永禄の変 / 永禄の政変とは、永禄8年(1565年)5月19日に起きた室町幕府13代将軍足利義輝が三好義継、松永久通率いる三好軍に殺害された事件である。
概要
室町時代の一転換点となる足利義輝の殺害された政変。ニコニコ大百科でもセイバーのごとく刀をとって戦った彼の姿が有名だが、実は21世紀になるまでほとんど研究されておらず、松永久秀の関与度などの謎は多い。
というか、三好義継の軍勢が突然上洛してきたと思われていたが、実は足利義輝に偏諱を与えられて名前が変わったころ(なのでおそらく三好義継は変後ではなく変前からの名乗りではないかといわれるようにもなった)からずっと京都にいたことが2019年になってようやく分かったレベルであり、足利義輝政権も含めて基本的な事実関係の整理すら発展途上の段階にまだある。
【読まなくていい資料論】
※なお、以後のイエズス会文書は『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第2巻〉』、『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第3巻〉』の和訳の引用であり、原文はラウレスキリシタン文庫が公開している"Iesus. Cartas que os Padres e Irmãos da Companhia de Jesus, que andão nos reynos de Japão escreverão aos da mesma Companhia da Índia, o Europa, des do anno de 1549. até o de 66. Nellas se conta o principio, socesso, e bondade da Christandade daquellas partes, e varios costumes, e idolatrias da gentilidade. Impressas por mandado do Illustrissimo e Reverendissimo Senhor dom João Soarez, Bispo de Coimbra, Conde de Arganil. &c. Forão vistas por sua Senhoria Reverendissima, e impressas com sua licença, e dos inquisidores, em Coimbra em casa de Antonio de Mariis. Anno de. 1570. [colophon:] Foy impressa a presente obra na muy nobre e sempre leal cidade de Coimbra em casa de Antonio de Maris Impressor e livreyro da Universidade. Acabouse o derradeyro dia do mes de Agosto, do anno do nacimento de nosso Senhor Iesu Christo, de mil e quinhentos, e setenta."、そこにないものはFicha Bibliográficaが公開している"Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580."を併記しただけなので、筆者が訳したわけではないことを注意(なお、言い訳をすると近世文書なので前者と後者ではアルファベットの表記などに微妙にブレがあり、本来は全部そろっている後者で統一したほうがいいのだが、前者のほうが読みやすかったのでこっちを使った…正直等位接続詞の表記法とかわかりやすいので逐一典拠は示さない感じで…)。
※また『晴右記』、『康雄記』あたりは誰一人として翻刻していないため、筆者が勝手に気合で活字に起こしただけなので合ってるかどうかは参考程度にしてほしい。
5秒で分かる(ry
- なぜ殺した
- どうしてこうなった!どうしてこうなった!
- 信長の勇気が幕府を救うと信じて…!ご愛読ありがとうございました!
ここまでのあらすじ
三好長慶と足利義輝の戦い
明応の政変で二流に分かれた足利将軍家、永正の錯乱で二流に分かれた細川京兆家、その他畠山尾州家や畠山総州家、六角氏や赤松氏、若狭武田氏、大内氏といった在京大名、京に近い在国大名を巻き込んだ畿内の泥沼の戦いは、三好長慶の台頭によって三好本宗家と細川晴元(とそれに巻き込まれた足利義晴)の戦いという構図に収束していった。
そんなさなか生まれたのが足利義輝である。天文5年(1536年)に誕生した彼は、実母である近衛氏出身の慶寿院に育てられ、六角定頼を管領代として天文15年(1546年)に元服する。しかし上述の三好本宗家と細川晴元の戦いによって天文18年(1549年)に近江に動座。翌年足利義晴が近江で没したため将軍位につく。六角定頼の支援の下朽木に移り、天文21年(1552年)に和睦し、京都に戻ることとなった。
しかしまだ年若い足利義輝は親三好派、反三好派の近臣の対立を巻き起こし、上野信孝、杉原晴盛、細川晴広、彦部晴直、祐阿、細川某、の「六人衆」から三好長慶への人質を差し出す羽目になってしまった。しかし反三好派近臣に接近した足利義輝は天文22年(1553年)に細川晴元を赦免。和睦は破断し三好長慶との戦いに至る。しかし東山霊山城での戦いに敗北し、朽木に動座。以後5年間にわたって三好本宗家が京都を単独支配する「三好政権」が生まれることとなった。
足利義輝の家臣はほとんどが京都に戻り、母親の実家である近衛家等一部の側近のみが彼を支えていった。そんな中足利義輝は地方の大名と音信を取り、和平調停などに積極的に乗り出す。しかし永禄元年(1558年)坂本に移った後、六角義賢の仲裁で再度三好長慶と和睦することとなったのだ。
足利ー三好体制と亀裂
帰京後の足利義輝は武衛御所を築き、織田信長、一色義龍、長尾景虎といった上洛者も現れるなど安定した統治を行うことができた。しかしそのほころびとなるのが、永禄5年(1562年)三好長慶とそれに対抗する六角義賢、畠山高政、そして伊勢貞孝父子や一部の奉公衆が戦いに至った「幕府分裂抗争」である。足利義輝はこの戦いで八幡に避難。両者を仲介したものの、結果として三好氏による将軍の単独擁立がより強まってしまったのだ。
しかし足利義輝もこれに対抗する。先の戦いで伊勢貞孝が討ち死にし、摂津晴門を政所頭人に送り込んで足利義満以来の政所における伊勢氏の独占体制を終了させたのである。
しかし表では協調し、裏では冷戦状態にあった三好氏にも三好長慶の支配体制にほころびが出始めていった。十河一存、三好実休、安宅冬康といった弟たち、後継者だった三好義興が相次いで亡くなっていったのである。そして三好長慶も永禄7年(1564年)についに没することとなった。
そして跡を継いだのは養子の三好義継。そしてそれを支えたのが三好三人衆と松永久秀、松永久通父子であった。
そしてついにD-デイが訪れる!
運命の日
ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~~~!
乙卯、天晴、八専、申刻雨降、天一東 辰刻三好人数松永右衛門佐等、以一万計俄武家御所へ乱入取巻之、戦暫云々、奉公衆数多討死云々、大樹午初点御生害云々、不可説不可説、先代未聞儀也、阿州之武家可有御上洛故云々、御殿悉放火、春日殿焼、慶寿院殿御殿残云々、御小袖之唐櫃、御幡、御護等櫃三、伊勢加賀守貞助為警護、禁中へ被預申云々、
討死人数大樹、鹿苑寺殿、慶寿院殿、畠山九郎、十四才、大館岩石、予州子十才、上野兵部少輔、同予八郎、摂津いと、十三才、細川宮内少輔、一色淡路守、同又八郎、予八郎弟也、彦部雅楽頭、同孫八郎、小林弟、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、小林弟、進士美作守、同主馬頭、沼田上野介、杉原兵庫助、逃死、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、奉行治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿。林阿、廿四か手資、慶阿、御末疋田弥四郎、同二宮弥三郎、足軽衆大弐、同谷口民部丞、慶寿院殿内小林左京亮、西面左馬允、松井新二郎、高木右近、森田新左衛門尉、竹阿、金阿、鹿苑院内衆蔵首座、河端兵部丞、木村小四郎、小川之蓑屋、十六才、高名、春日局内衆飯田左橘右兵衛尉、松原小四郎、粟津甚三郎、林予五郎、西川新左衛門尉、中井勘左衛門尉、畠山九郎内畑、十六才、杉原内村田彌介、八田十右衛門尉、進士内高橋ヽヽヽ、一河ヽヽヽ、小者、其外雑兵数多云々、
天晴 四時分ニ上意ヘ三好左京大夫 右衛門佐取りかけ上意御腹をめし候 同慶寿院殿御自害
三度御対面にてやり□し伊勢加州上意ミおまほりよろい禁中へあつけ参ゝ又くれ〱に御はた又伊勢加州大和宮内少輔りょうにんあつけ□□也俄夕方夕立事□也
一、十九日、公方様御腹召也、其外数人、是ハ松長左京、三吉左京大夫殿御両人より、然ハ御てん火かけ被申候也、但時者ミこく也 鹿尾院殿も同前、同慶寿院も同前、
五月十九日、四時、公方様ヲコロス、三好斬、幷篠原右衛門殿諸勢八千騎斗京都登、公方様取コメ、カリマタノ矢ニテヰル、マワリヨリ火ヲ付悉焼、殿中打死、公方様御女房衆十三人、慶寿院殿御自カイ、畠山九郎殿十四才、此間不見十二才切腹、大館岩石殿・上野兵部殿・同与八郎殿・細川宮内殿・一色淡路殿・同又三郎・彦部雅楽殿・同孫四郎・荒川治部殿・朝日新三郎殿・近士美作守殿・同主馬殿・有馬源五郎殿・武田左兵衛殿・いと沼田上野殿・結城條内膳正殿・治部三郎左衛門殿・小林左京殿・福阿ミ・松阿ミ・さ阿ミ・竹阿ミ・慶寿院殿・全阿弥・二宮弥三郎・介田弥四郎・大弐・谷口民部・松井新二郎・森田新左衛門殿・西酉左馬允・松原小三郎・飯田左橘・栗澤甚三郎・縫子宮千代殿・宮垣与五郎・中井助左衛門・西川鹿園院殿・貞首座・一色藤松殿・香端兵部・高木右近・木村小四房十六才、無類動キ
当年(永禄八乙丑)五月十九日。三好左京大夫。松永右衛門佐。武衛陣御所以軍勢取巻。征夷大将軍義輝(御歳三十)御生害。同慶寿院殿。幷北山鹿苑院殿(是ハ於路次)御生害(御供若衆一人。御乳主川端一人)。御供衆上野兵部大輔。畠山九郎。御部屋衆大館岩福丸(伊予息)細川宮内少輔。一色淡路守。上野与八郎。一色又三郎。同三郎。有馬源次郎。摂津伊登丸。武田右兵衛丞。御走衆荒川治部少輔。進士美作守。同息主馬頭。彦部親子。杉原兵庫助。沼田上野。結城主膳允。治部三郎左衛門。同朋衆福阿弥。松阿弥。慶阿弥。台阿弥。輪阿弥。此外打死霊数十人。幷小侍従御局於東山智恩院生害
――『東寺過去帳』
五月十九日午時大樹有事。御母儀慶寿院殿。御舎弟鹿苑寺殿同時。討手三好左京大夫義継。松永右衛門佐久通以下也。
――『公卿補任』
四月晦日三好孫六郎。松永右衛門佐上洛シテ。五月朔日室町殿ヘ出仕申。孫六郎左京大夫ヲ望申候之間。則被成候。同廿二日於殿中御一献可申沙汰由申入。御油断候処ニ。十九日辰刻袴着ニテ殿中ヘカケ入。御城ノ内外多人数ニテ取巻申候。御近所ノ衆身命ヲ捨雖合戦。多勢ニ無勢無力各討死候。午刻ニ将軍義輝(宰相中将。三十歳)御自害。同御母慶寿院殿(五十二歳)御自害。将軍御舎弟鹿苑寺殿(十七歳)御生害。阿波衆平田和泉守鹿苑寺殿ヲ討申候。後御若衆ウシロヨリ和泉守ヲ一刀ニ切落。其身打死。於殿中卅人打死。其外侍以下数ヲ不知。御自害以後御所ニ火ヲ懸焼失。
――『永禄以来年代記』
八年乙丑五月十九日三好松永兵囲将軍御所。世謂将軍所居謂之御所也。義輝自殺
――『永禄以来大事記』
――『享保以来年代記』
経過
概要
本題
永禄8年(1565年)、三好義継に代替わりした三好本宗家は、土地の安堵すら系統が一本化されず、有力者それぞれに保証を求める事態になっていた。そして4月30日、三好義継は三好長逸、松永久通などを率いて上洛し、翌5月1日に足利義輝に出仕した。その結果足利義輝は義継と久通を好待遇したのである。
【史料】
一 永禄八四卅、従飯守(盛)三孫六郎殿(三好義継)参洛、至西院着宿戌刻、松右(松永久通)ハ八条ニ寄宿云々
一 五月朔日、出仕、供和壱(和久基久)・寺遠(寺町通昭)・三向(三好長逸)・松右出仕、先春日殿へ被参、小付ニテ御酒アリ、仍御字・官途之儀内々以進作(進士晴舎)為各申入之、被成御意得良被仰出、申次 進作 (伊勢)貞知、仍 御対面之次第如常、節朔一番御供衆申次上地院マテ、其次面々ト申入之、三孫六御対面当年始之□(間カ)、御太刀進上之、其次節朔衆、其次公家、(中略)此衆各御対面過テ 御盃参御相伴衆、各祗候クミタル御盃参、二ツ目ノ御盃ノ時、官途幷御字被下候良、直ニ被仰出候間、悉之旨申上之、御礼被申上之、一番に官途左京大夫御礼、御太刀・御馬代・二千疋、次ニ御字御礼、御太刀・御馬鹿毛・三千疋進上之、然ニ目録ニ官ヲ認間、名乗ノ下字モ先重ノ字、(目録文面略)
従来はここで一旦戻り5月18日に三好義継、松永久通らに引きつられた三好軍が入京したと考えられてきたが、史料を見ていった結果ずっと三好軍は在京してあちこちの公家を訪れるなどしていたようだ。なお、5月6日には山科言継に諱を今後どうするかいくつか案がある旨を相談している。
特に緊迫した雰囲気はなく、皆日常を過ごしていった。ただし、ルイス・フロイスによると、この前日に異変を悟った足利義輝が脱出を図ったものの、取って返した騒動があったらしい(他の史料で裏付けも取れず、なんで宣教師がそんなことを知っているのか不明なので事実関係は不明だが、『日本史』の流布で有名な逸話になってはいる)。
【史料】
三好殿は幾度か彼を訪問し、その都度大いに歓待された。三好殿は市外にある仏僧の僧院において彼を饗応することに決めたが、その経費は少なくとも五、六千クルザードに上り、しかもこれは料理にではなく、習慣に従って彼らの各人が公方様に贈る甚だ高価な品々に要するものであった。
公方様は三好殿が伴って来た多数の兵を見てその饗応を怪しみ、辞退することに努めた。三人の大身はいずれもそれを受けること再度懇請し、彼が恐れているのを悟ったので、三人とも己れの偶像に対して誓いを立て、各自が彼に書付を送り、饗応する以外に何もなく、(終われば)直ちに各城に帰るのであり、いっそうの安全のため、彼の宮殿の敷地内にある彼の母の邸で饗応したい旨を伝えた。
公方様は彼らにそれを受ける素振りを見せたが、彼らが何らかの謀反を企んでることを大いに恐れ、その懸念がますます強まったことから、また、もし謀反が起きた場合、対抗する力がないことを認めたが故に、三位一体の日曜日の前の土曜日、他国に逃れようとして、己れの最も親しく、かつ寵している大身数人を伴い、大いに人目を忍びつつ宮殿を出た。
内外およそ一里の所まで来た時、彼は同行者に己れの意図を明かしたが、彼らは皆彼に反対し、謀反の企みが明白に認められないにもかかわらず、家臣から逃れることは彼のいとも高き権威を損なうものであり、彼は特によき君主にして家臣の何びとも苦しめたことはなく、もし謀反が起きたならば、彼ら全員、死を共にするので戻るべきであると言った。かくして同行者らに説得され、彼は帰還した。
Foy Mioxindono visitalo algūas vezes, e sempre ihe fez muyto gasalhado. Determinou Mioxindono de lhe dar hū banquete fora da cidade, em hnm mosteyro de Bōzos, qpolo menos lhe auia de custar algūs cinco, ou seys, milcruzados, nāo igoarīas, mas nas peças, qem cada hum delles se apresentāo ao Cubucama, consorme a seu costume, quesam de muitavalia.
Teue o Cubucama fospeyta do banquete vendo a muita gente que consigo trazia Mioxindono, e trabalhou poe se escusar delle.Tornarāo todos ostres senhores afazer instancia que o aceytasse, e porsentirem nelle temor fizerāo todos tresjuramentos grandes sobre seus idolos, e mandoulhe cada hum hum escrito seu, que nāo aueria ourra cousa mais queseruiremno com aquelle banquete, e logo setornarem perasuas fortalezas e qpera mais segurolho queriā dar em casade sua māy, dērro nocircuytodos seus paços.
Mostrādolhe o Cubucama, que o aceytaua, todauia com grande temor de lhe ,acjomare, algūa treuçāo, crecendo cada vez mais nelle estes areceos sabado antes do domingo da Trindade muito ocultamente se sahio de noite de priuados, e amigos com entençāode se recolher em outro Reyno, vendoque nāo tinhaposse pera lhe resstirse ouuesse algūa treyçāo.
E estando ja obra de hūa legoafora dacidade, descobrindo sua entençāoaos q consigoleuaua, todos lhe forāo a māo, dizendolhe, q seus criados, sem lhe constar claramete, que dlles ma chinauāo treyçāo, mayormente sendo elle tam bom principe, e que a nenhūs dos seus tinha agrauado, q setornasse, porque todos morreriāo com elle qunado ouuesse algūareuolta, e assi persuadido por elles se tornou a recolhee.
概要
あの進士晴舎って幕臣、うざくない? | ||
三好義継 |
なー | ||
松永久通 |
ええー…… | ||
足利義輝 |
三好さんたら幕府を囲んだ
というわけで、な? | ||
三好義継 |
死にます!(グサッ) | ||
進士晴舎 |
おい | ||
足利義輝 |
よくわからないけど、幕府と三好家のパイプが自害したよ!戦争か?戦争か?
