へ罷向、中将雑談、一盋有之、

殿小女いと、者為見舞来、今日腹痛験気々、

丹州内藤備前守昨日刻討死々、以上二六十人討死々、

倉部広番代参々、

――『言継卿記』永八年八月三日

【史料】

一 昨日ニ日、丹波内藤備前守討死〻翌日三日ニ聞了、松永甚介トシ人、其後ト申由仁霜台ノ也、

――『多聞院日記』永八年八月三日

【史料】

たんばほううんうちじにとて。世上ぶつそうのよしみな〱申さるゝ。おのゝ御ばんしゆう十人ばかりまいりへのよし。くわんじゆ寺中納言におほせらるゝ。

――『お湯殿の上の日記』永八年八月四日

【史料】

八月ニ日、丹波内殿切腹

――『享文之記』永八年八月四日

この結果丹波、さらに久秀の治めていた大和でも軍事情勢が緊迫化。反三好方であった大覚寺義俊や安見宗房は味方を集め包囲網導しつつある(なお、この知らせは畠山秋高遊佐信教安見宗房の3人から薬師寺弼長に宛てたものが残っている)。

【史料】

廿八日一条殿異儀御取退由、、仍今度丹州始内藤備前守数多討捕之由、専一、然上者急度御入可然方之行儀、聊不可有油断等之趣御披露肝要、恐々謹言、

八月六日     畠山政頼

薬師寺九郎左衛門殿

――『尊経閣文庫所蔵文書  編年雑纂』畠山政頼書状
字は新修 亀岡市史収録時の補足

この結果松永久秀三好本宗の中枢部から取り除かれつつあり、最終的には11月15日三好長逸三好宗渭石成友通三好三人衆とそれに協した三好康長クーデターが生じ、松永久秀との抗争が始まる。

【史料】

昨日三好日向・同下野・石成三人衆千計にて飯盛へ打入、長勝軒・金山駿河生、則左太夫へ霜台ヲ可被見放之通訴訟ニ弾トハ事切了、今明之間ニヘ可(四カ)国衆打入由沙汰之、寺社折時之間、心落之立願三ヶ条願状認之、
 一 重難座講 一 毎年期大題因明講 一 信読経十六部 

――『多聞院日記』永八年十一月十六日

【史料】

ぶけのはたのはこと御まぼりとを。ひろはし文にて申さるゝ。あづけぬしのつかゐちがいたるとて。いだされはず。

――『お湯殿の上の日記』永八年十一月十六日

二人の将軍再び

概要

もう知らないもん!パリーン)
松永久秀
あ、こっち来るんだ……
畠山秋高
じゃあ一緒に戦う?
畠山秋高
うん…
松永久秀

それはそれとして……

ヒャッハー!
松浦光
!?ガビーン
三好義継
こうなったら…行け!松浦虎!
三好三人衆
フンガー!
松浦
おおおおおお(ガシッボコッ)
松浦光
……
畠山秋高
松永久秀
何あれー!?ガビーン
畠山秋高
松永久秀

本題

こうして孤立状態に陥った松永久秀は、覚慶を擁立した反三好方の畠山秋高と同盟を結ぶ。畠山秋高臣・遊佐信教は彼に遊軍と化していた安見右近を貸し与えている。

【史料】

前以書状申入処、々御返事祝着之至、仍安見右近儀、先書如申、長々被召置、御存分難斗由、内々申事様体者、佐但可被申分、恐々謹言、

 十二月十八日      教

 松永弾正少弼殿

     御宿所

――『大阪城守閣所蔵文書』遊佐信教書状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

加えてこの時期、三好義継で摂九条稙通が後援する松浦光松浦孫八郎)が三好から離反し、和泉は対抗として担ぎ出された松浦虎(松浦五郎)との抗争が勃発していた。

なお、松浦光はまさに今世紀入ってからようやく系譜やら文書やらが整理された人物であり、それらを受けて平井上総が織田政権にいる松浦光を素直に松浦孫八郎とみなしているので、それを踏襲する。

【史料】

日根野山田本地分幷八田五郎跡・小坂跡・井之内分・大津跡等事、申談、可有全領知、恐々謹言、

十二月廿一日     虎

日根野七郎殿

 後宿所

――『日根文書』

さらに三好本宗の内部にも松永久秀側につくものも多く、当初は優位に立つかと思われた。しかし軍事的に苦戦したうえ、追い打ちをかけたのが足利義栄を擁立した、篠原長房率いる三好三好三人衆方として参戦したことである。

【史料】

篠原兵庫々。一万五千人数々。実儀可問之。

――『永九年記』五月十三

松永久秀は、自身に与同した細川氏綱細川氏の後継者・細川藤賢の籠る中島に向かったが、合戦で松永久秀畠山氏の連合軍が盛大に負けてしまった。なお、他にソースがないので仕方ないが、細川藤賢も『細川両家記』に従えばこの年の8月くらいまでは中島っており、以後も松永久秀らと足利義秋方として行動していく。

おおよそこのあたりの畿内戦線を時系列にするとこんな感じである。

日時 出来事 ソース
8年
8月2日
内藤宗勝敗死
8年
8月6日
安見宗房薬師寺弼長に協依頼
提携相手には荻野直正・根来寺なども
尊経閣文庫所蔵文書
8年
8月8日
丹波に嘉兵衛下野殿三好宗渭?)が出 文之記
8年
10月8日
丹波衆が京都に侵攻したため竹内秀勝が迎撃
大和秋山・小夫・多武峯が松永方を離反
多聞院日記
8年
10月26日
石成友通井戸等に軍勢催促と称して多数工作 柳生文書
8年
11月11日
龍王謀反 多聞院日記
8年
11月16日
三好三人衆クーデター 多聞院日記
8年
11月19日
筒井順慶布施殿に入り、細井戸南郷らが味方に 文之記
8年
12月4日
筒井順慶井戸 日本学士院所蔵文書
8年
12月5日
井戸筒井順慶に味方し、松永久秀は人質を殺 多聞院日記
8年
12月18日
松永久秀が安見右近など畠山方と連携開始 大阪城守閣所蔵文書
8年
12月21日
三好三人衆大和入り(覚慶が矢島に移動したのもこの日) 多聞院日記
8年
12月26日
三好三人衆が退 多聞院日記
9年
2月4日
三好松永筒井方の賀衆・畠山らが大和 多聞院日記、永九年記
9年
2月6日
松永久秀筒井 多聞院日記
9年
2月17日
河内の芝原合戦で畠山方が敗走(足利義秋に還俗した日でもある) 多聞院日記、永九年記
9年
2月24日
山表合戦 文之記
9年
2月29日
松永久通南方に布 多聞院日記
9年
3月10日
大覚寺義俊が上杉謙信に勢図を共有する 越佐史料
9年
3月13日
(このあたりから足利義栄らがスタンバりだす)
9年
4月4日
三好三人衆が南都見荘に布 多聞院日記
9年
4月10日
三好三人衆岩城日向法隆寺 文之記
9年
4月11日
三好三人衆筒井順慶と合流 多聞院日記
9年
4月12日
三好三人衆杉山を築 多聞院日記
9年
4月15日
大和合戦 九年記
9年
4月21日
筒井順慶美濃を接収
足利義秋が左頭に
多聞院日記
言継卿記
9年
4月26日
三好三人衆筒井攻撃
9年
5月4日
足利義晴十七回忌
9年
5月11日
篠原長房が渡 九年記
9年
5月18日
松永久秀が多聞山から出 文之記
9年
5月19日
足利義輝一回忌
松永久秀野田に布
多聞院日記
9年
5月22日
松永久秀が喜連に移動 多聞院日記
9年
5月23日
松永久秀に移動 多聞院日記
9年
5月30日
合戦で松永久秀が敗走 多聞院日記、永九年記
9年
6月1日
多聞山勢が大安寺八幡で合戦 文之記
9年
6月3日
細川藤賢が長堂口で合戦 諸士系譜
茨木市史による修正
9年
6月8日
松永久秀方に落ちていた筒井が開
(ちなみに、この時内に尾国衆がいる)
多聞院日記

この結果松永久秀は消息不明と噂されるほど落する。

【史料】

日、因明講〻師勲懃之、半減五十、間者長房擬講預銭方十三文ツヽ、

一 多聞山へ廿文遣之、粽・ヒワ・アンシユ少ツヽ遣、

一 今日申処少合戦有之、霜台方失利、(脱アルカ)播ニ入行方不知之通也ト〻、如何可成行哉覧、

――『多聞院日記』永九年五月三十日

このタイミングで永9年6月24日にようやく三好長慶葬儀が行われたようだ。

【史料】

廿四日。印書記来。事。夕立又如昨日。雖然鳴。日。河刕有三吉(好)修理大夫葬礼。未刻也。

――『鹿日録』永九年六月二十四日

【史料】

廿六日。午時蔭軒・賢仲・印等自河刕上。話三吉(好)修理大夫葬礼義(儀)式。野衆河刕観寺取行。五岳之衆上方・維那被請。諸事有之・西嶺之策和尚奠 。恵阜之獻上。 賢仲・集蔵・元蔵嵯峨之悦首座等為行楽奉行々。奠奠湯外之諸事。皆野長老也。念踊胤英座元也。葬礼之時。首里大夫子左京大夫・日向出葬場。左京大夫感。其外之諸士各々。修理大夫死去者永七年也。其後一日以不太。延在年。其間三年、雖歴年諸士悉涕悲泣。尋常恩厚可知。申刻老師上。河州下向之衆。不被寄。為遺恨多也。明日之斎被講請蔭軒・賢仲等矣

――『鹿日録』永九年六月二十六日

ちなみに、三好義継の妻がこのあたりで亡くなっている。

【史料】

女中死去之間。三人衆。篠原下皆高屋集々。

――『永九年記』七月二十八日

一方覚慶は永9年(1566年)2月17日に還俗して足利義秋と名をめる。

【史料】

一てういんとのよりはしめて御けんそくありて。やしまより御れいに御むま。御たちにて申さるゝ。御たちしろ御たちなり。御むまは代にて三百まいらせよし。くむんしゆ寺中納言申さるゝ。めてたきとてないし所へも御かくらまいり。みな〱へも御しはいあり。めてたきとて御さか二こんまいる。おか殿もなる。山しな。御はんしゆみな〱御ひし〱なり。

――『お湯殿の上の日記』永九年ニ十七日

さらに4月21日には足利義秋足利将軍が最初につく官職である左頭につく。

【史料】

午、天一 長官女茶々石弱大、廿送之々、

自葉室小袖、肩衣、共、先日之後持来、被送之々、

局、内所へ立寄、持明院と双六打之、

殿可参之由有之間参、丹州御知行佐伯、〱つれ北之事、波多野に被仰遣之間、古今之様手日記調之了、又双六被遊之、

当番之間暮々参、予、豊両人也、経基臣不参、

一条殿御還俗、今日叙爵、左頭に被任々、御隠密々、同日御着、御乗始、御判始、江州矢島有之々、不及御元之沙汰也、禁中へ被申事、伝奏不被存之、吉田兼右卿馳走々、不可説々々々、御名字々、侩者勧進歟如何、

――『言継卿記』永九年四月二十一日

幻の上洛計画とその頓挫

概要

今こうなってるからとりあえず助けろ
足利義昭
あれ、期待されてる…?
織田信長

織田信長が上の算段をつけたよ、でもでも?

おおおお負けたああああズサー)
松永久秀
スンッ…兄貴
松浦光
とりあえずいい感じに建て直すか…
三好義継
というわけでんがな、畠山はん?
九条稙通
マジか……
畠山秋高

とはいえいざ上予定日!

じゃあ行くわ
織田信長
そおい!(グサー)
斎藤龍興
え?信長来れないのかよ!
足利義昭
オマエモナー(ドカーン
六角承禎

作戦はご破算!おまけに潜先から追い出されたよバッキャロー

本題

一方で、4月頃から織田信長によって一度足利義秋の上も試みられた。そのために3月頃に織田信長一色龍興が和させられたようだ。

【史料】

出張の儀につき、重ねて御内書をなされ、よって隣に相催さるるの処、別して濃・尾・三河その外出勢あるべきの由、言上し、然りといえども、上杉虎御参なきにおいては、下の静謐ありがたく間、別儀なきの様申し調えらるべき事、肝要の由に、次いで相州と御和の儀、これまた、仰せ下されといえども、今に一途これ条、追々仰せ越さるべく、何れも御馳走においては、しかしながら御忠節たるべきの由、仰せ出され、恐々謹言、

七月朔日     (飯河)信堅

直江大和殿(政綱)

――『上杉文書』飯河信堅書状
補足・書き下し文は敏によるもの

【史料】

尾・濃事之段申遣処、別儀、然者出勢之儀相究間、来中旬可出張、数度如申下、、抽忠節者可為感悦、猶助乗可申也、

 七月十三日        足利義秋

 武田五郎とのへ

――『武手鑑』足利義秋御内書
字は愛知県史収録時の補足

織田信長が加わったことは大々的に報じられ、幕臣たちはこれを口実に勝ちを募ろうとしていった。

【史料】

廿四日、西室一時領在之出了、称地蔵布施遣之、

一 五代院東南ノ垣沙汰之、大般若廿七巻妙院、十四巻民部卿、一巻瓦坊より来了、自是妙院へ十一巻遣之

一 地蔵清浄院来題難経部師、木練一遣之、

一 人衆南円堂ノ御間祈在之、

一 今度将軍可有御入之由付、従高田為成遮十兵之儀大覚寺して被申入、相調則御内書被成之通状

就御出張之儀被成御内書、来廿二日織田守致参陳、御動座可御供申由、就其三州・濃州・勢州四ヶ出勢必定可被抽忠節者、可為妙由可申入旨、猶為成可有演説不能再筆也、賢〻〻

 七月十七日    御判在之

 十兵部少殿

 以上大覚寺殿小文ニ在之也、別ニモ日ノ下ニモ御判計在之、名ハ之、

雖有如御内書ハ不到来、大覚寺殿一円虚説也、内〻ハ兼テ従峯寺十一跡闕所申調、既ニ御同心ノ内書被成旨也、如何〻〻

然処内儀ニ付被申伺之処、御判別儀之通付、従一吉ミソ五十文テ遣之、

――『多聞院日記』永九年八月二十四日

加えて松永久秀三好三人衆双方からもあっちが悪かったからこっちと結べと提携が申しだされてきたが、これをつっぱねたようである(ちなみに前述の矢島に移ったタイミングもこの書状でわかる)。なお、足利義栄足利義秋を和させようとする三好三人衆篠原長房が全部悪いからと責任を押し付けている松永久秀とでは言っていることが微妙に違う。

【史料】

一、智院事(頼慶)京都一果之間、被付置之、時々有姿可注進旨、被申付由、都鄙外聞類事、

一、相州北条氏之事、是非共被和与、参肝要之事、

一、山摂津大和河内・丹波、諸当時双方江一味之輩雖有之、出張者、各味方可仕旨、深重言上間、者、彼是即時に可属御本意事、

一、駕・越事之事、

一、至矢、去年十二月廿一日、従甲賀被移御座候事、

一、江州之事、

一、三好三人衆申分事、今度殿足利義輝御生之儀、始末松永(久秀)処行、両三人儀者、由、雖再三申之儀、州之御仁足利義栄与御和之姿、之者、難有静謐、以其上被成入、行未之儀者、上意可為御覚悟次第由、種々申上事、

一、松永申分之事、是又今度御生之事、一向雖不依存、自篠原方達申に付、不及、聊以逆心不仕、其故者、上意之御儀、南都果可申旨、切々従彼方雖申越松永以才覚、御別儀事、然大忠歟、被成御逸者、河・・紀過半申合、及行抽忠信、即時に今度之可被散御念旨、申上也、右之趣、従双方、切々雖言上、何茂不被入聞召

一、尾・濃和之事、為上使被仰出、相調者、致参可申由、然者、内々領共御受申上細川兵部大輔孝)為御上使被差下事、

一、越・若之事、別切々御音信等被申、以上

          大覚寺殿(義俊)
             御判

 三月十日

 上杉弾正少弼とのへ虎)

ー『越佐史料』4-560「大覚寺義俊条書」
字は上越市史収録時の補足

ちなみに、この時点では矢島が最終的地であり、以下の2つのルートが存在した。

  1. 美濃近江北部→矢島
  2. 伊勢→甲賀→矢島

ところが、松永久秀落によって畠山氏が脱落する。

この書状の発行者が松浦光であり、九条に残っていることから、双方に顔が利いた九条稙通松浦光がうまく立ち回り、畿内に再度平和をもたらしたようである。

【史料】

天罰起請事、

右意趣者、就今度其方入儀、対松浦孫八郎被遣知行段、自最前不可然由悔入、雖然各依請取之、以其旨至原面、出張、失勝利、一果之儀不及是非上弥面談、可散遺恨之処、国衆幷四人之者等、三好方与可和之由、頼ニ申分間、不能分別之由問答間、所詮根来寺覚悟次第、若和段事不相調者、申合筋者不可有相違、然者契約之知行事返渡、永代両国成自他不ニ思、可仰「(貼)申達」達、次先年根来寺与三好方和与之時、八木池田事、彼寺ニ遺、替地事可申付由、彼方衆以連署間、河州相当事相渡様、馳走肝要旨者、可 日本国大小、殊八幡菩薩春日明神・多武峯大明神満大自在天神・氏罰者也、

九年七月九日     判

 遊佐河内殿(信教)

 遊佐美作守とのへ安見宗房

付箋)「右之趣、松浦孫八郎以誓雖可申、若年ニ之間、為其如

――『九条文書』松浦孫八郎九条稙通カ起請文案
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

さらに6月頃から織田信長一色龍興を警して上に二の足を踏みだす。

【史料】

従尾州、兵部大輔申上々惟政可罷下由申間、明日にも小者一人にて成共可罷下事頼入、尾守申付子細之由へ共、分申付由にて、々先々尾州へ下之事肝要、急度織田様馳走、如存知申上、方々調略之子細間、連々にてハ如何旨、如何様にも出勢之事急申度々先々明日にも下頼入、かしく、

六月十一日

(宛名ウハ書)

「~

     和田賀守とのへ」

――『和田文書』足利義秋自筆書状

結局一色龍興織田信長攻撃によって織田信長が上を実現できず、頓挫した。

【史料】

去々の方使僧帰路の節、尊書ならび国家老両人より芳問、何ぞもって拝被致し、条々御懇ろの趣、本望の至りに、それ以来則ち太守武田信玄申展べられるべくといえども、遠山かたへ始末迎送せられ、彼方誓詞下相固め、御左右たるべきの旨条、内々待ち入り存じ、但しその先に及ばず申されるべくか、是又御南次第に、両所へ愚報恐れながら御伝達預かるべく

一 濃尾の事、先書に申し入れ如く、方様足利義昭御入に付いて、織田上総信長御請申すの条、尾州に対し方矢留の儀同心せしめば、忠節たるべきの由、仰出され、参一向実ならずと存じといえども、肯んじ申さずんば、濃州として御入を相妨げるの条、己の越度に非ざるの通り申成すべし、巧みにと分別せしめ、もし又治定においては、儀御為にしかるべく存じ、かたがたおって悉く御下知に任すの由、罰文下相認め、細川兵部大輔孝)殿返す返す申間事、

一 織田罷り透すべく、江州路次・番等も相調うの間、参差し急ぎようにと、細兵(細川藤孝重ねて下向て催促のところ、の期に至りて織上織田信長違変せしめ方には兼ねて案々図に条、更に事新たならず儀御断、御手を撃たるるの由、賢察に過ぎ、去る来、三好かたより種々懇望仕り、その外御調略の筋、幾重に在るの由き、彼等妄言により御上相滞り、剰え江州矢島御逗留も届き難き式の間、朽木か若州辺へ御座を移さるべきの旨、是非き題、織上下の嘲弄これに過ぐべからず、かくのごときの間、儀に対し奉り、疎意を存ぜざる段も、詮く成り行き事、

一 去二十九日、織上当出張、その時分以外に迫りて、河表打渡り、河野へ執り入り、即座に懸かり向かい、これにより織上引き退き、縁に居の者共、まりを限りを取り続ぎ相守り出張の翌日より雨水濃きに付いて、自他行に及ばずき、漸く引き間、取懸かり相果つべきの由儀定せしめのところ、去る八日未明に織上敗軍仕えり逃げ入り、溺し者共数知れず、残党際において少々討ち、兵具下捨てていたらく、前代未聞に、しかりといえども、方存分に任すの条、御心易かるべく織田中注進申べくへ共、程く落居候間、その儀等の通り御伝語畏まり存ずべく、尊意を得べく、恐惶敬

八月十八日

     賀兵左衛門尉定治

     延永備中

     成吉摂津守尚

     氏家常陸介直元

ー『中島文書』
書き下し文・補足は木下聡によるもの

加えて、『米田文書』によると、ある時期を矢島滞在を黙認していた六角承禎は反足利義秋に与し、永9年8月頃に足利義秋捕縛を命じる(ちなみにこの『米田文書』こそがかの有名な近江明智兵衛から書写したと書かれる『針方』、つまり明智光秀初見文書とされているアレの裏に書かれていた内容である)。

【史料】

村雨陰、 澤路筑後来、摂州に明日人仕立々、三好日向守、同下野守、同山守、七条左近等へ書状調遣之、内蔵寮率分之儀也、

江州矢島引手有之、討に三好坂本三千計罷向々、依計略具足以下済々捨之、人計被討

梶井座宮へ参、中山、予、四条、頭中将以下各被参、中将双六等有之、庭田女房衆被参了

南向疫病刻起了、

――『言継卿記』永九年八月四日

【史料】

御退座の刻、そのの儀、馳走をもって別儀なく。然れば、御入の御供として織田守参。いよいよ頼み思し食され条、このたび別して忠節を抽でら様、相調えらるれば、御祝着たるべきの由に。よって中へ御下さるべく。これらの通相触れられ、参会の儀、相調えらるべく。日の定まり次第御使を差し越さるべく。なお巨細高勘・高新・治豊申さるべく
恐々謹言。

 八月廿八日        
              

 菊山殿

――『米田文書』
書き下し文は村井によるもの

概要

こうなったら逃げる!
足利義昭
ウチ無理っす
武田義統
このクソ親父バブ
わからせバブ!(ボコボコボコ
武田元明
…じゃあウチくる?
朝倉義景

命があったからまだよかったよ!仕切り直しだこんちくしょう!

ごめんなさいテンカフブ!
もう一回手伝いますテンカフブ!
織田信長
……いいよ?
足利義昭
(いいのか…)
朝倉義景

本題

足利義秋一行はこれを察知して8月29日には矢島を脱出。8月3日には若狭に逃亡するも、武田義統武田元明が対立状態にあったため、敦賀に移り、本願寺顕如に催促して加賀一向宗と和をさせた後に越前朝倉義景のもとに向かった。

【史料】

大雨、当不止下了、て不奉拝之、

一 蔵払了、人夫申付、カヘ土用意了

一 去廿九日上意様ハ矢島ヲ御退座、若州御動座了、三人衆六角方と申合謀反之故ト々、浅〻〻、若狭も武田殿子及取合乱逆と々いかゝ可成行哉、

――『多聞院日記』永九年八月三日

【史料】

数通言上旨、懇志至喜入表儀、織田信長出勢相違故、江州矢儀、弥三好(義継)松永(久秀)計策共間、難成安座条、若州江相越、去八日至越州敦賀退座朝倉馳走、仍東儀、大覚寺門跡(義俊)以下向、北(氏康)与和段、可申調、是非共参陳偏頼入、一書之趣、重可差下使者、毎事身上任置、大方申含東蔵坊、尚大覚寺門跡可有演説也、

九月十三日     足利義秋

 上杉弾正少弼とのへ

――『上杉文書』1130「足利義秋御内書」
字は上越市史収録時の補足

遅くとも永11年正月には一乗へと居を移している。

【史料】

十七日、断了、持斎、新薬師へ参了、日中以前ミソレ下、長専房似(之カ)今之官事宗房へ入了、

一 去十二日松山崎へ行、定治房之由被之、

一 越前より一切経承仕上了、加賀越前と和談事(畢カ)、上意越州一乗へ被移、御座被仰調悉以事也〻、

――『多聞院日記』永十一年一月十七日

おそらくこの頃に備中守護細川通董らに書状が送られている。

【史料】

殿足利義輝儀、余依為念、至当越前被移御座、諸相備間、其国衆申合抽忠節者、可為、猶(三淵)英可申

十二月朔日     義昭御判

     細川下野守とのへ(通董)

――『下関文書館所蔵細川文書』足利義昭御内書写
字は山口県史収録時の補足

【史料】

殿不慮儀、為可被散御念、至越前被移 御座、諸被相催、可被及御行旨、仍被成 御内書、其国衆被仰合、度可被抽忠節通得其意可申之由被 仰出、恐々謹言、

十二月朔日     三淵弾正左衛門

細川下野殿(通董)

――『下関文書館所蔵細川文書』三淵藤英副状写
字は山口県史収録時の補足

なお、経緯はどうであれ、足利義秋はこの直後に一色龍興に対して、織田信長の停戦破棄を驚いた旨の書状を送っている。織田信長意はともかく、停戦破棄と上失敗は織田信長下の笑いものにし、これが原因でこれ以後織田信長下布武を掲げ上を強く推進することになったといわれている。

【史料】

就尾州矢止儀、人質事同心感悦処、織田信長乱入儀驚入、雖然尚以参之事対尾織田信長申遣之間、最前之筋相違様馳走者可為妙、猶上野信恵可申也、

(永九年)八月廿六日     (足利義昭)(押)

――『名古屋市博物館所蔵文書』足利義昭御内書
字は愛知県史収録時の補足

離反した一色龍興であるが、永9年11月7日武田信玄と手を結んでいる。

【史料】

(封ウハ書)
「     一色治部大輔義棟斎藤龍興
 拝進恵閣下     」

就信玄与義棟之儀、去年以来御馳走之段承悦之至々以専使可申処、之儀彼是取粉、遅々所存之外今汾陽寺越境、万端御南簡(肝)、仍剃十双・緞子ニ端進献、猶延永備中日根野弘就可申入、恐惶敬

十一月七日     一色義棟

拝進
  恵

     閣下

――『武田神社文書』1号一色義棟(斎藤龍興)書状」
補足は石川美咲によるもの

織田信長には再度依頼が来ていて快諾している(奥野高広による永8年説が定説となっていた文書だったが、村井によって永9年に再定された)。

【史料】

就御入之儀、重被成下 御内書、謹致拝閲、度々如御請申上、上意次第不日成共御供奉之儀、ニ其覚悟、然者越前・若州速被仰出奉存、猶大大和広)和田賀守(惟政)可被申上之旨、御取成所仰、恐々敬

十二月五日         信長

 細川兵部大輔殿孝)

――『高橋氏所蔵文書』織田信長書状
字は愛知県史収録時の補足

また、足利義栄も以下の時期から徐々に上の算段を整え始める。

【史料】

天一上 上姿にて可之由有之間刻参小御所へ渡御、同若宮御方内御、菊之裁様御談合、当年予可作之由仰也、御雑談共移刻、申刻退出了、

澤路備前入来、会与右衛門片より三好日向守返事到、山科之用、河州之方へ渡申々、近年御配当分可申届之由返答也、奉中島用請取に上々、日向守返事如

尊書致拝見久不申承失本意存、仍近年為武御配当事承、申聞随分分可致馳走拙者不可存疎意、将太刀被懸御意、畏悦存等之趣可被披露給、恐々謹言、

三月九日     長逸 裏書三好日向

北尾殿

澤路備前入に、中島宿へ罷向様礼可申調之由申付了、

――『言継卿記』永九年三月十三

9年9月23日頃より情勢を悟った足利義栄一門が渡してきた。

【史料】

午、天一 朽木刑部少被来、雑談移刻、五霊膏、豆蔲散等之片被懇望之間相伝之、但豆ヽヽ非正方、別秘方之間如

局、内所等へ罷向、殊事、

葉室被来、北野社へ参詣々、小漬申付了、被帰、薄罷了、次中御門来談、

北隣安兵衛大夫庭之硝石榴五、送之、

澤路備前入召寄、筑後留守へ申遣子細有之、

昨日廿三日、半時分方摂州へ御着々、左頭入殿御息、一才、同御十四才御三人

――『言継卿記』永九年九月二十五日

足利義栄の数少ない発給文書が、河野氏に10月4日に出されている。

【史料】

京都之儀、属本意上者、不日可上之条、刻別忠節可為感悦、猶守肱畠山惟広)可述也、

(永九年)十四日     (押)

  河野京大(通宣)とのへ

――『二文書』足利義栄御内書
字は木下聡の補足

【史料】

京都之儀、属本意上者、不日可上之条、刻別忠節可為感悦、猶守肱畠山惟広)可述也、

(永九年)十四日     (押)

  村上出雲(通康)とのへ


――『諸士書上』足利義栄御内書写
字は木下聡の補足

10年(1567年)1月6日には足利義栄が左頭となり、あとは将軍につくばかりであった。

【史料】

、八専、 大工衛門礼に来、飲之、今日礼物総在応生来々、

自葉室人来、色々致々、

中御門礼に被来々、其外総在応生来々、

禁裏千秋万蔵町ヽヽ、午時参、如例議定所御庭、舞二番、帽子折、あつもり、被参之輩勧修寺一位中山前大納言、四大納言、予、三条大納言、新宰相中将、千菊丸、宰相男、英、以継也、御所口各御被下了、次内所へ立寄、さいに撥円一遣之、

摂州之武従五位下義栄今日被左頭々、消息宣下々、

――『言継卿記』永十年一月六日

三好義継らの参入

概要

一旦畿内の騒乱が収まったよ

とりあえず急いで時に戻すぞ!(トンカントカン
三好三人衆
(猛にしわ寄せがきてないか…?)
三好義継
四国からきました足利義栄様…アリ…かな?
篠原長房
……
三好三人衆
アリ
三好三人衆
アリアリアリ
三好三人衆
あれー…?
三好義継

三好義継、怒る!