(なんかかっこいいBGMが流れる)ブッピガンドカッバシッバシュシュー
わーぎゃー | ||
雑兵 |
あれー…? | ||
三好義継 |
…… | ||
三好義継&松永久通 |
ヨシ! | ||
三好義継&松永久通 |
ええー…… | ||
松永久秀 |
本題
だが、5月19日、三好軍が武衛御所を取り囲む。『足利季世記』やルイス・フロイスによれば、三好軍はまず、それまで三好氏との大名申次を担当していた進士晴舎と交渉を行った。しかし三好側(軍記では石成友通とされるが不明)が要求したのは進士晴舎の娘で足利義輝の側室の小侍従局、その他多数の側近の殺害であったのだ。
【史料】
翌朝、すなわち一昨日の聖三位一体の日曜日、(謀反の企みを)いっそう隠すため、三好殿は休息のため市外一里の所にある某僧院へ行くと言って、騎馬兵七十人とともに馬で出かけたが、少し市外に出たところで急遽引き返し、公方様の宮殿に向かった。
まだ朝であったことから、公方様の傍には約二百名がいるに過ぎず、しかも彼らのほとんどは都の大身であった。公方様の邸はたちまち一万二千人に包囲され、三好殿は一つの門に陣取ったが、そこには宮殿の堀にかけられた橋が通じている。
他の二人の大身は他の門に位置した。宮殿内ではこのような尋常ならざる謀反に備えていなかったので、敷地内の門はすべて開け放たれていた。多数の鉄砲隊が侵入し、公方様に箇条書を渡したいので取りに来るようにと言った。前述のように、公方様に甚だ寵されていることから、我らを導いて彼に紹介してくれた老人が進み出で、箇条書を受け取るやすぐにそれを読んだ。その第一箇条は、公方様が奥方と同老人の娘、その他多数の大身を殺すこと、そうすれば彼らは(平穏に)引き返すであろうというものであった。老人は欺瞞を見て取ったので、書付を地面に投げつけ、彼らが己れの国主かつ君主に対して、かくも忌まわしき謀反を起こすことにほとんど畏れも恥も感じていないことを大いに責め、今やかかる状況になった以上は、自ら切腹すると(言った)。これは日本の一般的なもっとも古い習慣で、大身らは敵に抵抗することができなくなると、大身も家臣も剣を取って自ら腹を切るのである。
Ao outro dia polla manhaā que era domingo da santissima Trinadade, que foy antontem, pera mais disimulaçāo caualgou Mioxindono com obra de setentade caualo, dizendo qunchia folgar a hum mosteiro obra de hūa legoa fora desta cidade, sendo ja hum pedaçofora, voltou muyto depressapera os paços do Cubucama, porque porser ainda pola manhaā, nāotinha maisconfigo que obra de duzentos homens, quasi todos senhores principaes deste Meaco. Foy logo cercada a casa do Cubucama, por estes doze milhomēs. Mioxindono se pos a hūa portapor onde se passa hūa ponte, que esta sobre hūa caua dospaços, eos outros dous senhoresem outra porta, epolo descuydo que dentor auiade tam sestranhattreyçāo, estauāo com as portas dosterreyros todas abertas.
Entrando ali grande golpe de gente despingardas, desserāo, que queriāo mandar huns apontamentos ao Cubucama, e qos viessem tomar, Sahio porderpinkor o velho, Que atras disse, que aqui conuidamos, que nos apresentou ao Cubucama, por ser muytoo priuado seu, etomando os apontamentos, leologo o primeyro, que o Cubucama matasse a sua molher, filha deste mestimo velho, e que matasse muytos outros senhores, e que fazendoo assi, se tornariāo em paz. Comoo vello vio osenganos, deytou o papel no chāo, ecomeçou os a reprender muyto do pouco termor, e vergonha que tinhāo de cometerem contra seu Rei, e senhor tam nefanda treyçāo, e ja que assi era, queelle mesmo crtaria abarriga, que he vniuersal, e antiquissim o costume de Iapāo, quando os senhores nāpodem resistir a seusīmigos, Ieuarem das adagas, e cortarem a barriga a si mesmos, ssi senhores, comocriado.
この要求に対して進士晴舎は足利義輝の前で切腹。このことは交渉の決裂を意味した。そこで三好軍は御所を襲撃。奮戦の末昼頃には足利義輝らは討ち取られ、この戦いは終了した。
【史料】
我らと甚だ親しい彼の息子が出てしばらく戦ったが、彼らは直に彼を殺し、外から邸に向けて激しく銃撃した。公方様の四名の貴人が門に到着し、門を開くよう叩いたが、内からもそれが叶わぬと答えると、彼らは剣を取り腹を切って死んだ。
かの暴君たちの悪事はますます増長し、その心はいとも邪悪な望みをこれ以上延期することに堪えられなかったので、彼らは宮殿に火を掛けるよう命じた。公方様が自ら出ようとしたが、その母堂は彼に抱きつき(引き留め)た。彼女は我らを大いに歓迎した尊敬すべき老婦人であった。しかし、彼は火と必要に迫られ、家臣とともに出て戦い始めたが、腹に一槍と額に一矢、顔に二つの刀傷を受け、その場で果てた。
Sahio hufiho seu muyto amigo nosso, e pelejando hum poucologoo matarāo, etirauam defora muytas arcabuzadas ascasas. Chegarāo quatro fidalgo do masmo Cubucama aporta, baterāo que lhes abrissem, erespondendo lhes de dentro, que ja nāo podia ser, leuaraodas abagas, e cortarāo asbarrigas, cayndoali mortos.
Feruendocada vez maysamdade destes tyrannos, e nāo podendo sofferrlje o coraçāo dilatarsepo mays tempo seu peruersissimo desejo, mandarāo por fogo aos paços. Querendo o Cubucama sayrse, abraçouse com elle sua māy, que era hūa venerauel matrona, de quem nos tinhamos recebido muytos gasaljados:todauia constrangido do fogo, e da necessidade sahio com os feus, e começndo a pelejar, derāolhe hūa lançada pola barriga, e hūa frechada pola testa, e duas cutiladas polo rosto, e aki cahio morto.
概要
本題
そして、あとは後始末のみであった(ちなみに公家たちの日記では申の刻に夕立が降ったことがわかる)。
なお、足利義輝の弟・鹿苑寺周暠が一緒に殺されたことになっているが、「山崎吉家・朝倉景連連署状」では別の場所で死んだことになっており、実のところよくわからない(軍記では後者で記憶されていくこととなった)。
【史料】
邸内には母堂とともに公方様の兄弟なる二十歳の青年がおり、彼らは同人もたちまち殺害し、公方様の母堂を捕らえた。或る者は命を助けてやれと言い、また或る者は殺せと言った。甚だ有力な大身の娘である(宮中の)婦人が、炎上する宮殿から逃れ始めると、兵士は彼女らを斬り始めた。十五、乃至二十名が武器を恐れて一軒の家の下に入り込み、その後、火から逃れようと欲したが叶わず、その場で全員が焼死した。
さらに兵士らは逃れ出た数人の婦人から衣服と着物を奪い、人の言によればその中に奥方がいたとのことだが、未だに現れない。今、彼らは奥方を死刑に処するため探しており、彼女のいる家を見つけた者に多額の金銭を、また彼女の髪をつかんで彼らの前に引きずって来る者にはさらに多額の金銭を(与えると)約束した。
公方様の二人の娘は兵士らの足元に投げ出されていた。某キリシタンが彼女らのことを知って、或る人に彼女らを救って家に収容することを請うた。いとも親愛なる者たちよ、当国の人々が生命をいかに尊重せぬかを尊師らが知るため(申し上げるならば)、十三、四歳の年少の貴人が公方様の前に現れ、大いに奮闘し始めたので、謀反人側の人々は口々に、彼を生け捕りにせよ、殺してはならぬと叫んだ。少年は公方様がすでに亡くなったことを知り、己れが生きれば大きな不名誉になると考えたので、手にしていた刀を捨て、短剣を抜いて喉の一部を切り、続いて腹に突き立て、その上に(被さるように)倒れた。
同所では公方様とともに、当国中で最も著名にして身分高き貴人約九十、乃至百名が死んだ。(敵兵らは)宮殿が焼ける前に、宮殿および殺害した全大身の邸をことごとく略奪した。以上は一時間半か二時間で行なわれたことであった。
仏僧らが訪れ、公方様の遺体を埋葬するために運び去った。三好殿はその他あらゆるものを燃やすことを命じ、同宮殿の一物すら残さぬようにした。
Estaua dentrocom a māyhum jrmāo do Cubucama Bonzo, mancebo devinte annos Logo omatarāo, e tomarāo a māy do Cubucama: hūs diziāo quelhe dessem a vida, outros q amatassem. Alicom muitascutiladas a matarāo junto do filho. Asdamas filhas de senhores muy grandesem começando a sayr dospaços, que ardiāo, começarāo os soldados a cortar nellas. Meterāpose debayxo de hūa casa quinze, ou vinte, por temordas armas, quando depois sequiserāo saluar do fogo, nāo poderāo, e ali seqymarāo todas. A outras algūas q sahiāo, tomau āolhes os so;dados os vestidos, e quymōes, entreasquaes dizem, quefoy a Raynha, queainda nā aparece. Agora andāo em buseadella, com promessas de muito dinheiro, a quem deseobrir a casa onde esta, e muyto maisaquem a leuar a rasto polos cabelos diante delles pera a justiçarem.
Duafilhas do Cubucama estauāo ahideitadas antre ospees do soldados. Conheceoas hum Christāo, e rogou a hum homem que as saluassse, e as deytasse ahi em algūa casa, e pera saberem carissimos quam pouco esta gente esti ma a vida vinha diantedo Cubucama hum moço fidalgode treze, ou catorzeannos, e começou a pelejar com tanto esforço, que todos os da patre dos aleuā tados bradarāo que o tomassem viuo, eo nāo matassem.O moço vendo que o Cubucama eramotto, e qelle ficauaem deshōra frande viuendo, deitando a espada fora damāo, leou da adaga, e cortou hum pedaçoda gargāta, e depois embedeoapolas eatranhas ecayo sobre clla.
Morrerāo aqui como Cubucama o bra de nouenta, ou cem fidalgos, os mais illustres, e nobres de todo este Reino. Saquearā os paços antes de arderem, eascasas de todos estes Senhores que ma tarāo. Feyto isto em obra dehū ora, e mea , ou duas.
Vierāo os Bonzos eleuarāo a enterrar o corpo do Cubucama. a todos os mais mandou Mioxindono por o fogo, de maneyraque nāo ficassee daquelles paços cousanenhūa em pee.
やがて小侍従局も発見されて、処刑された。
【史料】
聖三位一体の日曜日のすぐ後の水曜日、公方様の奥方が発見された。年の頃は二十七歳で、二人の娘があった。彼女はこの市から半里ほど外にある某僧院に隠れていた。弾正殿と三好殿が彼女を殺すよう命じたことを伝え聞いたので、彼女は紙と墨汁を請い、自らの手で娘の一人に書状をしたためたが、それは読む者の心を大いに動かすものであり、後に書状を読んだ人は誰もが多くの涙を流した。
結局、その書状は、彼らが彼女を殺すよう命じることは、主君たる国主を殺したのと同様、いとも不当なことであるが、彼女は死によって少しも悲しみや嘆きを感じず、むしろこれは阿弥陀の計らいにして限りなき慈悲であり、阿弥陀が彼女を速やかに極楽、すなわち阿弥陀の栄光に導こうと欲して、かくも多大な恩恵を垂れたのだと信じており、その極楽において彼女は必ず君なる公方様に見え、彼と語り合って楽しむであろうと伝えるものであった。
書状を封じた後、彼女は甚だ明るく同僧院の仏僧らに別れを告げ、二、三日の滞在中に受けたもてなしを感謝した。続いて、阿弥陀の祭壇の前に行き、両手を挙げ、その名を十度称えて祈った。僧院の長老は、彼女が阿弥陀の名を称えたことにより、彼女のあらゆる罪が完全に免じられた印として、彼女の頭に両手を置いた。それから、甚だ明るい様子で別の部屋に行き、聞くところによれば、両手を挙げて阿弥陀の名を称えながら首を斬られ、こうして果てたとのことである。
彼女の首を斬った兵士は他の者を伴っており、他になす術もなかったので彼女を殺したが、その後、彼はかくも大なる不正と非道に立ち会うことのないよう、もう二度と軍務を行なうことを望まず、武器を棄て、剃髪して僧院に入るだろうと言った。
A quarta feyralogo seguinte depoys do domingo da santissim Trindade foy achada a raynha molher do Cubucama, que poderiaser molher de vinte e sete annos: daqual tinhaduasfilhas. Tinhase elli recolhida em hum mosteyro, obrade mea legoa fora desta cidade. Sendolhe dado recado, que a mandauāo matar Dajondono, e Mioxindono, pedio papel e tinta, e escreueo hūa carta porstua māo muy larga pera hūa filha sua que era muyto pera mouer o coraçāo de quem a lesse, e todos os que depoys a hāo, chorauāo muytas lagrimas de a ver.
Resoluiasse a carta em dizer, que a ella a mandaouāo matartam in justamēte, como matarāo a el Rey seu senhor, porem queella nāo reccbianenhūa tristeza, nem desconsola çao com a morte, antestinhaperasi, que fora ordenaçāo, e infinita misericordia de Amida gazerlje tamanhamerce, que em tam breue tempo a queria porem seu gocura, que he a gloria domesmo Amida, donde tinha porcerto que veria a seusenhor Cubucama, e gozaria desuacōmunmcaçāo.
Fechada a carta fovse despedir dos Bonzos daquelle mosteyro muyto alegre, dandolhes agardecimentos do gaslhado que lhe fizerā aquelles dous, outresdras, que ali esteue. Depoysdisto se foy por diante do altar de Amida e com asmāos aleuantadasinuocou dez vezes o seu nome: poslhe o superior do molteyro anmāos fobre a cabeçaem sinal, que por chamar o nome de Amida recebra plenaria remissāo de todos oss seus peccados.Foy se entāo dali pera outra camara muyto alegre, e dizem que com as māos aleuantadas, e chamando o nome de Amida a degolarāo, eassi acabou.
O soldado quelhe cortou a cabeça, porque hia acompanhado de outros muytos, e nāo podia alfazer, acabando de a matardisse, que nāo queria mais v sardo officio militar, mas que auia de deixarasarmas, e rapar se, e meterse num mosteyro, por nāo ver tamagrandes injustiças, e sem rezōes.
ルイス・フロイスの書状では小侍従局に続いて幕臣たちの迫害も描かれている。
【史料】
当市の騒乱と非常な残虐行為を見るのは実に嘆かわしいことであり、かの二人の暴君はあたかも初期の教会の信徒に対する皇帝たちの迫害をそのまま演じて見せているかのようである。公方様の家臣や友人は何処であれ発見されると、直ちにその財産は没収され、本人は殺されるか捕らえられ、或いは逃亡する。
公方様には二、三人の姉妹があり。禅宗の或る大きな尼僧院に入っており、甚だ尊敬されていた。兵士らは姉妹であるという理由で、同僧院に行って彼女らを嘲り侮辱し、彼女らは自害せぬよう絶えず他の尼僧から見張られている。三好殿は都の外およそ一里にあって公方様の家臣に属する二つの集落を破壊させた。
また、当地から半里の所にいるジェンキオンドノ(Ienquihondono)と称する貴人を欺いて殺害するため招かせたが、同貴人は仕掛けられた罠に気付いたので、八百名の兵士を彼の家に入れ、(敵が)彼を求めて来たならば兵士らとともに抵抗することに決した。公方様の一貴人は謀反が起こる少し前に、偶像の寺院を幾つか参拝するために出かけ、すでに当地から離れていたが、途中で報に接し、三日間で都に戻った。宮殿といっさいの物が破壊されて灰になり、国の重立った大身らが死んだのを認めると、過ぐる火曜日、公方様が己れの葬儀のために甚だ豪華に造った僧院に行き、墓前で腹を切り、息絶えた。
当地の民衆は非常におびえ、動揺しているので、少年や青年が街路を走ると、別の残虐行為か新たな事件かと確かめるため門に出て来るほどである。
Certo que ver a perturbaçāo, e grandes cruezas que vāo nesta cidade he muyto pera se ter lastima dellas, porque parece representarem muyto ao natural ester dous tyrannno a perseguiçāo dos Enperadores contra os catolicos daprimitiua Igreija. Onde quer que se acha criado, ou amigo do Cubucama, logo lhe he confiscada a fazenda, e elle morto, ou preso, ou fogido.
Tem o Cubucama duas, ou tres jrmaās muy honradas metidasem hum grande mosteyro de Bonzas da seyta dos Genzuns: ali vāo esearnecer os soldados, e afrontar por serem suas jrmaās: as quaes sam continuamente vigiadas das outras, por que se nāo matem a si mesmas.Dous lugares mandou Mioxindono assolar, e destruyr obra de hūalegoa fora deste Meaco, que erāo dos criados do Cubucama.
A hum fidalgo, por nome Ienquinhondono man dou chamar falsamēte pera o matar, que estaua daqui mea legoa, e conhecendo a treyçao quelhe estaua armadameteo oytocentos soldados em sua casa, e determina com elles de lhe resistirse o forem buscar. Hum fidalgo do Cubucama a pouco antes dstas treyçōes era ido a ourtos Reynos em romaria a visitar certos templosde seus idolos, sendo elle ja daqui longe em o caminho dandolhe a noua em tres dias tornou a este Meaco, e vendo os paços assolados, e tudo deestruydo, efeyto em cinza, cos senhores do Reyno principaes mortos, foy se estaterça feyra passada ao mosteyro, que o Cubucama tinhafeyto muy suntuoso pera seu enterramento, esobre sua sepultura cortou a barriga, e cayo ali morto.
Esta este pouotam atemorizado, e che o de perturbacāo, que qualquermenino ou moço que corre por hūa rua todos saem asportas versesam outras cruezas, e nouidades.
変の原因
変の原因に関する説1
山田康弘、柴裕之らの主張するもので、そもそも足利義輝を討ち取るつもりはなく、もともとは室町時代に恒例だった「御所巻」を行うつもりが、交渉決裂によって流れで殺してしまったという説である。
その典拠となっているのが永禄8年6月19日に発給された以下の文書である。
【史料】
就京都之儀、自是可申之所、去十四日之御状、令被閲候、去月十九日、号三好左京大夫(義継)・松永右衛門佐(久通)訴訟、 公方様御門外迄致祗候、人数御殿江依打入、直ニ度々御手を下され、数多被為討捨、無比類雖御働候、御無人之条、不及御了間、被召御腹由候、誠恣之仕立、前代未聞、無是非次第、限沙汰ニ候、鹿苑院殿様も於路次御生害、慶寿院殿様於殿中御自害候、其外諸侯之面々卅人計、女房衆も少々被相果旨候、一条院殿様無御別儀南都ニ御座之由候、先以可然御儀と申事ニ候、定而可為御同意候、京都様躰其無意儀旨候、時合方々注進、従此方差登飛脚等申之趣、乍同前少相替様ニ候、従林右(林平右衛門尉)具被申下由候間、注之進入不申候、然而、彼国江儀、先日御報ニ委曲如申入候、来月盆前後御出張肝用(要)存候、又遅々候てハ、不可有曲候、京都如此之時者、覚旁尚以被相急度事候歟、委細、御使僧江令申候間、不能再三候、恐々謹言、
六月十九日
参 御返報
三好軍にとっては義澄流と義稙流の「二つの将軍家」問題を義稙流の足利義栄ラインへの統一を実現するために変を起こしたというわけなのだ。しかし↓からは足利義維の時点でほとんど求心力がなかった義稙流にどの程度の影響力があったかを批判されている。
変の原因に関する説2
天野忠幸の主張するもので、九条家を外戚とした三好義継といった三好家の若い世代がこれまで対立してきた足利義輝との関係を清算してしまい、そもそも足利将軍家の擁立事態を放棄しようとしていたという説である。こちらの説では足利義栄の擁立は、その後の三好家中の対立で、三好康長といった阿波三好家の協力を得るために彼らの方針を受け入れたとされる。
その典拠となっているのが永禄8年5月26日に発給された以下の文書である。
【史料】
呉々も此分由候ても連々頼存事候間、偏ニ万端頼ニ存事此刻候、尚以無正体、又一様ニ罷成候事、具撨江ニ申合候間、可申入候、口惜敷迄候、此外不申候、南都一条院殿今日迄ハ無事候間、先以大慶候、此外不申候、
急度令申候、仍去十九日巳刻三好孫六郎(義継)、松永右衛門佐(久通)、公方様へ取懸申候処、奉公衆数刻戦申候、然共人々無之□時節候間、被御腹切候、同時ニ慶寿院殿・鹿苑院殿御生害候、其外奉公衆六十余人打死候、前代未聞絶言語迄候、此儀去年冬志野原(篠原長房)堺津へ罷上、阿州公方(足利義栄)入洛調段、御時刻候哉、上下共曽以無風聞候間、不慮出来候、公方様御動様無及樊噲様ニ申候、慶寿院殿も御自害無比類事ニ候、其外奉公衆何も御動不及是非事、さて〱、無申方事□、忘前後迄候、拙者存命無曲次第候、併御分別専一候、猶撨江斎可申候、恐々謹言、
切封上ニ
進之候
上包 同断
このためこちらの説は殺害自体を当初から目的としていたと主張する。しかし↑からは史料から構築された事実関係からは乖離しだしていると批判されている。
それはそれとして…
一方でそもそも基本的な事実関係復元できとらんやんけ、という至極もっともな理由から両者から距離を置いて基礎研究が行われている。
木下昌規や馬部隆弘らによって、進士晴舎が三好軍の在京中に取次を独占しつつあったことがトラブルになったのではないか、ということが2019年までに言われるようになった。
また、木下昌規は2020年に幕府女房の中で小侍従局のみ執拗に殺害の対象となり、日野氏の縁者の春日局、近衛家出身の義輝正室が殺されていないことから、公家社会への配慮はしつつも進士晴舎-小侍従局ラインの排除が目的だったとも述べている。
結局のところ…
ただ、そもそも足利義輝がこの交渉に応じる可能性が低いことからその後の三好軍の目的は何だったかわからないということ、結果的に足利義輝が死亡していること、といったことから結論を出すのは難しいと思われる。
被害者一覧
死者
- 足利義輝
- 慶寿院:義輝母
- 小侍従:義輝の側室、進士晴舎の娘(5月24日に処刑)
- 鹿苑寺周暠:義輝弟
- 朝日進三郎:詰衆
- 荒川晴宣:申次
- 有馬重則:奉公衆
- 粟津甚三郎:春日局内衆
- 飯田左橘右兵衛尉:春日局内衆
- 一河某:進士内衆
- 一色輝喜:御部屋衆
- 一色又三郎:奉公衆、上野与八郎弟
- 上野与八郎:御部屋衆
- 上野兵部少輔:御供衆
- 大館岩石:大館晴忠子、10歳
- 河端兵部丞:今乳母内、鹿苑院内衆
- 木村小四郎:鹿苑院内衆、本来は小川の蓑屋という人物、16歳(軍記で周暠の敵討ちをしたとされる)
- 小林左京亮:慶寿院内
- 西面左馬允:慶寿院内
- 治部藤通:奉行
- 進士晴舎:奉公衆、申次
- 進士藤延:奉公衆、進士晴舎子
- 杉原晴盛:奉公衆(逃げようとしたところを殺害)
- 摂津糸千代:摂津晴門子、13歳(ルイス・フロイスが記載した三好方から殺すなといわれていた人物か?)
- 大弐:足軽衆
- 高木右近:慶寿院内
- 高橋某:進士内衆
- 武田左兵衛尉:奉公衆、小林弟
- 谷口民部丞:足軽衆
- 中井助左衛門尉:春日局内衆
- 西川新左衛門尉:春日局内衆
- 二宮弥三郎:御末
- 沼田光兼:奉公衆
- 畑某:畠山九郎内衆、16歳
- 畠山九郎:奉公衆、14歳
- 八田十右衛門尉:杉原内衆
- 林与五郎:春日局内衆
- 疋田弥四郎:御末
- 彦部晴直:申次
- 彦部孫四郎:詰衆?、小林弟
- 細川隆是:御部屋衆
- 松原小三郎:春日局内衆
- 村田弥介:杉原内衆
- 森田新左衛門尉:慶寿院内
- 結城主膳正:奉公衆
- 金阿弥:慶寿院内
- 慶阿弥:同朋衆
- 台阿弥:同朋衆
- 竹阿弥:慶寿院内
- 福阿弥:同朋衆
- 松阿弥:同朋衆
- 林阿弥:同朋衆(5月24日に傷がもとで死亡)
- あこ:慶寿院女房(5月24日に死亡)
- 某女房:慶寿院上臈、真下式部少輔娘、畠山稙元猶子(5月21日に自害)
死者かどうか微妙な人物
- 高師宣:奉公衆(ここで死んだとされるが、実は後の足利義栄政権に名前が見られ、よくわからない)
- 松井勝之:奉公衆、慶寿院内、松井康之兄(ほぼすべての記録がここで死んだとしているが、実は元亀2年4月18日の言継卿記に彼っぽい人が出てきているので、よくわからない)
被害者ではあるが生き残った人物
変そのもの主な登場人物
- 足利義輝
- 被害者。父親と弟と違って、まだ全然研究の手が付けられておらず、実は評価が定まってない感がある。というか現在進行形でクロスカウンターキマってる。
- 鹿苑寺周暠
- 被害者。足利義輝の弟。以上。
- 慶寿院
- 被害者。足利義輝の母親で、近衛家。つまり、足利ー近衛体制の一員。
- でも兄弟の久我晴通としこりがあったりと、微妙に統一感ないメンバーである。
- 小侍従局
- 被害者。足利義輝の側室。
- 幕府女房という立派な官僚であり、取次の父親・進士晴舎ともども、三好側からはとにかく消す必要があった要注意人物。
- 進士晴舎
- 被害者。幕臣。三好軍が在京中に取次を独占した結果トラブルになったとかなんとか。
- そして多分勝手に切腹した。
- 春日局/陽春院
- 被害者。足利義輝の乳母。摂津晴門の義理の姉妹。
- 殺されなかったので、ずっと京都にいた。その後その家が足利義昭方の拠点になっていたっぽい。
- 三好義継
- 容疑者その1。最近評価は良くなってきたけど、この事件に関しては何がしたかったのかよくわからん。
- 松永久通
- 容疑者その2。松永弾正の息子という以外、特に特色を残せないまま退場した人。
- 三好長逸
- 容疑者その3。セット売りされているが、この事件以前に三好三人衆は存在しない。
- 変以前に松永久秀ともども家中を差配していた重要人物
- 松永久秀
- 風評被害その1。でもなんで足利義輝の弟確保していたのかはよくわからん。
- この変がきっかけで、彼の人生が激変したのは確かである。
- 三好長慶
- 風評被害その2。きっちり死亡を秘匿できてたばっかりに…。
- 松永長頼/内藤宗勝
- 松永久秀の弟。この余波で盛大に死亡。
事件の鎮静化
概要
ま…まあ弟一人は確保しとくか(ガシッ) | ||
松永久秀 |
おいおいおいマジか | ||
足利義昭 |
あれ? | ||
松永久通 |
やることはやっておこう
ええー…… | ||
朝廷 |
(刀チラ) | ||
三好軍 |
はい | ||
朝廷 |
ええー…… | ||
朝倉義景 畠山秋高 武田義統 上杉謙信 織田信長 etc... |
本題
変自体はその日のうちに終わり、小侍従局を除いては以後殺害されたものもなかった。
翌日には足利義輝の外戚である近衛家や、その縁戚の久我家にも類が及ぶと噂されたが、5月21日に三好長逸の参内を受け入れ、沈静化することとなった。朝廷は、彼らの行為を非難することはなかった、というよりもできなかった。
さらに22日には奉公衆、右筆方奉行衆も三好義継、松永久通のもとに御礼に行くこととなり、混乱は3日ほどで沈静化していったのである。
ただし、おおよそ小侍従局の探索が終わるまでは三好・松永勢が洛中を騒がしていたようだ。
一方松永久秀は『清水別当記』の永禄8年6月4日条によれば、多聞山城におり、永禄の変そのものには関わっていなかった。
また、松永久秀は、以下の文書によれば、一乗院覚慶、後の足利義昭を保護していた。息子の松永久通や主君である三好義継と構想自体が違っており、その思惑はよくわからないが、覚慶を討つことを阻止していたのである。ちなみに分かりづらいが、この書状は一乗院覚慶本人が、松永久秀に守られてるから安心しろと松永久通に言っているのである。
とはいえ、叔父の大覚寺義俊によれば、厳しく監視されたものであった(詳細は脱出の欄で)。
6月7日には歴代の室町幕府の将軍の中では官位が低いままだった足利義輝が従一位の左大臣に叙任されていた(なお、本来と違い代理で儀式を担った中級官人の中原康雄がかなり愚痴っぽく当日の様子を描いている)。
【史料】
壬申、天晴、自申刻雨降、 少外記盛厚来、今日宣下実不之事尋之、対面、奉行に可尋之由返答、次同一﨟康雄来、対面、同前返答了、次陣官人来、同前、
借用之物共袍、久我、表袴、持明院、裾、甘露寺、雑色狩衣二具、久我、等貸寄了、
広橋亜相富小路是齊所に被居之間罷向、宣下之事令談合、同令同道庭田へ罷向、黄門昨晩自大坂上洛、一盞了、中山被来、次伊勢加賀守被来、総用之事十日十一日之間に可渡之由有之、加州被請乞了、諸司に為奉行被申遣、予暮々帰宅、未下 刻迄脱カ 雨儀種々儀共有之
亥下刻令治定、深雨深泥之間、布衣侍烏帽子着共供少々略之、供大澤右兵衛大夫、早瀬民部丞、宮千代、雑色二本、小者三人計也、於殿上着束帯、籐宰相相語、夜半に参集、雨儀也、先予於宣仁門陣官人に問刻限、午刻と答、常には戌刻と答歟、相違之儀也、次入門着陣着奥座、大納言座、四度之揖如例案祝儀、次移端座、裾引寄直沓、次召官人令敷軾、次頭中将重通朝臣吉書持来、予置笏取之、被見如例了気色、次頭中将退、以次官人召弁、右中弁こなたへ、次弁晴豊来、下吉書、弁被見之、次退、次召官人令撤軾、次起座出宣仁門了、次軈陣儀始、先予着奥座、中納言、次頭中将仰云、征夷大将軍参議左中将朝臣義輝、可被贈左大臣従一位、令作宣命位記、次移端座召官人令敷軾、次以官人召内記、大内記こなたへ、次大内記盛長来、仰詞同前、次少内記康雄、宣命草位記等納一筥持参、宣命被見、位記予懐中、康雄に令持宣命奏聞、雨儀、殊西軒短之間、於孔雀間頭中将に渡之、次返賜之、次帰着端座、被見了康雄退、次召少納言盛長少納言こなたへ、軾、下宣命位記懐中取出之、等気色、次召内記空筥返下、次召官人令撤軾退出了、深雨、纏頭之至也、少納言直に持向相国寺雲頂院、集尭長老被請取之云々、御寺不在之間、作法無之云々、
高辻前黄門長雅卿、東坊城大内記盛長、永禄三年以来勅勘、今日御対面云々、東坊城内々衆也、今日可外様之由被仰出云々、根本外様之仁也、祖父和長卿内内に始而祗候也、
頭中将抜衣文、予先刻調之
【史料】
永禄八年六月七日光源院殿贈官宣下 義輝大将軍五月十九日御生害
外記予息康政信任今度初る相当少年み間相語盛厚也内記予外記参陣俄無役御不審□予其例勘之記み後進□嘉吉元年同三年文安大永□徒故度々例如也史参陣之例□在之□ル今度不参也助□不参右御坊名上雑職事大内記少内記外記陣宮皆同也三百疋宛但名未下向六月十八日廿六日両食努□奉行職事庭田左中将~~上山科権中納言言継卿大内記坊城菅原□盛仲同少納言兼役也詔書草一通清書一通以上二通又位記一巻大内記於□中給之□諸取之者也無門此方より□る催促申給之者也
陣儀次矛器々
上卿山科中納言言継□着陣奥職事庭田左中将進仰勅語其□征夷大将軍故参議第近衛権中将従四位下源義輝朝臣□可以贈官右大臣従一位令作証書位記よ 次上卿移令□座令敷軾次上卿以官人分内記大内記菅原朝臣為仲進軾上卿仰云贈官位詔書位記宝□如職事大内記仰詞聞退□次少内記予証書草位記入莒ツラノ□□持参軾上卿覧ミ就□飛代奏聞今度而□間鬼間ノ向上陣□ノ軒下にて奏聞職事出向奏聞終返給其時上卿令清書と仰□予詔書清書懐中にて当座に取替〻草をは懐中にて清書入莒奉之又奏聞々々帰陣予上卿の前に置莒退次上卿□□納言菅原朝臣為仲進軾詔書位記給之退次□内記予進軾空莒返給予取之退出之次令撤軾上卿職事各退出□大内記不参ミ時着予如大内記仰詞□之也□□両儀俄者不引裾之職事□如山上卿一人裾引給之如何可尋注者也
6月9日には雨の中葬儀が行われたが、相国寺以外の寺院は参列せず、昵近衆が誰も来ていないことは山科言継も嘆いている。ただし、正親町天皇は3日間の朝廷の停止を命じており、表立って悲しむ行為が禁止されていたわけではなかった(ちなみに入江殿は足利義輝の妹である)。
【史料】
甲戌、雨降、 光源院殿贈左大臣従一位融山道図御葬礼寅刻云々、於等持院(北山)但及天明之由有之昵近之公家前々悉参、今日一人も不参、又御比丘尼御所々々、五山十札諸宗之経悉以無之云々、御子孫無之歟、相国寺衆、奉公衆、奉行衆計也云々
自禁裏召之間、長橋局迄参、大典侍殿御使入江殿に参、武家慶寿院殿御事御訪之儀斉、参可申之由有之、
入江殿へ参、為禁裏御使光源院殿、鹿苑寺殿、慶寿院殿御儀、御力落御愁疵被察申之由申之、則奥御座敷へ可祗候之由有之、一乗院殿之御使高麗、武家之万阿弥等祗候也、御酒被下之又予盃被聞召、過分之至也、次返事、御使忝者也、得其意可申入之由有之、帰路之次一条殿へ参、御盃被下之、次東坊城出仕珍重之由、礼罷向申候了、
長橋局へ参、入江殿御返事申入了、次大典侍殿へ参、御言伝之御返事申候了、
勧修寺黄門来儀、光源院殿御焼香に可参歟否之由被申、万松院御時不参、又御経不持参者可見苦、無用歟之由返答、被同心
就光源院殿御儀、禁中七日至今日三ヶ日廃廟云々、清涼殿階間御簾被垂之、御拝之間御格子之本不被取之也、親王大臣之外雖無之、武家御儀各別之儀也、三位以上者一日云々、
なお、6月15日には山科言継に大和晴完がこうなる予兆があったことを話していた。
そして北朝天皇を護持する将軍の象徴として神聖視されてきた御小袖が、10月26日に三好氏に下賜されたのである。
足利義昭の脱出
概要
本題