やってられっか、こんな部下たちと!(パリーン)
三好義継
それでこっちに来た…と…
松永久秀
手伝うぜ兄貴
松浦光
もう一回!
畠山秋高
乗っからせてもらうでおまんがな
九条稙通
わいもや
二条晴良
なんかすごい味方増えてるー!?ガビーン
足利義昭
朝倉義景
織田信長

三好の分裂と畠山松永軍の再挙兵!?おまけになんだか色々付いてきてる!?マジでこれからどうなるの?

ずっとスタンバってるんだけど…
足利義栄
まだ座ってろ
三好三人衆
篠原長房

本題

しかし永10年(1567年)2月16日三好義継が出奔。26日に松永久秀と結ぶ。三好本宗松永方についたのである。これには三好篠原長房との路線をめぐる対立もあったようだ。

この前日には三好義継安見宗房らの軍勢が松永久秀にあたっており、この時まで九条稙通松浦光らが導した平和は保たれていたのだが、それが崩れ去った。事の発端は池田中の分裂だが、状況拠からこの一連の離反劇は九条稙通らの筋書きだったといわれている。三好三人衆三好義継の下で12月頃までは急ぎ平和を実現するために知行割などを進めていたが、これが性急すぎたとも。

九条稙通ポスト三好長慶をめぐる三好内の争いで、三好義継松浦光兄弟を引き連れ足利義秋に与する等、九条稙通二条晴良九条流摂関が連携して足利義秋となっていったようだ(なお、近衛流の鷹司はすでに断絶しており、近衛前久九条流の一条内基と手を結ぼうとしていた)。

【史料】

発卯、自天一上、 中山約束之厚き杉原所望、一点到、次将軍宣下之次第被写与之

西所へ罷向、内山、石孫九郎、越前守等、少将双六等有之、次内所へ罷向、持明院と双六打之、

自禁裏可之由有之間則参内、殿上御覆有之、御両所、殿女中衆、予、中納言、新宰相中将豊、以継等也、御盃ニ、参、音曲有之、暮々退出了、

自葉室人来鮓十、被送之、籐宰相に同荒巻被送之、

三好池田内等昨日々、又可及大乱、笑止之儀也、三好京大夫、同山守、安見等、遠里小野へ打出々、三好日向守、同下野、石成悦助和泉に有之々、松永弾正少弼衆々、池田之内七十五人引破々、

駕二位地子之儀内々披露之、被成御意得之由有之、

――『言継卿記』永十年二月十七日

【史料】

十八日、立待四打鳴之時明奉拝之了、へ香典遣之、

一 葬礼之具調下了、

一 去十六日三好京大ニテ宿所ヲ替了、弾ト同心歟ト河州雑説之由也、いかゝ大坂へ行

一 ケコンヰンソキ合五千二十一枚分渡之了、

――『多聞院日記』永十年二月十八日

『享文之記』の永十年の四月頃の条には、ちょうどこの寝返りの日に三好三人衆に専横されている割にうまくいっていない中を不安視する三好義継の書状が収められている。

【史料】

一、三人衆ヨリ大夫殿ヘ状安文、幷御返字有、

 急度申、三人衆、可然様可馳走之由申、さもなく外聞失面、如之仕成、人形同然、さ様ニ共、可治之義、縦義継果共、不及是非ヘ共、成仕立間、をのつからも被果間、世間取沙汰、嘲(口偏に)成者ニ可被聞、然身上果、難談顕形之諸事、様不見分、各難談も被為正之間、替宿忠も不忠も不入様今分にてハ難続、可有御分別、恐々謹言、

  丁卯二月十七日 篠左進之 義継判

 返報、昨日御書、今日刻ニ到来、致拝見、世上就義、被致御覚悟、御乱世以後、頃時相静事、古今稀義々以御成敗、可属静謐処、被寄、如次第、併、被相心、被背貞心之旨分、抑奉御進退、何之者可構逆心哉、如何様之題者、可被相起義、可以仰趣、致其覚悟、希被思召、直被破却、覧人御御長久、被専政事、可旨御披露可仰。恐々謹言

  二月十八日 金山駿河守殿

――『享文之記』永十年四月

2月28日には三好三人衆がいかに悪逆非三好義継から書状が各所に発給されている。

【史料】

同名日向三好長逸下野三好宗渭・石成(友通)以下構悪逆非、前代未聞所行松永久秀事対大忠者、依難見放、一味聞粉之由感悦、弥馳走可為、恐々謹言、

二月廿八日      義継

――『小林凱之氏所蔵文書』、『宮坂兵衛氏所蔵文書』
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

その結果三好三人衆方には三好の当三好長治が渡。一方松永久秀方は三好義継の推戴で劇的な復活を遂げる。

【史料】

尚々御使之儀、急待可申、御使御宿之事者可申付条、可被成其御心得、当御礼可申上処、方々仕て遅参迷惑仕、御取合所仰、将又左京大三好義継進退事、松永久秀一味之段不及是非、あ州より千靏三好長治近日罷上国衆供仕州・州・摂州之事何も別儀間、可御心安

先度者就小塩之儀御住(注)進旨得其意、則各尼崎条罷下石石成友通へ不審申処、世上雑説付西岡表面所へ惣次勝籠寺より可申付由申上条、定小塩へも可申付由、更対御領之条、可御心安、就其旧申請、先々各請文案幷御代々為守護不入地折紙案文、向三好長逸・釣三好宗渭へ見申、然上者御本所様次第ニ之間、異議不在之様ニ申条、急以談合上可被相由、切々申事ても、沼弥三郎雖懇望申与、上様被成下御補任旨、弥御別儀様御取合専用存、然者両三人へ、御被押置御迷惑之旨、急度乍御造作仁体被差下様御披露所仰左様篠原(長房)かたへも被仰下、両三人へ再度急度可致異見旨、肝要存九月十日ニ御使待可申、霜台松永久秀へも乍恐同前ニ申入間、可得御意、恐惶謹言、

三月六日      是徳

大弼殿(北小路俊定)

本間本間加賀

 まいる

  御報

――『随心院文書』和久是徳書状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

4月6日には松永久秀から大和に戻ったようだ。

【史料】

一 去五六日頃ヨリへ入、筒井順慶奈良ノ陳ヲ引テ七日ノヘ入了、

――『多聞院日記四月八日以後十日以前

概要

松永久秀ッッ復活ッッ松永久秀ッッ復活ッッ松永久秀ッッ復活ッッ

おおおおおおおおおおおお
松永久秀
おおおおおおおおおおおお
三好三人衆

(燃える大仏

……
松永久秀
三好三人衆
ヨシ!
松永久秀
三好三人衆
ええー……
朝廷

それはそれとして

そろそろ将軍位くれ
足利義栄
というわけだ
勧修寺
マジか(足利義昭への密書持ちながら)
山科言継

やっと足利義栄将軍就任!でもでも?

本題

5月頃から三好三人衆松永久秀奈良で退を続けていく。一応、再度このあたりの時系列を整理してみよう。

日時 出来事 ソース
9年
7月9日
松浦光らが畠山秋高三好三人衆を和させる 九条文書
9年
7月13日
と西院が開
足利義秋武田信方に御内書を送る

手鑑
9年
7月14日
三好長逸石成友通が上 言継卿記
9年
7月17日
・勝が開
大覚寺義俊が十織田信長の救援があると励ます
九年記
多聞院日記
9年
7月18日
和田惟政から仁木長頼へ勝に加勢が命じられたか?
伊丹城の開約束が違えられ、一宮などの軍勢が土佐あたりに帰
和田文書
清水寺別当記
9年
7月28日
甲賀の大原氏、賀の服部氏等に足利義秋から文書が送られる 大原勝井文書
古文
9年
8月4日
三好三人衆近江に兵を送る(おそらく六角承禎もこれに協 言継卿記
9年
8月6日
一色藤長尊が瓶原七人衆中に織田信長の出を伝達 慶応義塾大学所蔵反町文書
9年
8月8日
筒井方の松永方から引き渡される 文之記
9年
8月14日
9年
8月17日
この頃までに松浦光も投降したとされる
9年
8月24日
三好長逸速水益・楠正虎といった松永久秀方のを接収 言継卿記
9年
8月28日
織田信長を伝える予定があったが急遽取りやめ 米田文書
9年
8月29日
織田信長一色龍興が開戦したのがこのあたり 中島文書
多聞院日記言継卿記を見ると、おそらく全く同じ日に足利義秋矢島を脱出した
9年
8月1日
昨日足利義秋矢島を脱出したという報 言継卿記
9年
8月3日
足利義秋が若狭に脱出 多聞院日記
9年
8月18日
一色龍興から中島文書が出される 中島文書
9年
8月26日
足利義秋一色龍興(?)に織田信長行動をとがめる書状を送る 名古屋市博物館所蔵文書
9年
9月8日
足利義秋敦賀に移動 上杉文書
9年
9月18日
遠勝が筒井順慶に味方し、本を攻撃 文之記
9年
9月23日
足利義栄らが渡 言継卿記
9年
9月25日
多聞山筒井順慶に対して籠 多聞院日記
9年
9月28日
筒井順慶が成身院で得度 多聞院日記
9年
11月7日
一色龍興武田信玄が結ぶ 武田神社文書
9年
11月8日
三好宗渭尾郷を接収 多聞院日記
9年
12月23日
松永方が宿院を築 多聞院日記
10年
1月6日
足利義栄が左頭に 言継卿記
10年
2月16日
三好義継松永久秀に寝返る 多聞院日記
10年
2月17日
昨日池田中の分裂に三好義継や安見らが対応に向かったと聞く 言継卿記
10年
2月26日
三好義継三好三人衆を弾劾 小林凱之氏所蔵文書等
10年
3月6日
三好長治らが渡したことがわかる 随心院文書
10年
4月6日
松永久秀から大和に帰 多聞院日記
10年
4月11日
松永久秀が多聞山に帰還 多聞院日記
10年
4月18日
三好三人衆奈良 多聞院日記
10年
4月24日
松永久秀三好三人衆らが戦闘 多聞院日記
10年
5月2日
東大寺戦場 多聞院日記
10年
5月18日
三好三人衆の多聞山攻撃が失敗
松永久秀になりそうな寺院を焼却
多聞院日記
10年
6月27日
筒井順慶三好三人衆に和を進める
10年
8月16日
松浦虎が三好義継から三好三人衆に離反 多聞院日記
10年
8月21日
織田信長柳生宗厳松永久秀の味方だと連絡 柳生文書
10年
8月25日
松永方が飯盛を奪取 多聞院日記
10年
8月28日
佐久間信盛織田信長の上遅延柳生宗厳に詫びる 柳生文書
10年
9月6日
三好三人衆が飯盛を奪取 多聞院日記
10年
9月16日
松永久秀が飯盛を奪取 多聞院日記
10年
10月10日
奈良大仏殿が焼ける 多聞院日記
10年
10月20日
三淵藤英率いる軍勢が三好方に敗走 言継卿記
10年
10月21日
三好三人衆が飯盛を奪取 多聞院日記
10年
12月1日
織田信長松永久秀方のつなぎ止め 柳生文書等
11年
1月17日
これ以前に足利義秋が一乗に動座 多聞院日記
11年
2月8日
足利義栄征夷大将軍 言継卿記
11年
2月12日
足利義栄に勅使が派遣される 言継卿記

織田信長はこの時点で上作戦の一環として松永久秀支援しており、佐久間信盛らが松永久秀方のつなぎ止めに奔走している。

【史料】

雖未申通、仍松永久秀与連々申談事、今度 足利義昭江御断之段、達可言上半、定不可有別儀、雖不及申、時御忠節、随山美山岡息女之事、少江内々申事、先三木女房衆、速被返置様御馳走専一、通路以下御為ニ、向後別可申承、相応之儀、不可有疎意、猶結山結城忠正)可為演説、恐々謹言、

八月廿一日     信長

柳生新左衛門殿(宗厳)
      後宿所

――『柳生文書』織田信長書状
字は戦国遺文 三好編収録時の補足

【史料】

未申通処、御状殊奈良煙被懸御意本望、仍織田信長之儀、江州六角承禎就表裏先延引、雖然松永久秀申談、諸口調次第、至南都可罷上之旨、連々承及条、別御馳走者、可為快然、尾州織田信長以直札申入、猶委細結山結城忠正)可被仰条、不能巨細、恐々謹言、

八月廿六日     信盛

柳生新左衛門殿(宗厳)
      御返報

――『柳生文書』佐久間信盛書状
字は戦国遺文 三好編収録時の補足

足利義秋のいる場所が変わったため、ルートとりあえず京都すものとなっていた。

  1. 美濃近江京都
  2. 伊勢賀→(大和→)南山京都

一方で長期にわたる対の結果、永10年10月10日奈良大仏殿が焼けたため、足利義栄将軍宣下は延期になっていた。

【史料】

十日、四郎妻タマキニ昨夕より出了、及夕下了、

一 大木子へ五斗、へ五斗遣之、請取来了、

一 明ヽ、何時にてモ子サマニのあきたきをほの〱の哥ヲ三返唱て人丸ニ祈ハ必其時分目あく也ト、

一 同ヽ暁月狂哥よみしハ、本の哥のひかりを仕損しての事也、

ちかくなりとをくなるほの千鳥

なく音にのミちひをそしるを

はまちとりとかくせしおちとより

本の哥を取置て狂哥をよミしと、

一 同ヽ、坊法印ハ何も尊勝タラ尼を満て、琰广王へ祈精して、永離三悪といのられしと、

一 玄賛ニ本ニあり、三熱ノ苦、熱沙ニ身ヲこかされ 一、ニ衣をふられ身はたかになる 二、ニくわるゝ 三、

一 今子之初点より、大仏へ多聞山より打入合戦及数度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ堂へ火付、ソレヨリ大仏廻廊へ次第ニ火付テ、大仏殿焼了、猛火ニ満、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了、尺像モ湯ニナラセ給了、言断、浅トモ不及思慮処也、昔良弁建立、十六年甲申聖武天皇御願、治承四年十二月炎上、其間四七年、其後頼朝建久六年ニ造立ヨリ、今年三百十三年ニ当ル歟、治承ノ炎上ニハ十五ヶ年ノ間に周備ト見タリ、今ハ雖経年、中く修造不可成哉、ニ生之中ノ也、罪業之程可悲〻〻

一 大仏ニ陳取衆悉以敗軍了、ヤリ中村討死、其外人数二・三百人モ切死・焼死了ト、

念仏堂・(唐)院・四坊・安楽坊・深井坊同日焼了、

一 氷室山ニ取衆播州別所人数幷辰巳衆則時ニ自焼了、

――『多聞院日記』永十年十月十日

【史料】

十月十日子刻、東大寺ニ着之中、沙汰之、四面廻廊大仏殿一時ニ燼ト成ル。大仏殿焼失者刻程歟。中門・念仏堂・堂・近年建立之穀屋悉焼畢。鐘楼者不替之、是モニ以火付之、然間吹切之間不焼々。其後放火、是者松井屋敷方ニ居ヨリ火矢ニテ焼々。浅増之。

――『清水寺別当記』永十年十月十日

織田信長はこうした一進一退の攻防を見て、松永久秀方に諸将をつなぎとめようと、片っ端から書状をばらまいている。

【史料】

御入之儀、不日可致供奉刻御忠節肝要、就其対多聞弥御入専一松永久秀(久通)不可見放之旨、以誓申合之条、急度可加勢、時宜和和田惟政可有演説、猶佐久間衛門(信盛)可申、恐々謹言、

十二月一日     信長

柳生新左衛門殿(宗厳)
      後宿所

――『柳生文書』織田信長朱印状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

といったわけで、足利義栄方もだいぶごたついていたのだが、永11年(1568年)2月8日将軍宣下がなされた。2月12日に勅使が派遣され、ついに京都に入らないまま、征夷大将軍が誕生したのである。

なお、よく見なくても儀式の傍ら山科言継がしれっと足利義秋方と連絡をしている。実は足利義輝春日局の足利義秋拠点となっていたようで、こので思いっき京都足利義秋の使者が匿われていたりしていた。

【史料】

八日、子、 日野内山形右衛門大夫来、従越州昨夕為武御使諏訪守右兵衛尉上之間可来之由申間、則山形所へ罷向、則兵衛尉対顔、当々可罷下之由有之、種々被仰下之様体有之、御内書以下如

就元之儀、至当下向者可悦入、為其差上俊郷、巨細者申合、猶義演説之状如件、

正月廿三日    (御判)

  山科殿

就御元之儀、至当可有下向之由被成御内書御下被悦思食之旨猶相応心得可申入之由被仰出、委細諏訪甚兵衛尉可被申不能、恐々謹言、

正月廿三日     義(判)   朝倉衛門

  山科殿

就御元之儀被成御内書、仍義御副状異儀御下向可為、為其被差上俊郷条委細可被申等之趣可然様御取成所仰、恐々謹言、

正月廿六日     信堅   飯

  山科殿

年吉兆弥可為御満足、仍御元之事来可有御座候、就其御装束同御具等尋申為可被仰付、被差上同名神兵衛、様体可被仰聞、将又御下向之儀内々如申談、奉期、被成御内書以義一札被申入条、々御下可然存、巨細者申含間、定可申入旨宜預御取成、恐々謹言、

正月廿七日     長(判)   諏訪信濃

   澤路殿

有之、様体懇に被示之、次帰宅了

伊勢福使横川掃部来、対面、就将軍宣下、告使出納右京進御倉々、下向富田、御昇殿と計申之々、奏者摂津守役也々、不参之間伊勢守に被仰出之、幼少之間同名可召進之、告使束帯持笏、乍立御昇殿と申之、奏者可畏歟否之由被尋之、庭上者立か礼也、可為色立之由返答了

高倉宰相息千菊丸今日、午時先罷向、理之具以下調之、未刻始、先卿着座、予、中納言、瀬宰相各衣冠、檜扇、持之、北面両三人、加冠卿別に着座、南面、次新冠出座、南面干、次新冠着円座、次布衣式部、持参冠、居営、次肥前帽子、雑具置之、次同名対馬守湯摺カ

摺器居置之、次極﨟理着円座、作法如常、次理先退、次加進立左、次右、三櫛宛かく、次複座、次理参進、櫛以下入之如元調之退、次本役人三人撒雑具、次新冠入簾中、内々着衣冠、新檜扇持之、卿再拝、次着座以下起座、次各以太刀体申之、次三献有之、相伴之衆予、庭田、瀬相、甘露寺、、少将従、極﨟等也ヽヽ初献雑煮、ニ献吸物、、半予起座、今晩宣下上卿参勤之故也、三献有之々、

今晩用方々借用袍、烏丸、裾、高倉、表、持明院、布衣狩衣、薮田、雑色帽子三、柳原、同狩衣、社、万里小路、等借用了、

将軍宣下、上卿出立要脚、伝奏三百請取之、澤路備前入遣之、同請取後日遣之、

請取申上卿出立要脚事

合三貫文者

右所請取申如件、

十一年十二月八日     山科   重延(判)

   勧修寺殿御雑

高倉へ罷向着束帯衣文入に申之、相沈酔、裾石帯玉、布衣之太刀持、借用之、自被宅参内、供布衣大澤兵衛大夫、帽子着澤路隼人太刀持之、小川七郎、其外叉丸、小雑色二本、白丁持、小者両人等也、次先予着宣仁門外官人に刻限問之、午刻と答、不審、次入宣仁門着座、四度揖如例、大納言座之程恩祝儀、次着端座、四度之揖同前、縿裾揚、次檜扇取出沓直之、次召官人敷軾、次頭中将吉書持来、置笏取之、付、次被覧之、如常気色、次頭中将退入、次以官人召弁、其詞右少弁宣教来、乍持笏以左手吉書遣之、弁被覧之、こなたへ気色、次如元調之退入、次撤軾、次起座退入、即又入宣仁門着座、中納言、揖縿裾、重通臣来仰、左頭臣義栄宜為征夷大将軍、兼又可聴着禁色、予頌、次起座着端座、揖縿裾、次召官人敷軾、次官人沓直之、同前、次宣教来、仰、左頭ヽヽヽ、同前、次弁退入、次以官人、召外記、外記召せ、大外記師廉臣来、仰、左頭ヽヽヽ可聴着禁色、揖頌、次退入、次召官人敷軾、次揖出宣仁門、四度之揖悉以如常、次男末御祝有之、被参之輩中山前大納言、万里小路大納言、予、勧修寺中納言、中納言、瀬宰相、右大弁宰相、重通臣、為仲臣、豊、宣教、以継等也、入麺有之、次各退出、今御警固伊勢内衆人計参、畠山斎被見物、御被下之々、見物男女驚者也、

供衆各晩食申付之、

出立之内十、内所へ正朔日之御最に進之、

禁裏御所之御撫物、予隙入之間申出以倉部安二位所へ遣之、

葉室出儀為見物々、又高倉ニ荷両種被送之

――『言継卿記』永十一年ニ八日

【史料】

八日。とんたのふけせうくんせん下あり。とうさい将けんふくにて。三かう三かまいる。御さか三こんまいる。おとこたちめしいたしはなし。こんれうのもの千まいる。うちなかはしへ三百。てんそうへニたふ。もとよりこのふんなり。なかたかしゝうとかきうとまへ〱もけんふくの日申入よし申て。御心えのよしおほせらるゝ。かんろし申さるゝ。やかて御れい申さるゝ。御みまにて御たいめん有。御さか御まへにていたゝかせらるゝ。

――『お湯殿の上の日記』永十一年二月八日

【史料】

十二日、山形衛門大夫所へ罷向、諏訪兵衛尉に対顔、条々示合之、一有之、御内書以下御返事共手日記等渡之、

御内書謹致拝見、就御元之儀可罷下之由承了、宜然之様可預御取合、尚委曲兵衛尉可被申入也、恐惶謹言、

二月十日     言継

   飯殿

就御元之儀御内書致拝見、同芳札委曲了、宜然之様御取合所仰、尚々巨細之段諏訪兵衛尉可有演説、恐々謹言、

二月十日     言継

   朝倉衛門殿

就御元之儀御内書謹承了、同督殿御副状委曲被見申罷下向申入、尚々巨細之段兵に申含間、可有演説可然之様、御取成所仰、恐々謹言

二月八日     言継

   飯殿

当年之嘉慶自他不可有休、抑就御元之儀、御装束以下之事存分注付進、同可罷下之由御内書、督殿御副状等承了、委曲兵へ申渡、尚以手日記間、以御分別宜然之様御取成所仰、何も罷下可申入、謹言、

二月八日     言継

   諏訪信濃殿

日記

 一、用意之物二千金銀之間歟

 一、自然之儀有之者妻子可召下事

 一、地行分名字地四ケ所、其外敷地等御付之事

 一、自坂本一条路次之調、香取に可被仰付事

 一、召具之者七八人又者十人歟之事、

院へ罷向、笋打乱営櫛申請取之、伏見殿へ持参、持明院に相渡之、次高倉へ罷向、小袖一、借用、今日富田へ被下向々、次長局へ罷向、一昨日安二位へ御祭料被遣之、之由御返事申入了、次内所へ立寄了、

晩食急之葉室へ罷向、供大澤兵衛大夫、小五郎両人計也、明日富田へ宣下の御体に可罷下之儀也、

――『言継卿記』永十一年ニ十二日

【史料】

十三日、、申刻小雨、自今日天一上、 朝食以後発足、山崎竹内兵衛佐所へ立寄、湯漬にて一有之、出之、天神馬場鳥居前より返之、未刻富田下着、則畠山へ可出仕之由申遣之、可参之由使有之、則出仕、供両人と秋田甚兵衛、弥右衛門等雇之、召具之参、御対面、安斎馳走也、申次荒川治部少也、太刀、にて御礼申了、御帽子組懸、香御直垂着御、可退出之処御有之、雖勘酌御所望之間、予一足仕了、御人数予、瀬宰相、籐宰相、飛鳥井中将畠山伊豆守、同孫六郎、見御末衆等也、簾中御見物也、次御盃三参召出、初献御供衆三人、ニ献申次、三献諸侯衆奉行悉也、次退出、下也、次畠山斎、同伊豆守、同孫六郎等へ礼に罷向申置了

――『言継卿記』永十一年ニ十三

なお、ちょうどこの永11年の1~2月足利義栄方のか(大館氏関係者?)が記した『永十一年日記』という史料が存在する。この日記を見ると、足利義栄営に与する公家たちが、とても気軽にやってきている。が、これまたなぜか2月13日の箇所だけ落ちてしまったのだが、2月8日の様子を見ておこう。

【史料】

八日 少降又 一千菊丸殿御元也、利殿也、加冠ハ則宰相殿也、御知音の公家衆為御見、式かふり、式帽子にて御入ある也、

将軍宣下在之、上ケイ山科中納言殿也、

役者田中殿中御門殿なと也、其外、官務なと之也、刻過也、

――『永十一年日記』永十一年二月八日

ただし、六角承禎三好長逸織田信長方から朝倉義景との婚姻を計っていると聞いた情報を伝えてきた等、両者が断絶していたわけではない。

【史料】

最前、 足利義昭幷北辺朝倉義景之儀、尾州織田信長与申合之処、北江縁辺可相談申間、慥尋遣、先有姿為可申、差越宇野賀守之条、可分別給儀肝要、猶駿河守(茂綱)三雲対馬(定持)下野(定秀)可申、恐々謹言、

二月十三日     承

三好日向(長逸)殿

     進之

――『佐藤行信氏所蔵文書』
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

三好長逸にも織田信長との回路があるなど、決して両者が全に敵対していくわけではなく、和の余地はまだあったのである(なお、この書状で三好長逸織田信長に取り成しを依頼しているのは斎藤利三である)。

【史料】

御状拝見せしめ、仍って上に就き、観音信殊に十文字送り賜わり毎度御懇志喜悦に存じ、別して秘蔵申すべく、遠路たるといえども相当の儀承り、疎意あるべからず、将又斎蔵具に示し給い、其れに就いて存分(大方)申し入れ、定めて演説あるべく、其意を得られ、尾州織田信長へ然るべく様、御取り成し肝要に、尚後音を期し、恐々謹言、

四月日     長逸

新治伊予稲葉良通殿

 御返報

――『保坂氏所蔵文書』
書き下し文・補足は天野忠幸によるもの

足利義栄と足利義昭の対立

永禄の変の後、足利義栄には以下の人々が仕えた。

一通りの容を整えた足利義栄の政権は、三好三人衆からある程度独立して機していたものの、右筆方奉行人を加えた決定があまり朝廷などにしていたわけではなかった。

一方で足利義昭のもとに有右筆方奉行人が集まっていき、幕府の機はほぼこっちに移っていった。

また幕府の有者たちも両者の争いの中独立として在活動を続けていた。

任など一度足利義栄に出仕したものの京都に戻り足利義昭寄りの中立になったものもおり、京都を実効支配していた三好三人衆らは然と足利義昭を支持する勢すら取り除くことはできなかったのである。

なお、『朝倉御成記』によると以下の人々が越前足利義昭のもとにいたようだ。

また、少なくとも諏方清長、諏方俊郷、飯尾盛就、飯尾貞松田秀雄、松田の6人の奉行人が加わっていた。

ちなみに、この頃足利義昭の政権構想として知られる外様衆リストが以下である。

こうして足利義栄足利義昭のどちらも勝ち上がらないまま、二人の将軍がそれぞれ活動を行うが、最終的に足利義栄死に、および織田信長足利義昭を引き連れた上によって、畿内の勢抗争は新たな局面を迎えていくのである。

足利義昭の上洛前夜

概要

殺!
斎藤龍興
勝ちました
織田信長
とかやってる間にそろそろヤバくね?
三好三人衆六角承禎
おっと?足元がお留守だぞ
三好義継
交渉なら任せろー
松永久秀
ククク…
細川刑部大輔
お前誰だ!?
松浦
フッ…対貴様用の切り札さ!
松浦光
クソ
松浦

本題

三好義継の離反後、三好義継に従軍していた松浦虎(松浦肥前守)らが8月16日三好三人衆側に離反した。これが脅威となったことから、急遽細川高国によって和泉上守護に据えられた細川宣の子孫・細川刑部大輔にわかに注されるようになる。結果、三好義継松浦光らは九条稙通と連携して畠山高政の下にいた細川刑部大輔支援し、永11年(1568年)ごろから和泉戦線が構築されだした(なお、細川刑部大輔の文書集を残した人間が途中から書状の中身を記さなかったため、ごろに織田信長がもうすぐ上すると浅井長政から連絡があったらしいことを最後に彼の足跡は途絶える)。

【史料】

陽之御慶重至、尚更不可有際限、仍行儀由断、其元御調儀肝要、委曲金山駿河守(信貞)可申、恐々謹言、

二月十三日     三好義継

細川刑部大輔殿
     御報

――『三浦文書所収関本氏古文書模本』三好義継書状写
字はによる補足

【史料】

就入之儀、進退事万端可被任松浦孫八郎旨、先僧被載可然自然有及異儀族者、相談三好義継申達守不存疎略様可上と意見、若旨者可 日本国中大八幡菩薩春日明神多武峯大明神殊氏者也、仍起請状如件、

卯月三日

細川刑部大輔殿

――『三浦文書所収関本氏古文書模本』九条稙通カ起請文写
字はによる補足

11年4月15日足利義秋が元して足利義昭となった。それ以前の3月24日にはシンパと化しつつあった二条晴良が加冠のために越前に行く話を山科言継が書き残しており、既に朝廷内で足利義栄に与し、足利義昭に与するのか色分けははっきりしつつあった。

概要

それはそうと、息子死んだが
朝倉義景
マジ!?
足利義昭
義昭様……下を手にお入れください
織田信長

(あいつの方がやれそうなのであっち行きます by 足利義昭

マジ!?
朝倉義景

選ばれたのは信長でした

本題

3月8日には朝倉義景母親が二位に叙され、5月17日には朝倉亭への御成が催されるなど、おおむね朝倉義景足利義昭の仲は良かったようだ。

とはいえ、永11年7月頃に織田信長足利義昭に上を申し出てきた(上越市史や愛知県史では永10年に定されているが、そもそも永10年の7月には一色龍興が滅んでないので永11年に定された)。

【史料】

元様子為可申上、態飛脚差下申、然者、路次申事、御・御も当日二日ニ参着申、二、三日程相、則 上意様へ懸御、一段入御意御感之旨被仰出、御朝倉殿各殊之外大慶者、可御心易、前波・山崎方先以馳走之様、織尾織田信長善悪濃州へ御被移 御座者、御入之御供速可申由、堅付切々言上付、義も納得之分相極今日十六日ニ濃州へ御動座ニ義定、随加州之儀も、去年以来事之様ヘ共、今互一札不相澄御成以前ニ如何共相調度由得共、今之分者、相極間敷由左様者、彼事も笑止之由淵各申、然者、被仰付御条書覚、上様へも朝倉殿も具申上、猶可然様御披露所仰、恐々謹言、

返々、其方へも相聞可申へ共、州より加州杉浦方へ以前仕合付、面々より差越書状、則上意さまへ参、移て差越申

七月八日     智院順慶

         新清右秀種

坂清介長実)

河豊河田豊前守長

     参御宿所

――『伊佐文書』新保秀種・智院順慶連署
字は上越市史収録時の補足

この書状に足利義昭はほだされ、ついに7月27日足利義昭織田信長のもとに移る。足利義昭朝倉義景の功績は認めつつも、あくまでも上を優先した態度であった。

【史料】

就入之儀、織田信長厳重言上之上、先到濃州可被移御座之由申間、近日発足朝倉別条二之覚悟、各申談馳走偏頼思食、具智(頼慶)可申也、

七月十二日     義昭御判

 上杉弾正少弼虎)とのへ

――『上杉文書』1136「足利義昭御内書」
字は上越市史収録時の補足

美濃定から電撃的な上であったが、その理由は濃尾の轢のガス抜きだったとも、足利義昭を招くことで、かつての上失敗の面を取り戻そうとしたとも。

【史料】

廿七日、今、、長賢坊発句之次ニテ仕とて、

君か世のよわひねのひ

と沙汰て、を愚身ニ可沙汰由申と見了、

一 醤大麦一斗一斗マメ五合入了、一段よく付了、近年アマリシルキ間、通ニヒカヘ了、ケコンヰンノヲ五別ニ人了、

十三仁王講在之、出了、

一 妙ヨリ五十二巻来了、少〻替了、祝著了、

一 アケタ五郎北へ去朔日ヨリ巡礼了、今日帰了、

一 方様去十六日ニ越前ヨリ江州浅井館へ御座ヲ被移、同廿ニ日ニ濃州へ御座被移了、尾上総守(介下同ジ)御入伴可申之由〻、

一 去廿六日、蔵院・吉祥院学侶施設トシテ河州へ被越了、一向宗導()場可有行之儀付先段閉門、三好守依別儀今不相立之間、 相了、幷寺門領押領之届被是為札入也、

一 廿七日入十兵へ被入移了、近日秋山可働之由沙汰之間通歟

――『多聞院日記』永十一年七月二十七日

この流れの中5月頃から松永久秀が勢いづき、筒井順慶三好三人衆方についている。

【史料】

表御越之儀、西辺可被成御取之由哉、彼寺中之儀者被差除、異議者、可為祝着、委曲薬師寺可被申分、恐々謹言、

         筒

五月十九日     順慶

篠右篠原長房

 御

――『薬師寺文書』筒井順慶書状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

概要

つか君いつ来るの?
足利義昭
織田信長
上杉謙信
ディーフェン
武田信玄
ディーフェン
本願寺顕如
お前許すと思うの?
北条氏康
謙信さては使えねえな?
関東の皆さん
たすけて
畠山義続

それはそれとして

そろそろ混ぜろよ
武田信玄
お前はあっちよろ
足利義昭
織田信長
は?
今川氏真
は?
北条氏康
ん?
徳川家康

本題

6月に入ると松永久秀足利義昭方として近江武士たちにあれこれ書状を送って下準備を始めた。

【史料】

方上下之衆、種々御馳走之由毎度之儀、不及是非、織尾織田信長出勢之儀、可為火急之由条、大慶存々御造作難申尽、恐々謹言、

六月十三日      久秀

多四兵(多羅尾俊)

 進之

――『大阪城守閣所蔵文書』松永久秀書状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

こうした結果、6月23日には摂津三好三人衆と甲賀衆の戦いが始まっていたようだ。

また、6月25日くらいに織田信長はすでに上杉謙信武田信玄と連絡し、背後を狙われないよう調整していたようだ。

【史料】

去き種々の御懇慮謝するところを知らず、仍って甲州より和あるべきの旨、度々申越され、然りと雖も今に入眼なく、随って越・甲の御間の儀、和談と申し暖い度くと雖も、辺測がたきにより、遠慮せしめ、併し賢意次第馳走いたすべきことにて、後に御返事の様子を承り届け、是より申し入るべく、委細佐々一兵衛申すべく、恐々謹言、

              織田信長

六月廿五日

直江大和殿

――『歴代古案』越後直江景綱宛書状写
書き下し文は織田信長文書の研究収録時

【史料】

去る六日の芳問、拝閲を遂げ、畿内幷に表の様子、その元説叵の由につきて尋ね承り、御懇情に、然る間始末の有る姿一書を以って申し、毛頭越度なきの条、賢意を安んぜらるべく、仍って条々御入の趣、快然の至りにに爾来疎遠の様に、所存の外に、甲刕方の間の事、方様御入の供奉の儀、肯申すの条、隣その妨を除き、一和の儀、申し合せ、それ以来は、駿両国との間、自他の契約の子細、之により寄除かざる為、然りと雖も万辺と前々相談の族は、別条なく、度々申し旧り如く、越甲の間、事に属し、互意趣を抛れ、下の儀、御馳走希所に、将又越中表に一起、その方御手前に歟、神保子の間、楯に及ぶの旨に、如何の哉、彼子の事は、信長ても疎略なきの条、痛み入る斗に、随って唐糸五斤皮一枚進せ、猶重ねて申し述ぶべく、恐々謹言、

七月廿九日     信長押)

 上杉弾正少弼殿これを進覧

――『志賀太郎氏所蔵文書』越後上杉輝虎宛書状
書き下し文は織田信長文書の研究収録時

6月26日三好三人衆近衛前久を襲撃する噂が出たため、その打消しに誓を出したらしいことを翌日に山科言継が記録している。

【史料】

小雨陰 叉迎に弥左衛門遣之、河にて々、頭に約束之間一包遣之、同真珠院に一包遣之、

真珠院法印慶典、予養子之事被申、年齢不当之間不可然由返答、雖然存分有之間、善悪望之由被申間同心了、盃出了、書状如遣之。

拙老養子之事雖其憚多、芳命之事間不及是非、成子之思不可有疎意也、謹言、

六月廿五日     言継

 真珠院法印御坊

午時罷帰了、軒以下来談如例、

局へ参、廿五日御法楽に故不参之由申入了、次若宮御方へ参、御人同松尾へ四今被帰々、次大典殿官女今人、絶寿、罷向各馳走、霍乱歟、やう〱心付了、次内所へ立寄了、

近衛殿近日雑説、三好日向守以下取懸可為御生之由聞、仍今日為御見舞参、公家衆以下悉被参々、御見参、御盃賜之、坊、祥寿院同参、昨日日向守、石成悦助参、一向不存之由以起請文申入々、

当番代倉部参了

――『言継卿記』永十一年六月二十七日

概要

それじゃ行くぞ?
織田信長
うん!
足利義昭

やってみた

お前どうする?
足利義昭
織田信長

寝返る寝返らない以前に、お前伊勢喧嘩売ってるよな?
あと浅井お前のところいるよな?

六角承禎

いざ出

が耐えてる間に何とか……(ゴゴゴゴゴゴ)
六角承禎
やあ
毛利元就
後ろからもなんか来たー!?ガビーン
三好三人衆
足利義昭の味方に来ました
毛利元就
ということだ
村上武吉
細川通董
ふっ、これで挟み撃ちも成功だな…
松永久秀

本題

この状況で六角承禎が対織田信長の最前線に位置付けられた。『信長公記』によれば8月7日より7日間織田信長六角承禎がしばらく交渉を行ったが決裂したため、8月中旬よりにきな臭い空気が流れだした。

【史料】

甲午、 三好日向守、同下野竿、石成悦助等江州へ下向、下之儀談合々、不知其故也、

局へ罷向、明日葉室へ罷間御暇之事内々申入了、次内所へ立寄了、次柳原一品へ罷向、松尾社縁起新作出来歟之由相尋之、所労気之間不清書之由被申了、

持明院、五等へ罷向、葉室へ之儀相尋之、持明可罷之由被申、

今日禁裏御懸之松木之、大典殿御局賜之、五に一有之、次門へ参、今晩禁中下若宮御方へ御盃被進々、中山、予、庭田、同頭中将、五以下被参、台物、ニ、卿之物二、容易了、

当番之間暮々参了、相番予、英両人也、御寝之後小御所御有之、若宮御方、門、殿門、大典殿、新大典殿、御人、中山前大納言、予、中納言、為仲臣、英等也、及敷盃音曲有之、御鐘了

――『言継卿記』永十一年八月十七日

三好義継8月14日織田信長から書状が送られている(ただし、この書状は自分に協するか探っていた六角承禎にあてたものという説もある)。

【史料】

方様足利義昭就 御入之儀至当被移 御座候、然者御供奉之段致御請、近日可為御進発刻御忠節肝要之旨、被成御内書、猶得其意可申入之由被仰出等之趣、可得御意、恐惶謹言、

八月十四日     信長

京大殿三好義継

 人々御中

――『丹波市教育委員会所蔵文書』
字は戦国遺文 三好編収録時の補足
六角氏編では左京大殿六角承禎となっている)

8月には既に本寺宛てに細川藤孝三淵藤英の2人の使者を佐和山に送る旨の書状が足利義昭からも送られていた。

織田信長の傍らで松永久秀毛利元就らと連携を進め、東方から侵出を始めた織田信長挟み込みを進めていく。9月27日には村上武吉細川通董らの連合軍が備前の本太を攻撃し、三好長治臣の香西又五郎勝利している。

【史料】

今度者別之気遣分、覚悟依心知故、敵退散、芸州江茂其旨具申下州衆歴々討果、自他覚大慶吉田ニも州行被驚入、人数可差上旨不及其段討果条、一入、猶自是可申、恐々謹言、

九月廿七日     通房

村上越前殿吉利)

――『遺事』某通房書状写
字は戦国遺文 瀬戸内軍編収録時の補足

【史料】

児嶋本太之儀、千万御心許存処、々被得太利、今度人、為発香西数輩被討果之由、御太慶察存、仍太刀進之、御祝儀計、猶和泉守可申、恐々謹言、

九月廿九日     小早川

村上掃部殿(武吉)
     御

――『屋代島村上文書』小早川隆景書状
字は戦国遺文 瀬戸内軍編収録時の補足

【史料】

元太搦警固之儀付替相触条、々付可遣、不可有緩油断ハヽ日限可為相違之条、則時可触遣之、謹言、

九月日     小早川 御判

磯左(磯兼
井又井上忠)

――『萩閥閲録磯兼小早川隆景書状写
字は戦国遺文 瀬戸内軍編収録時の補足

【史料】

至今度其表州衆取懸処、堅固被遂防戦、剰敵被仕崩、数人被討果類断、中〱不及申方之儀、則得其心、備中之衆又者、至中罷退被相催、如成立、本望村上武吉江茂々可有御心得、猶使僧可申、恐々謹言、

十月一日     毛利元就

元太御衆中
     進之

――『宮村上文書』毛利元就書状
字は戦国遺文 瀬戸内軍編収録時の補足

【史料】

今度州衆罷渡之条、心元存処ニ、敵被切崩、宗徒之者被打取之由、御高名、当之御悦、是又不及申、々も頓可罷上之処、小早川人数等可被仰付之由条、延引上者人数之儀も不入事条、先々自身可被罷上二郎兵衛左衛門佐介罷上条、相談ハヽ、以之表之儀、被仕取様、行干要、何茂罷上条、以面可申、注進之儀、追々至中途茂可承、恐々謹言、

十月一日     村上武吉

越前殿(吉利)     赤間関より

尚々備中衆之手持いかゝや、承度、委弥左衛門可申

――『遺事』村上武吉書状写
字は戦国遺文 瀬戸内軍編収録時の補足

【史料】

四日御状十一日到来、被見、仍三好中構悪逆、都鄙乱世、何も調儀之間、急度打果相静可申、将又児島表如御存分被申付之由、御名誉、如承、向儀之別可申承之所存、自是可申処、遮示給、喜悦之至、恐々謹言、

十月十五日     久秀

村上掃部(武吉)殿

 進之

――『屋代島村上文書』
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

【史料】

今度元太為在番申付之処、州衆取懸、別被尽粉、敵切崩、為香西又五郎宗徒之者共、不其和知討果幷頸二被討捕忠義、仍児嶋表為忠恩一所可進之、弥馳走肝要、仍感状如件、

十一年

 霜月     武吉判

 越前(吉利)殿

  進之

「     村上掃部頭武吉

 越前殿

 進之

――『文書』村上武吉下案
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

【史料】

児嶋落着之儀、御存分之通、慥承知今度御忠義与申之、不可有余儀、何茂毛利元就元申聞之、一途之儀可相定、乍等不可有沙汰、為其先以一通、恐々謹言、

十月十七日     

村上掃部殿(武吉)
     御

「  (表ウハ書)(切封引)     小早川隆景

 村上(部)頭殿(武吉)
       御所」

――『屋代島村上文書』小早川隆景書状
字は戦国遺文 瀬戸内軍編収録時の補足

以下は山口県史では元2年(1571年)とされているが、天野忠幸はこの戦いの文書としている。

【史料】

八月州其外諸人罷出刻、被残置衆則取懸及一戦、数多被討捕之由、具申上処、 御感之条被成 御内書、御面之至、猶相心得可申由被 仰出、恐々謹言、

十一月六日     細川

下野殿細川通董

――『下関文書館所蔵細川文書』細川藤賢書状写
字は山口県史収録時の補足

【史料】

今度者備前児嶋之由、、弥讃表之儀計策、急度抽忠節者可有恩賞、猶右頭(細川藤賢)可申也、

十一月廿四日     義昭 御判

細川下野守とのへ(通董)

――『下関文書館所蔵細川文書』足利義昭御内書写
字は山口県史収録時の補足

足利義昭の上洛

概要

とりあえず四国に撤退!
三好三人衆
うっ…
足利義栄
息子死んでるー!?
足利義維

ひとまず終戦

勝った
織田信長
幕府復活
足利義昭
織田信長
幕府復活
松永久秀
三好義継
畠山秋高
和田惟政
池田勝
伊丹
足利義昭
織田信長
…だいぶメンツ変わってない…?
織田信長
…うん…
足利義昭

今度こそ幕府復活!私達がんばります!

本題

かくして挟撃された足利義栄方は六角承禎前線を援護できず、離反者を多く抱えた六角氏は一で崩壊した。

【史料】

己未、、八専、 三条大納言儀教院十七回忌中院儀被呼之間罷向、錫遣之、三条内府入、予、覚勝院僧正中院叉、甘露寺、白川従等相伴、懺法有之、二尊院長老、般舟院西堂、山寺竹中西堂以下、以上十二人也、斎有之、未刻各罷帰了、

江州へ尾州之織田上総介入、昨日美作責落、同観音半計落々、自焼々、同長以下十一二落々、

太刀二台所へ預遣之、唐櫃卿補任、御方、料、楽方革蔵、手本、音曲本、双、双入革ご、同又二、以上十、内所へ預遣之、

――『言継卿記』永十一年九月十三

【史料】

申、、 弥左衛門、下女等南向迎に遣之、又所望、未刻帰、革籠三、被持預之、明日可被帰之由被申、十五本到、明又可遣之、

六角紹貞々、江州悉焼々、後藤長田進藤、永原、池田平井、九里七人、敵同心々、中辺大騒動也、方大概之物内所へ遣之、

自禁裏御申に可参之由有之間暮々参内、然処従方々注進、尾州衆必定、倉部、薄等遣、相残雑具内所台所等へ刻取寄了、今三間御、若宮御方、豊被遊之、出御、伏見院宸筆往生講私記被一覧、予読之、今当番持明院宰相、以継 英代、両人、其外予、豊計也、台物又被出御賜之、音曲有之、半鐘以後退出了、豊御添番々、終中騒動、不可説々々々江州悉落居故々、

――『言継卿記』永十一年九月十四日

9月1日には既に足利義栄らは波に連れ帰らされている。

【史料】

参議従二位藤原氏九月富田供奉。州下向々。

――『卿補任』

三好三人衆はこれを受け、9月16日三好宗渭、香西元成、松浦虎らを木に向かわせ松永久秀にあたらせた。

【史料】

急度申、木を拵、松浦肥前守虎)可入置覚悟処、肥存分之儀在之ニ付て、不被罷越て打入、其付其元御(要)之由々稲て被打出可給、為其一筆申等ニ可被仰置、急不能、恐々謹言、

九月十六日     釣斎宗渭

狛吉(狛吉三郎
    後宿所

「(切上書)狛吉参     釣

――『小林凱之氏所蔵狛文書』三好宗渭書状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

石成友通が勝を、三好長逸芥川を、篠原長房が越を防衛したようだ。

一応『足利義昭記』、『言継卿記』、『多聞院日記』、『お湯殿の上の日記』、『信長公記』という同時代に近い史料五種で上の日時を見ていくと以下の通りになる(『信長公記』は山に入ったあたりからずれていく)。

日時 足利義昭 言継卿記 多聞院日記 お湯殿 信長公記
9月7日 平尾を敷く 平尾を敷く
9月8日 高宮を敷き佐々木四郎と敵対 高宮を敷き、2日置く
9月10日 織田信長近江に来た
石成友通坂本
9月11日 近江で合戦があり、石成友通が戻る
9月12日 攻略 木下藤吉郎丹羽五郎衛門浅井新八郎らが攻略
9月13日 観音寺攻略 観音寺攻略 足利義昭の上が近く、多聞山に注進が来ている 観音寺攻略
9月14日 六角承禎 近江で戦いがあったようだが勝敗がわからない
三好宗渭、香西元成が木に入
不破河内足利義昭を迎えに美濃西立正寺へ
9月16日 の人々が西に移動
9月19日 六角承禎が負けた情報がようやく入る
9月20日 織田信長明日動き出す知らせ
9月21日 織田信長が24日に出立を延期する知らせ 3日間の下の祈祷を始める 柏原上菩提院に着座
9月22日 先鋒が勢田を通過 桑実寺へ御成
9月23日 三井寺へ織田信長が行き、既に先鋒は山科に 細川藤孝和田惟政近江から軍勢を率いて上
9月24日 織田信長が勢田を通過 丹波方面から本が足利義昭方に参戦 織田信長大津 織田信長が守山に
9月25日 足利義昭三井浄院に到着 織田信長足軽がすでに撃されている 足利義昭大津織田信長清水寺 足利義昭から雁を贈られる 志那・勢田あたりで逗留
9月26日 足利義昭清水織田信長が東福寺でを構え、等で細川玄蕃頭(細川国慶息子か?)、石成友通らと合戦し、山を席巻 細川藤孝・明印らが参る一方、織田信長石成友通らが合戦 筒井順慶マメ山、三好らが引き揚げ
などが焼かれる
足利義昭清水寺まで来ている
織田信長から警固を命じられて細川藤孝(この日記では三淵認識)がやってくる
三井極楽院に着
9月27日 芥川三好長逸 あちこちに戦火が拡大しつつ、勝は堅固なので和の調略も行われていた 石成友通が勝で敗走した情報を入手 足利義昭三井浄院に着
9月28日 足利義昭芥川に入 西岡が焼け、足利義昭山崎に入り、芥川に戦火が拡大 織田信長石成友通戦闘開始
9月29日 摂津河内の有者達が集まり、淡路にも渡するか話が出ている 足利義昭天神馬場に進み、河内にも戦火が拡大 松永久秀が広保子との織田信長に祝言と称して人質に 石成友通が降参
9月30日 足利義昭芥川に入 摂津や高屋あたりも焼ける 織田信長らは山崎に入し、細川昭元三好長逸篠原長房山らが撤退
10月1日 足利義昭が十尾らに下知
10月2日 芥川から上の気配があり、池田勝正、三好長逸らが降参 松永久秀将軍に御礼 池田勝正との戦い
10月3日 足利義昭に寺門が礼
10月4日 竹内秀勝、畠山高政、畠山秋高松永久秀池田勝正らが芥川
10月5日 松永久秀昨日足利義昭織田信長に礼に行き、大和を与える命がくだされたため、松永久秀大和軍事活動を展開
10月6日 松永久秀筒井順慶戦闘
摂津池田勝正が降参し、山摂津河内・丹波・近江がすべて足利義昭方となる
10月7日 足利義昭の軍勢が大和に来る知らせ
10月8日 松永久秀らと大和攻略和泉も手中に 飯盛山三好義継が入り、松永久秀もこのを訪れる 織田信長からが贈られる
10月10日 細川藤孝和田惟政佐久間信盛らと二万で大和に入る
10月14日 足利義昭が上し、本寺に 足利義昭が上し、本寺に
10月15日 織田信長足利義昭に帰を進める
10月16日 足利義昭細川亭に 上京細川亭に六条から足利義昭が移る
10月18日 足利義昭征夷大将軍 将軍宣下
10月19日 宣下のお礼に太刀などが贈られる
10月20日 参内御取置
10月21日 織田信長から明院良政・丹羽長秀派遣されて、雁などが贈られる
10月22日 足利義昭が参内 足利義昭が参内 足利義昭が参内 足利義昭が参内
10月23日 足利義昭織田信長と観 足利義昭織田信長と観 昨日の参内の礼等で勅使が
10月24日 昨日松永久秀竹下らが上し、加えて18日には足利義昭が入しておりともにを見たことを知る 織田信長が帰の申し出
10月25日 14日に足利義昭が上しており、16日に細川屋形に入り、22日に参内していると訂正 足利義昭から白鳥が贈られる 御感状
10月26日 織田信長近江 足利義昭から参内のお礼が贈られる 織田信長が守山に
10月27日 織田信長柏原上菩提院に宿泊
10月28日 織田信長美濃 織田信長岐阜

9月の中ごろから足利義昭方が畿内を席巻していくことになる一方で、足利義栄公式には病死し、勢四国に後退したが、以後瀬戸内海となって勢は保持されたままとなっていった。また六角氏もこれまで落した時と同様、近江で蠢動し続けた。

【史料】

九月日、征夷将軍薨給、腫物、同入殿以下出奔州、

――『卿補任』

【史料】

頭義栄将軍 子孫居那東、左頭義維男、

十一年九月卒、法名徳院玉山、

一 十月一日に方様。讃州御曹司様。三好十郎殿皆々篠原右京進調儀して州に先々御下向也。

――『諸寺過去帳』中高野過去

なお、『卿補任』を見ると足利義栄とみなされた公家京都を追われている(なぜか近衛前久も巻き込まれ、山科言継のようにうまく秤にかけた人物がしれっと生き残っている)。

なお、ちょうどこの時期に女房密通事件で久我通俊(久我通堅)(近衛前久のいとこ)が追い出されていたので、足利義昭が上したどさくさ紛れに父親久我通が復権させようとロビー活動が行われたが正親町天皇に許されなかった、といった新政権立にかこつけた色々は他にもあった。

足利義昭方は10月18日醍醐三淵藤英を築こうとして10月27日火災に巻き込まれたなど、外に拠点が設けられていったようだ。

また、9月14日には朝廷から甘露寺経元、万里小路惟房が織田信長達に派遣されている。

【史料】

の由既に聞に達す、其に就きて、京都の儀、諸勢乱逆なきの様に下知を加えらるべし、禁中下にては、警固を召し進らしむべきの旨、天気に依って執達件の如し、

九月十四日     左中弁経元

   織田弾正忠殿

――『経元卿御教書案』
書き下し文は織田信長文書の研究収録時

【史料】

出張重に、其に就きて綸旨をなされ、京都の儀、禁中御警固以下堅固に申し付けられはば、悦び思食さるるの旨仰せ下され、猶、明院申さるべく、巨細磯両人に仰せ含め也、謹言

九月十四日     惟房

   織田弾正忠殿

――『経元卿御教書案』
書き下し文は織田信長文書の研究収録時

ここにあるように畿内での藉を防ぐために織田信長は片っ端から禁制を出しまくっている。そしてもろもろが終わると朝廷を筆頭に各所に朱印状を出しまくった(後者は煩雑なので省略)。

【史料】

禁制

一、当手軍勢濫妨・藉の事、

一、執、放火之事、

一、伐採木幷非文之賊申懸事、右条々、違犯之輩者、速可処厳科者也、仍執達如件、

十一年九月日     弾正忠(朱印)

大量にあるので省略
※出典は織田信長文書の研究

なお、この時期に松永久秀宛てに今井宗久の揉め事を解決する書状を出しているが、この段階ですでに木下秀吉が奉行の一になっている。

【史料】

今井宗久と武野新五郎との事の儀、信長異見を申すと雖も新五郎異儀に及ぶにより、一円宗久に申し付けられ、然らば今井御馳走あるべきの旨、申し入るべきの由に、恐々謹言、

十二月十六日

          木下藤吉郎秀吉押)

          中川八郎衛門尉重政(押)

          好斎一用(押)

          和田賀守惟政(押)

松永弾正少弼殿
   御宿所

--『坪井雄氏所蔵文書』松永久秀木下秀吉連署副状
書き下し文は織田信長文書の研究収録時

足利義昭幕府誕生

概要

パパ///
足利義昭
えっ?
織田信長
んじゃ、帰る!
織田信長
ええー……
足利義昭
チャンス
三好三人衆

あれあれ?軍事がスッカラカンもしかして、大ピンチ

留守ですかー?
三好三人衆
なんか来たー!?
足利義昭

(なんかかっこいいBGMが流れる)ブッピガンドカッバシッバシュシュ

わーぎゃー
雑兵
……あれ?勝った?
足利義昭

よくわからないけど、勝っちゃった

ごめん……待った?
織田信長
……いいよ?
足利義昭

本題

12月には松永久秀筒井順慶に優位に軍事行動を展開し、信貴山も奪回している。12月24日松永久秀岐阜に向かった。この隙をついて永11年末に三好三人衆が挙兵した。ちなみに、『信長公記』によると一色龍興ら後斎藤氏の残党も入っていたそうだが、事実かは不明。また、後世の系図には三好に落ち延びていた小笠原貞慶も参戦しているらしいが、事実かは不明。

【史料】

五日、買初蔵開如常、蔵食了、和

一 御神楽始在之、天気快然、

一 去廿八日歟、州江()原ノ松永ヨリ池田丹後・寺町以下余入置之処、三人衆ヨリセメ、八十余討死落居了、則池田丹後・寺町死了、寄衆ニモ十川介・松浦篠原玄番(蕃)討死了ト〻、実否不知、近日人衆打出之旨とり〱沙汰之、留守故歟、帰あらは申事可止哉、

一 今ノ時分ニ見之、当山ノ本営ノ上より西へ立了、北ニキスチ、南ニキスチ一在之、一ツ

――『多聞院日記』永十二年一月五日

12年(1569年)1月4日になり、突如として岐阜との通路を遮断すると、1月5日に本寺を攻撃する。『信長公記』によると足利義昭の周囲にいたのは大身は細川藤賢くらいで、後は明智光秀足軽衆、若狭武田氏の配下ら程度の寡兵だったようだ。実際『言継卿記』にも足軽衆と詰衆くらいしか出てこない。『綿考録』によれば細川藤孝もいたらしいが、『言継卿記』では三好義継池田勝正と出てくるので増援だったかもしれない。当然『松井譜』によると松井康之もいたらしいが、事実かは不明。

かくして、1月6日には三好義継が、1月10日には織田信長松永久秀も援軍に駆け付けるが、三好三人衆は引き揚げた後であり、打撃を与えることができなかった。

とりあえず足利義昭体制はこれを大勝利と宣伝した。加えて、毛利元就大友宗麟護院澄、久我通が派遣されて、両者を和させることで足利義栄残党にあてようとしている。

【史料】

後、至当(本寺)雖馳上、逆徒等及一戦悉討果下属本意訖、然者少々四国逃籠敵在之間、節急度可退治由、対元就元申遣、相共申談、戦功肝要、為其差下柳沢(信政)、、委細護院門跡可有演説、猶信恵、長可申也、

正月十三日     (義昭)

吉川駿河守とのへ

――『吉川文書』81号足利義昭御内書」
字は大日本史料収録時の補足

【史料】

芸州間和儀、久我(宗入)殿度々申、仍今度入以来、逆徒等起処、即果、属本意訖、然者敵少々逃退四国、退治之間、急度閣私意趣、可抽戦功事肝要、猶愚(宗入)可有演説也、

正月十三日     (義昭)御判

大友衛門督入(宗とのへ

――『大友記録足利義昭書状写
字は大日本史料収録時の補足

【史料】

之御吉兆重不可有尽期、仍今度敵出張之処、織田信長則被馳参節、濃州へ罷下之条、、然ニ各懸合、及一戦切崩、数千人被討捕、相果方様被相、定如御存分可被仰付与織田信長被仰通儀之段、御馳走者、下可為御静謐、委曲山)日乗上人可為演説、恐々謹言、

正月十九日     久秀

吉川駿河守殿(元
     後宿所

――『吉川文書』松永久秀書状
字は戦国遺文 三好氏編収録時の補足

【史料】

今度徒等起処、即織田弾正忠信長馳参、悉属本意、今在、次越・甲令和与、弥下静謐馳走織田信長可相談儀肝要、為其差下智(頼慶)也、

二月八日     足利義昭

上杉弾正少弼とのへ

――『越佐史料』4-717 足利義昭御内書
字は上越市史収録時の補足

三木良頼から上杉謙信に宛てた書状によると、足利義昭を振るう戦だった模様。ただし、中国四国も帰してるなどだいぶ描写がマシマシになっているので、事実かは不明。

【史料】

「(瑞裏)(切封引)」

事長々敷申様、雖如何、遠路御尋之義条、如、如仰、杳絶音問処、急与示預、本望

一、其表之儀、本(繁長)逆心付、去初ヨリ御在陳、至手透被取詰、外輪悉被為破却、落居不可有程之由、、就其伊達宗)会津名氏)相頼、懇望由、承、左者、在赦免可然歟、御思慮