ところがである。河内の畠山秋高(当時は畠山政頼)とその配下・安見宗房が6月24日には既に上杉謙信に対して足利将軍家の再興と三好氏の打倒を呼びかけ始めた。さらにその企てに、足利義輝の叔父であった大覚寺義俊も加わる。彼らは朝倉義景、武田義統、織田信長にも調略にあたった。
なお、この書状がかの有名な足利将軍家を天下諸侍御主と呼んだ唯一の事例である。
【史料】
態被申上候、仍 公方様去五月十九日、三好・松永以下以所行、被召 御腹候、先代未聞之仕合、無是非次第候、天下諸侍御主ニ候処、三好仕様無念之儀候、善悪被申合、御弔矢被仕度覚悟候、於様躰者、従 大門跡様(大覚寺義俊)可被入仰候間、此度其 御屋形様(上杉謙信)、於御上洛者、天下御再興可為御名誉候、南方(北条氏)之儀者、此方屋形(畠山政頼)併同名新次郎(安見宗房)被相催候、可被及行候、越州・若州・尾州、其外国々之儀者、従 大門跡様被仰調由候間、定而其方へも可為御入魂候、就其政頼・新次郎以書札被申候、御取成肝要存候、京都之儀定具相聞可申候間、不能申進候、殊更今度 上意様御腹被召候儀、其方上杉御家替ニ成被申、為御礼御在京候者、三好御成敗之段、被仰合由風説故、如此旨世上申事候間、旁御弔矢可被遊□□□□□(儀肝心候哉)、毎事可然様御取合奉頼候、恐々謹言、
観音寺騒動で内紛中の六角氏、一色義龍が三好義興と同盟関係にあったため息子の一色龍興は同盟に加わらないと判断された後斎藤氏を除いた形となったが、皆何らかの形で足利義輝方として行動を行った人物であった。
なお、大覚寺義俊は永禄10年1月12日に亡くなるため、ごく初期にしか関わっていない。そしてこれは畠山氏研究者や六角氏研究者がガチギレする案件だが、安見宗房や畠山政頼が江戸時代に勝手に六角氏にされたのを未だに踏襲する研究者がいるため、注意である。
ちなみに、一色龍興であるが、足利義輝に追い出された伊勢氏と以前と変わらず通交している。このタイミングに乗じて伊勢貞為の上洛を勧めているのである。
反発を強めつつも軍的脅威にならなかった反三好方であったが、事態は急変する。7月28日に、覚慶が脱出したのである。翌29日には和田に到着し、居を構えた。
ただし、この事件に関しては極秘任務で脱出させたという見方と(山田康弘ら)、交渉と調略で解放させたという見方(天野忠幸)の2つの見方が存在し、実ははっきりしたことはわからない。
脱走ルート
旧来から軍記をソースにこれは脱走劇だといわれていたため、和田家文書が見つかった際もその関連文書だとされた。というわけで以下がそれなのだが、何が書いてあるかよくわからないものしかない(なお、仁木長頼はこの事績のみしか残っていない人物である)。なお、『享禄天文之記』によると和田の道中で伊賀守護・仁木長政が援助しているので、伊賀の仁木氏が以後も味方だったのは事実である。
解放ルート
以下の大覚寺義俊の書状によれば、朝倉義景の交渉によって解放させたと読み取れなくもない。なお、こうなると和田家文書の仁木長頼らはどこに行くのか、という問題が発生するが、天野忠幸はこれを翌年の幻の上洛計画の際の文書だと比定しなおしている(というのも文から勝龍寺城がすでに味方となっていることがわかり永禄8年ではいろいろと齟齬が出るからである)。
足利義昭陣営の形成
概要
本題
覚慶が脱出であれ、解放であれ(ただ『享禄天文之記』見ると逃げてきたっぽいんだよなあ…)、こうして覚慶の発した御内書に大名や、公家も応じ、幕臣も集まっていった。なお大覚寺義俊は先ほどの書状の副状で直江景綱に上洛するのは今だともあてており、玉をあっけなく手に入れたことで上り調子となっていた。
なお、覚慶の陣容は、『足利季世記』という軍記だけをソースにされてしまうので実際のところ怪しいが、仕方ないので列挙はしておくと
- 大館宗貞
- 大館晴忠
- 三淵藤英
- 細川藤孝
- 武田義統
- 沼田清延
- 京極高成
- 仁木義広
- 一色藤長
- 一色松丸
- 沼田統兼
- 上野秀政
- 上野信忠
- 和田惟政
- 和田雅楽助
- 飯河信堅
- 飯河肥後守
- 二階堂駿河守
- 大和孝宗
- 牧島孫六
- 能勢丹波守
- 曽我祐乗
- 奈良中坊龍雲院
- 飛鳥井左中将
ということらしい(実在しない人名が見られるためやっぱり怪しかったりする)。
永禄8年頃には覚慶は和田惟政のもとで朝倉義景、上杉謙信を筆頭に、島津義久、相良義陽、大友義鎮、毛利元就、武田信景、由良成繁、松平家康らに内書を送っている。その一つが義就流畠山氏の史実上の最後の記録である以下のものである。
おおよそどの時期に誰に送っているかをまとめると、以下になる(久野雅司とか水野嶺とかがちゃんとまとめなかったのでまだ東国の方とか未完成)。
日時 | 相手 | ソース |
---|---|---|
永禄8年 8月5日 |
上杉謙信 | 上杉家文書506号等 |
永禄8年 8月14日 |
前波吉継 | 和田文書 |
永禄8年 8月26日 |
畠山尚誠 | 和田文書 |
永禄8年 9月28日 |
武田信玄 | 永禄9年3月8日に返信されたのが、戦国遺文武田氏編981号 |
永禄8年 10月28日 |
島津貴久 島津義久 |
島津家文書89号 |
相良義陽 | 相良家文書520号 | |
永禄8年 11月20日 |
北義斯 岡本禅哲 (佐竹氏) |
茨城県史資料編IV巻 岡本禅哲の方は永禄7年と書かれているが、もろもろおかしいのでこちらに |
松平家康 | 和田文書 | |
永禄8年 12月2日 |
上杉謙信 | 覚上公御書集 |
永禄9年 1月26日 |
河野通宣 | 愛媛県史1910号 ※愛媛県史と異なり中平景介に再比定された |
永禄9年 2月16日 |
河野通宣 | 愛媛県史河野文書2064号 ※愛媛県史と異なり中平景介に再比定された |
永禄9年 3月10日 |
上杉謙信 上杉景勝 色部勝長 斎藤朝信 |
上杉家文書511号 上杉家文書513号 新潟県史1063号 上越市史501号 |
永禄9年 7月1日 |
河田長親 | 新潟県史3703号 |
永禄9年 7月13日 |
武田信方 | 尊敬閣文書 |
永禄9年 7月17日 |
十市兵部少輔 | 多聞院日記 |
永禄9年 9月13日 |
上杉謙信 | 上杉家文書1130号 |
永禄10年 2月24日 |
上杉謙信 | 上杉家文書1187号、1131号、1132号 |
永禄10年 3月2日 |
吉川元春 | 萩藩閨閥録 |
永禄10年 7月1日 |
上杉謙信 直江景綱 智光院 河田長親 |
上杉家文書1133号 上杉家文書1134号 上越市史958号 新潟県史3703号 |
永禄10年 9月13日 |
上杉謙信 | 覚上公御書集 |
永禄10年 11月20日 |
由良成繁 | 由良文書 |
永禄11年 3月6日 |
上杉謙信 | 上杉家文書1135号 |
永禄11年 7月12日 |
上杉謙信 | 上杉家文書1136号 |
永禄13年 7月9日 |
河野通直 | 愛媛県史河野文書2042~2044号 ※愛媛県史と異なり中平景介に再比定された |
ちなみに、このころは彼らがいた近江の守護でもあった六角氏は事情を把握しつつ、和泉上守護家の細川刑部大輔にあてた書状を見る限り、観音寺騒動の対応に手いっぱいで旗印をはっきりさせてはいなかったようだ。
やがて12月21日に和田から矢島に移り(和田惟政には事前の了解はなかった急な話である)、しばらくそこを拠点にしていた。おそらく織田信長へ送られていたため梯子を外された和田惟政には以下のように弁解している。
『言継卿記』を見る限り、永禄8年末には誓願寺と円福寺の訴訟に対し、圧されていた二条晴良が覚慶の力を借りようとしていたらしい。近衛前久とその父・近衛稙家が動けない中、二条晴良が次第に覚慶の朝廷内の橋頭保となりつつあった。
なお、この頃書状を送られた人物で、上洛を強く推進したのは織田信長と松平家康である。
織田信長に関しては後述するとして、このうち永禄9年12月に松平家康は、近衛前久の力で三河守・徳川家康となった。そう、足利義昭に追い出される近衛前久の力でである。というわけで、家康は、足利義昭政権においてはずっと松平蔵人と呼ばれ続けることになる。
松永久秀の失脚
概要
本題
極秘ミッションによる逃亡、調略による解放、どちらにせよ覚慶を手中から取りこぼしたことは完全に松永久秀の失態であった。このことは完全に裏目に出たのである。
一方、大覚寺義俊の副状にもあった通り、赤井時家、荻野直正が勢力を回復させつつあった丹波で、8月2日に松永久秀の弟の丹波方面軍を担当していた内藤宗勝が討ち取られる。
この結果丹波、さらに久秀の治めていた大和でも軍事情勢が緊迫化。反三好方であった大覚寺義俊や安見宗房は味方を集め包囲網を主導しつつある(なお、この知らせは畠山秋高、遊佐信教、安見宗房の3人から薬師寺弼長に宛てたものが残っている)。
この結果松永久秀は三好本宗家の中枢部から取り除かれつつあり、最終的には11月15日に三好長逸、三好宗渭、石成友通の三好三人衆とそれに協力した三好康長のクーデターが生じ、松永久秀との抗争が始まる。
二人の将軍再び
概要
もう知らないもん!(パリーン) | ||
松永久秀 |
あ、こっち来るんだ…… | ||
畠山秋高 |
じゃあ一緒に戦う? | ||
畠山秋高 |
うん… | ||
松永久秀 |
それはそれとして……
ヒャッハー! | ||
松浦光 |
我が弟ー!?(ガビーン) | ||
三好義継 |
こうなったら…行け!松浦虎! | ||
三好三人衆 |
フンガー! | ||
松浦虎 |
うおおおおおお(ガシッボコッ) | ||
松浦光 |
…… | ||
畠山秋高 松永久秀 |
何あれー!?(ガビーン) | ||
畠山秋高 松永久秀 |
本題
こうして孤立状態に陥った松永久秀は、覚慶を擁立した反三好方の畠山秋高と同盟を結ぶ。畠山秋高の家臣・遊佐信教は彼に遊軍と化していた安見右近を貸し与えている。
加えてこの時期、三好義継の弟で摂家の九条稙通が後援する松浦光(松浦孫八郎)が三好家から離反し、和泉は対抗馬として担ぎ出された松浦虎(松浦孫五郎)との抗争が勃発していた。
なお、松浦光はまさに今世紀入ってからようやく系譜やら文書やらが整理された人物であり、それらを受けて平井上総が織田政権にいる松浦光を素直に松浦孫八郎とみなしているので、それを踏襲する。
さらに三好本宗家の内部にも松永久秀側につくものも多く、当初は優位に立つかと思われた。しかし軍事的に苦戦したうえ、追い打ちをかけたのが足利義栄を擁立した、篠原長房率いる阿波三好家が三好三人衆方として参戦したことである。
松永久秀は、自身に与同した細川氏綱流細川氏の後継者・細川藤賢の籠る中島城に向かったが、堺浦合戦で松永久秀・畠山氏の連合軍が盛大に負けてしまった。なお、他にソースがないので仕方ないが、細川藤賢も『細川両家記』に従えばこの年の8月くらいまでは中島城で粘っており、以後も松永久秀らと足利義秋方として行動していく。
おおよそこのあたりの畿内戦線を時系列にするとこんな感じである。
日時 | 出来事 | ソース |
---|---|---|
永禄8年 8月2日 |
内藤宗勝敗死 | |
永禄8年 8月6日 |
安見宗房が薬師寺弼長に協力を依頼 提携相手には荻野直正・根来寺なども |
尊経閣文庫所蔵文書 |
永禄8年 8月8日 |
丹波に嘉兵衛・下野守殿(三好宗渭?)が出陣 | 享禄天文之記 |
永禄8年 10月8日 |
丹波衆が京都に侵攻したため竹内秀勝が迎撃 大和で秋山・小夫・多武峯が松永方を離反 |
多聞院日記 |
永禄8年 10月26日 |
石成友通が井戸良弘等に軍勢催促と称して多数派工作 | 柳生文書 |
永禄8年 11月11日 |
龍王山城で謀反 | 多聞院日記 |
永禄8年 11月16日 |
三好三人衆のクーデター | 多聞院日記 |
永禄8年 11月19日 |
筒井順慶が布施殿の城に入り、細井戸南郷らが味方に | 享禄天文之記 |
永禄8年 12月4日 |
筒井順慶が井戸城に | 日本学士院所蔵文書 |
永禄8年 12月5日 |
井戸良弘が筒井順慶に味方し、松永久秀は人質を殺害 | 多聞院日記 |
永禄8年 12月18日 |
松永久秀が安見右近など畠山方と連携開始 | 大阪城天守閣所蔵文書 |
永禄8年 12月21日 |
三好三人衆大和入り(覚慶が矢島に移動したのもこの日) | 多聞院日記 |
永禄8年 12月26日 |
三好三人衆が退陣 | 多聞院日記 |
永禄9年 2月4日 |
三好・松永・筒井方の伊賀衆・畠山らが大和で激突 | 多聞院日記、永禄九年記 |
永禄9年 2月6日 |
松永久秀が筒井城に | 多聞院日記 |
永禄9年 2月17日 |
河内の芝原合戦で畠山方が敗走(足利義秋に還俗した日でもある) | 多聞院日記、永禄九年記 |
永禄9年 2月24日 |
郡山表合戦 | 享禄天文之記 |
永禄9年 2月29日 |
松永久通が南方に布陣 | 多聞院日記 |
永禄9年 3月10日 |
大覚寺義俊が上杉謙信に勢力図を共有する | 越佐史料 |
永禄9年 3月13日 |
(このあたりから足利義栄らがスタンバりだす) | |
永禄9年 4月4日 |
三好三人衆が南都鳥見荘に布陣 | 多聞院日記 |
永禄9年 4月10日 |
三好三人衆・岩城日向が法隆寺に | 享禄天文之記 |
永禄9年 4月11日 |
三好三人衆が筒井順慶と合流 | 多聞院日記 |
永禄9年 4月12日 |
三好三人衆が杉山城を築城 | 多聞院日記 |
永禄9年 4月15日 |
大和合戦 | 永禄九年記 |
永禄9年 4月21日 |
筒井順慶が美濃庄城を接収 足利義秋が左馬頭に |
多聞院日記 言継卿記 |
永禄9年 4月26日 |
三好三人衆が筒井城攻撃 | |
永禄9年 5月4日 |
足利義晴十七回忌 | |
永禄9年 5月11日頃 |
篠原長房が渡海 | 永禄九年記 |
永禄9年 5月18日 |
松永久秀が多聞山から出陣 | 享禄天文之記 |
永禄9年 5月19日 |
足利義輝一回忌 松永久秀が野田に布陣 |
多聞院日記 |
永禄9年 5月22日 |
松永久秀が喜連に移動 | 多聞院日記 |
永禄9年 5月23日 |
松永久秀が堺浦に移動 | 多聞院日記 |
永禄9年 5月30日 |
堺浦合戦で松永久秀が敗走 | 多聞院日記、永禄九年記 |
永禄9年 6月1日 |
多聞山勢が大安寺八幡で合戦 | 享禄天文之記 |
永禄9年 6月3日 |
細川藤賢が長堂口で合戦 | 諸士系譜 ※茨木市史による修正 |
永禄9年 6月8日 |
松永久秀方に落ちていた筒井城が開城 (ちなみに、この時城内に尾張国衆がいる) |
多聞院日記 |
このタイミングで永禄9年6月24日にようやく三好長慶の葬儀が行われたようだ。
ちなみに、三好義継の妻がこのあたりで亡くなっている。
一方覚慶は永禄9年(1566年)2月17日に還俗して足利義秋と名を改める。
さらに4月21日には足利義秋が足利将軍家が最初につく官職である左馬頭につく。
幻の上洛計画とその頓挫
概要
今こうなってるからとりあえず助けろ | ||
足利義昭 |
あれ、期待されてる…? | ||
織田信長 |
うおおおお負けたああああ(ズサー) | ||
松永久秀 |
スンッ…兄貴… | ||
松浦光 |
…とりあえずいい感じに建て直すか… | ||
三好義継 |
というわけでんがな、畠山はん? | ||
九条稙通 |
マジか…… | ||
畠山秋高 |
とはいえいざ上洛予定日!