一、駿・甲取合之義、尋承、信州通路一之、慥成儀不相聞、乍去、当口取沙汰之武田信玄以調義、駿府へ被相働、悉放火今川氏真遠江之内懸之地入之由、然処、北条氏政為後詰被相働、甲府ヨリ通路取切、在陳之衆難儀間、新ヲ切、雖通融、曽自由之由、近日之取沙汰、武田信玄被入間、敗北之由、東美濃遠山人数少々立置、被者共帰、申鳴分如、必定歟、

一、岐阜・甲州挨拶之儀、甲府ヨリ使者付置、可有入、其子細者、対駿河織弾忠、遺恨在之事間、面向可為一義熟之義、不可有之歟、辺之儀者、不被混善悪、被対岐阜御等閑可然、別申通事条、不残心底申事

一、京都合戦之義、自是差上使者、一両日以前下、旧迫、諸出張州之内原之地、三好(義継)ヲ出衆責崩、正月四日表へ相働、 方様御座所六条へ責入、左処、 上意御手前、数度被及御一戦、摂州之住池田伊丹為御味方、西表ヘ相働所ヲ、三好三人衆切懸即時両人之衆ヲ切崩処ニ、上意被寄御、御自身被切懸ヘハ、天罰哉、随分之者共悉被討捕、其侭敗北、不移時日織弾忠被走参、五畿内之義不及申、四国中国残所属御存分、諸大名在之由、当分者、 上意御在所之普請被申付、漸出来之由之義、今度諸人仕立間、不可有発向之処、向後人衆許容有間敷之由、色々侘言付宥免、寔寄(奇)妙之仕立、不及是非義

一、切々可申通処、去年及両度、以使者処、越中金山在不審、中途ヨリ差返、不及キ、路次不成合期故、万端疎意之、先本意処、遠路猶以示預、快然期来信条、不能、恐々謹言、

二月廿七日     三木良頼

山内殿上杉輝虎

――『越佐史料』4-719 三木良頼書状
字は上越市史収録時の補足

また、『宗及他会記』によると、1月12日の住民が報復を恐れて逃亡したようだ。

【史料】

正月十一日 はかた宗寿会 了 叱 宗及

炉 つり物 手

床 絵 カケテ、 、 台なし、

去六日ニ、河、 方様衆与三好方一戦アリ三好方打マケ州従出申、依其故、中従十二日サワギ出也、去年十月ヨリホリ矢倉アレ、事外用意共イタシ専、中之女子大坂平野ヘ落シ申也、

――『宗及他会記』永十二年一月十一日

以後2月3月にかけて、和田惟政佐久間信盛酒井政尚、森可成蜂屋頼隆柴田勝家竹内秀勝、結城忠正、野間康久の足利義昭幕府の構成員から形成された連合軍が畿内を再制圧した。

日時 出来事 ソース
11年
11月22日
足利義昭が勝軍山に営累を築く 多聞院日記
11年
12月25日
松永久秀岐阜 多聞院日記
11年
12月28日
三好三人衆攻略 多聞院日記
12年
1月4日
三好三人衆が勝軍地蔵や東山を攻撃 言継卿記
12年
1月5日
寺の戦い 言継卿記
多聞院日記
12年
1月6日
三好義継ら援軍が三好三人衆を包囲し、の戦いで辛くも勝利
(なお、情報が錯綜しまくっているため死んでない人間が死んだことになっているのは世の常である)
言継卿記
多聞院日記
12年
1月10日
織田信長松永久秀が駆け付ける。 言継卿記
12年
1月11日
連合軍が活動を開始し三好三人衆に協した八幡を破却 二条宴乗記
12年
1月13日
毛利元就大友宗麟和睦の使者 吉川文書等
12年
1月14日
織田信長足利義昭によって殿中御掟が制定 織田信長文書
12年
1月16日
織田信長足利義昭によって殿中御掟に追加が行われる 織田信長文書
12年
1月19日
松永久秀吉川元春に先の戦いを報告 吉川文書
12年
1月27日
二条の造営開始 言継卿記
12年
2月1日
連合軍が金剛寺を詰問 南行雑録
12年
2月10日
織田信長直江景綱上杉謙信武田信玄の和について聞いている 上杉文書
12年
2月16日
連合軍が本寺に特権を与える 寺文書
12年
2月26日
佐久間信盛柳生宗厳に礼を言う 柳生文書
12年
2月27日
三木良頼上杉謙信に各情勢を伝える 越佐史料
12年
3月2日
連合軍が多田神社に免除を与える 多田神社文書
12年
3月3日
二条の造営に戸石が運ばれるパフォーマンス 言継卿記
12年
3月27日
三好義継足利義昭が婚礼 言継卿記
12年
4月7日
足利義昭織田信長武田信玄北条氏康と和して上できないか上杉謙信に確認している 上杉文書
12年
4月8日
イエズス会が許される ルイス・フロイスなどの記録
12年
4月14日
二条完成 言継卿記

概要

契約して斯波氏になってよ
足利義昭
なんかやだ
織田信長
そんなことよりあんた
私がいない間にダラダラしすぎじゃない!
そんな紀の乱れ認めませんよ!
織田信長
……なんかゴメン
足利義昭

こうして、幕府は再建されていくのでした

たちの下静謐はこれからだ!
足利義昭
織田信長

To be continued

本題

一方、二条が作られているが、松永久秀の官途が弾正少弼から山守になったり、三好義継足利義昭を娶ったりと、足利義昭体制の構築が図られたのである(なお、結構な頻度で『細川両家記』のコピペ畠山高政が守護になったと雑りされるが、守護として機していたのは畠山秋高の方である)。

一方この間に織田信長足利義昭との間で殿中御掟が制定された。この文書はもはや関係ない気もするし駄に長いので割愛。なお、それは幕府の先例を底的に順守するものであり、実利を志向した足利義輝の路線が否定されたとも。

5月頃になると毛利元就大友宗麟の和が全く進まない原因として、山名祐豊と彼の支援する尼子勝久を付けられて、8月13日頃まで木下秀吉が出兵していた。加えて8月には北畠具教が攻撃され、10月4日織田信雄の養子入り等が決まって滝川一益等が伊勢方面に回った。

そして開けて永13年(1570年)、織田信長から明智光秀日乗を介して五か条の条書が定められた。ここまでは、まだ、足利義昭幕府を今後どうするかを互いに探りあっていたものであった。

ちなみに、結局上を見た限り、足利義昭幕府の構成員は以下になったようだ(誤解されがちだが、朝倉義景はそもそも呼ばれていない)。

【史料】

十五日 大坂へ加ミ殿下向。本願寺児徳度て、御跡御徳度シヤウノヤウ承度とて、御門へ被申入被仰上、ヲクドンジキ皆具被下。専当差衣上借用て下。ホウ身衣とてヌキキを差金剛院御役ニ御加行時御供間、進之也。トウシン衣、大坂へ不存由之間、如。」ネハン参。北大・進左学同て参。

坊、ヨリ被上了。夕より御番。喜院廿首哥下書沙汰。信長付、書立。昨日京都北大へ下。

信長可有立衆中事

北畠大納言殿同北伊勢諸士中 徳三河守殿同三河遠江諸衆 姉小路中納言殿同飛騨国衆 山名殿子同分国衆 畠山殿同在国衆遊佐河内

三好京大殿 松永同和州諸

同右衛門佐 松浦五郎同和州諸

別所三郎播磨国衆同孫左衛門同同名衆

丹波国衆 一色京大殿同丹後国衆

武田犬丸若狭国衆 京極殿浅井備前

同尼子 同七佐々木 同木村

同江州南諸衆 紀伊国衆

越中神保名代 州名代

甲州名代 淡州名代

因州武田名代 備前州名代

池田伊丹河・有右其外其寄ニ衆として可申触事

同触状案文

禁中後修理御用其外為下弥来中旬可参条、各御上、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引。恐々謹言

正月廿三日     信長

依仁可有上下

遊左よりナさゝげ所望来。一つゝミ進之。あ(しばらく食い)番参。

――『二条宴乗記』永十三二月七日
※かなり言い訳をすると全文はビブリア版と日記抜書版をいい感じにキメラさせてもらった

リスト化してみると

なお、2月3日水野信元が上したり、3月16日太田兄弟宇喜多和泉河内の勢が上したっぽいので(どちらもソースは『言継卿記』)、実際に来たやつはいたっぽい。

かくして、若狭攻撃に連動した信長包囲網形成につながってく。

その後の伏線

概要

つか足りねえな、せびるか
足利義昭
えっ?
織田信長
お前らよろ
足利義昭
先代には恩あるし…
相良義陽
さすがに大勢は決まったかな?
島津義久
偏諱とかもういらね…
伊達輝宗
うわ、偏諱ありがてえ
大崎義隆
あげるし屋敷くれ
土佐
からきました
葛西
ここが
南部信長
…なるほどな…
織田信長

とか

ところでまた手伝ってほしいんだが?
足利義昭
織田信長
(チラッ…)さすがに理があるかと
毛利元就
ヒャッハー!
大友宗麟
七難八苦!
尼子勝久山中幸盛
毛利とかない
浦上宗景
なー
山名祐豊
親父かくまった話落とし前つけんかい!
赤松
だからってこれは戦争じゃろがい!
赤松政秀
伊予に突撃だー!
一条兼定
たすけて
河野通直

とか

はあ…つら…におろ…
朝倉義景
ぎゃああああやめるバブ!連れてくなバブ
武田元明
おい
足利義昭
織田信長

とか

言う通りにしたらなんか、みんなカンカンなんじゃが
武田信玄
信玄殺す
北条氏康
信玄殺す
上杉謙信
(信玄いつか殺す…)
徳川家康
お前何やってるの!?
足利義昭
織田信長

とか

……
三好三人衆
も来ないな……
三好三人衆
なー
三好三人衆
まあ、このまま耐えれば……
三好三人衆
あ、あっち行くんで…
安宅太郎
は?
三好三人衆

もうちっとだけ続くんじゃ

変以後の主な登場人物

足利義昭側

足利義昭
足利義輝。二重政権論とかも出てきたけど、京都に全然いられなかった意味ではこれまでの将軍同様戦国期の室町殿感がある。
大覚寺義俊
慶寿院の。つまり近衛。死ぬまでは中心人物だった。
三淵藤英
幕臣。実は伊勢貞孝の反乱に加わってたので足利義輝からはぶられてた説がある。
足利義昭に味方したことで急速に頭を現した。
細川藤孝
三淵藤英。畿内情勢が整理された結果、10年代に養子入り先が間違って記録された説が出てきた。
一色藤長
幕臣。足利義昭に味方したことで急速に頭を現した。後年ポカしてその後がよくわからなくなるけど…
摂津晴門
幕臣。足利義輝伊勢氏亡き後の重役を任せられた。途中からこっちに合流したため、足利義栄将軍就任時に摂津氏が担ってきた先例が無視されている。
和田惟政
甲賀の土足利義昭助けて以来、ずっと付き従うこととなる。
上杉謙信
来るって言ってずっと来なかった人。いや、来いよ。
朝倉義景
途中までを貸してた人。なんで後年逆襲されたのかはわからん。
畠山秋高/畠山政頼
三管領の末裔。ずっと頑ってたのに、10年代研究書にすら名前間違えられたりと間違えられたりしてる人。
遊佐信教
畠山秋高臣の河内守護代。正直まだ若いためあまり表には出てこない。
安見宗房
遊佐信教臣。安上宗房でも安見直政でもねえ!河内守護代でもねえ!
正直彼の事績を正しく認識しているかが、研究者としての信頼性々がどうとか。
細川藤賢
典厩かつ細川氏綱流の後継者。
臣ともども々と三好を離脱し、松永久秀行動を共にしていく。
武田義統
若狭守護。足利義輝義兄弟ではあるが、既にガタガタのまま若死に。
武田元明
武田義統息子ぶっちゃけただの幼児。
バブだから担がれ、バブだから連れてかれた。最期まで不幸そのものだった人生を送ることとなる。
畠山義続
能登守護。来るって言ったけど、自分が追い出された人。
追い出された後戻るために片っ端から手を組んだため、純にこっちかは怪しい。
織田信長
いつもの。なんか知らないけど白羽の矢が立った人。
徳川家康
実はずっといた人。史料が見つかればもっと…。
浅井長政
ずっといましたが。
京極高吉/京極高慶
四職の末裔で浅井の名上の君……系譜関係も本名も実はよくわかってないけど……。
いたよな……?いや拠はないけどたぶんいた……よな?
毛利元就毛利輝元
いろいろな偶然が重なってこっち側に来た人。
細川通董
備中守護……を名乗っているの人物(でも周囲みんな信じてるしまあいいか)。
赤松政秀
赤松氏本家と違って全なこっち。
河野通直
伊予守護。ただの幼児であり、来島村上通康亡き後の平岡一門と村上武吉らが差配する河野氏家中にかなり振り回された。
足利義昭伊予細川氏領あげるって言ったけど、大友氏の毛利包囲網に加わって離脱する。
村上武吉
村上軍。ちょうど河野氏が毛利氏寄りだったことから上戦前後はこっちにいた。
ぶっちゃけその翌年には大友氏側についているのであんまりカウントできない。
細川刑部大輔
和泉守護の末裔の一人(いろいろ説明がめんどくさいのでパス)。この件でしか名前が残らなかった人。
三木良頼
姉小路自称する飛騨の人。包囲されている上杉謙信の連絡係。
北畠具教
自称伊勢国司。ちょくちょく伊勢も協してる話が出てきているのでいたはいたっぽい。
仁木長政
賀守護。仁木長頼等同名衆がちらほら加わっているが、ぶっちゃけは乗り気じゃないです。
一色義清/一色義員
丹後守護……ぶっちゃけ本名すら不明。
一色氏は何も記録が残っていないレベル戦国時代何もやっていなかったが、上戦後に急に名前が出てくるので多分いたのだろう。
赤井直正/荻野直正
丹波の国衆。連絡を取り合っていたので、おそらくこちら側。
波多野秀治
丹波守護代……多分。丹波から割とスムーズに軍勢が来ているので、たぶんこちら側。
松浦光
和泉守護代。三好義継。実はまだ何がしたかったのかよくわからない人。
安宅太郎
安宅信康って書くともうブチ切れられる人。したことはわかるが、お前正直何したいん?
九条稙通
摂関。三好義継松浦光の義理の祖。多分裏にいたが、何がしたかったのかよくわからない人。
二条晴良
摂関。↑と違ってこの人は確実に足利義昭
山科言継
足利義栄関連の儀式をしてる片手間に、足利義昭に密書送ったりしてた。
その結果、足利義昭政権で急速に浮上する。

足利義栄側

足利義栄
征夷大将軍。以上。
畠山維広
幕臣。足利義維以来の譜代。
伊勢貞為、伊勢貞興
幕臣。政所執事を担ってきたが、祖伊勢貞孝の反乱でこっちに合流していた。
三好宗渭
もう三好政康って書いたらブチ切れられる人。細川の近くにいた長尚流三好氏で、この変の後三好三人衆としてセット売りされた。上戦の後すぐ死ぬけど。
石成友通
松永久秀がポカし続けた結果、なんか浮上した人。三好三人衆としてセット売りされたけど、後々裏切ることになる。
松浦
松浦光殺すマン……それ以外マジで何も残ってねえ…。
三好長治
三好ぶっちゃけ幼すぎて何もやってない。
篠原長房
三好を差配していた人。ぶっちゃけ足利義栄擁立の立役者
細川昭元
。幼児だけど、営的にはこちら。
細川真之
波守護。存在感はないけど、営的にはこちら。
小笠原長時、小笠原貞慶
信濃守護。実はこの頃三好にいた。
斎藤龍興/一色龍興
斎藤龍興と便宜上言われてるが、父親の上げた格がまだ有効なので一色龍興が正確だったりする人。
六角ともども途中から寝返った。正直織田信長との戦いの時系列もまだよくわかってない人
六角承禎
近江守護。観音寺騒動中でよくわからない行動が多い。
筒井順慶
松永久秀殺すマン
山名祐豊
守護。拠はないけどたぶんこっちっぽい人。
赤松
播磨守護。確は持てないが、赤松政秀殺すマンなのでこっちっぽい。
別所長治
三好三人衆に軍勢を送ったりしている。上戦後足利義昭に臣従したが、すぐ離反した。
小寺政職
赤松としての行動の範疇は出てなさそう。
浦上宗景
ぶっちゃけ毛利に邪魔されなければなんでもよさそう。
河野通宣
伊予守護。足利義栄の数少ない文書を出した相手。
ぶっちゃけ足利義昭からも結構文書が来ているので断言はできない。
島村上通康
村上軍。足利義栄の数少ない文書を出した相手。
でもすぐ死ぬ。
近衛前久
摂関。ガチでただの巻き添え。
勧修寺
朝廷内での将軍擁立の立役者

その他

武田信玄
漁夫の利その1。上杉謙信がこれなかった原因その1。
10年代甲信越から濃尾まで文書が整理されてしまった結果、武田信玄どっちの営にいたのか論争が現在進行形で殴り合い中だったりする。
北条氏康北条氏政
上杉謙信がこれなかった原因その2。
本願寺顕如
上杉謙信がこれなかった原因その3。
大友宗麟
漁夫の利その2。
宇喜多直家
漁夫の利その3。ぶっちゃけこの流れで頭を現した感がある人1。
長宗我部元親
漁夫の利その4。ぶっちゃけこの流れで頭を現した感がある人2。
龍造寺隆信
漁夫の利その5。ぶっちゃけこの流れで頭を現した感がある人3。
島津貴久島津義久
正直軽く巻き込まれただけの人1。
喜入季久
島津氏家臣。元元年に上させられました。
佐竹義重
正直軽く巻き込まれただけの人2。
相良義陽
九州国衆足利義輝あたりから急に直で交渉できるようになったのひとつ。
流浪時から頼られていて、上戦中に建てたいからよろと言われている。
由良成繁
自称新田義貞の末裔。足利義輝あたりから急に直で交渉できるようになったのひとつ。
流浪時から頼られていて、足利義昭政権でも割とほいほい贈与されている。
伊達輝宗
されたことしか残ってない。息子独眼竜偏諱もらってないし。
大崎義隆
州探題。足利義昭から偏諱でもらったのが義の字らしい。
葛西
州の国衆。永12年にまさかの上である。
葛西義重
↑の息子…多分。足利義昭から偏諱でもらったのが義の字らしい。
土佐
出羽の国衆伊勢貞孝の反乱の後に蜷元を引き取るレベルにはパイプがあった。
戦後を送ったのと京都に屋敷を得た記録がある。
南部
昔は素南部信長扱いされてた安東愛季の配下。この時期京都にいたらしい。
今川氏真
この情勢を利用しようとしましたが…ダメでした!
尼子義久尼子勝久
割とこの流れの中で利用されてしまった感がある人達。
ルイス・フロイス
実はこの動乱に盛大に巻き込まれた。
こんな時期にをしたのは、この事件に絡んだ情報収集疑惑がある人。
斯波義銀
お前マジでどこにいったの?

イエズス会士の証言

こうしたもろもろの傍ら、永8年(1565年)7月5日にある一つの重大な決定が下された。三好義継正親町天皇の女房に働きかけ、天皇から伴連追放を得たのである。畿内における最初のイエズス会への弾圧であった。

【史料】

天一上、申刻晩立、予之事可相尋之用、吉田へ可罷向之処、出使有之、内山に被居之由申之間、則罷向、実、雖為何可為存分次第之由返答之間、七ヶ年過之駿州之養に可穢之存分也、

局へ立寄、次台所之あかヽ相尋、本々、次内所之あかに香蕾散一包一両遣之、次伏見殿へ参、堂一包、一半、同南御方一半進之、次大祥寺殿、同実徳一、持参了、

柳原登山之由有之間、門へ書状、香蕾ヽ一ヽ、言伝進之、

大澤兵衛大夫、与次郎等に同一包宛遣之、同宮千代に一包遣之

吉祥院之藪田十右兵衛尉来之間、香蕾散一包遣之、

明日大澤衛門大夫小者南都へ下之間、広子、左衛門大夫等へ書状、香蕾散三包、遣之、

外様日野代に参、如例内々に了、内々番衆万里小路大納言、三条中納言、実臣等也、被仰下之料仮閉調之持参了、

今日三好京大夫、松永衛門佐以下悉罷下々、

今日京大夫禁裏女房奉書申出、大うす逐払之々、

香蕾散又一済調合、以上五済也、

今度予書立伝、又従禁裏可借進之由仰之間進之

――『言継卿記』永八年七月五日

【史料】

夕立ふる。下の御くらよりとし〱の御うりしん上申。みよしみな〱くたりたるよしさたあり。大うすはらひたるよし。みよし申。

――『お湯殿の上の日記』永八年七月五日

イエズス会士たちの認識としては松永久秀によって、都から追放されに追われた(なお、日付は太陰グレゴリオ暦のずれがあるのでおおよそ1かずれがある感じで)。彼らの認識では三好長逸に助けられたとのこと。

【史料】

人々から人と呼ばれるらは、都でデウスの教えを説いたため追放され教会収されたが、等は永久追放者なるが故に何びともらを護してはならぬというものであった。

O dia seguinte depois desuasayda do Meaco se deu pregāo publico por todo o Meaco, que os Tenquicusis, que assi nos chamāo, por pregarem a ley de Deos no Meaco, erāo desterrado, e a Igreija tomada eque pessoa algūa nāo fosse ousada aos fauorecer, porque os auia pordesterrados pera tod semper

――『1565年8月2日付、ヴィレラ書簡』

【史料】

弾正殿松永久秀)と彼の子(義久)の悪行はその的に向けてますます増長し、両人の性根や残さ、また暴虐ぶりは到底考え及ばぬほどひどいものであったが故に人々を驚嘆せしめた。

Foyse pera este effeyto cada vez aumentando mais malicia de Dajondono, e seu filho, cujos coraçōes, cruezas, e tyrannias poem em admiraçāo aos mesmos, por nāo caber nelles tam estranha crueza.

――『1565年8月3日付、フロイス書簡』

【史料】

らは、法宗の僧らが方様の方を殺した兵士賄賂を贈り、らは兵も持たぬも同然であり、いかなる兵士の別なく容易になしうること故、らの修院に入ってらを短刀で殺すようにめたとの知らせを受けた。

Tinhamos nos tambem por auiso que os Bonzos Foquexus peytarāo a hum sodado que matou a molher do Cubucama, que entrasse em nossa casa, e que as adagadas nos matasse, por ser cousa q qualquer soldado de dia, ou de noite po dia sacimēte fazer, como estiuessemos sem gente.

――『1565年8月3日付、フロイス書簡』

【史料】

七月二十七日、金曜日らは深い悲しみと共に飯盛へ向け出発した。三好殿中のキリシタン人らは当地の争乱や異教徒がらを追放、もしくは殺しようと望んでいるのを知ったので、たがいに番を決めて教会を警固しに来た。

ガスパル・ヴィレラ師が去ってから三日、すなわち日曜日の午後、都のキリシタン兵士らが私のもとに来て、()皇がすでに弾正殿の勧めによりらを追放する許可を出し、弾正殿の子も同じく(追放の)為の伝言を発したというのは事実であり、教会を憐れむべき状態のまま放置して立ち去るべきであるといった。

se pertiro bem Jesconsolado pera Imoryhūa sesta feyra aos vinte e sete de Iuljo pola manhaā. Os fidalgos da casada Mioxindono chrisos, por verem a terra como andauareuolta, e os gentios com grande desejo de nos deitarem fora, ou matarē, reparridos entre sia quartos vinhāo vigiar a Igreiha de noite, e de dia.

Dahi a tres dias depoisd i parrida do padre Gaspar Vilela, foy ao domingo a tarde me vierāo dizeros Chrisos do Meaco, e os soldados, que era verdade q tinha ja o Voo passado papel por persuasem de Dajodono pera nos deytarē fora, e filho de Dajodono dado recado pera o mesmo, e que na mesina hora mesosse, e deyxasse a Ogreija assi como estauacom essa pobreza que nella tinhamo.

――『1565年8月3日付、フロイス書簡』

【史料】

月曜日、都の重立った三名の執政官の内の一人で、名を(三好日向(長逸)殿といい、異教徒ながら生来善良にしてらと甚だしい人が、彼のキリシタン臣を介して(以下のことを)私に述べた。すなわち、彼はらが都から追放されぬようう限り努したが、この一見の首謀者は弾正殿であるが故に功を奏さず、(したがって)私はか、もしくはガスパル・ヴィレラ師の滞在地へ向かうべきであり、彼は中に襲われることのないよう私に兵を伴わせるであろう、とのことであった。

(中略)

翌日の、弾正殿三好殿、ならびに彼が各に戻るが、もし私がこれ以上とどまれば危険にさらされるので急ぐようにと伝えてきた。

A segundadeyra pola manha hum dos tres regedores principaes do meaco por nome Fiungandono gentio, porem naturalmentebom homem, e muyto nosso amigo, me mandou dizer por hum criado seu Christāo, que elle tinha trabalhado sobre no nāo deytarem do Meaco quanto podera, mas que nāo aproueytara, por Dajondono ser o autoradisto, que eu me sosse perao Sacay, ou pera onde estaua o padre Gaspar Vilela, que elle mandaria gēte comīgo, pera que nocaminho me nāo offendessem

(中略)

e q me desse a presa porque ao outro dia pola manhDajondono, e Mioxindono, e elle se tornauāo pera suas fortalezas

――『1565年8月3日付、フロイス書簡』

以後、でこの地域を任されたルイス・フロイスもこの時代の情勢の言者と化すので紹介したい。

実は、ガスパル・ヴィレラ、およびルイス・フロイスは、1565年8月初頭の時点で篠原長房足利義栄を上させようとしていたことを把握している。和に換算すると永8年の7月の段階である。

【史料】

また、いかなる方法によっても暴君かららが復帰するための許可を得られぬ時は、波と称するに赴く決心をしている。すなわち、その時は多数の配下を有する篠原という名の人が、(今は)同に滞在中で(やがて)都に来る方様のもとに私を案内し、らの復帰への同意を彼にめることになろうが、これはらの側にいっさい(の手立てが)失われた(場合)に備えてのことである。

Tambem tenho determinado, quando por nenhum mod podermos acabarcom este tyrannno que consinta em nossa tornada, darhūa chegada a hum reyno chamado Aua, porque ao Cuboque ali esta, que hadevir pera Meaxo, meleuara hum fidalgo, q sechama Xinouadono que tem muyta gente, fazendo com elle q consinta em nossa tornada: Isto pera q nāo fique nadade no sa parte.

――『1565年8月2日付、ヴィレラ書簡』

【史料】

また、もし状況が許すならば、数日後に祭は波のに行き、都に来る予定の新たな方様と交を結びうるか確かめるものと思われる。というのも、この波の篠原(長房)殿と称するはなはだ有人により治められているが、彼とその臣三、四名はデウスのことをすでに三、四回聴いており、の御恵みを賜り彼を仲立ちとすることによりらの(都への)復帰が可になるからである。

Tambem me parece que se ouuer disposiçāo pe raisso que ao Reyno Aua jra o padre daqui alguns dias ver se podeter algūa entrada como o nouo Cubo, que ha de vir pera o Meaco por ser este Reyno de Aua gouerado por hum fidalgo por nome Xinouarandono muy poderoso, que ja tem ouuidotres, ou quetro vezesas cousas de Deos, etres, ou quatro vezes as cousas de Deos, e tres , ou quatro criados feus, por meo do qual se pode com o diuino gauor esseytura nossa toranda.

――『1565年8月3日付、フロイス書簡』

以後、河内キリシタン(後述の三箇頼照か?)らとのやり取りを記しているが、この過程で三好三人衆中を差配していたことがわかる。

【史料】

前述の人は(中略)四、五名の臣だけを伴って当地のらのもとに来た。翌日彼の不在が発覚すると、(の兵は)直ちに彼の邸に向かい、甚だ高価なであったが、これを破壊し、跡には土台すら残らなかった。彼はデウスの教えに背かぬために己の俸や地位、名誉を失ったことを大いに喜んだ。

三好殿と称する河内が住んでいるキリシタン人や他のキリシタンらはこれを知ると、彼のことをとも頭領とも見なしていたので、彼を復帰させることに決め、これがために戚である三人の異教徒の大身を介入させたが、は彼らのことを好ましく思わず、彼らを殺そうと欲していた。というのも、彼らは老人であり、今は彼らが都とその周辺諸の絶対政権を握っていて、彼は何事においても彼らの助言に従って動かざるを得なかったからである。

Este fidalgo(中略)e elle soo com quatro, cu cinco criadosse veo aquitercom nosco. Odia seguite quese soube de sua ausencia forāo logo suas casa, que erāo de muito preço destruydas, que nemos alicesesficarāo em pee, eelle muyto alegre de perdersuarenda, estado, e honra, por nāo jr contra a leu de Deos.

Sabido isto por outros fidalgos, e homens Chrisos da fortaleza, ōde o mesmo Rey d' Cauachy, por nome Mioxindono esataua pol terem todos por pay, e cabeça determinarāode o restituyr, e pera este effeytoderāoentrada a tres seuhores gērios parētes del Rey, aos quaes elle tinha ma vontade, e desejaua matalos por serem velhos, e auer elle de necessidade o gouerno absoluto de Meaco, e de outros Reynos porderpinkor.