じゃあ行くわ | ||
織田信長 |
そおい!(グサー) | ||
斎藤龍興 |
え?信長来れないのかよ! | ||
足利義昭 |
オマエモナー(ドカーン) | ||
六角承禎 |
本題
一方で、4月頃から織田信長によって一度足利義秋の上洛も試みられた。そのために3月頃に織田信長と一色龍興が和睦させられたようだ。
織田信長が加わったことは大々的に報じられ、幕臣たちはこれを口実に勝ち馬を募ろうとしていった。
【史料】
一 五代院東南ノ垣沙汰之、大般若経廿七巻妙光院、十四巻民部卿、一巻瓦坊より来了、自是妙光院へ十一巻遣之
一 今度将軍可有御入洛之由付、従高田為成遮而十兵之儀大覚寺して被申入、相調則御内書被成之通状曰
就御出張之儀被成御内書候、来月廿二日織田尾張守致参陳、御動座可御供申由候、就其三州・濃州・勢州四ヶ国出勢必定候、此砌可被抽忠節者、可為神妙由可申入旨候、猶為成可有演説候、不能再筆候也、穴賢〻〻
七月十七日 御判在之
以上大覚寺殿小文ニ在之寫也、別紙ニモ日ノ下ニモ御判計在之、名ハ無之、
雖有如此御内書ハ不到来、大覚寺殿一円虚説也、内〻ハ兼テ従峯寺十市一跡闕所申調、既ニ御同心ノ内書被成旨也、如何〻〻
加えて松永久秀、三好三人衆双方からもあっちが悪かったからこっちと結べと提携が申しだされてきたが、これをつっぱねたようである(ちなみに前述の矢島に移ったタイミングもこの書状でわかる)。なお、足利義栄と足利義秋を和睦させようとする三好三人衆と篠原長房が全部悪いからと責任を押し付けている松永久秀とでは言っていることが微妙に違う。
【史料】
覚
一、智光院事(頼慶)、京都一果之間、被付置之、時々有姿可注進旨、被申付由、都鄙外聞無比類事、
一、山城・摂津・大和・河内・丹波、諸侍当時双方江一味之輩雖有之、於御出張者、各味方可仕旨、深重言上候間、於参洛者、彼是即時に可属御本意候事、
一、駕・越無事之事、
一、江州之事、
一、三好三人衆申分事、今度光源院殿(足利義輝)御生害之儀、始末松永(久秀)処行候、両三人儀者、無勿躰由、雖再三申之儀、阿州之御仁躰(足利義栄)与御和睦之姿、於無之者、難有静謐候、以其上被成入洛、行未之儀者、上意可為御覚悟次第由、種々申上候事、
一、松永申分之事、是又今度御生害之事、一向雖不依存候、自篠原方達而申に付、不及力如此候、聊以逆心不仕候、其故者、上意之御儀、於南都果可申旨、切々従彼方雖申越候、松永以才覚、無御別儀事候、然大忠候歟、此時於被成御逸者、河・泉・紀過半申合候條、及行抽忠信、即時に今度之可被散御無念旨、申上候也、右之趣、従双方、切々雖言上候、何茂不被入聞召候、
一、尾・濃和睦之事、為上使被仰出、於相調者、致参洛可申由候、然者、内々領国共御受申上候、細川兵部大輔(藤孝)為御上使被差下候事、
大覚寺殿(義俊)
御判三月十日
ちなみに、この時点では矢島が最終目的地であり、以下の2つのルートが存在した。
この書状の発行者が松浦光であり、九条家に残っていることから、双方に顔が利いた九条稙通と松浦光がうまく立ち回り、畿内に再度平和をもたらしたようである。
【史料】
天罰起請事、
右意趣者、就今度其方入国儀、対松浦孫八郎被遣知行段、自最前不可然由悔入候、雖然各依無道請取之、以其旨至家原面、令出張、失勝利、一果之儀不及是非候、於此上弥面談、可散遺恨之処、国衆幷四人之者等、三好方与可和睦之由、頼ニ申分候間、不能分別之由問答半候間、所詮根来寺覚悟次第候、若和段事不相調者、申合筋目者不可有相違候、然者契約之知行事返渡、永代両国成自他不ニ思候、可仰「(貼紙)申達候」達候、次先年根来寺与三好方和与之時、八木・池田事、彼寺ニ遺候、替地事可申付由、彼方衆以連署申候間、於河州相当事相渡候様、馳走肝要候、於偽此旨者、可蒙 日本国大小神祇、殊八幡大菩薩・春日大明神・多武峯大明神・天満大自在天神・氏神之冥罰者也、
さらに6月頃から織田信長は一色龍興を警戒して上洛に二の足を踏みだす。
結局一色龍興の織田信長攻撃によって織田信長が上洛を実現できず、頓挫した。
【史料】
去々月此の方使僧帰路の節、尊書ならびに貴国家老両人より芳問、何ぞもって拝被致し候、条々御懇ろの趣、本望の至りに候、それ以来則ち太守(武田信玄)へ龍興申展べられるべく候といえども、遠山かたへ始末迎送せられ、彼方誓詞已下相固め、御左右たるべきの旨候条、内々待ち入り存じ候、但しその先に及ばず申されるべく候か、是又御指南次第に候、両所へ愚報恐れながら御伝達預かるべく候、
一 濃尾の事、先書に申し入れ候如く、公方様(足利義昭)御入洛に付いて、織田上総(信長)参陣御請申すの条、尾州に対し此方矢留の儀同心せしめば、忠節たるべきの由、仰出され候、参陣一向実ならずと存じ候といえども、肯んじ申さずんば、濃州として御入洛を相妨げるの条、己の越度に非ざるの通り申成すべし、巧みにと分別せしめ候、もし又治定においては、公儀御為にしかるべく存じ候、かたがたおって悉く御下知に任すの由、罰文已下相認め、細川兵部大輔(藤孝)殿返す返す申候間事、
一 織田罷り透すべく、江州路次・番等も相調うの間、参陣差し急ぎ候ようにと、細兵(細川藤孝)重ねて下向候て催促のところ、此の期に至りて織上(織田信長)違変せしめ候、此方には兼ねて案々図に候条、更に事新たならず候、公儀御無興言語道断、御手を撃たるるの由、賢察に過ぎ候、去る春已来、三好かたより種々懇望仕り候、その外御調略の筋、幾重に在るの由候き、彼等妄言により御上洛相滞り、剰え江州矢島御逗留も届き難き式の間、朽木か若州辺へ御座を移さるべきの旨候、是非無き題目に候、織上天下の嘲弄これに過ぐべからず候、かくのごときの間、龍興公儀に対し奉り、疎意を存ぜざる段も、詮無く成り行き候事、
一 去月二十九日、織上当国境目へ出張候、その時分以外に水迫り候て、河表打渡り、河野島へ執り入り候、即座に龍興懸かり向かい候、これにより織上引き退き、川縁に居陣候、国の者共、堺の川詰まりを限り陣を取り続ぎ相守り候、出張の翌日より風雨水濃きに付いて、自他行に及ばず候き、漸く水引き候間、取懸かり相果つべきの由儀定せしめ候のところ、去る八日未明に織上敗軍仕えり候、川へ逃げ入り、水に没溺し候者共数知れず候、残党川際において少々討ち候、兵具已下捨て候ていたらく、前代未聞に候、しかりといえども、此方存分に任すの条、御心易かるべく候、織田在陣中注進申べく候へ共、程無く落居候間、その儀無く候、此等の通り御伝語畏まり存ずべく候、尊意を得べく候、恐惶敬白、
加えて、『米田文書』によると、ある時期を境に矢島滞在を黙認していた六角承禎は反足利義秋派に与し、永禄9年8月頃に足利義秋捕縛を命じる(ちなみにこの『米田文書』こそがかの有名な近江で明智十兵衛から書写したと書かれる『針薬方』、つまり明智光秀の初見文書とされているアレの裏に書かれていた内容である)。
概要
こうなったら逃げる! | ||
足利義昭 |
ウチ無理っす… | ||
武田義統 |
このクソ親父バブ! わからせるバブ!(ボコボコボコ) |
||
武田元明 |
…じゃあウチくる? | ||
朝倉義景 |
命があったからまだよかったよ!仕切り直しだこんちくしょう!
ごめんなさいテンカフブ! もう一回手伝いますテンカフブ! |
||
織田信長 |
……いいよ? | ||
足利義昭 |
(いいのか…) | ||
朝倉義景 |
本題
足利義秋一行はこれを察知して8月29日には矢島を脱出。閏8月3日には若狭に逃亡するも、武田義統と武田元明が対立状態にあったため、敦賀に移り、本願寺顕如に催促して加賀の一向宗と和睦をさせた後に越前の朝倉義景のもとに向かった。
おそらくこの頃に備中守護家の細川通董らに書状が送られている。
なお、経緯はどうであれ、足利義秋はこの直後に一色龍興に対して、織田信長の停戦破棄を驚いた旨の書状を送っている。織田信長の真意はともかく、停戦破棄と上洛失敗は織田信長を天下の笑いものにし、これが原因でこれ以後織田信長が天下布武を掲げ上洛を強く推進することになったといわれている。
離反した一色龍興であるが、永禄9年11月7日に武田信玄と手を結んでいる。
織田信長には再度依頼が来ていて快諾している(奥野高広による永禄8年説が定説となっていた文書だったが、村井祐樹によって永禄9年に再比定された)。
また、足利義栄も以下の時期から徐々に上洛の算段を整え始める。
永禄9年9月23日頃より情勢を悟った足利義栄一門が渡海してきた。
足利義栄の数少ない発給文書が、河野氏に10月4日に出されている。
永禄10年(1567年)1月6日には足利義栄が左馬頭となり、あとは将軍につくばかりであった。
三好義継らの参入
概要
一旦畿内の騒乱が収まったよ
とりあえず急いで平時に戻すぞ!(トンカントンカン) | ||
三好三人衆 |
(猛烈にしわ寄せがきてないか…?) | ||
三好義継 |
四国からきました、足利義栄様…アリ…かな? | ||
篠原長房 |
…… | ||
三好三人衆 |
…アリ | ||
三好三人衆 |
アリアリアリ | ||
三好三人衆 |
あれー…? | ||
三好義継 |
三好義継、怒る!
やってられっか、こんな部下たちと!(パリーン) | ||
三好義継 |
それでこっちに来た…と… | ||
松永久秀 |
手伝うぜ兄貴 | ||
松浦光 |
もう一回! | ||
畠山秋高 |
乗っからせてもらうでおまんがな | ||
九条稙通 |
わいもや | ||
二条晴良 |
なんかすごい味方増えてるー!?(ガビーン) | ||
足利義昭 朝倉義景 織田信長 |
三好家の分裂と畠山・松永軍の再挙兵!?おまけになんだか色々付いてきてる!?マジでこれからどうなるの?
ずっとスタンバってるんだけど… | ||
足利義栄 |
まだ座ってろ | ||
三好三人衆 篠原長房 |
本題
しかし永禄10年(1567年)2月16日、三好義継が出奔。26日に松永久秀と結ぶ。三好本宗家が松永方についたのである。これには阿波三好家の篠原長房との路線をめぐる対立もあったようだ。
この前日には三好義継や安見宗房らの軍勢が松永久秀にあたっており、この時まで九条稙通・松浦光らが主導した平和は保たれていたのだが、それが崩れ去った。事の発端は池田家中の分裂だが、状況証拠からこの一連の離反劇は九条稙通らの筋書きだったといわれている。三好三人衆は三好義継の下で12月頃までは急ぎ平和を実現するために知行割などを進めていたが、これが性急すぎたとも。
九条稙通はポスト三好長慶をめぐる三好家内の争いで、三好義継・松浦光兄弟を引き連れ足利義秋に与する等、九条稙通・二条晴良の九条流摂関家が連携して足利義秋派となっていったようだ(なお、近衛流の鷹司家はすでに断絶しており、近衛前久は九条流の一条内基と手を結ぼうとしていた)。
『享禄天文之記』の永禄十年の四月頃の条には、ちょうどこの寝返りの日に三好三人衆に専横されている割にうまくいっていない家中を不安視する三好義継の書状が収められている。
【史料】
急度申候、三人衆、當家可然様可令馳走之由申、さもなく外聞失面目、如無之仕成、人形同然候、さ様ニ候共、可治躰之義、縦義継果候共、不及是非候ヘ共、萬事猥成仕立無正躰候間、をのつから家も被果候間、世間取沙汰、嘲□(口偏に芥)成者ニ可被聞候、然身上果、難談顕形之諸事、様躰不見分、各難談も被為實正之間、替宿忠も不忠も不入様躰候、當家今分にてハ難続候、可有御分別候、恐々謹言、
丁卯二月十七日 篠左進之 義継判
返報、昨日御書、今日巳刻ニ到来、致拝見候、世上就無正躰義、被致御覚悟候、御乱世以後、頃時相静事、古今稀義候、蓮々以御成敗、可属静謐候処、被寄□□、如此次第、併、被相心、被背貞心之旨候分、抑奉對御進退、何之者可構逆心候哉、如何様之題目候者、可被相起義候、可以蒙仰趣、致其覚悟、希被思召、直被破却、覧人御家御長久、被専政事、可目出候、此旨御披露可仰候。恐々謹言
2月28日には三好三人衆がいかに悪逆非道か三好義継から書状が各所に発給されている。
その結果三好三人衆方には阿波三好家の当主、三好長治が渡海。一方松永久秀方は三好義継の推戴で劇的な復活を遂げる。
【史料】
尚々御使之儀、急待可申候、御使御宿之事者可申付候条、其可被成其御心得候、当春令上洛御礼可申上処、方々仕候て遅参迷惑仕候、御取合所仰候、将又左京大夫(三好義継)進退事、松少(松永久秀)一味之段不及是非候、あ州より千靏(三好長治)近日罷上候、国衆供仕候、泉州・阿州・摂州之事何も無別儀候間、可御心安候、
先度者就小塩庄之儀御住(注)進旨得其意、則各尼崎在津候条罷下石主(石成友通)へ不審申候処、世上雑説付而、西岡表面所へ惣次勝籠(龍)寺より可申付由申上候条、定而小塩庄へも可申付由候、更対御領無別候之条、可御心安候、就其旧冬申請候、先々各請文案幷御代々為守護不入地折紙案文、向(三好長逸)・釣(三好宗渭)へ見申候、然上者御本所様次第ニ候之間、異議不在之様ニ申候条、急以談合上可被相□由、切々申事候、於此上候ても、海沼弥三郎雖懇望申与、上様被成下御補任旨、弥無御別儀様御取合専用存候、然者両三人へ、御公用迄被押置御迷惑之旨、急度乍御造作仁体被差下候様御披露所仰候、左様ニ候者篠原(長房)かたへも被仰下、両三人へ再度急度可致異見旨、肝要存候、九月十日ニ御使待可申候、霜台(松永久秀)へも乍恐同前ニ申入候間、可得御意候、恐惶謹言、
三月六日 是徳
大弼殿(北小路俊定)
まいる
御報
概要
松永久秀ッッ復活ッッ松永久秀ッッ復活ッッ松永久秀ッッ復活ッッ
うおおおおおおおおおおおお | ||
松永久秀 |
うおおおおおおおおおおおお | ||
三好三人衆 |
(燃える大仏)
…… | ||
松永久秀 三好三人衆 |
ヨシ! | ||
松永久秀 三好三人衆 |
ええー…… | ||
朝廷 |
それはそれとして
そろそろ将軍位くれ | ||
足利義栄 |
というわけだ | ||
勧修寺晴右 |
マジか(足利義昭への密書持ちながら) | ||
山科言継 |
本題
5月頃から三好三人衆と松永久秀が奈良で退陣を続けていく。一応、再度このあたりの時系列を整理してみよう。
日時 | 出来事 | ソース |
---|---|---|
永禄9年 7月9日? |
松浦光らが畠山秋高と三好三人衆を和睦させる | 九条家文書 |
永禄9年 7月13日 |
越水城と西院城が開城 足利義秋が武田信方に御内書を送る |
武家手鑑 |
永禄9年 7月14日 |
三好長逸、石成友通が上洛 | 言継卿記 |
永禄9年 7月17日 |
淀城・勝龍寺城が開城 大覚寺義俊が十市に織田信長の救援があると励ます |
永禄九年記 多聞院日記 |
永禄9年 7月18日 |
和田惟政から仁木長頼へ勝龍寺城に加勢が命じられたか? 伊丹城の開城で約束が違えられ、一宮などの軍勢が土佐あたりに帰国 |
和田家文書 清水寺別当記 |
永禄9年 7月28日 |
甲賀の大原氏、伊賀の服部氏等に足利義秋から文書が送られる | 大原勝井文書 古文書 |
永禄9年 8月4日 |
三好三人衆が近江に兵を送る(おそらく六角承禎もこれに協力) | 言継卿記 |
永禄9年 8月6日 |
一色藤長・龍雲院祐尊が瓶原七人衆中に織田信長の出陣を伝達 | 慶応義塾大学所蔵反町文書 |
永禄9年 8月8日 |
筒井方の城が松永方から引き渡される | 享禄天文之記 |
永禄9年 8月14日 |
堀城落城 | |
永禄9年 8月17日 |
滝山城落城 | |
この頃までに松浦光も投降したとされる | ||
永禄9年 8月24日 |
三好長逸が速水竹益・楠正虎といった松永久秀方の家を接収 | 言継卿記 |
永禄9年 8月28日 |
織田信長出陣を伝える予定があったが急遽取りやめ | 米田文書 |
永禄9年 8月29日 |
織田信長と一色龍興が開戦したのがこのあたり | 中島文書 |
多聞院日記と言継卿記を見ると、おそらく全く同じ日に足利義秋が矢島を脱出した | ||
永禄9年 閏8月1日 |
一昨日の夜に足利義秋が矢島を脱出したという報 | 言継卿記 |
永禄9年 閏8月3日 |
足利義秋が若狭に脱出 | 多聞院日記 |
永禄9年 閏8月18日 |
一色龍興から中島文書が出される | 中島文書 |
永禄9年 閏8月26日 |
足利義秋が一色龍興(?)に織田信長の行動をとがめる書状を送る | 名古屋市博物館所蔵文書 |
永禄9年 9月8日 |
足利義秋が敦賀に移動 | 上杉家文書 |
永禄9年 9月18日 |
十市遠勝が筒井順慶に味方し、柳本を攻撃 | 享禄天文之記 |
永禄9年 9月23日 |
足利義栄らが渡海 | 言継卿記 |
永禄9年 9月25日 |
多聞山城が筒井順慶に対して籠城 | 多聞院日記 |
永禄9年 9月28日 |
筒井順慶が成身院で得度 | 多聞院日記 |
永禄9年 11月7日 |
一色龍興と武田信玄が結ぶ | 武田神社文書 |
永禄9年 11月8日 |
三好宗渭が箸尾郷を接収 | 多聞院日記 |
永禄9年 12月23日 |
松永方が宿院城を築城 | 多聞院日記 |
永禄10年 1月6日 |
足利義栄が左馬頭に | 言継卿記 |
永禄10年 2月16日 |
三好義継が松永久秀に寝返る | 多聞院日記 |
永禄10年 2月17日 |
昨日池田家中の分裂に三好義継や安見らが対応に向かったと聞く | 言継卿記 |
永禄10年 2月26日 |
三好義継が三好三人衆を弾劾 | 小林凱之氏所蔵文書等 |
永禄10年 3月6日 |
三好長治らが渡海したことがわかる | 随心院文書 |
永禄10年 4月6日 |
松永久秀が堺から大和に帰国 | 多聞院日記 |
永禄10年 4月11日 |
松永久秀が多聞山城に帰還 | 多聞院日記 |
永禄10年 4月18日 |
三好三人衆が奈良に | 多聞院日記 |
永禄10年 4月24日 |
松永久秀と三好三人衆らが戦闘 | 多聞院日記 |
永禄10年 5月2日 |
東大寺が戦場に | 多聞院日記 |
永禄10年 5月18日 |
三好三人衆の多聞山城攻撃が失敗 松永久秀が陣になりそうな寺院を焼却 |
多聞院日記 |
永禄10年 6月27日 |
筒井順慶が三好三人衆に和睦を進める | |
永禄10年 8月16日 |
松浦虎が三好義継から三好三人衆に離反 | 多聞院日記 |
永禄10年 8月21日 |
織田信長が柳生宗厳に松永久秀の味方だと連絡 | 柳生文書 |
永禄10年 8月25日 |
松永方が飯盛城を奪取 | 多聞院日記 |
永禄10年 8月28日 |
佐久間信盛が織田信長の上洛遅延を柳生宗厳に詫びる | 柳生文書 |
永禄10年 9月6日 |
三好三人衆が飯盛城を奪取 | 多聞院日記 |
永禄10年 9月16日 |
松永久秀が飯盛城を奪取 | 多聞院日記 |
永禄10年 10月10日 |
奈良の大仏殿が焼ける | 多聞院日記 |
永禄10年 10月20日 |
三淵藤英率いる軍勢が三好方に敗走 | 言継卿記 |
永禄10年 10月21日 |
三好三人衆が飯盛城を奪取 | 多聞院日記 |
永禄10年 12月1日 |
織田信長が松永久秀方のつなぎ止め | 柳生文書等 |
永禄11年 1月17日 |
これ以前に足利義秋が一乗谷に動座 | 多聞院日記 |
永禄11年 2月8日 |
足利義栄が征夷大将軍に | 言継卿記等 |
永禄11年 2月12日 |
足利義栄に勅使が派遣される | 言継卿記 |
織田信長はこの時点で上洛作戦の一環として松永久秀を支援しており、佐久間信盛らが松永久秀方のつなぎ止めに奔走している。
足利義秋のいる場所が変わったため、ルートもとりあえず京都を目指すものとなっていた。
一方で長期にわたる対陣の結果、永禄10年10月10日に奈良の大仏殿が焼けたため、足利義栄の将軍宣下は延期になっていた。
【史料】