――『1566年6月30日付、フロイス書簡』

やはりこの時点でも篠原長房足利義栄をしきりに上させたがっていることを伝えてくる。

【史料】

私はデウスの恩寵により、早急に有大国主が一、二コント(万)の兵を率いて、新たな方様(足利義栄)を都の領に就かせることを期待している。その篠原(長房)殿と称する人で、貪欲さやその他の悪徳に染まらず、幾度かデウスのことを聴いており、等を護することを望んでいる。

(中略)

方様を迎え、戦さが止んだ後、私は再び(復帰の許しを)懇請するであろう。

Espero com o diuino fauor muyto cedo por hum grande e poderoso Rey, com hum cono, ou dous de gente meter de posseno Meaco o nouo Cubucama: chamase este senhor Xinouarandono, alheo de cobiça, e outros vicios: tem algūas vezes ouuidas as cousas de Deos, e deseja em algūa maneyra de nos fauorecer.

(中略)

Depois que ouuer Cubucama, e as querras cessarem farey maisinstancia.

――『1566年6月30日付、フロイス書簡』

なお、ルイス・フロイス松永久秀の状況を攫んでおり、近くでの戦いでかつて自分たちへの追放の命を受けた臣が死んだようだ。

【史料】

らのなるデウスはさっそくその正にしてなる裁きとして、戦さや、彼の兄弟臣の死、かつまた財産の損失により彼に苦しみを与え、迫した。

logo Deos nosso Senhor por seu justo, e dioino juyzo lhe deubem detrabalhos, e per feguiçōescom guerras, e mortes de seus jeos, e vasalos, e grande gasto, e perda de sias riquezas.

――『1566年6月30日付、フロイス書簡』

【史料】

敵側では、最初に殺された者の中に、彼の心の異教徒があり、同人は戦にかかわることではなはだ名高く、過ぐる年、彼(弾正殿)がらを殺すため都の修院に遣わしたのはこの人物であった。

e da patre do īmigo dos primeiros que matarāo foy hum gentio muito priuado seu, de grāde fama, e nome nas xousasda guerra, que elle o anno passado mandou ao Meaco dentro a nossa casa pera nosmatar.

――『1566年6月30日付、フロイス書簡』

ちなみに、松永久秀の妻の兄弟が僧だという言をしている。

【史料】

数日前、大和の(の)方の兄弟になる某

Poucos (中略)Bozo jrmāo da Rayha de Xamato

――『1566年6月30日付、フロイス書簡』

また、美濃のおそらく一色龍興らについても記載している。

【史料】

都の地を過ぎ、坂東地方に向かって十五日ののりの所に美濃と称するがある。今、同を納めているはその瀕死の状態にあった時、日本の偶像であるに対して多くの供物をげることを命じ、諸僧院の僧らには彼の健康回復するよう絶えず祈ることを請うた。

が死ぬと息子の偶像に対する信心は消えた。かくも非力々に期待すべきではない(と考えた)ので、彼は僧院をことごとく破壊させ、今後は僧も尼僧も存在してはならぬと命じた。

Pera a partedo Bandou, quinze diasde camiho por terra do Meaxo, ha hum Reyno, por nome Mino, do qual o Rey que agora he estando seu pay pera morrer, mandou fazer muitos sacrificios aos Camis, e Fotoques, que sam seus idolos, pedinodo aos Bonzos polos mosteyros, que fizerssem continuamente oraçāo por seu pay, que lhe ouessem saude.

Morreu do o pay, e no filho a confiança, que em seus idolos rinha, mandou destruyr, e assolar todos os mosteyros, e que nāo ouesse mais Bonzos nem Bonzas, porque em deoses detam pouco podder nāo se auia deter esperança.

――『1566年9月5日付、フロイス書簡』

【史料】

タイセキ(Tayxequi)と呼ばれる僧(中略)某人は(彼の)戚であるが、の不を買ったのか、いは彼がに悪感情を抱いたのか、過ぐる年、都に来てデウスの噂を聞くとらのもとに来訪した。

(中略)

彼がキリシタンになろうとした時、突如彼が仕えていた日本将軍なる方様が謀反により殺された。

Bonzo, por nome Tayxequi(中略) Hum parente seu fidalgo(中略)se agraouo del Rey, ouel Rey delle, veo o annno passado ao Meaco, e ouindo falar as cousas de Deos, veo ter cōnosco.

(中略)

Estao do perasefazer Christāo matarāo subitamēte a treyçao o Cubucama Emperador de Iapāo, a quem elle seruia.

――『1566年9月5日付、フロイス書簡』

1567年6月12日付、フロイス書簡』では、美濃は次々と師と仰ぐ僧を替えしているので、キリスト教に帰依するのも簡単とみなされている。

三好への布教も進んでいるようである。

【史料】

方様を殺した河内三好殿の顧問である都の四人の執政官の一人がこのに住んでおり、当地で最も壮麗なを支柱に構えている。聞くところによれば、俸のほかにも金子にして一コント黄金を持っているという。彼はのこの地区でらを保護している一キリシタンのもとに人を遣わし、彼が私に会ってデウスについて聴くことを希望しており、その旨を私に知らせるよう請うと伝えさせた。

(中略)

その地を納める四人の執政官の一人で、彼ら(他の三人)と同等のと権威を有する異教徒は(中略)大いに従事している戦さが終われば、必ず最後まで聴聞してキリシタンになることを約束した。

Hum dos quatro regedores do Meaco do conselho de Mioxindono Rey de Cauachy, que matou a Cubucama, mora nesta cidade de assent, e nella tem as milhores, e maisricas ccasas que aqui ha, e alem de suarendadizem ter hum conto douro em dinheyro.Este mandou dizer a hū Chrisodesta rua que aquinos tem debaixo de sua proteyçāo, que desejaua verme, e ouuir as cousas de Deos, que lhe rogaua mo fizesse a saber e, e comser hum poderoso senhor

(中略)

Outro gentio de hum dos quatro regedores que tem o gouerno da terra(中略)prometido, que com as guerras xessarem, nas quaes elle annda muito ocupado, que sem duuida tem detaminado acabar de ouuir, e fazerse Christāo

――『1566年9月5日付、フロイス書簡』

【史料】

都に三好殿と称する大身がいる。彼は今、河内と称するの領にして、はなはだ有な異教徒であり、彼が殺した全日本の君たる方様は彼に従していた。中の一人で彼の秘書を務める人はキリシタンであるが、彼は全くらを恥じ入らせるほど善良なキリシタンである。

Ha hum Senhor no Meaco, por nome Mioxindono, que agora he Rey de hum Reyno por nome Cauachy, gentio muy pod roso, a quem o Cubucama, que elle matou, senhor de todo Iapāo obedecia. Hum fidalgo de sua casa, e seu secretario he Christāo, e tam bom Christāo, que realmente nos confunde

――『1566年1月24日付、フロイス書簡』

所謂クリスマス休戦という都市伝説の出所が下記である。

【史料】

降誕祭に至ると、当には敵対する二つの軍勢が滞在し、両軍には当地方武士キリシタン人が多数あり、らが今逗留している粗末な借がはなはだ小さく、多数の人を収容することができなかったので、私は異教徒らにキリシタンの忠平和、および一致を一層よく知らしめるため、キリシタンをことごとく一つの網に入れることを望み、この町内の会議室または会議所が広くて祝祭に適しているため、これを借り受けるよう努めた。

(中略)

敵対する両軍の武士も約七十名参列したが、彼らはただ一人のもしくは君の臣であるかのように、いとも深い信の情と礼儀をもってり合っていた。

Chegada a festa do Natal por estarem nesta cidade dous exercitos de īmigos contrarios jims ds pitrps, & nelles dambas as bandas a maior copia dos fidalgos & Chrisos nobres deltas partes, sendo esta pobre ccasa d'aluger, em que ficamos muito pequena, & pouco capaz de tanta gente defejando eu tambem deos meter a todos em hūa pinke peramais constar aos gentios a fidelidade, amor, paz & vniāo dos Chrisos, trabalhei por auer emprestada desta ruaa camara ou casa de seu conselho, porser larga & conueniente pera a festa,

(中略)

aonde estauāo obra de setenta fidalgos qie sendo de dous exercitos contraitos, assi se trata uaō com tanto amor, & cortesias, como se fossem subditos de hum so Reiou senhor.

――『1567年7月8日付、フロイス書簡』

この書状ではキリシタン武将のサンチョ(三箇頼照)の協週が実現したが、三好殿の戦いで命からがら逃亡した旨が記載されているが、長いので割愛させてほしい。

なお、篠原長房臣がキリシタンとなったようである。

【史料】

しかし、最高の裁判権はデウスの限りなき全に属するが故にの思し召しにより、諸大身中最も有篠原(長房)殿と称する人の側近の中で、彼が大いに寵する一人がキリシタンになった。

todauia xomo a jurisdiçāo suprema he da infinita omnipotēcia de Deos, ordenou sua diuina vōtade q na corte do maior Sōrde tods q se chama Xinouaradono, ouuesse hū fidalgo muito seu prinado Christāo, por cuja ocasiaū ate aguora me fauoreceo sempre

――『1567年7月8日付、フロイス書簡』

なお、こうした中のキリシタンたちの扱いで、三好三人衆篠原長房の間では統一が図れていないというのが同書状からわかるが長いので割愛させてほしい。

ちなみに、ルイス・フロイスの認識同様、日本側でも三好長逸三好宗渭篠原長房がイエズス会の擁護者だったという認識であった。

【史料】

すけ殿よりかきの枝まいる、くわんしゆ寺一位して。ひうか。しのはら。しもつけにてはてれいの御わひ事申。申〱のとりもあけられはぬよしの御かへり事あり

――『お湯殿の上の日記』永十年八月十二日

かくしてついに、足利義昭の上になる。

【史料】

この度、篠原殿は都のに新たな使いを派遣し、もし(が)祭らの都への復帰に同意する気が少しもないのであれば、祭らを追放すべき理由は何ひとつないのであるから、(篠原殿が)自らの絶対権により祭を復帰させるつもりであることを伝えた。

五、六日前、尾織田信長)が殺された方様の兄弟足利義昭)を武によって都の領につかせるため、突如、六万の兵を率いて都に到来した、いとも大きな戦さが生じることは避け難い。

Agora tinha mādado Xinobaradono outro recado a elRei di Miaco, que se de todo nāo determinaua contentir em os padres tornarem ao Miaco qie de seu poder absoluto os auia d tormar a restituir, pois nāo auia causa algūa por onde com rezāo os excluissem, se nāo quando de repentesacra cinco ou feis dias que veo elREi de Voari sobre Miaco com sesenta mil homens pera meter por for ça darmas de posse ao irmāo do Cubocama que mataraō no mesmo Miaco, & nāo pode deixar de auer gran dissmas guerras.

――『1568年10月4日付、フロイス書簡』

そして、いともあっけなく足利義昭体制となった。なお、この後イエズス会が復権したからといって松永久秀日乗上人に対してとてつもなく恨みつらみをぶちまけているが、長いので割愛させてほしい。

【史料】

〔すでに別の書簡に記したように〕殺された方様の兄弟足利義昭)が救いをめてきたので、彼はおよそ一万の兵を伴って同人を都のに入らせた。

Indolhe pedir focorro o irmāo do Cubocama que mataraō ( como ja noutra passada tenho escrito ) trouxco a esta cidade de Miaxo, com obra de xem mil homens

――『1569年6月1日付、フロイス書簡』

足利義維流のその後

軍記『記』によると、息子足利義栄をあっけなく失った足利義維は、足利義昭が追放されたよりもさらに後の正元年(1573年)10月8日に亡くなり、西寺に埋葬されたようである。

【史料】

正元十月八日

殿詮大居士

――『足利末裔墓碑銘』

【史料】

正元十月八日、方、初、

殿詮大居士 義

       六十五歳、

――『西過去帳』

やがて蜂須賀正勝波に入ると、千石という捨扶持のみ与えられて、子孫は飼い殺しさせられていく。なお、名前太郎に代々められ、足利というレガリアすら放棄させられてしまった。

【史料】

那賀郷住居足利末葉義助へ、御使者ヲ以御領分先方被預置、重宜可相計旨被 仰遣、義助子細領領十六ヶ上、其後御使者ヲ以先為料高石被下旨被 仰遣、義助、其等事ハ何へ成共立退申へけれハ、料にも及不申と御断申ニ付、尚又被 仰遣得共先堪可被致、細川三好長曽我部ニ劣ル事有間敷と御懇ニ被仰遣ニより高石拝受

――『淡年表秘録 徳島県史料第一巻』

徳島内の方の序列は諸奉行、楽の次で、池田士、三名士の前にある。『記』によれば大坂の陣の際大野治長に招かれたが、蜂須賀至鎮のやり取りを経て断ったらしいのだが、史実かは不明。

【史料】

一 慶長拾九甲年ノ大坂ノ節、秀頼ノ家老大野修理治長方ヨリ、秀頼申付由ニテ、拙者大坂江可罷上旨、新助ト者使ニテ、状并小舩一艘下、乍拙者思様、加ニナリト、々可打立ト思ヒシカ、乍去今マテ太守之育ヲ得テ、今儀沙汰モナク上ル儀本意ニアラスト思ヒ、大坂江ノ返事調使者ヲモトシ、即修理方ノ状ヲ渭江持テ行、細山正政慶以テ旨太守江申ケレハ、至鎮某ニ対面有テ、妙ナル仕合カンシ入、重申来トモ、同心有間敷状次ハヽ、御所ノ御ニ懸ヘキ也、具足ニ置ヘト、梶作右衛門ニ御渡シ有ケリ、其時拙者ケルハ、破具足成共着シ可申ニ召ツレ給リヘトケレハ、太守、然共頼者共同前ニ召連申事モ不成、今ブセイナル入添、不自由ナル武具ヲ調申事モ難成、心サシハイレノニテモ同前ニ間、留守中江度々見舞ケリ、然所太守類高名ニテ帰被成ケルカ留守骨折満足トテ三拾石給ケリ

――『記』

その後、あまりに薄給だったから借りる旨の文書が多数残されている。

ところが、革を進めていた養子入りした蜂須賀重喜が臣と轢を起こし、お家騒動を起こすと、京都江戸に顔が利いた義宜が政治を発揮し、高を増やすことに成功したのである。蜂須賀重喜がを追われた一方で、得をしたのであった。

とはいえ、これでもまだ薄給の貧乏生活であり、義宜は徳島になおも従属せざるを得なかった。

そこで、義根の代についに交渉の結果京都に脱出する。以後、足利義根と名をめて京都に居つくが、特に何かすることもなく明治維新を迎える。

維新後、押小路実潔が三条実美に明治12年(1879年)の時点で族に列せられていないとして若江・半井・幸徳井・氷室・尊院・西山の七をあげており、さらに言えば前述の退去のせいで士族ですらなく民とされてしまったのである。かくして、喜連川菟丸は男爵だったことから明治16年(1583年)に天龍寺・相寺・等持院・金閣寺銀閣寺の五寺が族にしてやったらどうや的な書状を送り、足利義孝の周辺からも斯波順三郎山下数栄・大井周蔵・玉村太郎玉村七条信義らと連署した請願書が京都知事に送られた。

しかし結局認められなかったようで、特に何事もなく今に至る。

松永久秀の関与について

上述の通り、当事者意識としては松永久秀は全く変にかかわっておらず、山科言継の『言継卿記』にも松永久秀は出てこないのだが、ルイス・フロイスといった少し距離を置いた同時代人にとってみればこの時期の三好松永久秀に差配されていると認識であり、この変も松永久秀導されたと思われていたようだ(加えて三好長慶が亡くなったことの秘匿は成功しているため松永久秀三好長慶を傀儡にしているとまで書かれており、『信長公記』などに至っては三好長慶も出てきている)。

少なくとも宣教師たちは松永久秀を以下のように見ていた。

【史料】

都の政治は三名の人物に依存している。第一の人は、方様(将軍足利義輝)と称する全日本の王である。第二は、彼の臣の一人で、三好(長慶)殿と称する。第三は三好殿臣で、名を松永(久秀)殿という。第一の人は国王としての名以外に有するものがなく、第二の人は臣ながらも権を有している。また第三の人は第二の人に臣従し、を治め、法をる役職にある。

O gouerno de Meaco depende de tres pessoas. A primeyrahe, o Reyde todo o Iapāo, chamado Cubucama, A segunda hum seu criadode Mioxindono. A tereceyra hehum criadode Mioxindono, chamado Maçumangadono. O rimeyro nāo tem mays que a honra e nome de Rey. O segundo, ainda quehe seu criado tem o poder. O terceyro, que he criado do segundo tem o negocio de gouernaro reyno esazejustiça.

ー-『1564年10月9日付、フェルナンデス士書簡』

【史料】

らの最大の友人にして、諸で最も有な大身である(松永)弾正(久秀)殿

Dajondono pera o visitar, que he o mayorīmigo quetemos, e o mayor senhor de todos os reynos

――『1565年3月6日付、フロイス書簡』

ただし、乱当日のルイス・フロイスの書簡では以下のように松永久秀は表されている。

【史料】

この三好殿は弾正殿と称するの執政官を擁しているが、同人は彼よりもはるかに大きな勢を持ち、かつて日本に存在しなかったほど残虐な暴君

Tem este Mioxindono outro regedorpor nome Dajondono muito mais poderoso que elle, o mais cruelissimo tyranno que numca ouue em Iapāo

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

なおこの時すでに三好長慶が亡くなっていることをルイス・フロイスはつかんでおらず、乱当日も三好長慶松永久秀らとともに上京していたという認識だった。

【史料】

およそ一か半前、方様は三好殿の名誉を高めた。すなわち、大いなる威厳を表す称号により名誉を加えるのが慣例である。三好殿はこの栄誉を賜ったことを感謝するため、己れのから(彼のもとに)出向くことを欲し、彼の息子と執政官の弾正殿、および他の甚だ有な大身一人を同伴した。

Auera obra de hū mes e meo, que Cubucama acrecenton a MioXindono em hūa honra, que acostumadarnas alcunhas, em que o posem muitadinidade, e qnerendo Mioxindono vir desua fortaleza fratisicarlhe esta merce: que lhe fez: trouxe consigo o filho, e Dajondono seu regedor, e outro senhormuy grande

――『1565年6月19日付、フロイス書簡』

このことはルイス・フロイスに限ったことではなく、同時期のルイスアルメイダもそのような認識であった。

【史料】

四月二十九日、(中略)当は彼が仕える(松永)弾正(久秀)殿と称する君のものである。この人は、日本で最も身分高き絶対君なる三好殿方様の臣であるにもかかわらず、その才知により、今は七カを有するに過ぎないが、彼らを(逆に)己れの臣のようにしている。すなわち、同人は彼らに臣従しながら、彼らは同人の望むこと以外何もなし得ないのである。

(中略)aos vinte e noue de Abril(中略)que se chama Dajondono. Este por sua discriçao, e saber, com ser subdito e vasalo de Mioxindono, e do Cubucama, qsam os mais honrados de dtodo Iapāo, e senhores absolutos delle, ainda que agorasomentesenhoreāo sete Reynosos temcomo subditos, porque nāo fazem mais, que oque elle quer, cō toda via lhes obedecer.

――『1565年10月25日付、アルメイダ士書簡』

結局ルイス・フロイスは翌になっても以下の認識のままであったようだ。

【史料】

すなわち、三位一体日曜日、当たる二人の統治者で、一方は(松永)弾正殿、他方は三好殿と称する人たちが一万、至一万二千の兵を率いて、全日本の君にして皇帝なる方様の宮殿を囲み、彼とその方、子供兄弟戚、および都のだった人をことごとく殺し、宮殿を略奪させた。その後、これに火を掛けたが、このいっさい(の出来事)はおよそ二時間のうちに行われたのであり、日本では未曾有の戦慄かつ驚嘆すべき事件であった。

この謀反人の筆頭者は(松永)弾正殿と称し、当とその他多数の々を従え、らが広めるデウスの教えの大敵である。彼らがらに牙をむかないのはらのなるデウスがそれを許し給わないからであり、また名誉に置いて彼よりも高く、その配下に約五十名のキリシタンを擁している三好殿が妨げになっているからであると思われる。

porqo domingo da Trinddade pola menos dous gouernadores principaes deste reino, hum por nome Dayandono,& outro Meoxindono com dez, ou doze milhomens cercaraō os paços de Cubocama Senhor & emperador de todo o Iapaō, & mataraō e elle, & a rainha sua molher, e a seus filhos, iros & parentes, & toda a principal sidalgula do Miaco & mandaraō saquear os paços, e depois lhe poserfogo, e tudo isto se fez em obra de duas horas o mais horrendo, &espantoso caso qnunca a conteceo em Iapaō, o principal destes traidores a quem todo este reino, e outros muitos obedecē, se cha ma

A Dayandono, que he capital inimi go da lei de Deos nosso Senhor pola pregarmos, & se ja nāo tē em no executado seu turor, parece que he, porqlhe Deos nosso Seohor nāo da licença & ter algum pejo do MEoxindono que he mais alto, que elle em hora em cu ja corte auera obra de cento, & cincoenta soldados fidalgos Chrisos

――『1565年7月22日付、フロイス書簡』

また、当時は共にいたガスパル・ヴィレラもこんな認識である。

【史料】

松永)弾正(久秀)殿と称する暴君〔残虐さにおいては第二のネロ(である)〕がはなはだ不当に全日本の君なる方様(足利義輝)を、そのや妻子、兄弟戚、その他の人々もろとも殺した後、彼の飽くことなき残虐さはこれに止まらず、都では多数のを破壊し、毎日人が殺され、また追放された。

Depoys que tyrannno(segundo Nero na crueldade) camado Dajondono matou tam injustamente o Cubucama a senhor de todo Iapāo com sua māy, molher, efilos, e jros, e parētes, e outra muita gēte, nāo parando nisto sua insaciauel ceueldade, no Meaco assolou muitas casas, cada dia auia mortes, e dsterros

――『1565年8月2日付、ヴィレラ書簡』

【史料】

一人の裏切り者(松永久秀)が将軍足利義輝)を殺して都の絶対君になったのである

que hum aleuant a do matou a treyçāo ao Emperador e se fez senhor absoluto da terra, e reynode Meaco

――『1565年9月15日付、ヴィレラ書簡

こうした結果軍記でもあれは松永久秀によって行われたものだ、というように記憶されていき、江戸時代にどんどんイメージが増幅していった。

成立年代 名前
4年(1573年)と称する 細川両家記
細川両家記よりは後 足利季世記
正5年(1577年) 朝倉始末記
首巻はともかく一巻なので慶長18年(1613年)以前 信長公記
信長公記よりは後
後陽成天皇の治世は終わったあたり 皇年代略記
元和3年(1617年) 太平記
寛永2年(1625年) 州将裔記
寛永6年(1629年)
足利義昭の孫世代が把握されている時期 義昭
寛永11年(1634年)
慶安5年(1652年) 日本王代一覧
寛文5年(1665年) 陰徳太平記
寛文10年(1670年) 通鑑
貞享2年(1685年) 総見記(信長軍記)
宝永8年(1711年) 重編応仁記(続応仁後記)
享保3年(1718年) 南海通記
不明 室町殿日記(室町殿物語
元文5年(1740年) 武徳編年集成
18世紀後半(くても桜町天皇期) 皇年代私記
安永7年(1778年) 綿考
寛政10年(1798年) 続史愚抄
文化・文政年間(1804~1830年) 常山紀談
文政10年(1827年)以前 日本外史
保14年(1844年) 実紀
嘉永4年(1851年) 日本野史
1850年代 系図簒用

【史料】

八年、当代方様義(公)と申は、下の覚めでたく処に、州に御座候御所様より、連々三好殿仰上儀ども有之由にて、五月十九日に、二条武衛の御構へ人数押入(以下略

――『細川両家記

【史料】

明ル永八年波御所様三好三人衆 松永 篠原守ヲ頼リニ御頼ミアリヲ御上ノ御望アリ
先年ヨリ頼リニアリケレトモ長慶存生ノ中ハ当方様御馳走申テ更ニ御請ナカリケル
今長慶一期ノ後御子息幼稚ナレハ一族衆を一偏ニ御頼アリケレトハ皆波御所ヘ御一味申シケリ
方様御館ノ四方ニ深高壘長関堅固ノ御造作有リ未タ御門以下ハ不出来

カカリケル所ニ松永弾正 三好日向守 同下野守 石成悦 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ族清水寺参詣ト披露シ勢ヲ集メ永八年五月十九日二条御所武衛ノ御構エ奉押寄偽テ方様エ御訴訟アル由申上ケル

――『足利季世記

朝倉始末記』では実行者は三好義継松永久通だが、裏に松永久秀がいるっぽい書き方ではあるはソではないソとyの中間みたいな字で何か判断できなかった…)

【史料】

九年九月ノ末義昭不慮ニ朝倉衛門督義ヲ頼給ヒテ越前国ヘ御下向アリシ由来ヲ委尋ヌルニ前大樹殿御曹司三人御座シケリ第一ハ都ノ御所ニテ義ト申セシカ御他界以後ハ殿トソ申ケル第二ハ奈良一乗院ニ入セ給ヒテ覚慶ト申ケリ是義昭御事ナリ第三ハ北山鹿院ニ御座周暠トソ申ケル

殿ノ御代ニ下ノ武士多ク官位ヲ歴進シテ御威殊ニ高カリケリ去程ニ越後ノ長尾ハ弾正ノ少弼ニ任シテ御相伴衆ニソ被成ケル波ノ三好氏モ本ハ細川ノ郎等タリシヲ修理大夫ニ任シテ御相伴衆ニ召加ヘラルヽノミナラス猛威次第ニ秀出五畿内ヲコソ治メケレ

松永弾正トアリ本ハ名モナキ者ナリシカ三好ニ随逐イツナク勢ヲ得遂ニ大和ノ守護職トナリ奈良ノ多門山ヲニ構テ南都京都ノ成敗ヲリケルカ修理大夫モ老衰シ子息筑前守義長モ世シケル程ニ十河氏ノ子ヲ取立テ三好ニナシ左京大夫義継ト号シツヽ松永中ヲ恣ニ進退マサヽリシニ潜カニ三好ヲ勤メツヽ左京大夫義継幷ニ松永カ嫡子右衛門佐久通両大将トシテ一万兵ヲ引率シ永八年五月十九日清詣ニ事寄セテ

――『朝倉始末記』

【史料】

殿自害、同舎鹿苑寺殿)、及其外諸侯討死の事、その濫觴は細川右京大夫元被官三好筑前守長慶、是管領の権威を請て、五畿内其覚あり。
誇て累代従の義を忘れ、既右京兆に敵をなして殿股肱と存ずる臣、肩をならぶる傍輩たりといへども、摂州江口におゐて悉打倒す。
依て細川落。絶言者也。彌驕を窮め、万殿朝倉を御相伴衆に被召加、其例證を尋て御供衆を望。
其以後三好長慶相伴衆に進て、松永弾正少久秀御供衆に被准之重々恣之義也。
も直参して、猶もつて可致馳走の処に、還て儀違背せしむるのみなり。

然ば御遺恨もありつべし察して、自然刻可有御謀反も案中なり。
一大事と存之処に御館四方に深溝、高壘、長関、堅固の御造作たり。然といへども、未御門下不首尾之前を急いで、御所巻に及ぶべき事、彼一類調談を極め、永八年五月十九日清参詣と号し、より人数を寄せ、其時に当て方様へ訴訟有よし申触て、三好訴状をて、々御点を申請る。

――『永記』

【史料】

擾乱終に不穏逆浪に漲烟翳地不立去何れか兵革不動所もなし三綱五常して子としては臣としては弑君其三好修理大夫長慶恣に下を執事し権威券官爵驕為其子左京大夫義継にはも太の御を婚結坐しければ一族も門葉奢侈尚盛強宗藟を連奸をなす中にも三好日向守 同下野守 松永弾正少弼は畿内を守護して意任因茲将軍門下の輩共讒を立。奸を催し彼等が行跡悪不欺人一人もなし

三好一族是を聞て己が私曲を辱且恐れ後災不来前に倡や備運の太を討左京大夫義継を下のとし一族後栄を楽まんと議しければ悪心飽まで深き者ども言下随順して謀不怠左あらば事ぬ前片時も急げ人々とて永八年五月十九日東山詣且遊と事寄せて兵ども呼集其勢三千々を固させ其後三好日向守 同下野守 松永弾正少弼 同右衛門佐 岩成悦助 松山新入謙斎 御所の三方を打囲

――『後太平記

『室町殿日記(室町殿物語)』では三好の人々が大体生き残っており、犯はこれらの人々である。

【史料】

八年三月上旬のころ、義長相伝の者に久太夫といふ、万事にさかしき男有りけり、かれをひそかによびて、「京都のぼり、御所中のやうをば、くはしくうかゞふべし。いかにも静かなるらん折節、の方へ告げ来たれ」とて料を沢山にとらせてのぼしけり。

去る程に久太夫、京都に着きて、七条なる朱雀の辺に、したしきものゝ有りければ、に宿をとりて、毎日御所中のやうをぞうかゞひける。かゝる程に、昨日今日とうち暮れて、五月上旬になりにける。時来たれば、五月雨つゞきて、御所中もいかにもしづやかにつれ〲なる折からなれば、さま〲の御遊のみにて暮させ給ふ。かゝる程に久太夫は、「折こそよけれ」と思ひて、急ぎ中嶋に下りて、のよしつぶさにりにける。

長慶聞きて、「音なせそ。一段よし。いかにもつゝみて、他言かまひてすべらず」といひて、其の後松永弾正・十河一存三好修理大夫・岩成悦助等をひそかに呼びていひけるは、「仁木右京、諸方のてきを手につけ、今里のへうち入りて、の入ふ上は、つゐにはそれがし、かれがためにうたれぬべし。さもあらば御辺達も命あるべしを覚へず。累年、方のために命を捨てゝ、をの〱苦戦をつくして、其の恩賞には還って死をたまはらん事、に口惜き次第、これにすぎず。さへば、このせつ御所中いかにもしづまりて何のさはりもなきと聞き給へば、うちにをしよせ、一時にほろぼしまいらせて、年来の憤をさんぜんと思ふなり。をの〱を始めとして、松永日向守・同じく頭・同じく殿助、うってにのぼるべし。それがしはに残りて、跡を堅固に守るべし。をの〱が居にも、家老どもを残して、中に有る勢をば、半分宛ぐしてのぼり給へ。のほど西大名の東へくだる情にいひなして。いかにも〱びやかにのぼるべし」とぞ申しける。

各、承って、「一同にのぼりなば、人もあやしみ、万民気づかふ事もありぬべし」とて五十・三十づつ、次第々々にのぼりけり。伏見・木竹田・美須・御牧あたりに宿をとりて、暮れかゝりてへぞ入りにける。

――『室町殿物語

信長公記』では三好修理大夫、つまり三好長慶松永久秀があくまでも犯である。

【史料】

院義照御生同御舎鹿殿其外諸侯之衆歴々討死事其濫觴者三好修理大夫下依成執権内々三好遺恨可被思食と兼存知被企御謀反之由申左右

八年五月十九日に号清水より人数をよせ則諸勢殿中へ乱入(中略)

二男御舎南都一乗院義昭当寺御相続間対御身聊以野心御座之旨三好修理大夫松永弾正かたより宥被申以下略

――『信長公記

【史料】

七年七月廿四日、三好長慶病死す、今年の初めより室町の御所を御造営あり、進藤守、松永殿助を奉行人に定められ、作料の為にとて、摂州上下のへ棟別役を増しかけらる、一軒に二歩づゝを出すべき由、をいはず責めはたるに、乱後の大営課役なれば、畿内辺土の民家困窮して、諸人儀の政を恨みうとむ処にき時節とや思召しけん、波の御所より、三好の三人衆幷に松永を御頼あつて、御上の御企あり、長慶死後なれば三人衆、松永も心替し、当方を背きまゐらせ、ひそかに謀反の企あり、

八年五月十九日清詣と披露して、人数を催し集めけり、その面々、三好日向守、同下野守、松永弾正少弼、同右衛門佐、岩成悦助、松山安芸守、同新太郎

――『総見記』

【史料】

八年五月十九日、三好三人衆松永正親子・篠原謀反シテ、方ノ二条室町武衛ノ形ニテ将軍ヲ討奉ル畠山九郎トテ方ノ近従ノ者、年十四歳ニテ討死ス

――『畠山記』

【史料】

同年ノノ初より室町御所造営有ヘシト進藤某ト松永殿助ヲ奉行人ニ被仰付其作料ノ為ニ摂州上下エ棟別役ヲ課ケ加ヘ一軒ヨリ弐分宛ヲ責取ラル
其外畿内々エ課役有リ
乱後ノ大営ナレハ諸人貧窮ソ畿内ノ庶民等皆ノ御政ヲウトミササヤク
等ヲキ幸ノ時節トシテ明レハ永八年先年逝去有シ冠者義維ノ御子波ノ御所義栄ヨリ御上ノ御事三好三人衆 同山守 松永 篠原ヲ頗ニ頻ニ頼ミ思召由蜜々懇疑ヲ尽サレケル

先年ヨリ毎度事有トへ共長慶存生ノ中ハ二ニ京都ヲ崇敬シテ波ノ御所ノ御味方申セレサルサラニ御請リケルカ今ハ長慶ハ死後也
督ハ幼若也
三好ノ一族執事輩皆ママヲ挙動ケル程ニ何レモ頼マレ奉テ波御所ヲ取立参ラセ京都ヲ討奉ラン企ヲシ既ニ評議一決ス

抑其ニハ御所ノ御作事大概ハ成就シテ御移徒有ケレ共未タ御門ナントモ半造作ニテ不出来
御構ノ疎略ナルヲ好時節ト思慮セシメ永八年五月十九日三好日向守長縁入釣閑 同下野守政康入譲斎 岩成悦助左通 松永弾正忠久秀 同右衛門佐久通 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ輩多勢ヲ催シ清水詣ト披露シテ人数ヲ集メニ起テ方ノ御所二条室町武衛ノ御構エヒタヒタト押寄セ

――『続応仁後記』

『陰徳太平記』では足利義栄の命で、三好義詰が実行したに過ぎない(ここまで突っ込みを入れなかったが、三好方で名前を正確に書かれるのは松永久秀くらいである)。なお、同時刻という違いはあるものの、足利義輝と最期を共にしたのが小従局と割と正確ではある。なお、書かなかったが松永久秀は出てこず、南都には上野信孝長岡孝が一乗院覚慶の討ち手として派遣されたのをそのまま一行が反三好軍となったという経緯である。

【史料】

三好義詰(一本に継)は義栄(一本に臣に頼まれ奉る事の有りければ義卿を奉ち討るべきが為、永八年五月十九日の、室町の御所を取巻きて攻め動かす、御所の中よりも武臣多く討つて出で火に成つて戦ひ、二三箇度敵を追ひ出したりけれ共、多勢の寄手にはずして、皆討死したりける間、義卿も終に御自害し給ひけり、行年歳、円融山大居士とし奉る、御慶寿院殿、幷に御従の御方も、共に御自殺あり、北の御方も既にを御身に加へらるべき所を、三好日向守奪ひ取つて、近衛殿ヘぞ進せける、若君をば抱き奉りて、御花園の石井に身を投げたりけり、かくて御所には火を掛けゝる間さしも殿玉楼敷を悉して、一時に焦土と成るこそ浅ましけれ、

さて南都一乗院覚慶北山鹿院周高の両門は、共に方の御連枝なれば、後の禍ひをや生ずべきとて、義詰、先づ平田和泉守に下知して北山ヘ遣しけり、平田鹿院に参りて方便て誘引出し申し、中夷河の町にて切奉りけるを、供奉に有りける助、太刀抜合せ平田を討ちて、君のを即時に複したりけるが、是も又武士共に切られにけり、

――『陰徳太平記

南海通紀』では、最後にダメ押しと言わんばかりにあれは松永久秀のせいなのであって三好長慶は関係ないし三好も悪くない的なくだりがある。

【史料】

八年五月十九日松永弾正少弼カ籌策ヲ以テ方義ヲ殺シ奉ル其所以ハ三好修理大夫長慶老衰ニ及テ嗣子筑前守義長卒去シ十河一存ノ男義詰ヲ養子トソ世務ヲ譲リ永三年ニ州飯盛山ノヲ渡シ其身ハ摂州仲之ニ隠居ス
松永正義詰ノ執事トシ下ノ柄ヲ取ル
長慶ハ永六年ニ中之島テ卒ス

トモ下乱世ヲ救ン為ニ其死ヲ隠テ世上ニ披露セス
弾正猶以自己ノ櫂ヲ専トシ将軍ヲ蔑如シ三好ヲ軽ンス
方コレヲ憤給ヒテ松永三好ヲ退ン事ヲ謀リ江州佐々木越前朝倉安芸毛利等ニ松永追討ノ牒文ヲ遣サルル由ヲ聞ス

松永コレヲ聞テ三好日向岩成悦助等ヲ呼テ潜カニ談シテ方ノ謀ヲシ給フ事聞給ツラン三好ヲ以テ方ヲ立下ノ人ニ尊マレ給フ恩ヲ忘れレテヲ亡サントノ謀以ノ外ノ結構ナリ緩々トソ大事ニ及ハハ悔ルトモ益アルヘカラス速ニ撃テ根ヲ絶タハ諸ノ兵将ノ拠トスル所アラスシテ当ノ運長久ナラン是ヲニセハノ傾敗ヲ待ツノミ也イカカ思ヒ給フソトケレハ皆ソノ意ニ同シテ陰謀ヲシケル

方ノ謀ハ外方二露見シテ内方ニ隠密ス何ソ其カクレ有ヘキニ愚ナル事也
即其罪身ニ向ヒ来テ其適ヲ受給フ也然シテ松永弾正久秀三日向釣閑 岩成悦介 安富家トモ五人三人宛上京シテ段々ニ兵ヲ増ヌ
方ハヨリ起シ給フ乱ナレトモ御内ニハ何ノ備モナ男女ササメキ渡テ遊ソ催シ計也

(中略)

州飯盛山三好京大夫義詰ハ事ヲ不知シテ京都ニ事アリト聞キ何事トハ知ラネトモ先ツ兵ヲテ三千人ヲ挙テカケ出シ宇治ニ到リケレハ松永弾正 三好日向守カ計トソ方義殺シ奉リタリト告来ル
是ニ因テ路次ヨリ班軍ス
一挙松永弾正 三好日向守カ所為ニシ三好ニハ不知事也
殊ニ長慶ハ永六年卒シテ其後ノ事也
乱世ヲ救販ハン為ニ長慶ノ卒去ヲ密シテ世ニ露ハササル故ニ長慶ノ企也トアレトモ左ニハ非ス
其上御所ノ兵士人ニ過ス執事方ノ兵士六千人ニ及ヘリ外州ノ兵士ヲ催スニ及ハス
殊ニ松永己カ櫂ヲ専トシテ佗ノヲ籍ス三好京大夫ニモ知ラセサル事ヲ以テ見ツベキ松永弾正ト三好氏族ト不快ノ事ハ是ヨリシテ起ルト
十河ノ臣古老口ツカ伝所也

――『南海通紀』

ちなみに、『義昭記』では三好長慶たちが生存している以外は、犯が三好義継松永久通と正確である。

【史料】

八年五月十九日、三好京大夫義継・松永衛門佐久通・三好日向守・同下野守・同助・同帯衛門安宅康・十河一存野口長等相議シ、謀反ヲ企、御所ニ押寄、猛勢ニテ攻ケレバ、御所ニ有合輩ニハ、上野民部大夫信孝・三渕掃部員・飯守信堅。大左衛門佐沼田上野介・其外畠山一色松原・加持・岡部・小姓衆同、僅ノ人数出合、防戦ト雖ドモ、敵多勢ニテ新手ヲ入替攻ケレバ、怺ベキヤウナク、義ヲ取リ、アマタ度出テ戦ヒ、遂ニ薨ジ玉フ

――『義昭記』

また、『州将裔記』、『記』では三好長逸犯っぽい感じである。

【史料】

日向守先に申せし如く永八年に謀反を企。義を討たてまつる。則へ其趣を注進す。

――『州将裔記』

【史料】

日向守申せし如く、永謀反くはだて、将軍をなんなく奉討けり、即へ其趣注進す、

――『記』

なお、あの『太記』にすらこの事件は出てくる。

【史料】

松永久秀て、威勢益々強く、長慶が舎十河民部が男義継を以て長慶の養子となし、一族三好日向守長縁・同下野守政安・岩成悦好通三人を後見となして、京都を守護せしむ。是れを三好の三老臣といふ。皆松永が陰謀に組みせし者なり。永七年三好長慶病死、同八年松永久秀三老臣と計を定め、将軍清水寺に詣で給ふに、路次の警固なりと偽り、帷子の上に具足を着し、兵卒を集むる事三千人、卒に二条室町の御所に押し寄せ、

――『太記』

近世の徳系の史書にもこの事件が載っているものがある。

【史料】

十九日。三好京大夫義継幷松永弾正カ子右衛門佐久通等兵を率ヒ。御所ヲ囲ム警衛者戦死義モ自ラ出テ防戦ニ勢尽テ火ヲ放チ。営ヲ焼テ義死ス。歳三十。

――『日本王代一覧

【史料】

卯。松永久秀征夷大将軍。頃間義稍知三好長慶既死。久秀秘喪専甚不。且聞奉義栄之密謀。修浚隍以備不虞之変然門未成。久秀与其党三好日向守。三好下野守。岩成悦等謀。構三好義次旨。松永久通久秀子。号右衛門佐。及其党率数千騎。伴構詣清水寺乱入中。遂襲幕府。

――『本通鑑』

【史料】

十五日応仁文明以来禍乱究り剰ヘ足利将軍両流ト成テ益綱紀シ威望衰ヘ兵管領細川ニ帰シ是モニシテ其老臣三好僭奪ノ余リ遂ニ細川晴元以来終ニ管領ノ名ノミ有テ実ナシ三好モ長慶後其跡左京大夫義継弱年タルユヘ其一族三人幷ニ陪臣執事松永弾正少弼久秀等通謀ヲ企テ今日相義卿ヲ弑ス院ト諡ス

連枝一乗院門覚慶江州矢島セラレ密ニ義兵ノ調略アリト

――『武徳編年集成』永八年五月十五日

【史料】

このごろ京都には三好太夫義継幷にその陪臣松永弾正忠久秀反逆して。将軍卿をうしなひまいらせしかば。

――『徳実紀』

近世史料だと他にもこんな扱いである。

【史料】

同八年将軍三好長慶

――『皇年代略記』

【史料】

同八年将軍三好長慶

――『皇年代私記』

【史料】

十九日卯。刻。左京大夫義継。三好。弾正少弼久秀。松永。右衛門佐久通同。等率軍勢一万余騎。征夷大将軍臣。二条室町幕府攻之。午。防戦尽。自放火春日第也。征夷大将軍臣。参議左中将従四位下。三十歳。及尼号慶寿院。故准后前関白尚通女歟。下一族従類自殺。同時遣兵士鹿苑寺周暠、故将軍。又一乗院門跡覚慶得業同周暠。南都

――『続史愚抄』

【史料】

八年五月十九日依三好京大夫義継。松永弾正少弼久秀反逆御傷。三十歳。同六月七日贈左大臣従一位殿円融山大居士。

――『足利官位記』

【史料】

八年五月十九日為三好沙汰生

――『足利系図』

18世紀の『綿考録』になると、結局がやったことなのかどうかすらあやふやになっている(うまく再現できなかったが、でもこのころ実は長慶死んでたっぽいよ的な下りは本文ではなく注である)。

【史料】

八年五月十九日、将軍御生、其故は三好長慶妄に逆賊を振ひ、ます〱将軍をも軽しめ奉り、領を侵し所務を奪ひ、驕り弥増に強かりし故、三好御退治之評議区にして、江州の佐々木をはしめ近の勢を被赴孝君は御教書を奉りして他ニ被催御評議之事、頓三好方ニきこへ、間者を入て将軍油断ひ、其身は飯に有なから 一ニ長慶は是より先ニ死へ共、松永等死をかくし喪を発せすと有、ハ永七年七月廿四日長慶死又同五年五月十一日ともあり、 養子義継を大将とし、松永・岩成等一万五千余にて五月十九日之二条の御所を取囲ミ

――『綿考

ついには江戸時代後期の諸本では以下のようにまで言われてしまった(なお、意外なことにあの『名将言行録』にはこの変の関係者は一切出てこない)。

【史料】

八年三好義継松永久秀大和河内よりに打ち入り、五月十九日の刻、殿の館を囲み乱れ入りければ、防ぐ者共は討れ自害す。

――『常山紀談

【史料】

七月、長慶死す。政康・康長及び岩成左通を三好の三党と称す。久秀、これと謀って喪を秘し、また義し、義栄を立てんと謀る。義栄、将軍を冀望し、数々意を長慶に示す。長慶肯んぜず。この年、義二条武衛の第を修め、畿内に課し、特に摂津の戸ごとに弐分を税す。物情然たり。義栄ちその情を以て三党に告ぐ。三党、久秀と議てこれを肯う。八年四月、義に新第に徒り、門未だ成らず。三党相ひ謂ってく、「時失ふべからざるなり」と。

五月、三党、久秀及びその子の久通らと、千余人を率ゐ、人ごとに一枝を佩びて号となし、清水寺に詣づと宣言し、以て京都に入る。

――『日本外史

【史料】

八年、義都市長慶既に死し、るに久秀喪を秘し櫂を専らにするを憂ふ。且つ聞く、義し義栄を奉じてと為すこと、に之に伯ると。は流言す、義将に討つ所有らんとすと、上下危櫂す。義方に第を治し、を修し、溝をくし以て不慮に備ふ。然るに門牆未だからず。久秀謂へらく可なりと。

五月、久秀、其の子久通及び三好長縁・政康・岩成左通等と三好義継を擁し、騎数千を率ゐ、潜かに師に入り、伴りて清水寺に詣づと称し、十九日急に二条の第を囲み、矢を縦発す。

――『大日本野史』

【史料】

八年五十九為三好松永

――『系図簒用』

そしてついに『常山紀談』で以下のように言われることとなる。

【史料】

東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長老翁は世人のなしがたき事三ツなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚たる松永と申す者なり。と申されしに、松永を流して赤面せり。

――『常山紀談

足利義輝の奮戦について

実際のところよくわからない。限りなくリアルタイムに近い『言継卿記』からはの刻から正午2時間程度ったことしかわからないからだ。

一応、ルイス・フロイスらは前述のように記していたが、前日に足利義輝は脱出しようとしたがやめたと記した未だ検証できていないエピソードを書いたのは彼であり、本当かどうかは不明である。

ただし、軍記には以下のように記憶されていくこととなった。要点をかいつまんで言うと、足利義輝の最期については、大きく分けて、よく謂われる障子に圧迫されてで刺されたものと、義自害したものの2通りとその他といったバリエーションに分かれていく。なお、あくまでも生き残った逸話がこれであり、『本通鑑』を見る限り、もっと他にも足利義輝死因はいろいろ伝わっていたようだ。

なお、慶寿院のキャラクター家族との会話などにかなりバリエーションがあり、辞世の句もあの和歌ではなく五言絶句になっているものなどもある。

一応今更だが、松永久秀の欄にほぼ書いてしまったものは省略する。

まず、『細川両家記』には戦いの姿は一切描かれていない。

【史料】

(前略)五月十九日に、二条武衛の御構へ人数押入御生上は、御内衆討死成。御方様は近衛殿の御君成ければ、近衛殿三好日向送り被申由(に)。又御寵殿被申。御袋様慶寿院様は、世にながらへてせんなしとて御自害の由成。御内衆今度御供の人数の事、畠山九郎殿十四、大館千代殿十五、上野兵部少殿細川宮内殿一色淡路殿上野(予)八郎殿荒川治部少殿一色三郎殿武田兵衛殿殿一色三郎殿有馬次郎殿雅楽頭、同孫四郎。摂津千代十三沼田上野介、朝日新三郎、治部三郎、左衛門尉、福弥、結城正、進士美作守、同允、弥、小林新三郎西面三郎弥、弥、慶弥、大弐、杉原兵庫介はを尋出以後生の由に討死切る人も有。以上三十人の由にあはれ申計

御舎鹿苑寺殿路次御生の由。是も御供三人の由

――『細川両家記

それが、『足利季世記』になるとこうなる。

【史料】

カカリケル所ニ松永弾正 三好日向守 同下野守 石成悦 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ族清水寺参詣ト披露シ勢ヲ集メ永八年五月十九日二条御所武衛ノ御構エ奉押寄偽テ方様エ御訴訟アル由申上ケル
進士美作守舎ヲ以テ訴状ヲ々御点ヲ申請ントス
其間ニ御所中ヘ人衆ヲ入レン為也
方様ノ御儀様慶寿院殿ハ御女儀タルヨリ彼等カ訴訟エサセ給ハハ方様御恙有へカラスト思食御点ヲ如何ニモ加ヘ給ヘト啼詢キ御異見アル謀ニカク申トハ露被思食サリケル御心ノ中コソアハレナ
カクテ御使再任ニテ退出ニ態ト時刻ヲ移シ三好方人衆御土居の四方ニ入渡リ一度ニトキヲ作リカケ即ヲ打カケ殿中ニ乱入ル折御当番ノ外伺武士モナカリケレハ徒思ノニ責入ケリ

御所方ニ一色淡路守 有馬二郎 一色三郎成 上野兵部少清 同予八郎 結城正 高伊予守師宣 雅楽頭時直孫四郎 高木右近 小林 河端左近大夫 畠山九郎十四歳 大館千代丸十五歳 一命ヲ捨切テ出レハ徒数十人被打容易ク攻入事ヲ得ス
其時進士美作守舎ハカレラニ方便レ念御使仕事口惜ト申テ御前ニテヲ切ル
カクテ最後御盃ヲ被下皆々御前エ参リヲ給リケル
細川宮内是ハ御前ニアリシ女房ノ小袖ヲ覆ヒ立テ舞カナテケル
最後ノ舞一入出来タリト御感アリカウニ少モ臆霊タル気色モナ

方切テ出サセ給フ御供ニハ治部三郎衛藤 福弥 彌弥 輪弥 武田左衛門佐信豊二男 杉原兵庫盛 朝日新三郎 摂津千代丸十三歳 田部民部 西川新左衛門尉 田弥四郎 松井三郎 西面允 弥 心蔵 荒川治部少 二宮三郎 寺予二 細川宮内 進士允 飯田左吉 木村小四郎 松原三郎 三郎 同仙千代 台弥 弥 弥 大弐
モ不振切テ出四八面突テリ究見ノ敵二余人切捨ケレトモ入替々々責ケレハ人々一人モ不残打死シケレハ残ルハ女性ヤ幼稚ノ人々ナリ

方様御前に利アマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ御勢ニ恐怖シテ近付申ス者ナシ
太刀ヲ拋テ諸卒ニトラサシムル体ニテ重
御手ニカカル敵数輩也サスカ武将ノ御器量コソ勇々シケレト奉誉タウタウタリ
然ルニ三好池田丹後守カ子コサカシキヤカラニテ戸ノカクレテ御足ヲナキテケレハコロヒ給フ上ニ障子ヲ倒カケ奉リ上ヨリ鑓ニテ突奉ル其時ヨリ火ヲカケモヘ出ケレハ御首ヲハ不給
歳ト聞エシ御供ノ輩一人打死也

不思議ナリ方奉打シ池田カ子障子ヲ上ニ奉掩トテ眼ヲ突キ其ヨリイタミテ終ニ亡ニ成リ座頭ト成リテ三好検校トテニ居ケルヲ諸人ニクミケルト聞エシ

テモ方の御儀慶寿院殿モ火ノ中エ飛入失セ給フ
方ノ御寵アリシ小殿ト申女性ヲハシ奉ル
方ノ御方所ハ近衛殿ノ御息女ナレハ三好日向守哀レミ奉リ近衛殿エ奉送ケリ
杉原兵庫盛ハ文庫ノ中ニケルヲ引出テ打テケリ

鹿苑寺殿(周暠)ヲハタハカリ奉打
御供ノ三人トモ自害シケリ

――『足利季世記

かなり描写がマシマシになっており、足利義輝の近臣たちの動向や、最後にを次々と交換して切りかかっていたところ、陰から足をられて倒されて障子で覆われで突かれたあの話が出てきている。
なお、足利義輝を切り倒した池田丹後守の息子にも罰が当たっている。
なお、よく見ると、ルイス・フロイスによれば一緒に襲撃されたはずの周暠が別の場所で殺される場面が増えている。

信長公記』ではこんな感じである。

【史料】

院義照御生同御舎鹿殿其外諸侯之衆歴々討死事其濫觴者三好修理大夫下依成執権内々三好遺恨可被思食と兼存知被企御謀反之由申左右

八年五月十九日に号清水より人数をよせ則諸勢殿中へ乱入
難被成御仰是非御仕合也
数度切出伐崩多に手負せ方様難御動多勢に不殿に火を懸終に被成御自害之詫

同三番之御舎鹿殿へも平田和泉を討手にさし向全刻に御生御伴衆悉逃散
其中に日を被懸美濃屋小四郎未若年十五六にして討手之大将平田和泉を切殺し御相伴仕り高名御当破滅下万民之愁不可過之

――『信長公記

簡素だが、周暠が殺される場面がその下手人と敵討ちに踏み込まれ始めた。

信長公記』を読みにした『総見記』ではこうなる。

【史料】

八年五月十九日清詣と披露して、人数を催し集めけり、その面々、三好日向守、同下野守、松永弾正少弼、同右衛門佐、岩成悦助、松山安芸守、同新太郎等、多勢を率して二条の御所武衛の御構に押寄せ〱取巻きけるが、先づ偽つてへ御訴訟ある由申上ぐる、進士美作守舎を以て訴状をげ奉る、是は其間に御所中へ人数を入れんとの謀りなり、

其時刻ふる間に三好の者共土居の四方に入り渡り、一手の輩一様にの葉を印にさし、一度に鬨を作りかけてを打ちかけ、殿中に乱れ入る、折節当番の外、殿中伺武士なければ、徒思ひのまゝに攻め入りけり、御所方の当番衆一色淡路守、有馬次郎一色三郎成、上野兵部少清、同与八郎結城正、高伊予守師宣、雅楽直 の孫四郎、高木近大夫、小林、河端左近大夫、畠山九郎十四歳、大館千代丸十五歳、者ども切つて出で、合戦数刻に及び畢んぬ、進士美作守は、今敵にたばかられ念の御使仕りふ事口惜しき由申上げて、御前にて切り死失せけり、

方義は武勇の大将にて、御自身、切つて出でさせ給ふ、御供の人々には、治部三郎衛門通、其弥、輪弥、武田左衛門佐杉原兵庫盛、朝日新三郎摂津千代丸十三歳、田民部、西河新右衛門尉、田弥四郎、松井新三郎西尾允、弥、心蔵荒川治部少二宮三郎、寺次郎細川宮内、進士允、飯田左吉、木村小四郎、松原三郎三郎、同仙千代、台弥、弥、弥、大弐、沼田上野介等、一同に突いて出で、敵を四方へ追散して、各討死せしめけり、義御最後と思召し、御辞世を書き置き給ふ

五月雨は露かか時が名をあげよの上まで

方は名を抜持ち給ひ、度々切つて出で給ふを、三好方の池田丹後守が子こざかしき男にて、戸のに隠れ居て御足を薙ぎ奉りければ、ころび給ふところを、障子を倒し掛け奉つて上より鑓にて突する、其時より火を放つて燃え立ちければ、御頸をば取り得ざりけり、御年三十歳、御供討死の者、三十一人とぞ聞えける、

慶寿院殿近衛殿下の御息女なるが火の中へち飛入り、終に失せさせ給びけり、御台所をば、日向守がはからひにて近衛殿へ送り入れ奉る、杉原兵庫盛は文庫の中にび居けるを、引出して討ちてけり、

御舎二人の内、一人は周暠食とて、北山鹿苑寺にまし〱けるを、たばかりて討ち奉る、

――『総見記』

信長公記』が元ネタといいつつも描写はほとんど『足利季世記』にならっており、周暠が殺される場面も簡素である(よく見ると周暠の敵討ちをしたはずの木村小四郎が足利義輝らとともに討死している)。

ついでに『永記』ではこのようになる。

【史料】

一大事と存之処に御館四方に深溝、高壘、長関、堅固の御造作たり。然といへども、未御門下不首尾之前を急いで、御所巻に及ぶべき事、彼一類調談を極め、永八年五月十九日清参詣と号し、より人数を寄せ、其時に当て方様へ訴訟有よし申触て、三好訴状をて、々御点を申請る。其間に御構へ人数を入者也。御慶寿院殿御女義たるによりて、訴訟へ給ふにおゐては、方様御恙有べからずと思召て、御点は如何様にも加へ給ふべきよし啼くどき御意見様々御申。さりともとの御心中の程察し奉りて、見る人聞くもの、袖を温す計なり。是非の御史の伺退出に時刻を移し、御土居四方に入渡て、即を放、殿中に入らんとす。

則御ぎ戦ひ手を砕く諸侯数人たり。中にも進士美作守は今の御使斉。色々方便をせし事を不覚也と憤て自害せしむ。御同弥は鑓にて相戦。則鑓にかかれるもの数十人、御前は御最後の御盃を被下。細川宮内は御前にさぶらはるる女中衆御衣を覆てたち舞体、優にしてをくれたる色なし。

さて御所様は御前に利をたてをかれ、度々取替て切崩せ給ふ御勢に恐怖し、半は向ひ奉るものなし。しからば御太刀を拋て、諸卒にとらさしむる体にて、重て御手にかかるもの数輩也。近衆心ざし有ほどの族は御先にて悉討死す。残れるは女房衆幼稚の類なり。御一所と成つて、幾千万の軍兵に戦せ給ふ哀、項羽十万騎兵、僅に廿八騎に討漏されて、万余騎を掛破て、大将三人の首取て鋒に貫し類とも可申

鹿苑寺殿へは平田和泉といふ者さし向。同刻御生御供衆悉逝去といへ共、其中に日来御をかけられし美濃屋小四郎若年たりしが、即座に平田を討てけり

――『永記』

足利季世記』等のダイジェスト版に文学表現マシマシになっている。

『後太平記』ではこうなる

【史料】

八年五月十九日東山詣且遊と事寄せて兵ども呼集其勢三千々を固させ其後三好日向守 同下野守 松永弾正少弼 同右衛門佐 岩成悦助 松山新入謙斎 御所の三方を打囲東門鬨を噇と作ば西北是を請謀合々たる天一時凱歌を挙たりければ発してすわ動が千の雷電世界の壊滅時かと肝を動かし膽を冷て驚愕す御所中には斯る企ありとは夢幻にも不思未醒熟眠す

高門の守護人走り入て敵寄せぬ呼しかば宿直の面々驚を擦々起立敵とか不審や畿内謐り四夷は君恨なし唐土南古が攻寄たるが内勢なればこはそも大事ぞと周章騒ぎ太刀争鑓を論じ具足を着れども甲を不着を取て矢を忘乱して心不穏手に取り足に踏所悉く其気に不順

去程三好が兵共鬨作や否上擡手に攻入んとぞ進ける敵を御所内に入立てば甲斐あらじ防げ人々と将軍自再拝取て大庭出させ給へば心得たりと訇て先一番出る人々には畠山九郎 大館 一色淡路守 結城正 雅楽頭 同孫四郎 沼田上野介 同与八郎 高木近大夫 一色三郎 河端左近大夫 牧三郎 京極兵部少 小森 彼等を宗徒勇士とし正兵突気二大庭討出を専度と防ぎ戦ひ大門を込出し込入られつ七度こそまくりける

去れ共多勢にて引て入二番 杉原兵庫頭 武田兵衛佐 朝日新三郎 谷口民部 治部新三郎衛門尉 同弥 輪弥 臨済心蔵 同弥 西河新右衛門尉 田弥四郎 松井次郎 坂田次郎 西面允 宗徒勇士八十騎鑓先をを並散々射たりけり大勢の込たる中なればあだ矢は一筋もなく門外に横はる屍は一時の山築石階崩すに不異