一 明語ヽ、何時にてモ子サマニ目のあきたきをほの〱の哥ヲ三返唱て人丸ニ祈ハ必其時分目あく也ト、
なく音に塩のミちひをそしるを
はまちとりとかくせしおちとより
本の哥を取置て狂哥をよミしと、
一 同ヽ、舜禅坊法印ハ何も尊勝タラ尼を満て、琰广王へ祈精して、永離三悪道といのられしと、
一 玄賛ニ本ニあり、三熱ノ苦、熱沙ニ身ヲこかされ 一、風ニ衣をふられ身はたかになる 二、金翅鳥ニくわるゝ 三、
一 今夜子之初点より、大仏ノ陣へ多聞山より打入合戦及数度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂へ火付、ソレヨリ大仏ノ廻廊へ次第ニ火付テ、丑剋ニ大仏殿忽焼了、猛火天ニ満、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了、尺迦像モ湯ニナラセ給了、言語道断、浅猿くトモ不及思慮処也、昔良弁建立、天平十六年甲申聖武天皇御願、治承四年庚子十二月炎上、其間四百卅七年、其後頼朝建久六年ニ造立ヨリ、今年迄ハ三百七十三年ニ当ル歟、治承ノ炎上ニハ十五ヶ年ノ間に周備ト見タリ、今ハ雖経百年、中く修造不可成哉、此剋ニ生逢事歎之中ノ歎也、罪業之程可悲〻〻
織田信長はこうした一進一退の攻防を見て、松永久秀方に諸将をつなぎとめようと、片っ端から書状をばらまいている。
といったわけで、足利義栄方もだいぶごたついていたのだが、永禄11年(1568年)2月8日に将軍宣下がなされた。2月12日に勅使が派遣され、ついに京都に入らないまま、征夷大将軍が誕生したのである。
なお、よく見なくても儀式の傍ら山科言継がしれっと足利義秋方と連絡をしている。実は足利義輝の乳母・春日局の家が足利義秋派の拠点となっていたようで、この家で思いっきり京都に足利義秋派の使者が匿われていたりしていた。
【史料】
八日、戌子、天晴 早旦日野内山形右衛門大夫来、従越州昨夕為武家御使諏訪守右兵衛尉上洛、忽之間可来之由申候間、則山形所へ罷向、則神右兵衛尉対顔、当月末早々可罷下之由有之、種々被仰下之様体有之、御内書以下如此、
就元服之儀、至当国下向候者可悦入候、為其差上俊郷、於巨細者申合候、猶義景可演説之状如件、
山科殿
就御元服之儀、至当国可有下向之由被成御内書候、於御下国者尤被悦思食之旨猶相応心得可申入之由被仰出候、委細諏訪甚兵衛尉可被申候条不能詳候、恐々謹言、
山科殿
就御元服之儀被成御内書候、仍義景御副状候、無異儀御下向尤可為珍重候、為其被差上俊郷候条委細可被申候、此等之趣可然様御取成所仰候、恐々謹言、
山科殿
改年吉兆弥可為御満足候、仍御元服之事来月可有御座候、就其御装束同御道具等尋申為可被仰付、被差上同名神兵衛尉候、様体可被仰聞候、将又御下向之儀内々如申談候、奉期候、被成御内書以義景一札被申入候条、早々御下国可然存候、巨細者申含神兵候間、定可申入候、此旨宜預御取成候、恐々謹言、
澤路殿
一盞有之、様体懇に被示之、次帰宅了
従伊勢寅福使横川掃部入道来、対面、就将軍宣下、告使出納右京進御倉興奪云々、下向富田、御昇殿と計申之云々、奏者摂津守役也云々、不参之間伊勢守に被仰出之、幼少之間同名可召進之、告使束帯持笏、乍立御昇殿と申之、奏者可畏歟否之由被尋之、於庭上者立か礼也、可為色立之由返答了
高倉宰相息千菊丸今日元服、午時先罷向、理髪之具以下調之、未刻始、先公卿着座、予、源中納言、水無瀬宰相各衣冠、檜扇、持之、北面両三人、加冠父卿別に着座、南面、次新冠出座、南面水干、次新冠着円座、次布衣粟津式部丞、持参冠、居柳営、次粟津肥前守烏帽子小襖、雑具置之、次同名対馬守湯摺カ
摺器居柳置之、次極﨟理髪着円座、作法如常、次理髪先退、次加進髪立左、次右、三櫛宛かく、次複座、次理髪参進、櫛以下入之如元調之退、次本役人三人撒雑具、次新冠入簾中、於内々着衣冠、新眉檜扇持之、父卿再拝、次着座以下起座、次各以太刀体申之、次三献有之、相伴之衆予、庭田、水無瀬相公、藤相公、甘露寺、、水無瀬少将、藤侍従、極﨟等也ヽヽ初献雑煮、ニ献吸物、鯛、半予起座、今晩宣下上卿参勤之故也、三献有之云々、
今晩用方々借用袍、烏丸、裾、高倉、表袴、持明院、布衣狩衣、薮田、雑色烏帽子三、柳原、同狩衣、鴨社、笠袋万里小路、等借用了、
今夜将軍宣下、上卿出立要脚、於伝奏三百疋請取之、澤路備前入道遣之、同請取後日遣之、
請取申上卿出立要脚事
合三貫文者
右所請取申如件、
戌刻高倉へ罷向着束帯衣文入道に申之、相公沈酔云云、裾石帯玉、布衣之白袴同刀太刀持、借用之、自被宅参内、供布衣大澤右兵衛大夫、烏帽子着澤路隼人佑、太刀持之、小川与七郎、其外松夜叉丸、小雑色二本、白丁笠持、小者両人等也、次先予着陣、於宣仁門外官人に刻限問之、午刻と答、不審、次入宣仁門着奥座、四度揖如例、大納言座之程恩祝儀、次着端座、四度之揖同前、縿裾揚、次檜扇取出沓直之、次召官人令敷軾、次頭中将吉書持来、置笏取之、付板、次被覧之、如常気色、次頭中将退入、次以官人召弁、其詞右少弁宣教来、乍持笏以左手付板吉書遣之、弁被覧之、こなたへ気色、次如元調之退入、次令撤軾、次起座退入、即又入宣仁門着奥座、中納言、揖縿裾、重通朝臣来仰云、左頭源朝臣義栄宜為征夷大将軍、兼又可聴着禁色、予徹頌、次起座着端座、揖縿裾、次召官人令敷軾、次官人沓直之、同前、次宣教来、仰云、左馬頭ヽヽヽ、同前、次弁退入、次以官人、召外記、外記召せ、大外記師廉朝臣来、仰云、左馬頭ヽヽヽ可聴着禁色、揖頌、次退入、次召官人敷軾、次揖出宣仁門、四度之揖悉以如常、次於男末御祝有之、被参之輩中山前大納言、万里小路大納言、予、勧修寺中納言、源中納言、水無瀬宰相、右大弁宰相、重通朝臣、為仲朝臣、晴豊、宣教、橘以継等也、入麺有之、次各退出、今夜御警固伊勢守内衆百人計参、畠山安枕斎被見物、御酒被下之云々、見物貴賤男女驚者也、
供衆各晩食申付之、
禁裏御所之御撫物、予隙入之間申出以倉部安二位所へ遣之、
【史料】
十二日、壬辰、天晴、山形右衛門大夫所へ罷向、諏訪神右兵衛尉に対顔、条々示合之、一盞有之、御内書以下御返事共手日記等渡之、
御内書謹致拝見候、就御元服之儀可罷下之由承了、宜然之様可預御取合候、尚委曲神右兵衛尉可被申入候也、恐惶謹言、
二月十日 言継
就御元服之儀御内書致拝見候、同芳札委曲了、宜然之様御取合所仰候、尚々巨細之段諏訪神右兵衛尉可有演説候、恐々謹言、
二月十日 言継
就御元服之儀御内書謹承了、同督殿御副状委曲被見申候、軈罷下向申入候、尚々巨細之段神兵に申含候間、可有演説、候可然之様、御取成所仰候、恐々謹言
二月八日 言継
誠当年之嘉慶自他不可有休期候、抑就御元服之儀、御装束以下之事存分注付進候、同可罷下之由御内書、督殿御副状等承了、委曲神兵へ申渡候、尚以手日記令申候間、以御分別宜然之様御取成所仰候、何も罷下可申入候、謹言、
二月八日 言継
一、召具之者七八人又者十餘人歟之事、
陽春院へ罷向、笋刀打乱営櫛申請取之、伏見殿へ持参、持明院に相渡之、次高倉相公へ罷向、小袖一、借用、今日富田へ被下向云々、次長橋局へ罷向、一昨日安二位へ御祭料百疋被遣之、忝之由御返事申入了、次内侍所へ立寄了、
【史料】
十三日、癸巳、天晴、申刻小雨、自今日天一天上、 朝食以後発足、山崎之竹内右兵衛佐所へ立寄、湯漬にて一盞有之、馬出之、天神之馬場鳥居前より返之、未刻富田へ下着、則畠山安枕へ可出仕之由申遣之、軈可参之由使有之、則出仕、供両人と秋田甚兵衛、弥右衛門等雇之、召具之参、軈御対面、安枕斎馳走也、申次荒川治部少輔也、太刀金、にて御礼申候了、御烏帽子組懸、香御直垂着御、軈可退出之処御鞠有之、雖令勘酌御所望之間、予只一足仕了、御人数予、水無瀬宰相、籐宰相、飛鳥井中将、畠山伊豆守、同孫六郎、見川、御末衆等也、簾中御見物也、次御盃三参召出、初献御供衆三人迄、ニ献申次迄、三献諸侯衆奉行迄悉也、次退出、月下也、次畠山安枕斎、同伊豆守、同孫六郎等へ礼に罷向申置了
なお、ちょうどこの永禄11年の1~2月の足利義栄方の誰か(大館氏関係者?)が記した『永禄十一年日記』という史料が存在する。この日記を見ると、足利義栄方陣営に与する公家たちが、とても気軽にやってきている。が、これまたなぜか2月13日の箇所だけ落ちてしまったのだが、2月8日の様子を見ておこう。
ただし、六角承禎が三好長逸に織田信長方から朝倉義景との婚姻を計っていると聞いた情報を伝えてきた等、両者が断絶していたわけではない。
三好長逸にも織田信長との回路があるなど、決して両者が完全に敵対していくわけではなく、和睦の余地はまだあったのである(なお、この書状で三好長逸が織田信長に取り成しを依頼しているのは斎藤利三である)。
足利義栄と足利義昭の対立
永禄の変の後、足利義栄には以下の人々が仕えた。
- 大館輝光:御供衆
- 細川駿河入道(消去法では細川勝国が該当するが、証拠がない):御供衆
- 畠山維広:御供衆
- 一色輝清
- 畠山伊豆頭(畠山維広の息子):御供衆
- 畠山孫六郎(畠山維広の息子):御供衆
- 荒川三郎:御供衆
- 伊勢備中入道:御供衆
- 伊勢貞知:御供衆
- 三好長逸:御供衆
- 伊勢貞助
- 西郡三河頭
- 西郡龍千代(西郡三河頭の息子)
- 荒川治部少輔
- 小笠原稙盛
- 小笠原秀清(小笠原稙盛の息子)
- 高師宣
- 耆波国任
- 下津屋越前頭
- 小林藤宗
- 橋本伊賀頭
- 石谷光政
- 孝阿
一通りの陣容を整えた足利義栄の政権は、三好三人衆からある程度独立して機能していたものの、右筆方奉行人を加えた決定があまり朝廷などに影響していたわけではなかった。
一方で足利義昭のもとに有力な右筆方奉行人が集まっていき、幕府の機能はほぼこっちに移っていった。
また幕府の有力者たちも両者の争いの中独立勢力として在京活動を続けていた。
耆波国任など一度足利義栄に出仕したものの京都に戻り足利義昭寄りの中立になったものもおり、京都を実効支配していた三好三人衆らは公然と足利義昭を支持する勢力すら取り除くことはできなかったのである。
なお、『朝倉邸御成記』によると以下の人々が越前の足利義昭のもとにいたようだ。
- 本郷信能:走衆
- 金山晴実:走衆
- 大草公広:走衆
- 沼田統兼:走衆
- 安威藤備:走衆
- 小林左京亮:走衆
- 上野信忠:御供衆
- 一色晴家:御供衆
- 一色藤長:御供衆
- 武田信賢:御供衆
- 大館晴忠:御供衆
- 万阿:同朋衆
また、少なくとも諏方清長、諏方俊郷、飯尾盛就、飯尾貞遥、松田秀雄、松田頼隆の6人の奉行人が加わっていた。
ちなみに、この頃足利義昭の政権構想として知られる外様衆のリストが以下である。
こうして足利義栄、足利義昭のどちらも勝ち上がらないまま、二人の将軍がそれぞれ活動を行うが、最終的に足利義栄の早死に、および織田信長の足利義昭を引き連れた上洛によって、畿内の勢力抗争は新たな局面を迎えていくのである。
足利義昭の上洛前夜
概要
瞬殺! | ||
斎藤龍興 |
勝ちました | ||
織田信長 |
とかやってる間にそろそろヤバくね? | ||
三好三人衆&六角承禎 |
おっと?足元がお留守だぞ | ||
三好義継 |
交渉なら任せろー | ||
松永久秀 |
ククク… | ||
細川刑部大輔 |
お前誰だよ!? | ||
松浦虎 |
フッ…対貴様用の切り札さ! | ||
松浦光 |
クソ! | ||
松浦虎 |
本題
三好義継の離反後、三好義継に従軍していた松浦虎(松浦肥前守)らが8月16日に三好三人衆側に離反した。これが脅威となったことから、急遽細川高国によって和泉上守護に据えられた細川晴宣の子孫・細川刑部大輔がにわかに注目されるようになる。結果、三好義継・松浦光らは九条稙通と連携して畠山高政の下にいた細川刑部大輔を支援し、永禄11年(1568年)ごろから和泉戦線が構築されだした(なお、細川刑部大輔の文書集を残した人間が途中から書状の中身を記さなかったため、夏ごろに織田信長がもうすぐ上洛すると浅井長政から連絡があったらしいことを最後に彼の足跡は途絶える)。
永禄11年4月15日に足利義秋が元服して足利義昭となった。それ以前の3月24日にはシンパと化しつつあった二条晴良が加冠のために越前に行く話を山科言継が書き残しており、既に朝廷内で誰が足利義栄に与し、誰が足利義昭に与するのか色分けははっきりしつつあった。
概要
本題
3月8日には朝倉義景の母親が二位に叙され、5月17日には朝倉亭への御成が催されるなど、おおむね朝倉義景と足利義昭の仲は良かったようだ。
とはいえ、永禄11年7月頃に織田信長が足利義昭に上洛を申し出てきた(上越市史や愛知県史では永禄10年に比定されているが、そもそも永禄10年の7月には一色龍興が滅んでないので永禄11年に比定された)。
【史料】
於爰元様子為可申上、態飛脚差下申候、然者、路次申無事、御鷹・御馬も当日二日ニ参着申候、二、三日程相伏、則 上意様へ懸御目候、一段入御意御感之旨被仰出候、御鷹も朝倉殿各殊之外大慶此事候、於様躰者、可御心易候、前波・山崎方先以馳走之様候、織尾(織田信長)善悪濃州へ御被移 御座者、御入洛之御供早速可申候由、堅墨付切々言上付而、義景も納得之分相極候而、今日十六日ニ濃州へ御動座ニ義定候、随而加州之儀も、去年以来無事之様候ヘ共、于今互一札不相澄候、御成以前ニ如何共相調度由候得共、今之分者、相極間敷由候、左様候者、彼無事も笑止之由此淵各申候、然者、被仰付候御条書覚、上様へも朝倉殿も具申上候、猶可然様御披露所仰候、恐々謹言、
返々、其方へも相聞可申候へ共、能州より加州杉浦方へ以前仕合付而、面々より差越候書状、則上意さまへ参候、移候て差越申候、
新清右秀種
参御宿所
この書状に足利義昭はほだされ、ついに7月27日に足利義昭が織田信長のもとに移る。足利義昭も朝倉義景の功績は認めつつも、あくまでも上洛を優先した態度であった。
美濃平定から電撃的な上洛であったが、その理由は濃尾の軋轢のガス抜きだったとも、足利義昭を招くことで、かつての上洛失敗の面目を取り戻そうとしたとも。
この流れの中5月頃から松永久秀が勢いづき、筒井順慶が三好三人衆方についている。
概要
つか君いつ来るの? | ||
足利義昭 織田信長 |
無理無理無理無理 | ||
上杉謙信 |
ディーフェンス | ||
武田信玄 |
ディーフェンス | ||
本願寺顕如 |
お前許すと思うの? | ||
北条氏康 |
謙信さては使えねえな? | ||
関東の皆さん |
たすけて | ||
畠山義続 |
それはそれとして
そろそろ混ぜろよ | ||
武田信玄 |
お前はあっちよろ | ||
足利義昭 織田信長 |
は? | ||
今川氏真 |
は? | ||
北条氏康 |
ん? | ||
徳川家康 |
本題
6月に入ると松永久秀は足利義昭方として近江の武士たちにあれこれ書状を送って下準備を始めた。
こうした結果、6月23日には摂津国で三好三人衆と甲賀衆の戦いが始まっていたようだ。
また、6月25日くらいに織田信長はすでに上杉謙信と武田信玄と連絡し、背後を狙われないよう調整していたようだ。
【史料】
去る六日の芳問、拝閲を遂げ候、畿内幷に此表の様子、その元風説叵の由候につきて尋ね承り候、御懇情に候、然る間始末の有る姿一書を以って申し候、毛頭越度なきの条、賢意を安んぜらるべく候、仍って条々御入魂の趣、快然の至りに候、誠に爾来疎遠の様に候、所存の外に候、甲刕此方の間の事、公方様御入洛の供奉の儀、肯申すの条、隣国その妨を除き、一和の儀、申し合せ候、それ以来は、駿遠両国との間、自他の契約の子細候、之により寄除かざる為躰に候、然りと雖も万貴辺と前々相談の族は、別条なく候、度々申し旧り候如く、越甲の間、無事に属し、互意趣を抛れ、天下の儀、御馳走希所に候、将又越中表に一揆蜂起、その方御手前に候歟、神保父子の間、鉾楯に及ぶの旨に候、如何の躰に候哉、彼父子の事は、信長に於ても疎略なきの条、痛み入る斗に候、随って唐糸五斤紅・豹皮一枚進せ候、猶重ねて申し述ぶべく候、恐々謹言、
6月26日に三好三人衆が近衛前久を襲撃する噂が出たため、その打消しに誓紙を出したらしいことを翌日に山科言継が記録している。
【史料】
乙巳、小雨晴陰 松夜叉迎に弥左衛門遣之、河にて逢云々、船頭に約束之間愛州薬一包遣之、同真珠院に一包遣之、
真珠院法印慶典、予養子之事被申、年齢不当之間不可然由返答、雖然存分有之間、善悪望之由被申間同心了、盃出了、書状如此遣之。
拙老養子之事雖其憚多候、芳命之事候間不及是非候、成親子之思不可有疎意候也、謹言、
真珠院法印御坊
長橋局へ参、廿五日御法楽に水故不参之由申入了、次若宮御方へ参、御乳人同松尾へ四辻同道、只今被帰云々、次大典侍殿官女今乳人、俄絶寿、罷向各馳走、霍乱歟、やう〱心付了、次内侍所へ立寄了、
近衛殿近日雑説、三好日向守以下取懸可為御生害之由風聞、仍今日為御見舞参、公家衆以下悉被参云々、御見参、御盃賜之、坊城、祥寿院同参、昨日日向守、石成主悦助参、一向不存之由以起請文申入云々、
当番代倉部参了
概要
それじゃ行くぞ? | ||
織田信長 |
うん! | ||
足利義昭 |
お前どうする? | ||
足利義昭 織田信長 |
六角承禎 |
いざ出陣
俺が耐えてる間に何とか……(ゴゴゴゴゴゴ) | ||
六角承禎 |
やあ | ||
毛利元就 |
後ろからもなんか来たー!?(ガビーン) | ||
三好三人衆 |
足利義昭の味方に来ました | ||
毛利元就 |
ということだ | ||
村上武吉 細川通董 |
ふっ、これで挟み撃ちも成功だな… | ||
松永久秀 |
本題
この状況で六角承禎が対織田信長の最前線に位置付けられた。『信長公記』によれば8月7日より7日間織田信長と六角承禎がしばらく交渉を行ったが決裂したため、8月中旬より俄にきな臭い空気が流れだした。
【史料】
甲午、天晴 早旦三好日向守、同下野入道釣竿、石成主悦助等江州へ下向、天下之儀談合云々、不知其故也、
長橋局へ罷向、明日葉室へ罷候間御暇之事内々申入了、次内侍所へ立寄了、次柳原一品へ罷向、松尾社縁起新作出来歟之由相尋之、所労気之間不清書之由被申候了、
持明院、五辻等へ罷向、葉室へ之儀相尋之、持明可罷之由被申、
今日禁裏御懸之松木少洸之、於大典侍殿御局御酒賜之、五辻に一盞有之、次梨門へ参、今晩禁中月下若宮御方へ御盃被進云々、中山、予、庭田、同頭中将、五辻以下被参、台物、ニ、公卿之物二、容易了、
当番之間暮々参了、相番予、雅英両人也、御寝之後於小御所御酒有之、若宮御方、梨門、岡殿、竹門、大典侍殿、新大典侍殿、御乳人、中山前大納言、予、源中納言、為仲朝臣、雅英等也、及敷盃音曲有之、御酒至暁鐘了
三好義継に8月14日に早速織田信長から書状が送られている(ただし、この書状は自分に協力するか探っていた六角承禎にあてたものという説もある)。
8月には既に本国寺宛てに細川藤孝、三淵藤英の2人の使者を佐和山に送る旨の書状が足利義昭からも送られていた。
織田信長の傍らで松永久秀は毛利元就らと連携を進め、東方から侵出を始めた織田信長と挟み込みを進めていく。9月27日には村上武吉・細川通董らの連合軍が備前の本太城を攻撃し、三好長治家臣の香西又五郎に勝利している。
以下は山口県史では元亀2年(1571年)とされているが、天野忠幸はこの戦いの文書としている。
足利義昭の上洛
概要
とりあえず四国に撤退! | ||
三好三人衆 |
うっ… | ||
足利義栄 |
息子死んでるー!? | ||
足利義維 |
ひとまず終戦
勝った | ||
織田信長 |
幕府復活! | ||
足利義昭 織田信長 |
幕府復活! | ||
松永久秀 三好義継 畠山秋高 和田惟政 池田勝正 伊丹親興 |
… | ||
足利義昭 織田信長 |
…だいぶメンツ変わってない…? | ||
織田信長 |
…うん… | ||
足利義昭 |
今度こそ幕府復活!私達がんばります!
本題
かくして挟撃された足利義栄方は六角承禎の前線を援護できず、離反者を多く抱えた六角氏は一瞬で崩壊した。
【史料】
庚申、天晴、 弥左衛門、下女等南向迎に遣之、又竹所望、未刻帰、革籠三、被持預之、明日可被帰之由被申、竹十五本到、明暁又可遣之、
六角入道紹貞城落云々、江州悉焼云々、後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、九里七人、敵同心云々、京中辺大騒動也、此方大概之物内侍所へ遣之、
自禁裏御庚申に可参之由有之間暮々参内、然処従方々注進、尾州衆暁出京必定云云、倉部、薄等遣、相残雑具内侍所台所等へ巳刻取寄了、今夜於三間御碁、若宮御方、晴豊被遊之、出御、伏見院宸筆往生講私記被一覧、予読之、今夜当番持明院宰相、橘以継 雅英代、両人、其外予、晴豊計也、台物又柿栗被出御酒賜之、音曲有之、夜半鐘以後退出了、晴豊御添番云々、終夜京中騒動、不可説々々々江州悉落居故云々、
三好三人衆はこれを受け、9月16日に三好宗渭、香西元成、松浦虎らを木津平城に向かわせ松永久秀にあたらせた。
石成友通が勝龍寺城を、三好長逸が芥川山城を、篠原長房が越水城と滝山城を防衛したようだ。
一応『足利義昭入洛記』、『言継卿記』、『多聞院日記』、『お湯殿の上の日記』、『信長公記』という同時代に近い史料五種で上洛の日時を見ていくと以下の通りになる(『信長公記』は山城に入ったあたりからずれていく)。
日時 | 足利義昭入洛記 | 言継卿記 | 多聞院日記 | お湯殿 | 信長公記 |
---|---|---|---|---|---|
9月7日 | 平尾に陣を敷く | 平尾に陣を敷く | |||
9月8日 | 高宮に陣を敷き佐々木四郎と敵対 | 高宮に陣を敷き、2日置く | |||
9月10日 | 織田信長が近江中郡に来た 石成友通が坂本に |
||||
9月11日 | 近江で合戦があり、石成友通が戻る | ||||
9月12日 | 箕作城攻略 | 木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八郎らが箕作城攻略 | |||
9月13日 | 観音寺城攻略 | 観音寺城攻略 | 足利義昭の上洛が近く、多聞山に注進が来ている | 観音寺城攻略 | |
9月14日 | 六角承禎没落 | 近江で戦いがあったようだが勝敗がわからない 三好宗渭、香西元成が木津平城に入城 |
不破河内が足利義昭を迎えに美濃西庄立正寺へ | ||
9月16日 | 木津の人々が西京に移動 | ||||
9月19日 | 六角承禎が負けた情報がようやく入る | ||||
9月20日 | 織田信長が明日動き出す知らせ | ||||
9月21日 | 織田信長が24日に出立を延期する知らせ | 3日間の天下の祈祷を始める | 柏原上菩提院に着座 | ||
9月22日 | 先鋒が勢田を通過 | 桑実寺へ御成 | |||
9月23日 | 三井寺へ織田信長が行き、既に先鋒は山科に | 細川藤孝、和田惟政が近江から軍勢を率いて上洛 | |||
9月24日 | 織田信長が勢田を通過 | 丹波方面から柳本が足利義昭方に参戦 | 織田信長が大津に | 織田信長が守山に | |
9月25日 | 足利義昭が三井寺光浄院に到着 | 織田信長の足軽がすでに目撃されている | 足利義昭が大津、織田信長が清水寺に | 足利義昭から雁を贈られる | 志那・勢田あたりで逗留 |
9月26日 | 足利義昭が清水、織田信長が東福寺で陣を構え、桂川等で細川玄蕃頭(細川国慶の息子か?)、石成友通らと合戦し、山城を席巻 | 細川藤孝・明印らが参る一方、織田信長と石成友通らが合戦 | 筒井順慶、マメ山、三好新丞らが引き揚げ 十市などが焼かれる |
足利義昭が清水寺まで来ている 織田信長から警固を命じられて細川藤孝(この日記では三淵認識)がやってくる |
三井寺極楽院に着陣 |
9月27日 | 芥川の三好長逸が没落 | あちこちに戦火が拡大しつつ、勝隆寺城は堅固なので和睦の調略も行われていた | 石成友通が勝龍寺城で敗走した情報を入手 | 足利義昭が三井寺光浄院に着陣 | |
9月28日 | 足利義昭が芥川に入城 | 西岡が焼け、足利義昭が山崎に入り、芥川に戦火が拡大 | 織田信長が石成友通と戦闘開始 | ||
9月29日 | 摂津・河内の有力者達が集まり、淡路にも渡海するか話が出ている | 足利義昭が天神之馬場に進み、河内にも戦火が拡大 | 松永久秀が広橋保子との娘を織田信長に祝言と称して人質に | 石成友通が降参 | |
9月30日 | 足利義昭が芥川に入城 | 摂津や高屋あたりも焼ける | 織田信長らは山崎に入城し、細川昭元、三好長逸、篠原長房、滝山らが撤退 | ||
10月1日 | 足利義昭が十市・箸尾らに下知 | ||||
10月2日 | 芥川から上洛の気配があり、池田勝正、三好長逸らが降参 | 松永久秀が将軍に御礼 | 池田勝正との戦い | ||
10月3日 | 足利義昭に寺門が礼 | ||||
10月4日 | 竹内秀勝、畠山高政、畠山秋高、松永久秀、池田勝正らが芥川城へ | ||||
10月5日 | 松永久秀が昨日足利義昭や織田信長に礼に行き、大和一国を与える命令がくだされたため、松永久秀が大和で軍事活動を展開 | ||||
10月6日 | 松永久秀と筒井順慶が戦闘 摂津の池田勝正が降参し、山城・摂津・河内・丹波・近江がすべて足利義昭方となる |
||||
10月7日 | 足利義昭の軍勢が大和に来る知らせ | ||||
10月8日 | 松永久秀らと大和を攻略、和泉も手中に | 飯盛山城に三好義継が入り、松永久秀もこの城を訪れる | 織田信長から砂金が贈られる | ||
10月10日 | 細川藤孝、和田惟政が佐久間信盛らと二万で大和に入る | ||||
10月14日 | 足利義昭が上洛し、本国寺に | 足利義昭が上洛し、本国寺に | |||
10月15日 | 織田信長が足利義昭に帰洛を進める | ||||
10月16日 | 足利義昭が細川亭に | 上京の細川亭に六条から足利義昭が移る | |||
10月18日 | 足利義昭が征夷大将軍に | 将軍宣下 | |||
10月19日 | 宣下のお礼に太刀などが贈られる | ||||
10月20日 | 参内御取置 | ||||
10月21日 | 織田信長から明院良政・丹羽長秀が派遣されて、雁などが贈られる | ||||
10月22日 | 足利義昭が参内 | 足利義昭が参内 | 足利義昭が参内 | 足利義昭が参内 | |
10月23日 | 足利義昭が織田信長と観能 | 足利義昭が織田信長と観能 | 昨日の参内の礼等で勅使が | ||
10月24日 | 昨日松永久秀、竹下らが上洛し、加えて18日には足利義昭が入洛しておりともに能を見たことを知る | 織田信長が帰国の申し出 | |||
10月25日 | 14日に足利義昭が上洛しており、16日に細川屋形に入り、22日に参内していると訂正 | 足利義昭から白鳥が贈られる | 御感状 | ||
10月26日 | 織田信長が近江に | 足利義昭から参内のお礼が贈られる | 織田信長が守山に | ||
10月27日 | 織田信長が柏原上菩提院に宿泊 | ||||
10月28日 | 織田信長が美濃に | 織田信長が岐阜城に |
9月の中ごろから足利義昭方が畿内を席巻していくことになる一方で、足利義栄は公式には病死し、勢力も四国に後退したが、以後瀬戸内海が壁となって勢力は保持されたままとなっていった。また六角氏もこれまで没落した時と同様、近江で蠢動し続けた。
なお、『公卿補任』を見ると足利義栄派とみなされた公家が京都を追われている(なぜか近衛前久も巻き込まれ、山科言継のようにうまく天秤にかけた人物がしれっと生き残っている)。
なお、ちょうどこの時期に女房密通事件で久我通俊(久我通堅)(近衛前久のいとこ)が追い出されていたので、足利義昭が上洛したどさくさ紛れに父親の久我晴通が復権させようとロビー活動が行われたが正親町天皇に許されなかった、といった新政権樹立にかこつけた色々は他にもあった。
足利義昭方は10月18日に醍醐で三淵藤英が城を築こうとして10月27日の火災に巻き込まれたなど、洛中洛外に拠点が設けられていったようだ。
また、9月14日には朝廷から甘露寺経元、万里小路惟房が織田信長達に派遣されている。
ここにあるように畿内での狼藉を防ぐために織田信長は片っ端から禁制を出しまくっている。そしてもろもろが終わると朝廷を筆頭に各所に朱印状を出しまくった(後者は煩雑なので省略)。
なお、この時期に松永久秀宛てに今井宗久の揉め事を解決する書状を出しているが、この段階ですでに木下秀吉が奉行の一角になっている。
足利義昭幕府誕生
概要
パパ…/// | ||
足利義昭 |
えっ? | ||
織田信長 |
んじゃ、帰る! | ||
織田信長 |
ええー…… | ||
足利義昭 |
チャンス | ||
三好三人衆 |
お留守ですかー? | ||
三好三人衆 |
なんか来たー!? | ||
足利義昭 |
(なんかかっこいいBGMが流れる)ブッピガンドカッバシッバシュシュー
わーぎゃー | ||
雑兵 |
……あれ?勝った? | ||
足利義昭 |
よくわからないけど、勝っちゃった
ごめん……待った? | ||
織田信長 |
……いいよ? | ||
足利義昭 |
本題
12月には松永久秀が筒井順慶に優位に軍事行動を展開し、信貴山城も奪回している。12月24日に松永久秀が岐阜城に向かった。この隙をついて永禄11年末に三好三人衆が挙兵した。ちなみに、『信長公記』によると一色龍興ら後斎藤氏の残党も入っていたそうだが、事実かは不明。また、後世の系図には三好家に落ち延びていた小笠原貞慶も参戦しているらしいが、事実かは不明。
永禄12年(1569年)1月4日になり、突如として岐阜との通路を遮断すると、1月5日に本国寺を攻撃する。『信長公記』によると足利義昭の周囲にいたのは大身は細川藤賢くらいで、後は明智光秀ら足軽衆、若狭武田氏の配下ら程度の寡兵だったようだ。実際『言継卿記』にも足軽衆と詰衆くらいしか出てこない。『綿考輯録』によれば細川藤孝もいたらしいが、『言継卿記』では三好義継や池田勝正と出てくるので増援だったかもしれない。当然『松井家譜』によると松井康之もいたらしいが、事実かは不明。
かくして、1月6日には三好義継が、1月10日には織田信長や松永久秀も援軍に駆け付けるが、三好三人衆は引き揚げた後であり、打撃を与えることができなかった。
とりあえず、足利義昭体制はこれを大勝利と宣伝した。加えて、毛利元就と大友宗麟に聖護院道澄、久我晴通が派遣されて、両者を和睦させることで足利義栄派残党にあてようとしている。
三木良頼から上杉謙信に宛てた書状によると、足利義昭が刀を振るう激戦だった模様。ただし、中国四国も帰服してるなどだいぶ描写がマシマシになっているので、事実かは不明。
【史料】
「(瑞裏)(切封墨引)」
事長々敷申様、雖如何候、遠路御尋之義候条、如此候、如仰、杳絶音問候処、急与示預、本望候、
一、其表之儀、本庄(繁長)逆心付而、去初冬ヨリ御在陳、至只今無手透被取詰、外廻輪悉被為破却、落居不可有程之由、珍重候、就其伊達(輝宗)、会津(芦名氏)相頼、令懇望由、承候、左候者、在赦免可然候歟、御思慮此節候、
一、駿・甲取合之義、尋承候、信州通路一圓依無之、慥成儀不相聞候、乍去、当口取沙汰之躰、武田信玄以調義、駿府へ被相働、悉放火候、今川氏真遠江之内懸川之地入城之由候、然処、北条氏政為後詰被相働、甲府ヨリ通路取切、在陳之衆令難儀候間、新道ヲ切、雖通融候、曽而不自由之由候、近日之取沙汰、武田信玄紛夜被入馬候間、敗北之由候、東美濃遠山人数少々立置候、被者共帰陣候而、申鳴分如此候、必定候歟、
一、岐阜・甲州挨拶之儀、甲府ヨリ使者付置、可有入魂由候、其子細者、対駿河織弾忠、遺恨在之事候間、面向可為此一義候、奥意淳熟之義、不可有之歟、貴辺之儀者、不被混善悪、被対岐阜、無御等閑躰可然候、別而申通事候条、不残心底申事候、
一、京都合戦之義、自是差上候使者、一両日以前下国候、旧冬及月迫、諸牢人出張候而、泉州之内家原之地、三好左京兆(義継)抱候ヲ出衆責崩、正月四日京表へ相働、 公方様御座所六条へ責入候、左候処、 上意於御手前、数度被及御一戦候、摂州之住池田・伊丹為御味方、西表ヘ相働候所ヲ、三好三人衆切懸即時両人之衆ヲ切崩処ニ、上意被寄御馬、御自身被切懸候ヘハ、天罰候哉、随分之者共悉被討捕、其侭敗北候、不移時日織弾忠被走参、五畿内之義不及申、四国・中国ニ迄、無残所属御存分、諸大名在洛之由候、当分者、 上意御在所之普請被申付、漸出来之由候、泉州堺之義、今度諸牢人仕立候間、不可有発向之処、向後牢人衆許容有間敷之由、色々侘言付而宥免候、寔寄(奇)妙之仕立、不及是非義候、
一、切々可申通処、去年及両度、以使者令申候処、越中金山在不審、中途ヨリ差返候、不及兎角候キ、路次不成合期故、万端疎意之躰、先本意候処、遠路猶以示預、快然此事候、旁期来信候条、不能詳候、恐々謹言、
また、『宗及他会記』によると、1月12日に堺の住民が報復を恐れて逃亡したようだ。
以後2月~3月にかけて、和田惟政、佐久間信盛、酒井政尚、森可成、蜂屋頼隆、柴田勝家、竹内秀勝、結城忠正、野間康久の足利義昭幕府の構成員から形成された連合軍が畿内を再制圧した。
日時 | 出来事 | ソース |
---|---|---|
永禄11年 11月22日 |
足利義昭が勝軍山に営累を築く | 多聞院日記 |
永禄11年 12月25日 |
松永久秀が岐阜城に | 多聞院日記 |
永禄11年 12月28日 |
三好三人衆が家原城を攻略 | 多聞院日記 |
永禄12年 1月4日 |
三好三人衆が勝軍地蔵山城や東山を攻撃 | 言継卿記 |
永禄12年 1月5日 |
本国寺の戦い | 言継卿記 多聞院日記 |
永禄12年 1月6日 |
三好義継ら援軍が三好三人衆を包囲し、桂川の戦いで辛くも勝利 (なお、情報が錯綜しまくっているため死んでない人間が死んだことになっているのは世の常である) |
言継卿記 多聞院日記 |
永禄12年 1月10日 |
織田信長・松永久秀が駆け付ける。 | 言継卿記 |
永禄12年 1月11日 |
連合軍が活動を開始し三好三人衆に協力した八幡を破却 | 二条宴乗記 |
永禄12年 1月13日 |
毛利元就と大友宗麟に和睦の使者 | 吉川家文書等 |
永禄12年 1月14日 |
織田信長・足利義昭によって殿中御掟が制定 | 織田信長文書 |