去れども敵は大勢荒手を入替々々喚き呼て攻寄たり三番 細川宮内 荒川治部少 二宮次郎 上野兵部少 寺三郎 飯田兵衛尉 木村小四郎 三郎 同仙千代 松原三郎 同弥 慶弥 台弥 弥 今を最後と進出鑓先より火焔を出防戦へば三好が兵も玉箭に当て死し痛手負者庭下に算を如

去ども屍を飛越へ乗越へ垣に攀上後日天罰をも不恐先と功名を争揉破んと込入ば御方も今は戦は討れは痛手を負て不進得

去程太は敵はや御所に攻入りぬと聞給ひ今ははじ自最後の合戦し悪逆原矢一筋射付命の中を報じ憤の黄泉の底も少し恨謝んと長をつ取伸出させ給けるを儀慶寿院殿御袖取付給暫し待たせ給へ御方千騎騎一騎討大将軍は其場在て士卒の成果をも見届申者とかや日人の申せしを聞つるぞ御内外様武士共も敵通路を支られ御所へ入事不して三本に勢して扣へたりと聞へしかばて馳参るべしと泪咽諫給へ共太今は極運時を待計なれば辞するに不遑大庭討出給貯へ置給ひし金銀宝重器を敵の中投入給へば欲に溺る兵共是を奪取らんと塀を越勝をかなぐり呼々で押込ける思儘敵を引請給

取伸塀に掛りし原をば胴切はらりと切切づぶと切り給へば数多の徒屍を外横へ首はつ御跡継く兵には細川宮内 杉原兵庫頭 朝日新三郎 谷口民部死を一極右点左点変化自在に戦しかば究竟の敵片時の掛させ給ける是ぞ項羽江の軍自を携へ敵当る競もやと思はれて勇々しかりし形勢也

て御方を顧給に僅六七騎には過ざりけり今はよと殿中掛入玉最後時移なば雑人原の手懸り末世人口嘲如何疾と宜へば同弥承て御殿に火を放つ其間心静に御めされ火裏飛炎滅の烟と共御歳廿九歳にして消させ給哀とも愚也

慶寿院殿同御殿入せ給しを女姓殿原取付こは如何成御事ぞや斯る例は世になきにていはず一先南都の方へもせ給と取々諫申せ共思切給て朝日待間の露の身を何存命て益やあり迚も遁れぬの末四手山三も手と手を取て同し台あらばやと御死骸抱き付共に烟と成せ給ぞ哀さよ

其外上臈端下至炎の中身を焦す聞にを哀を被促見に不止呼々下の将として仁義暗昧の代を保斯る墓御消息哀なりし事共也御代を継せ給て十六年のの中も電移る間よりも殿楼閣玉粧の台も一時の烟とぞ成にける

――『後太平記

よく見なくても足利義輝の最後が全く異なっている。なお、慶寿院の描写がだいぶ多い気がする。

『続応仁後記』ではさらにこうなる。

【史料】

御構ノ疎略ナルヲ好時節ト思慮セシメ永八年五月十九日三好日向守長逸入釣閑 同下野守政康入譲斎 岩成悦助左通 松永弾正忠久秀 同右衛門佐久通 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ輩多勢ヲ催シ清水詣ト披露シテ人数ヲ集メニ起テ方ノ御所二条室町武衛ノ御構エヒタヒタト押寄セ先ツ偽テエ御訴訟有ル由申シ入レ進士美作守舎ヲ取次ニ頼ンテ一通ノ書状ヲ差上ル
是ハ其隙ニ御所ヲ囲ミ人数ヲ賦テ乱レ入ントノ謀也

抑一族多勢ヲ徒党シ御所ヲ囲テ讒訴ノ例昔日貞和ニハ高武州師直多勢ヲ将テ等持院殿近衛東洞院御所ヲ囲ミテ上杉畠山等ノ讒臣ヲ申シ請又去ル文正ニハ山名入全一ヲ尽シ大軍ニテ慈照院殿ノ御所ヲ取巻テ斯波ノ督ヲ回復シス其例有ル事ナレハ今度モ一先ツ三好ノ申処御承引マシマシ騒動ヲ御鎮メ可然思召由御慶寿院殿ヨリエ御異見有リ
是ハ女中カカル野心ノ企共思召ヨラサリケル御心ノ中哀也

テ御使再往ニ及ヒ参上退出ニ態時刻ヲ移ラセテ寄手ノ人数等思フ
ニ御所ノ四方ニ入リ渡リ総軍皆一党ニ葉ヲニ差シ是ヲ寄手ノ相験ト多勢一同ニ鬨ヲ作テ攻駆ル
斯ニテ紛レ寄手ハ謀反ト顕レケレハ御所中弥々騒立ツ折即当番ノ外御所中伺ノ人シテ徒思ノ儘ニ塀ヲ乗越乱レ入ル
当番ノ面々一色淡路守 同又三郎成 有馬次郎 上野兵部少清 同予八郎 結城正 高伊予守師宣 雅楽直 同孫四郎 高木右近将監 小林 畠山九郎十四歳 大館千代十五歳 河端左近大夫以下一同ニ切テ出命ヲ不惜防戦フ
寄手の徒切立ラレテ数十人討レケレハ容易モ攻入難シ

進士美作守舎ハ今彼等ニタハカラレ訴状ノ御取次仕切リ口惜キ次第也等若シ二心トヤ思召サン念也ト言テノ御前ニテ切死タリケリ
沼田上野介ト福弥ハ私ノ宿所ニ在ケルカ乱ヲ聞テ駆着ケレハ敵ハヤ御所ヲ取囲ンテ其儘駆入事不
葉ヲニ差シ敵人ノ真似ヲシ紛入テ御勢ニ加リ防キ戦フ

寄手ハ多勢御所ハ勢九ノ一毛対用スヘキレハ思召切リ御最期ノ御宴有ヘシトテ宗徒ノ者共ヲ御前エ召サレ御盃ヲ下サレケルニ細川宮内是ハ御前ニケル上臈女房ノ小袖ヲ取テ頭ニカフリツト起テ一差舞ヌ
是ヲ御覧シテ最期ノ舞程有テ一入出来タリト御笑有ケル
加様ニ皆人ワルヒレタル色ナケレハ御快御気色ニテ御硯ヲ取寄せラレ上臈女房袖上ニ御辞世ノ御詠ヲ書留給フ
其歌ニ

五月雨ハ露カカ名ヲアケヨノ上マテ

ヨリ方ハ名数多抜置レ取替取替切テ出サレ給ケルニシト御供シテ切テ出ル
細川宮内是 治部三郎衛門通 其弥 輪弥 武田左衛門佐 杉原兵庫盛 沼田上野介 朝日新三郎 摂津千代丸十三歳 田民部 西河新右衛門 田弥四郎 松井新三郎 西面允 同弥 心臓 荒川治部少 二宮三郎 寺次郎 進士允 飯田左吉 木村小四郎 松原三郎 三郎 同仙千代 台弥 弥 武弥 大弐等方ノ御前ニモト立塞テ究見ノ敵二余人討取テ一人モ不残討死セシム

方ノ御手ニ掛給テ切給者幾等トフ和シラネハ敵徒皆懼レテ近着モノモシ所ニ敵方ノ池田丹後守カ子池田ノ某コザカシキ男ニテ密ニヒ寄テ戸ヒラノ陰ヨリフト立出鑓ヲ以テノ御足ヲ薙払ヘハ其ママウツニコロハセ給ケルヲ多勢寄合テ上ヨリ障子ヲ倒シ掛ケ奉リ終ニ敢モ鑓ニテ突セ奉ル
ヨリタル猛火一同ニ燃掛リケル程ニ御頸ヲハ給ハラス
御歳三十歳哀レト申スモ恐レ有リ

同キ場所ニテ御供ノ討死ノ士三十一人トソ聞ヘシ
慶寿院殿ハ尼ノ御身ナカラ一筋ニ思召切リ焔々タル猛火ノ中エ飛入ラセ給ツツ即失サセ給ケリ
方ノ御台所ハ当近衛殿ノ御息女ナルヲ日向守長縁カ計ヒニテ近衛殿エ人ヲ附ケテ送リ入レ奉ル
方御寵有シ小殿ト申セシ局ハ雑兵等情クモ討殺シ捨タリケリ

テ御所ヲハ焼払テ寄手各々帰シケルカ末世トヘ共不思議也シハヲ撃奉リシ池田ノ某シ其時倒シ掛ケ奉リシ障子ノニテヲ突テ其レヨリ痛ミ両眼盲ニ身ヲ立ヘキ様モ三好ノ助ヲ得テ座頭ト成リ京都ニ住シ三好検校トルカ然モ長生シテアレコソ方ヲ伐奉リシ悪人也ト世上ノ人ニアサメラレシヲ近キノ人モ皆覚ヘテリ伝ヘヌ

ノ御舎御両人マシマシルカ先年ヨリ何レモ御出ナルヘシトテ一人ハ覚慶得業ト御名リ一乗院ノ門跡ニ立定マラセ給フ
当時和州南都ニ住セマシマシケレハ今日ノ乱ニ不合給

今一人ハ未タ御童形ニテ周暠食ト申シ奉リ北山鹿院ニ入ラセマシマシケルヲ今日是ヲモ撃奉リレトテ三好ヨリ平田和泉守ト者ヲ北山エ討手ニ差遣わス
平田先ツタハカリ奉テ鹿院エ入リ御食エ申シ上ルハ三好ノ者其エ恨ヲ合テ撃奉リヘ共当御所ヲ御督ニ立奉ラントテ其ヲ御迎ニ参ラセ疾々御出ニト申上ル
食モ二心トハ知シ召レサリケルカ平田ヲ御供ニテ疎京都エ出サセ給フニ其路次ノ夷ヲ渡ラセ給フ時平田太刀ヲ抜キ情クモ御後ヨリ終ニ周暠食ヲ伐奉テ御頸ヲ揚タリ
近仕ノ者共驚テ恐散タル所ニ京都小川リノ商人ノ子ニ美濃屋小四郎トテ生年十六歳ノ美少年常に御寵有テ時モ御食ノ御供シケルカ是ヲ見テヲ抜切テ駆リケル程ニ終ニ平田和泉守ハ小四郎ニ切殺サレ小四郎ニ亡君ノヲ報シケリ
ノ落首ニ

クルブシモヌレヌ小川ノミノハ命取ラレヌル哉

――『続応仁後記』

『続応仁後記』ではさらにシーンが詳細になり、進士晴舎切腹細川是の舞の間に沼田上野介と福弥が外から駆け付ける場面が挿入され、細川是の舞は全員で見ておりあの辞世の句も出てきている(なお、カッコウではなく当時はほぼホトトギス読みなので現在知られるものと変わらない)。

辞世の句に関して『義俊院贈左府追善和歌序』にはこうある。

【史料】

さいつ頃三好松永といひて世にむくつけきものゝり。いにし卯月のすゑつかた。大和河内よりのぼりつどひぬ。細川右京大夫といひしは譜代の従者のあいだにてるを。そむきはてゝよりこのかた。及なきのうへまで聞えあげ。征夷大将軍の御紋をも心に残る事なく成のぼりりて。みてるをかくとやいふばからん。過つる五月の十九日の刻ばかりに何の故ともなく御かまへの内に押入ぬ。

御はらからの鹿苑寺殿平田和泉守と申すものを御むかへに参らせて。北山より御出のほどにてまづ討奉りぬるを。御供にさぶらひける人年の程十三四の小童の有つるが。たち所にて彼平田を討とりぬ。ちかき世に稀なるはたらきとぞ申ける。

そのまゝ殿中おまし所へ乱れ入ぬれば。慶寿院殿もながらへても何かせん。殿とおなじにとおぼしさだめけり。御先にすゝみ出て討死するものあり。又文字にきるものもあり。当番の外は厳しく警固をすへて一人も入ざりしに。こゝに沼田上野介と福弥といふ者あり。敵の相じるしを見とがめ。の葉をこしにさして。そとより内へはしり入。日来の御を自ありけるは。かやうの時の御用ぞや。々をはじめ先がけして軍はをちらすべし。具足はきるもきぬ人も。しげる夏草の。友ずりにみがくれて。も〱とうち出ば。しばしのひまに御をひがし河原にかけいだされば。御当さらにあひはつまじと。をながし福弥が度々いさめ申上れば。妙の気づかひかなと仰もあへず。

をの〱が討死したらん其跡に。残らせ給ふ事あらじとおぼし定め給ひつゝいどみたゝかひ給へるが。ちから及び給はねば。御をめされりぬるきはに。

五月雨は露かかほとゝぎすわが名をあげよの上まで

と。御自筆にて残されける。

――『義俊院贈左府追善和歌序』

『室町殿日記(室町殿物語)』ではこうなる(ここだけでもかなり長いので、周暠と平田和泉木村小四郎の下りは割愛)。

【史料】

五月十九日の半ばかりに押し寄せけるが、兼ねて評議しければ、ひそかに御所をひし〱とぞ取り巻きけり。先づひがしの手は、三好修理大夫は四五十にて、三本木東洞院に本を立つる。南は烏丸春日おもて、松永弾正少弼久秀、室町は大門大手口、十河一存にて押し寄する。西大路は三好三百五十帯の地蔵堂をうしろにあてゝどりけり。北は室町勘解由小路烏丸馬場、是は岩成助六にて押しよせけり。御所中には、旧臣・武功の人々は、方々の宿所に帰りて一人もなかりけり。外様のさぶらひ、さては小姓衆・同ばかりにて、何の用心もなくしづまりかへって見えけるに、四方よりも波をどっとあげにける。

のこゑに御所中驚きて、うへもしたも一同におきあへりけり。されども表の番所にありあふ人々、矢倉にあがりておもてを見けるに、たいまつを万燈のごとくにたてゝ、ほり際近くつめよせ、も〱とにつかんととび入りける。

すこしもさはぎ給はず、「討は何ものなるぞ。さだめて長慶入にてあるらむ。か有る。敵のやうを見て帰れ」と仰せられければ、沼田上総介うけ給はって、大手の門矢倉にはせあがって、大音あげていふやう、「こよひのうちは何者なるぞ。なのれ、さかん」とよばはりければ、十河一存進み出でて、「三好長慶、年来の遺恨をさんぜんために、罷り向ってぞや」とぞ申しける。沼田帰って御前に参り、「大手の門へ、のごとく詰めよせ。人々出で合ひてふせぎ給へ」といひすてゝ、をのがふしどに入りて、よろひを取り出し、さる間こそ遅かりけり、甲の緒をしめ、二人ばりの持ちて走り出づる。敵、いやがうへと詰め寄せて、門を打ち破り、さきにと乱れ入る。畠山一色杉原屋・大・加持・岡部などの小姓がた、さては同十五六人には過ぎざりけり。も〱とよろひなげかけ、甲をきるも有り、はちまきをしけるも有り、思ひ〱に六具をしめて、東西南北に切って出で、よせ来る敵をおふつまくっつ責め戦ふ。

かゝる内に、義、重代の御させなが、鍬形うったる五枚甲の緒をしめさせ給ひて、重廿四さいたるゑびらを付けさせたまひ、玄関に出でたまひ、さしとり引き詰めさん〲に射たまへば、死生はしらず、毛よき武者七八人、矢を負ふてぞふしたりける。御所中の人数上下二ばかり成りけるが、四方へうちまはり防ぎければ、いづくに人有りとも見へざりけり。寄手、あら手を入れ替へ、息もつかず攻めいりければ、御所方の人々、あるひは討死、あるひは痛手・薄手をかうぶりて、めん〱にじがいしうせにけり。方御覧じて、常弥・円弥・一色などをめして「今はゝや自害すべし。重代の宝物などをちろいだして、火を付けよ。さては・きたの御方・わか君などを自害すゝむべし」と仰せ出されければ、をの〱にむせんで御返事もさだかならず。

されども、敵四方より殿中へ乱れ入れば、いかに思ふとも甲斐あらじと、慶寿院に参りて、かくと申せば、「兼ねて心得たり。が身はとし老ひぬれば命をしからず。方・北の方、思ひもよらぬ死をし給はん事こそ、かなしけれ」と仰せられて、しばらく御泪にむせび給ふ。そのゝち西にむかはせ給ひて、の御名をやゝしばらく唱へさせ給ひて、守りがたなを御むねに突き貫き、うつぶしにさせ給ふ。北の御かたも、はや御用意したまひけるにや、きすゞしをめしかへさせ給ひて、常にねがはせ給ふ釈迦牟尼を、ねんごろに拝み給ひて、其の後、念仏十ぺんばかりとなへ給ひて、守りを心もとに押し込み、「南」とばかりを最期にて、うつぶしにふし給ひ、あしたの露とぞ消へ給ふ。あわれといふもあまりあり。御是を見て、「涼しくも見せさせ給ふものかな。らもかやうに御供申し度くへども、ねをびれたまふ若君をみれば、もくれ、こゝろも消えて、よみぢのさはりと成りやせん」と、かきいだき奉りて、前後ふかくに見えけるが、はや殿中に火かゝりて、猛火さかんなれば、ちからなくはしり出でて、東おもての園にかけ入りて、岩井の中へ、わか君いだきて入りにけり。むざん成りとも、なか〱申すもおろか成りけり。小宰相・小従・にしむき・春日の局・うなみのつぼね・丹波の上らう女房三十二人、中居・はしたにいたるまで、八十ばかりの女ぼう達、ほのほのうちに飛び入りて、ひとりも残らずうせにけり。

て時刻もうつりければ、敵方々の御殿に乱れ入りて、おめきさけびて、手にあたる御宝ども、ほのほの中より奪ひとってぞ出でにける。人々是をにくしと、さし取り引き詰め、さん〲に射る程に、矢場に十四五人ふしまろびてをめきける。

さるほどに義、人々のいまはゝや御自害ときこしめし、「さては心やすし」とて、御きせながをぬがせ給ひて、西に向はせたまひ、御硯をよせられ、御辞世をぞあそばしける。

を抛って諸有をす。
又何ぞ鋒鋩を説かん。
転身の路を知らんと要せば、
火裏清を得。

筆を捨てゝ、御文字に切り給ひて、永八年五月十九の、あしたの露とぞきえさせ給ふ、御くわほうのほどこそかなしけれ。

君すでに御自害おはしませば、日ごろ御なさけりし小姓中、又は譜代の同中、患ひ〱に自害しけり。殿々に火付き、楼閣一時にもえあがりければ、中にかくれなく、上下に有りける旧臣、いづれも驚き、手あやまちと思ひて、すはだに具も持たせず、四方よりかけ付けけれども、義長がむほんと聞きてければ、むかふべきやうもなく、御所の近辺には、・人・手負・死人ども引きいだして、かしこにさんをみだして見えにける。ちからなく、をの〱宿へぞ帰りにける。去る程に、すでにあけゝれば、在に諸勢をしこみて、穀をうばひとり・人こそはたすかりける。

――『室町殿物語

ちなみに『南海通紀』も参照してみよう。

【史料】

五月十九日ノ中ニニ大軍四方ヨリ取囲ミトキヲ作ル
少モサワキハスソ敵ハ何者ソ問ヘト被仰ケレハ沼田上総介承リ門楼ニ上リ今討ハ何者ソ名ノレ聞ント
武者一騎ススミ出テク君ノ御陰謀顕レテ三好殿ノ代官トシ松永弾正久秀馳向テ四方八面大軍ノ囲ヲ受給ヘハ洩ル所更ニナシ疾々御サルヘキ也ト

沼田御前ヘ参リ三好松永謀反ニテナル御自害ヲ急給フヘシト申ス
聞シメシテ察タリ彼原ニ一矢射ントテ日来御嗜ノ事ナレハトリ合セサシ詰メ引詰射給ヘハ矢ニハニ十余人射殺シ又太刀ヲ捕テ十余人伐セ給ヒテハ快シ是マテ也トテ引入給フ

御所中ニアリ合フ人々ハ沼田畠山当番ノ士十余人児扈従同胴十五人名字ノ士五十人ニハ過サリケル
敵ハ松永三千余人 芥川三好日向六百人 岩成悦助五人 中ノ奉行人五十人ツレテ事ノ子細ハ知ラネトモ松永方ニ馳来テ御所ノ四方尺地モ残サス囲ミケ

御所ニハ亀井能登今日大将軍ヲ賜テ兵士を下知シトモニ長ヲ持テ込入ル敵ヲ払出ス
松永カ千峰ニ中村フ者一番高名シテ従ニ渡シヲ取テ渡リ合互ニ挑戦シカ中村勝能登守ヲ討ツ
御所中ノ兵士身命ヲ捨テ戦ヒ生ヲ遁レントスル者ハ一人モナ

今ハ是マテト思シ召シ御御台所ト当弥円弥ヲ以テ御自害ヲススメ将軍ノ宝物ヲ焼テ御年三十ニソ自殺シ給フ
尊氏ヨリ十三代義ニ至リテ断絶ス

――『南海通紀』

南海通紀』に至っては全に原くなり、『足利季世記』などで描かれた場面は何もない

朝倉始末記』では朝倉義景本人がかかわっているわけではないので、あっさりである。

【史料】

松永弾正トアリ本ハ名モナキ者ナリシカ三好ニ随逐イツナク勢ヲ得遂ニ大和ノ守護職トナリ奈良ノ多門山ヲニ構テ南都京都ノ成敗ヲリケルカ修理大夫モ老衰シ子息筑前守義長モ世シケル程ニ十河氏ノ子ヲ取立テ三好ニナシ左京大夫義継ト号シツヽ松永中ヲ恣ニ進退マサヽリシニ潜カニ三好ヲ勤メツヽ左京大夫義継幷ニ松永カ嫡子右衛門佐久通両大将トシテ一万兵ヲ引率シ永八年五月十九日清詣ニ事寄セテマタノ深キニ何トハ不知陽東山ノ御所ニソ推寄ケル

其頃ハ畿内暫ニシテ御用心モ可有折ナラ子ハ当番ノ外伺武士リケル程ニ徒思フ図ニ攻入テ義不慮ニ御生サレケリ北山マシ〱ケル鹿殿ヘモ平田和泉者ヲ越方便ツヽ遂ニ恵ニテ撃奉ケリ

――『朝倉始末記』

『太記』では豊臣秀吉には全くかかわりがないので、あっさりである。ただし、もしかしたら刊本の編纂過程の誤りかもしれないが、池田丹後守の息子ではなく、伝言ゲームを続けるうちに池田丹後守本人になっている。これがおそらく戦後出たムック本コピペされまくることとなった。

【史料】

七年三好長慶病死、同八年松永久秀三老臣と計を定め、将軍清水寺に詣で給ふに、路次の警固なりと偽り、帷子の上に具足を着し、兵卒を集むる事三千人、卒に二条室町の御所に押し寄せ、波を作つて攻め入るける。

将軍の近士上野一色木・部・有馬小林大館富山が輩、手痛く防ぎ戦ふといへども、元来不意の事なれば、甲冑の着たる者なく、三好松永が多勢に取込められ、討死する者三十一人、義も今は是れまでなりと思召しければ、辞世と思しくて、「五月雨か露かか時が名をあげよの上まで」斯くなん詠じ捨て給ひて、御を抜き持ち駆け出で給ひ、鎧武者三騎切り倒し、多勢を懸け進み給ふを、三好が郎党池田丹後妻戸の蔭に隠れ居て、御足薙ぎて打倒し、障子を以て押せ奉り、上よりにて突き通す。

時御殿の内火燃え出て、烟御所中に満ちて、御首を取り得ずして退きける。義御年三十歳、嗚呼日は如何なる日ぞや、足利十二代の逆心のために弑せられ、永く下のとなり給ふ、武運の末こそ悲しけれ。

――『太記』

『綿考録』では細川藤孝が直接かかわってるわけではないので、あっさりである。

【史料】

養子義継を大将とし、松永・岩成等一万五千余にて五月十九日之二条の御所を取囲ミ稠敷攻入間、当番の諸士防き戦ひ、残りすくなに討れ、義も御手を砕かれ、終に御自害被成、慶寿院殿をはしめ御簾中も若君も同時に御生也、孝君事を被聞召、事散して後なれは、折あしく居合たまハさる事を御悔被成、上は御連枝之内を御取立、三好を可被討亡と御思慮被成へ共鹿院周暠は出させ参らせ、たはかつて殺し

――『綿考

『本通鑑』だが、まず本文で義自害説を記している。しかしその後乱戦中池田丹後守の息子に切られて障子を覆われて殺された説(いつものやつ)、渡辺綱がの男を射殺したら足利義輝だった説、簀子の上から矢を射かけられ続けた説。等多数紹介している。なお、長いので省略したが、美濃屋小四郎とは別に木村小四郎がさらっと登場している。

【史料】

久秀等兵外。構有訴望之事。入営門。以進士晴舎之。其間。久秀出招諸軍。諸軍囲幕府。揚げ言。聞幕府欲滅三好族及久秀。未知輩有何罪哉。言未畢発大放。義慶寿院泣。大変生。将軍幸免則足矣。雖何等之訴宜任彼心。

時宿直之士不多。然一色淡路守。有馬次郎一色三郎成。上野兵部少清。上野八郎結城正。高伊予守師宣。雅楽直。其孫四郎。高木右近。小林。河端左近大夫。畠山九郎。十四歳。大館岩千世丸。十五歳。等暫拒雖却敵。敵多競来。一色有馬等十余輩皆戦死。衆議奉義欲逃去。然賊党囲厳不能脱。進士晴舎等老族被欺。鎖営門至自殺

残士。賊勢甚逼願賜一盃。死義。義威之各勤細川是被女衣起舞。義壮之在諸士聞幕府有変。各会三本木。謀救之。。賊徒甚多。救之益。不如立新催兵。以再義兵。。不計多寡。往戦死。衆口不浅。治部三郎通。其弥馳到府門。人各有兄弟欲死義。幸許入門。賊等威之。解囲納之。義憐其志欲脱之謂治部往呼三本木兵来。治部。事急。臣不雖御座。有簾工小次郎者。雖不為士人。常懇遇。聞雖趨来戦士。既賊兵群進。

自乗。把長出。武田兵衛佐信杉原兵庫盛。朝日新三郎摂津糸丸。十六歳。谷口民部。。細川衛門尉。田弥四郎。松井次郎西面助。治部三郎。福弥。輪弥。全弥。儈心臓従之。荒川治部少宣。二宮次郎。寺三郎飯田左吉。木村小四郎。杉原三郎三郎千代。台弥。弥。弥。大弐等軽死拒賊。

欲再戦。其慶寿院引袖泣止之。松永久秀。幕府兵寡。然移時未者。其畏憚武将乎。宜登隣放矢犯之。義猶一快戦。金銀庭。賊徒聚争之。義率残士競馳奮戦殺賊余人。揚言今為賊臣松永損命。老賊何逃天罰哉。唱時世称。抛諸有。又何説鋒鋩。要知転身路。火得清。唱畢授幼童。放火営中自裁。時歳三十。

慶寿院自殺投火中。残士十八人自殺

――『本通鑑』

かくして、江戸時代後期にはこのようになる。

【史料】

八年三好義継松永久秀大和河内よりに打ち入り、五月十九日の刻、殿の館を囲み乱れ入りければ、防ぐ者共は討れ自害す。沼田上野介と福弥と言ふ者、敵の相印の葉をに挿して、外より紛れ入り、殿の御前に参り、等二人を始として防ぎ箭仕り、思ふ程戦ひはん。其間に日させ給ふ足の御に召され、東川原に駆け出でさせ給はば、御運を開かせ給ふべき、とを流し申しければ、忠義の志妙に申しつるよ。然れ共等討死したる跡に残り留る可きや、とて散々に防ぎ戦ひて終に自害有りける。其のきはに、五月雨は露かかほととぎすわが名をあげよの上まで 自ら筆を把りて書き残し給ひけるとぞ。

殿鹿苑寺の周暠と言ふ者有りしが平田和泉守と言ふ者迎ひに遣し、北山より出でたるにて討取りしに、供せし十三四の童ちに彼の平田を討取りければ、世の人褒め合へり。

――『常山紀談

【史料】

五月、三党、久秀及びその子の久通らと、千余人を率ゐ、人ごとに一枝を佩びて号となし、清水寺に詣づと宣言し、以て京都に入る。またその備を紓めしめてこれに逼らんと謀り、佯つて訴状を奉じ幕府の近臣進士晴舎に因つて、これを義に納る。義慶寿、義に謂ってく、「劫して訴ふるは、師直・宗全の故事のみ。今た当に且くその請を聴し、以て事を計るべし」と。舎、往復再三す。して賊に幕府に傅り、四面より閧して入る。一府中、大に驚く。

宿直の者、一色成・上野清・高師宣彦部晴直細川是・武田杉原晴盛三十余人、鋒を聯ねて突出し、薄して賊と闘ひ、数十人をる。く、「悔ゆらくは賊に誑され、君をしてを疑はしむ」と。ち自して死す。

この時に当り、府兵、帥に在る者、変を聞いて三里に聚る。く、「速にこれを救はん」と。く、「衆寡敵せず、救ふも益なきなり」と。治部通、その弥、沼田某と奮ってく、「死あるのみ」と。を提げ馳せて府門に至り、呼んでく、「れ、将軍とともに死せんと欲す。願はくは入るを得しめよ」と。賊許さず、すなわち枝を佩び、賊に混じて入る。

則ち義、方に衆を会して決飲す。三人の者をんで、脱去せしめんと欲し、く、「出でて来らざる者を招け」と。三人の者、辞してく、「これを他人に命ぜよ」と。義、絶命の辞を為り、これを人の衣袖に書す。く、「足利氏運命ここに窮る」と。伝家の宝刀十余口を出し、更々取つて出でて戦ふ。折す。因つて庫を発き、尽くその宝を庭に散ず。賊争つてこれを攫む。義、三十余人と、従つてこれをし、殺傷過当なり。してが兵、終に皆これに死す。義、猶ほ奮戦す。賊敢て逼らず。賊池田某、陰より跳り出でて、義の足を刈つてこれをす。賊、堆集し、障をその上にし、を攢めてこれを弑す。

遂にそのを殺し、夫人近衛氏を脱す。慶寿、大に慟してく、「将軍死せり。老婦何ぞ生くるをなさん」と。火を縦つて自ら焼殺す。池田を障に傷き、後終に盲して癈人となり、行々に乞ふ。師の人、して以て弑逆の報となす。

――『日本外史

【史料】

五月、久秀、其の子久通及び三好長縁・政康・岩成左通等と三好義継を擁し、騎数千を率ゐ、潜かに師に入り、伴りて清水寺に詣づと称し、十九日急に二条の第を囲み、矢を縦発す。義、左右に謂つてく、敵はと為すと。沼田上野介馳せて門楼に登り、呼んでく、夜襲する者はぞ矣、に須らく名を掲ぐべきなりと。一兵前んでく、君の陰謀発覚し、為めに三好の代官松永弾正来り攻む。更に洩るる路有るべからず、疾く応に死を決すべきなりと。沼田入りて報ず。

、慶寿太夫人涕をぎ謂つてく、変遽に至る、将軍須らく免るべし、渠等の訟する所、げて其の意に応じ、以て社稷を保つべし矣と。時に宿直の士多からず。畠山九郎・一色淡路守・上野兵部少大館岩丸・結城正・沼田上野介・彦部晴直孫四郎・高木近大夫・小森・河端左近大夫等、防御奮戦し、賊輒ち前むを得ず。謂ふ将軍を奉じて走れ矣と。然りと雖も賊党四面を円繞し、門戸塞せり。

進士晴舎憤怒してく、て老族 久秀をす の為に欺かれ、く四門を鎖さずして以て斯の難に及ぶ、千たび悔ゆとも術しと。闘して死す。衆義に謂うてく、賊勢甚だ偪れり遁るべからず矣、希はくは一を賜はりて快く死なんと。義感泣して即ちを薦む。細川是、女衣を被り起ちて舞ふ。義之を壮とす。時に治部三郎通・弥、変を聞いて馳せて府門に至り、呼んでく、人各有り、兄弟義に死なんと欲す、謂ふ幸に門を開けと。賊徒感じ、囲みを解いて入れしむ。義、其の志を憐み、治部に謂つてく、子往いて三本木の兵を呼び来れと。対へてく、事既に急なり、須臾も側を離るべからざるなりと。又た簾工小次郎なる者有り、て恩遇をる。変を聞いて趨り入りて死せり。

自らを揮び、出でて捍戦す。通・福弥・輪弥・武田杉原晴盛朝日三郎摂津糸丸・谷口民部西川新右衛門田弥四郎・松井次郎西面允・心蔵弥等先んじ進み、禦戦奮闘し、死傷する者多く、賊の一隊をく。尋いで義将に再戦せんとす是・兵部・荒川宣・二宮次郎・寺三郎飯田頼次・木村小四郎・松原三郎三郎・同仙千代・台弥・弥・慶弥・弥等諫めて之を止め、各進撃して戦ひ、多く賊兵を戮せり。義猶ほ将に出でんとす、太夫人袂を控へて強ひて抑止するも、揮つて出で奮撃す。

賊辟易す。久秀衆を励まして縦射せしめ、薄して登る。義自ら金銀資材を庭上に投げ散らすに、賊先を争うて奪す。其の隙に乗じて復た電撃し賊人をる。賊尚ほ前み逼る。命じて火を営裏に縦ちて寝殿に自裁す。時に歳三十。太夫人所在た火を縦つ。避け去るを勧むるも聴かず。自ら火中に投ず。衛殉ずる者十八人。南海治乱記に五十人と 又た義の夫人は関白藤原の女なり、賊索めて之を得、以て其の第に送れりとふ。

二人に僧と為る。一を周暠とふ、鹿苑寺と為る。久秀等弑逆を行ふや、る後平田和泉を遣はし、詭き謂つてく、三好逆謀して二条殿を侵伐するも、君に対し敢へて異議有るし、請ふ師に趣け、彼奚ぞ尊崇せざるべけんやと。ち之を出で、夷に到る。平田後より刺して之を弑す。士美屋小四郎、歳十六、を把りて和泉り立どころにを報じ、併して五六人を殺し、して自殺せりとふ。

――『大日本野史』

近代の永禄の変

明治維新後、この事件は室町時代/足利時代と織田時代の狭間の出来事として(大体上に書いたイメージコピペ)でられ続けた。戦後研究は本文に反映しまくっているので、戦前の「記憶」を順番に見ていきたい。なお、近代にいたっても足利義輝が障子で覆われてで突き殺されたのか、自害して火炎に覆われたのかの2通りの最後で記憶されている。

とはいえ、戦前日本史研究の泰斗・渡辺の19世紀に早稲田大学で行った講義録『室町時代史』には足利義輝期が全く出てこないことがすべてを表しているといえる。三好長慶足利義輝の活動は『安土桃山時代史』の織田信長の上の章にすべて突っ込まれており、こんな感じである(なおこの講義は1908年に出版されている)。

【史料】

三好長慶の卒去後は松永久秀の時代となりぬ、久秀は元と近江の人京都西岡の人なりと。才略ありて厚く長慶に重用され大和にありて専恣漸く甚だし、必ずや機会を作りて雄飛せんとの念切なり。

この時に当て足利義維の子義栄波にあり、三好の一族篠原長房に就て将軍とならん事を望めり、久秀及び三好三人衆は驕専にして将軍の己を喜ばざるを察し義に代るに義維若くは義栄を以てせんとし、引いて義稙義澄の関係を再演せんとせり。三好氏の臣僚者之に賛せり。是にて長慶の細密なる注意は全く破られ義対義栄の関係成らんとせり。

久秀等幕府修理成り未だ門全せざるに乗じ室町邸を襲はんと企て、長慶の養子義継を擁し三人衆とともに入し、策を設けて其反跡を掩ひ故意に請願する所あるかの如くし幕府の士の備へざるに乗じ、永八年五月其兵と共に室町邸に義を襲ふ。時に宿直の士多からず、一色淡路守、有馬次郎一色三郎成、上野兵部少清、上野八郎結城正、高伊予守師宣等暫く拒て敵を郤ぐと雖も敵衆競来り一色有馬等皆戦死す。仍て諸士義を奉じて一時難を避けんとしも敵包囲厳にして脱し難し、是にて死を決して戦ふ。

自らに乗り長を把て戦ふ。従士皆奮闘し賊勢一時挫折せしも久秀部下をして競ひ進ましむ。義一旦に入り「五月雨は露か名をあげよ上まて」と辞世を詠じ火を営中に放て自殺す、時に歳三十、慶寿院も火中に投ず、残士十八人共に殉死す。義の夫人近衛氏は久秀のめに獲られ関白前久の第に送らる。

――『大日本時代史.安土桃山時代史』

まずは1889年の『日本史』を見よう。

【史料】

時ニ足利義昭松永久秀の乱ヲ逃レテ越前ニ在リ、

――『日本史』

応仁の乱から織田信長の登場までいきなり飛んでいる。足利義輝一文字たりとも出てこない。

1890年に出た参考書『受験用日本小歴史』にもこの程度である。

【史料】

時ニ当リテ将軍松永久秀ニ弑セラ

――『受験用日本小歴史

なお、国会図書館にあるこの本は過去使用者に線引きされまくっているが、松永久秀が四で囲われ義が二重線なのに、なんだか意識の差が見られる。

同じ年に出版された『新選大日本帝国史』ではまだ戦国時代という名前が存在せず、尚武時代として叙述されているが、この事件に関しては足利時代の側に記述されているのに意識を見て取れる。

【史料】

範長老スルニ及ヒ、政ヲ松永久秀ニ委ス、久秀強悼ニシテ専横至ラサル所ナシ、竟ニ将軍ヲ弑シ義栄義ノ子ヲ立ツ、時ニ永八年ナリ

――『新選大日本帝国史』

1891年の『大日本文明略史』ではこの時代の出来事はまさかの箇条書きである。

【史料】

一 久秀強悼ニシテ専ナリ、永八年竟ニ将軍ヲ弑シ義栄ヲ立ツ

――『大日本文明略史』

1892年に教師向けに出版された『日本歴史教授法』では織田信長すら登場せず、応仁の乱から豊臣秀吉までほとんどカットされている。

また、同じ年に出版された『受験必携日本歴史問答』も織田信長などの扱いは同じであり、戦国時代は大名の配置を暗記するだけで終わっていたようだ。

1893年の『帝国史略』を見てみると、戦国時代文字が出てくるが、この事件は室町時代の最後である。

【史料】

松永久秀逆心テ起シ、ヲ襲ヒテ義ヲ弑シ、義維ノ子義栄ヲヨリ迎ヘテ将軍ト為シ三好氏ニ代リテ幕政ヲ行ヘリ

――『帝国史略』

帝国歴史』では、この事件はそれ以前の足利時代にくくられており、三好三人衆が出てくる程度の違いしかない。

【史料】

松永久秀専横甚だしく、三党と謀り、義を弑し、義維の子、義栄を推して将軍となす

――『帝国歴史

一問一答的な参考書でも織田信長とまとめて足利氏の最後が出てくる。

【史料】

信長斎藤氏ヲ滅シ美濃ヲ取リテ岐阜ニ居ル将軍松永久秀等ニ弑セラ

――磊落堂版『日本歴史問答

富山房版『日本歴史問答』は織田信長すら足利時代に突っ込まれて事績も飛び飛びとなっており、足利氏が最後どうなったのかは全くわからない。

1898年の『受験必携日本歴史問答』頃には織豊時代と足利時代が分けられ、戦国時代は大体足利時代に突っ込まれている。ただし、結局書いてあることは全く変わらない。

【史料】

長慶ノ死後其ノ松永久秀遂ニ将軍ヲ弑シテ義栄ヲ立テ三好氏ニ代リテ幕政ヲ執リヌ

――『受験必携日本歴史問答

なお、同年の中学校教科書では三好義興松永久秀に殺されたことになっている。

【史料】

其後三好松永久秀シ尋テ又将軍ヲ弑シテ義栄ヲ迎立シ三好氏ニ代リテ幕政ヲ執ル

――『日本歴史:中等教育

19世紀末になると、文慶長年間を室町幕府江戸幕府の間の独自の時代とみなすようになるが、特にこの事件の扱いが変わるわけではない。

1900年に出た有名武将の最期を描いた『傑の臨終』にも当然掲載されている。

【史料】

八年五月三好の三党将軍を弑す、初め三党の乱入する、義大事の問ふべからざるを知り、じてく、足利氏運命こヽに窮まると、諸将と飲し、絶命の歌を作り、人の衣袖に書してく、

五月雨か露かかほとヽぎす名をあげよくもの上まで

と、遂に及び夫人とに遭ふ、

――『傑の臨終』

20世紀になり皇史観全開の『史』が成立して織田信長の扱いが浮上したところで、足利将軍の事績がほとんど触れられなくなっていくため、『史』に関連する本の扱いで変わることはない。

【史料】

幾もなくして長慶死し、その臣松永久秀専横を極め、紀元二千二十五年(永八年)遂に将軍を弑し、義の姪義栄を擁立せり。

――『中等日本歴史.下』

【史料】

久秀、将軍を弑するに及び、

――『史綱領』

当時の学生向け辞典足利義輝項もこんな感じである。

【史料】

の長子足利十三代の将軍なり初めと共に近江坂本に居しが文十五年拝ぜられてし征夷大将軍となり尋で京都に入る時に三好長慶細川氏に代つて政を執りその松永久秀櫂を壇にす義之を忌む永八年久秀急に起つて義二條の第に襲ふ義奮戦して死す年三十院と称す

――『日本歴史辞典学生参考』

以後大体同じような記述が続く。

【史料】

松永久秀範長の子、義を殺し、又将軍を弑し紀元二二二五永八年、義澄の孫義栄を擁立し、三好氏に代わりて

――『新選日本帝国史』

1904年の『日本歴史講義』ではついに永禄の変は戦国時代の章に入っている。

【史料】

紀元二二二四年永七年三好長慶(範長)の卒するや其松永久秀範長の子義を弑して三好氏の櫂を奪へり、是れに将軍は久秀の専横を憎み鞆に之を除かんことを謀りしに久秀之を知り義澄の孫義栄が将軍たらんと欲するを知り之に意を通じ義二條の新第を造営して居移転の事あるに乗じ紀元二二二五年、永八年急に之を襲殺せり

――『日本歴史講義』

1906年の受験参考書ではもう少し踏み込んだ叙述になっている…のだが何かとてつもない間違いがある。

【史料】

八年、将軍松永久秀跋扈ニ堪ヘズ、上杉景勝ヲ召シテ久秀ヲ追ハントス。久秀兵ヲ遣ハシテ義ヲ殺ス。

――『日本歴史

足利時代をぼろくそにこけ下した1906年の『闇黒日本史』でも足利義政より後の将軍はひとくくりのカスなのかこの程度の扱いである。

【史料】

正親町天皇の永八年松永久秀を弑す。

――『闇黒日本史』

なお、当時のいわゆる真実歴史本である1909年の『裏面観的異説日本史』には応仁の乱から後の足利将軍が具体的に一切出てこない。

1910年代受験参考用の時点では義以後が全部一項である。

【史料】

其臣松永久秀また三好氏を滅ぼして管領となり、遂に義の子義を弑して義義栄を立てしかば

――『受験準備書.最新日本歴史

1910年の『室町時代之裏面』に見られるように、ようやく足利時代から室町時代に変わってきている…のだが、国会図書館のものはこの時期の箇所だけなぜか欠けているので割愛せざるを得ない。

1913年の『足利十五代史』はほぼ軍記そのままの内容である。が、ここまで松永久秀三好義興が殺されただの管領になっただのが続いてきただけに、逆に新鮮である。

【史料】

是より先、松永久秀三好政康、同康長等と謀り、義して義栄を立てんとす。義栄又将軍たるを望み、数々長慶に意を示す。長慶肯んぜず。永七年、義二條の第を修築し、翌八年門未だ成らざるに新第に徒る。久秀等の一党の期を逸すべからずとなし、五月十九日其の子右衛門佐久通及三好義継等と清水寺参詣と号し、より人数を寄せ、其の時に当り方様に訴證有るよし申触し、幕府の臣進士美作守舎に因りて之れを義に納む。

斯くて是非の返答時刻を移し、舎再三往復せる間に、賊兵幕府の四面より鬨を上げ、を放ち殿中に乱入せんとしければ、府中大に驚き、宿直の者、一色成、上野清、杉原晴盛人禦ぎ戦ふ、

進士美作守舎は其の不法を憤りて自害せり。義は最後の宴を催して足利氏運命に窮ると称し、伝家の宝刀を出して切崩し、大に奮戦せり、近習の士皆討死しければ、遂に火を放ちて自殺す、年

――『足利十五代史』

1915年の書のうち歴代征夷大将軍を記した『将軍記』ではとして最期が記載されている。さすがにちゃんとした本なので、当時としてはちゃんとしている。

【史料】

同八年、将軍、日頃より、三好松永が権威を専とし、下の事恣に振舞ひ、方蔑にして、奢を極めける事を、憤り悪み給ひて、に彼等を追討せらるべき謀を運らし、備を設けらる。五月十九日、三好太夫義継・松永衛門佐久通 弾正が子 等、由聞付けて、頓て反逆を起し、に御所に押寄せ、急に打入りけるを、警固の人々、之を防ぐと雖も、折節人数少なく、皆討死しけり。将軍落遁れんとし給ふに、軍兵四方を囲み、隙間なく込入りければ、なく御所に火をかけしめ、将軍自ら打つて出でつヽ戦ひ給ふに、数多所疵を被り、終に薨じ給ふ。時に御年歳。慶寿院殿同じく自害し給ふ。一乗院の門跡覚慶・鹿苑寺の周暠は、皆将軍の御舎なり。三好松永即ち軍兵を遣して、周暠を路次にして殺す。

――『書.将軍記一』

1916年の『歴史教授歴史本質底の実際的研究 : 民志操養成上より観たる』では足利義政より後は系図だけでほぼ終わらせており、足利義昭の追放の箇所でほんのちょっと足利義輝が出てきている。

【史料】

将軍邸に移りたりしか永八年五月松永久秀に襲はれて戦死せり。

――『歴史教授歴史本質底の実際的研究 : 民志操養成上より観たる』

当時はまだこの時期は近世という認識があったようで、1916年から刊行されたシリーズ日本近世史』の1巻にこの事件が出てくる。

【史料】

長慶の卒するや、三好三人衆と共に、政権を執り、将軍を倒して、義栄を擁し、騒乱に乗じて雄飛せんことを欲す。義もまた久秀等の専横を厭ひたれば世人久秀征討の流言を伝ふるあり。久秀等ち先づ発して機先を制せんとし、幕府の修理未だ成らざるをひ、永八年五月三好義継を擁し、兵数千騎を率ゐてに入り、清水寺に詣ると称して十九日急に二條第を襲ふ。宿直の士一色淡路守、有馬次郎等皆奮戦して死し、義も自を掲げ従士を督励して戦ひ、重囲の脱し難きを見て一旦に退き、火を営中に放ちて自殺す。年三十歳也。五月雨は露か、わが名をあげよの上まで、間飛び去る杜鵑、裂帛の衰音、人をしてそヾろに銷の思ひに堪へざらしむ。

――『日本近世史.第1巻(社会分裂の時代)』

1919年から刊行がスタートした徳富峰の『近世日本国民史』では織田時代からスタートしているため、実は最初に出てきている。なお、異なる史料を用いたがために、足利義輝の正室と小従局を混同している。

【史料】

長慶死後の畿は、松永久秀と、三好三人衆との、並頭政治であつた。三人衆とは、長慶の養子、其の十河一存の子、義継が若年である故に、一族三好日向守、同下野守、岩成悦助三人を、後見役としたのぢや。

将軍は、長慶存生忠は隠して居たが、其の死後は三好松永一党の手より独立す可く、種々計企した。して久秀等も、波御所義栄を奉じて、其志を逞うせんと欲し、茲に三好松永対義の反は、発揮して来た。彼らは幕府の修理未だ成らず、その門の未だからざるに乗じて、奇襲を企てた。彼等は永八年五月十九日、清水詣と披露し、人数を催ほし、更らに訴状をぐる様を為して、飽油断をなさしめ、四方より取り囲み、乱入した。将軍方にては、不用意の事であり、宿直の者、何れも奮闘したが、衆寡敵せず。して義も其の重囲を脱す可き望み絶え、「五月雨は露かか時が名をあげよの上まで」の辞世を残して、討死した。

方は名を抜持給ひ、切て出給ふを、三好方の池田丹後守が子、こざかしき男にて、戸のに隠れ居て、御足薙奉りければ、転び給ふ所を、障子を倒し掛け奉りて、上より鑓にて突る。其の時より火を放ちて燃え立ければ、御頸をば取得ざりけり、御歳三十歳、御供の討死の者三十一人とぞ聞えける。御慶寿院殿は、近衛殿下の御息女なるが、火の中へ飛入り、終に失せさせ給ひけり。御台所をば、日向守計ひにて、近衛殿へ送り入れ奉る。(総見記)

に悲惨の最期であつた。然るに夫人に関しては、当時京都にあるて、の悲劇を撃したる、葡萄牙の宣教師の報告は、左の如くであつた。

難を脱したるは、独り方の夫人のみであつた。三日を経て、京都郊外半里計の、僧の閑室に、潜居せるを捜出した。逆徒の二将、二卒を遣りて之をらしめた。夫人時に齢二十七。其の容姿端麗、儀容端正、慈深く、勇気の逞しき、男子にも優り、如何に高位に即くも、恥ぢざる女丈夫であつた。

其生、其死、何れにしても、惨の又た惨であつた。

――『近世日本国民史』

1919年に刊行された武将の最期を記した『遺言』に至っても『大日本野史』と大筋では変わっていないので割愛させてほしい。

そして、1920年代になろうが、書いてあることはそんなに変わらない。

【史料】

松永久秀三好の老臣で、勲功を累ねて大いに用ひられたが、長慶の晩年には政権を専らにした。長慶が卒して後、養嗣子義継の幼少に乗じて畿の櫂を握り、三好氏の一族と争うて遂に是を圧して了つた。将軍が其の専恣を悪み、密に謀るところがあるや、久秀は先んじて兵を発し、義京都二條の第に襲うて之を弑した。時に永八年(二二二五)五月十九日であつた。其の後久秀は波から義維(義澄の子)の子義栄を迎へて将軍とした。

――『大日本全史』

この頃になると応仁の乱後の畿内戦国史もだいぶ詳しく書かれるようになってきたが、結局松永久秀に殺されただけで終わりである。

【史料】

紀元二二二四年(永七年)、三好長慶(範長)が死ぬと、その臣、松永久秀が範長の子、義を弑して、三好氏の櫂を奪つた。そこで、将軍は久秀の専横を悪み、に、之を除かうとしたが、久秀は、之を覚つて、義澄の孫、義栄に意を通じ、義二條の新第を造営して移転するに乗じ、起二二二五年(永八年)、急に之を襲殺し、義栄を将軍として、自ら、幕府の実権を握り、暫く、威福を恣にした。

――『最新日本歴史

なお1923年の『民の日本史』のうち室町時代の巻では、ついに三好長慶松永久秀が時代の新人として大きくクローズアップされ始めた。そのため、永禄の変もやや長い。

【史料】

三好氏凋落して今度は松永久秀全盛時代となつた。彼れは享二年十月始めて三好長慶に仕へ、文十八年長慶が京都に上つて以来、京都鎮撫をり、之からして勢を得、永三年長慶が管領となるや、久秀代つて幕府の政務を執つた。長慶して後、彼れは将軍して義栄を擁し、、己の勢らうと企てた。義はかねて久秀の専横を厭うて居たから、世間では将軍が久秀を征伐するの意があると流言した。そこで久秀は先づ発して機先を制せんものと、永八年五月二條の第が修築中で、門がまだ出来て居ないのを幸ひ、其十九日に清水寺参詣にして、から兵を集めて二條第を襲つた。義は自ら伝家の宝刀を取出して拒き戦つたが、近習の士が皆討死したので、営中に火を懸けて自殺した。年三十歳であつた。

最期の模様は、流石に部門の棟梁たる名を辱めなかつた。義満、義政、其他の足利将軍は、多くは柔弱な息子の様に思はれ、特に、応仁大乱以後の将軍は干を手にするにも堪へぬ方様のやうに見える。然るに義変当日、まだが明けぬ中、門外が急に物騒がしくなるのを聞いて蹶起し、毫も狽する色なく、松永久秀らの藉討入りと聞くや、重代のお着背長、鍬形打つたる五枚甲の緒を締めさせ、重を取り、玄関に出て敵の武者七八人を射せたが、衆寡敵せず、近侍の士も大抵討死した。義自害覚悟し、先づ、後室、若君らに自害を勧めた。慶寿院は之を聞いて「其儀は予ねて心得て居ます。身は年老いて命も惜しいとは思はぬが、方北の方が思ひも寄らぬ死を遂げるのが、如何にも悲しい」といつて、暫しに咽んだが、名を唱へて守を胸に突貫き俯した儘息が絶えた。北の方もき生に着換へて念仏十遍唱へ、是れを心元に突込み、南とばかり俯した。之を見たは男らしくも若君を抱き、園にけ入りて井戸へ投身して果てた、その他女房達三十二人、中居、婢に至る八十人ばかりの女は、一同火焔の中へ飛入り、一人残らず亡せた。其後で義辞世の句を認め、筆を捨ててを十文字に掻き切つた。永八年五月十九日の晩であつた。

の最期は本寺の信長を見るが如く、其勇武の状乱世の将軍として予て覚悟が出来て居たものと見える。其、北の方、其他女房達皆潔く自害し、は猛火に飛込んで亡せたといふに至つては、将軍厳存したものと見える。将軍の櫂は失はれたが、世は群雄割拠時代故、殺伐勇敢のが一度に行き瓦つて、儒弱淫の傾向が少なかつたのであらう。之を暗黒時代と呼ぶにしても、柔弱淫佚を意味するよりは、寧ろ混乱学の時代と見るべく、其間に剛健の気つて居た。

――『民の日本史

かくして戦前日本史研究者の泰斗・田中義成によって1925年に『足利時代史』が書かれたのだが、この本には永禄の変は収録されていない。翌1926年の『織田時代史』でもこの程度である。

【史料】

八年五月京都三好三党、将軍足利義輝を弑す。

――『織田時代史』

1930年代になったところで特に記述が変わらないのは察してきただろうが、最後に見ておこう。

【史料】

この間京都では三好長慶の死後、永七年四十二歳養子義継が幼少のため、三好三人衆三好長逸、同政康、岩成左通が之を補佐し、松永久秀と共に櫂を弄して遂に将軍を室町の邸に襲つて弑し八年五月 波から、義澄の孫義栄 義維の子を迎へて立てた。

――『綜合日本史概説』

なお、引用はしないが1932年に出てくる読み物調の『少年応仁の大乱と其前後』等に至っても、足利義輝を覆ったのが障子であってではなかったり、具体的な名前が出てきたりは一切ない。この辺りはおそらくここ十数年の間に広まった都市伝説のような気もする。

なお、1920年代後半からは階級闘争史観を押し出しプロレタリア系の日本史本も出てくるが、この事件には特に関係ないので触れない。

そしてついに1934年岩波書店から現在も続く『岩波講座日本歴史』の最初のバージョンが出版された。とはいえ、ここに現在研究準からすると興味深い記述がある。松永久秀は計画のみで実行犯ではないとしているのである。

【史料】

その後長慶が卒してからは重臣松永久秀が勢を有してゐ三好三人衆である三好日向守長逸・同下野守政康・岩成悦助友通の三人と議して専ら政務の要衝に当つた。義維はその子義栄と共に将軍たらんことを望んでゐたので波の三好一族の宿将篠原守長房に依り、その望を遂せんとした。そこで長房はに赴いて久秀及び三人衆に説く所があつたので久秀等の心を動かした。久秀等は久しく専櫂を壇にしてゐたが、義がこれを喜ばないので疑櫂の念に駆られてゐた。加之に義が動もすれば地方族を誘致して上せしめ、争覇の計画を立てしめんとするの形成があるのを恐れてゐた。機会だにあらば義は久秀等を剪除するかも知れぬと甚しく危んでゐたのである。恰も好し長房が義栄の薦めに擁立を勤誘したから、これに勢を得て義を先んじて除かんと決した。そこで不意に兵を遣はして幕府を襲い義を弑せしむるの暴挙に出でた。

久秀の義弑逆は決して自身には手を下さなかつたのである。これ久秀の最も術策も長じてゐたが為であるといはれてゐるのである。久秀はその子久通 当時義久をして三人衆と三好の惣領である義継 当時義重の未だ長せざるを擁して京都に赴かしめたのである。この時に久秀はその本拠大和信貴山に居て与り知らぬ態度を持してゐた。義継は三人衆及び久通等と幕府の修理未だからず門出来せざるに乗じて義に請願するところありと称し、幕府の備なきを機会に然幕府を襲ひ一挙にして義を弑したのである。

――『岩波講座日本歴史. 第4』

最期に興味深い記述を書きたい。あの直木三十五が1941年に記した『日本剣豪列伝』に足利義輝も登場するのである。1940年代には出所不明の剣豪将軍伝説が出来上がっていたのであった。

【史料】

足利義輝は、塚原卜伝子であるが、この人は強かつた。三好松永の兵に攻められて、池田丹後に討たれたが、を幾本も抜いたまヽ座右に置いて、血や、脂で切れなくなると、取りかへ取りかへつてすてた働きに、一人近づく者がなかつた。それで、丹後がうしろからで足を払つて倒して討ちとるのであるが、戦国武将中剣道の出来たのは、この人と、伊勢国司、具教であらう。

――『日本剣豪列伝』

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永禄の変

7 ななしのよっしん
2021/05/26(水) 18:45:49 ID: 3F/xvtU2rD
なんて冗長で分かりにくいだけの記事なんだ
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8 ななしのよっしん
2021/07/08(木) 13:36:10 ID: s6PxwkWBlS
とにかく長い…ニコニコ大百科でそんなに詳しい説明は必要だったのかな?
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9 ななしのよっしん
2022/02/24(木) 12:05:02 ID: sVfx/sOdkP
の籠もった記事ですこすこのすこ。こういうオタク全開の記事は大百科にこそあるべき
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10 ななしのよっしん
2022/07/26(火) 16:43:49 ID: h3Ixl0VupD
うーん。
筆者には凄く知識があって、とてもを入れた記事なんだろうけど、如何せん長くてくどすぎて読者の存在を置き去りにしている感がある……それが残念
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11 ななしのよっしん
2023/03/31(金) 09:12:59 ID: C+j3sreMFu
そもそも研究レベルでもあんまり事実関係が整理できてないから関係者と起きた事並べるだけでもこの長さになっちゃう…ってコト!?
やはり中世畿内情勢は複雑怪奇…
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12 ななしのよっしん
2023/10/23(月) 23:29:59 ID: 3ihQjOH52z
自前のサイトでやった方が良かったのでは…?
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13 ななしのよっしん
2024/02/03(土) 23:40:24 ID: 1ohhRTD2zD
読みにくい
大百科められてる物じゃない
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14 ななしのよっしん
2024/02/04(日) 00:19:55 ID: GfRgNDsQ1q
まとめ方もいまいちだし(概要では足利義輝が死んだ事件と説明してるのに本文では義が死んだ後の話があまりにも長い)書き方も冗長ってレベルじゃねーぞだし

知ってること全部書きました凄いでしょうと言われても読ませる気ねーだろという感想

せめて義死後の話は8割カットしろと言いたい
太平洋戦争の記事開いたら戦後冷戦の話で8割埋まってたみたいなアンバランスな記事になってる
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15 ななしのよっしん
2024/02/15(木) 20:25:32 ID: xyXZJyayfV
いちいち生資料全部貼り付けたり細かく書きすぎてて読む気失せる
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16 ななしのよっしん
2024/03/31(日) 17:46:34 ID: FMoHoJthRR
掛け合いパート何が起こってるか全然わかんねえ!

それはそうと
個人的に永禄の変御所巻説の方がしっくりくるな
予定通りの殺なら久秀と連携してないの変じゃない?
まだ元気な久秀無視してここまでデカいことやらかすかね
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