永禄12年 1月16日 |
織田信長・足利義昭によって殿中御掟に追加が行われる | 織田信長文書 |
永禄12年 1月19日 |
松永久秀が吉川元春に先の戦いを報告 | 吉川家文書 |
永禄12年 1月27日 |
二条城の造営開始 | 言継卿記 |
永禄12年 2月1日 |
連合軍が金剛寺を詰問 | 南行雑録 |
永禄12年 2月10日 |
織田信長が直江景綱に上杉謙信と武田信玄の和睦について聞いている | 上杉家文書 |
永禄12年 2月16日 |
連合軍が本興寺に特権を与える | 本興寺文書 |
永禄12年 2月26日 |
佐久間信盛が柳生宗厳に礼を言う | 柳生文書 |
永禄12年 2月27日 |
三木良頼が上杉謙信に各国情勢を伝える | 越佐史料 |
永禄12年 3月2日 |
連合軍が多田神社に免除を与える | 多田神社文書 |
永禄12年 3月3日 |
二条城の造営に藤戸石が運ばれるパフォーマンス | 言継卿記 |
永禄12年 3月27日 |
三好義継と足利義昭の妹が婚礼 | 言継卿記 |
永禄12年 4月7日 |
足利義昭・織田信長が武田信玄・北条氏康と和睦して上洛できないか上杉謙信に確認している | 上杉家文書 |
永禄12年 4月8日? |
イエズス会が許される | ルイス・フロイスなどの記録 |
永禄12年 4月14日 |
二条城の完成 | 言継卿記 |
概要
僕と契約して斯波氏になってよ | ||
足利義昭 |
なんかやだ | ||
織田信長 |
そんなことよりあんた! 私がいない間にダラダラしすぎじゃない! そんな風紀の乱れ認めませんよ! |
||
織田信長 |
……なんかゴメン… | ||
足利義昭 |
こうして、幕府は再建されていくのでした
俺たちの天下静謐はこれからだ! | ||
足利義昭 織田信長 |
本題
一方、二条城が作られているが、松永久秀の官途が弾正少弼から山城守になったり、三好義継が足利義昭の妹を娶ったりと、足利義昭体制の構築が図られたのである(なお、結構な頻度で『細川両家記』のコピペで畠山高政が守護になったと雑語りされるが、守護として機能していたのは弟・畠山秋高の方である)。
一方この間に織田信長と足利義昭との間で殿中御掟が制定された。この文書はもはや関係ない気もするし無駄に長いので割愛。なお、それは幕府の先例を徹底的に順守するものであり、実利を志向した足利義輝の路線が否定されたとも。
5月頃になると毛利元就と大友宗麟の和睦が全く進まない原因として、山名祐豊と彼の支援する尼子勝久が目を付けられて、8月13日頃まで木下秀吉が出兵していた。加えて8月には北畠具教が攻撃され、10月4日に織田信雄の養子入り等が決まって滝川一益等が伊勢方面に回った。
そして開けて永禄13年(1570年)、織田信長から明智光秀や朝山日乗を介して五か条の条書が定められた。ここまでは、まだ、足利義昭幕府を今後どうするかを互いに探りあっていたものであった。
ちなみに、結局上洛命令を見た限り、足利義昭幕府の構成員は以下になったようだ(誤解されがちだが、朝倉義景はそもそも呼ばれていない)。
【史料】
十五日 天晴。大坂へ加ミ殿下向。本願寺児徳度□て、此御跡御徳度シヤウ□ノヤウ承度とて、御家門へ被申入被仰上、ヲクドンジキ皆具被下。専当差候衣上借用候て下。ホウ身衣とて白モ指ヌキノ□キを差侍、金剛院御笠役ニ御加行時御供間、進之也。トウシン衣、大坂へ不存由候之間、如此。」ネハン参。北大・進左学同道候て参。
竹坊、堺ヨリ被上了。夕より御番。喜院廿首哥下書沙汰。信長上洛付、書立。昨日、京都北大へ下。
北畠大納言殿同北伊勢諸士中 徳川三河守殿同三河遠江諸侍衆 姉小路中納言殿同飛騨国衆 山名殿父子同分国衆 畠山殿同在国衆遊佐河内守
甲州名代 淡州名代
因州武田名代 備前州名代
同触状案文
禁中後修理武家御用其外為天下弥□来中旬可参洛候条、各御上洛、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引候。恐々謹言
遊左馬よりナ□さゝげ所望来。一つゝミ進之候。あ(しばらく虫食い)番参。
――『二条宴乗記』永禄十三年二月七日
※かなり言い訳をすると全文はビブリア版と日記抜書版をいい感じにキメラさせてもらった
リスト化してみると
- 北畠具教
- 徳川家康
- 三木嗣頼
- 山名祐豊
- 山名氏政
- 畠山秋高
- 遊佐信教
- 三好義継
- 松永久秀
- 松永久通
- 松浦光(松浦孫五郎/松浦総五郎となっているが、もろもろおかしいことから馬部隆弘は松浦孫八郎の誤りとしている)
- 別所長治
- 別所重棟(孫右衛門が孫左衛門に間違われている)
- 丹波国衆
- 一色義道
- 武田元明
- 京極高吉(と浅井長政)
- 尼子(近江の嫡流の方か尼子勝久か不明だが、西島太郎はどちらにせよ織田信長の認識として尼子は京極の一門という意識があったことを重要視する)
- 高島七頭
- 木村高重(ビブリア版だと木林だが、大体日記抜書版の木村扱いされる)
- 木村高次
- 江州南諸侍衆(ビブリア版だと相州っぽくもある)
- 紀伊国衆
- 神保氏
- 畠山義慶
- 武田信玄
- 安宅神太郎(日記抜書版では濃州になっているため本当か不明)
- 武田高信
- 備前衆
- 池田勝正、伊丹忠親、塩川長満、有馬氏
なお、2月3日に水野信元が上洛したり、3月16日に太田垣兄弟や宇喜多、和泉や河内の勢力が上洛したっぽいので(どちらもソースは『言継卿記』)、実際に来たやつはいたっぽい。
かくして、若狭攻撃に連動した信長包囲網形成につながってく。
その後の伏線
概要
つか金足りねえな、せびるか | ||
足利義昭 |
えっ? | ||
織田信長 |
お前ら金よろ | ||
足利義昭 |
先代には恩あるし… | ||
相良義陽 |
さすがに大勢は決まったかな? | ||
島津義久 |
偏諱とかもういらね… | ||
伊達輝宗 |
うわ、偏諱ありがてえ | ||
大崎義隆 |
馬あげるし屋敷くれ | ||
土佐林禅棟 |
奥州からきました | ||
葛西晴胤 |
ここが京か | ||
南部信長 |
…なるほどな… | ||
織田信長 |
とか
ところでまた手伝ってほしいんだが? | ||
足利義昭 織田信長 |
(チラッ…)さすがに無理があるかと | ||
毛利元就 |
ヒャッハー! | ||
大友宗麟 |
七難八苦! | ||
尼子勝久&山中幸盛 |
毛利とかない | ||
浦上宗景 |
なー | ||
山名祐豊 |
昔親父かくまった話落とし前つけんかい! | ||
赤松義祐 |
だからってこれは戦争じゃろがい! | ||
赤松政秀 |
伊予に突撃だー! | ||
一条兼定 |
たすけて | ||
河野通直 |
とか
はあ…つら…家におろ… | ||
朝倉義景 |
ぎゃああああやめるバブ!連れてくなバブ! | ||
武田元明 |
おい | ||
足利義昭 織田信長 |
とか
言う通りにしたらなんか、みんなカンカンなんじゃが? | ||
武田信玄 |
信玄殺す | ||
北条氏康 |
信玄殺す | ||
上杉謙信 |
(信玄いつか殺す…) | ||
徳川家康 |
お前何やってるの!? | ||
足利義昭 織田信長 |
とか
…… | ||
三好三人衆 |
誰も来ないな…… | ||
三好三人衆 |
なー | ||
三好三人衆 |
まあ、このまま耐えれば…… | ||
三好三人衆 |
あ、僕あっち行くんで… | ||
安宅神太郎 |
は? | ||
三好三人衆 |
変以後の主な登場人物
足利義昭側
- 足利義昭
- 足利義輝の弟。二重政権論とかも出てきたけど、京都に全然いられなかった意味ではこれまでの将軍同様戦国期の室町殿感がある。
- 大覚寺義俊
- 慶寿院の弟。つまり近衛家。死ぬまでは中心人物だった。
- 三淵藤英
- 幕臣。実は伊勢貞孝の反乱に加わってたので足利義輝からはぶられてた説がある。
- 足利義昭に味方したことで急速に頭角を現した。
- 細川藤孝
- 三淵藤英の弟。畿内情勢が整理された結果、10年代に養子入り先が間違って記録された説が出てきた。
- 一色藤長
- 幕臣。足利義昭に味方したことで急速に頭角を現した。後年ポカしてその後がよくわからなくなるけど…
- 摂津晴門
- 幕臣。足利義輝に伊勢氏亡き後の重役を任せられた。途中からこっちに合流したため、足利義栄の将軍就任時に摂津氏が担ってきた先例が無視されている。
- 和田惟政
- 甲賀の土豪。足利義昭を助けて以来、ずっと付き従うこととなる。
- 上杉謙信
- 来るって言ってずっと来なかった人。いや、来いよ。
- 朝倉義景
- 途中まで家を貸してた人。なんで後年逆襲されたのかはわからん。
- 畠山秋高/畠山政頼
- 三管領の末裔。ずっと頑張ってたのに、10年代の研究書にすら名前間違えられたり兄と間違えられたりしてる人。
- 遊佐信教
- 畠山秋高の家臣の河内守護代。正直まだ若いためあまり表には出てこない。
- 安見宗房
- 遊佐信教の家臣。安上宗房でも安見直政でもねえ!河内守護代でもねえ!
- 正直彼の事績を正しく認識しているかが、研究者としての信頼性云々がどうとか。
- 細川藤賢
- 典厩家当主かつ細川氏綱流の後継者。
- 家臣ともども早々と三好家を離脱し、松永久秀と行動を共にしていく。
- 武田義統
- 若狭守護。足利義輝の義兄弟ではあるが、既にガタガタのまま若死に。
- 武田元明
- 武田義統の息子。ぶっちゃけただの幼児。
- バブだから担がれ、バブだから連れてかれた。最期まで不幸そのものだった人生を送ることとなる。
- 畠山義続
- 能登守護。来るって言ったけど、自分が追い出された人。
- 追い出された後戻るために片っ端から手を組んだため、純粋にこっちかは怪しい。
- 織田信長
- いつもの。なんか知らないけど白羽の矢が立った人。
- 徳川家康
- 実はずっといた人。史料が見つかればもっと…。
- 浅井長政
- ずっといましたが。
- 京極高吉/京極高慶
- 四職の末裔で浅井の名目上の君主……系譜関係も本名も実はよくわかってないけど……。
- いたよな……?いや証拠はないけどたぶんいた……よな?
- 毛利元就、毛利輝元
- いろいろな偶然が重なってこっち側に来た人。
- 細川通董
- 備中守護……を名乗っている謎の人物(でも周囲みんな信じてるしまあいいか)。
- 赤松政秀
- 龍野赤松氏。本家と違って完全なこっち。
- 河野通直
- 伊予守護。ただの幼児であり、来島村上通康亡き後の平岡一門と村上武吉らが差配する河野氏家中にかなり振り回された。
- 足利義昭が伊予の細川氏領あげるって言ったけど、大友氏の毛利氏包囲網に加わって離脱する。
- 村上武吉
- 村上水軍。ちょうど河野氏が毛利氏寄りだったことから上洛戦前後はこっちにいた。
- ぶっちゃけその翌年には大友氏側についているのであんまりカウントできない。
- 細川刑部大輔
- 和泉守護の末裔の一人(いろいろ説明がめんどくさいのでパス)。この件でしか名前が残らなかった人。
- 三木良頼
- 姉小路家を自称する飛騨の人。包囲されている上杉謙信の連絡係。
- 北畠具教
- 自称伊勢国司。ちょくちょく伊勢も協力してる話が出てきているのでいたはいたっぽい。
- 仁木長政
- 伊賀守護。仁木長頼等同名衆がちらほら加わっているが、ぶっちゃけ惣国一揆は乗り気じゃないです。
- 一色義清/一色義員
- 丹後守護……ぶっちゃけ本名すら不明。
- 一色氏は何も記録が残っていないレベルで戦国時代何もやっていなかったが、上洛戦後に急に名前が出てくるので多分いたのだろう。
- 赤井直正/荻野直正
- 丹波の国衆。連絡を取り合っていたので、おそらくこちら側。
- 波多野秀治
- 丹波守護代……多分。丹波から割とスムーズに軍勢が来ているので、たぶんこちら側。
- 松浦光
- 和泉守護代。三好義継の弟。実はまだ何がしたかったのかよくわからない人。
- 安宅神太郎
- 安宅信康って書くともうブチ切れられる人。したことはわかるが、お前正直何したいん?
- 九条稙通
- 摂関。三好義継、松浦光の義理の祖父。多分裏にいたが、何がしたかったのかよくわからない人。
- 二条晴良
- 摂関。↑と違ってこの人は確実に足利義昭派。
- 山科言継
- 足利義栄関連の儀式をしてる片手間に、足利義昭に密書送ったりしてた。
- その結果、足利義昭政権で急速に浮上する。
足利義栄側
- 足利義栄
- 征夷大将軍。以上。
- 畠山維広
- 幕臣。足利義維以来の譜代。
- 伊勢貞為、伊勢貞興
- 幕臣。政所執事を担ってきたが、祖父・伊勢貞孝の反乱でこっちに合流していた。
- 三好宗渭
- もう三好政康って書いたらブチ切れられる人。細川京兆家の近くにいた長尚流三好氏で、この変の後三好三人衆としてセット売りされた。上洛戦の後すぐ死ぬけど。
- 石成友通
- 松永久秀がポカし続けた結果、なんか浮上した人。三好三人衆としてセット売りされたけど、後々裏切ることになる。
- 松浦虎
- 松浦光殺すマン……それ以外マジで何も残ってねえ…。
- 三好長治
- 阿波三好家当主。ぶっちゃけ幼すぎて何もやってない。
- 篠原長房
- 阿波三好家を差配していた人。ぶっちゃけ足利義栄擁立の立役者。
- 細川昭元
- 京兆家当主。幼児だけど、陣営的にはこちら。
- 細川真之
- 阿波守護。存在感はないけど、陣営的にはこちら。
- 小笠原長時、小笠原貞慶
- 元信濃守護。実はこの頃三好にいた。
- 斎藤龍興/一色龍興
- 斎藤龍興と便宜上言われてるが、父親の上げた家格がまだ有効なので一色龍興が正確だったりする人。
- 六角ともども途中から寝返った。正直織田信長との戦いの時系列もまだよくわかってない人
- 六角承禎
- 近江守護。観音寺騒動中でよくわからない行動が多い。
- 筒井順慶
- 松永久秀殺すマン。
- 山名祐豊
- 但馬守護。証拠はないけどたぶんこっちっぽい人。
- 赤松義祐
- 播磨守護。確証は持てないが、赤松政秀殺すマンなのでこっちっぽい。
- 別所長治
- 三好三人衆に軍勢を送ったりしている。上洛戦後足利義昭に臣従したが、すぐ離反した。
- 小寺政職
- 赤松家としての行動の範疇は出てなさそう。
- 浦上宗景
- ぶっちゃけ毛利に邪魔されなければなんでもよさそう。
- 河野通宣
- 伊予守護。足利義栄の数少ない文書を出した相手。
- ぶっちゃけ足利義昭からも結構文書が来ているので断言はできない。
- 来島村上通康
- 村上水軍。足利義栄の数少ない文書を出した相手。
- でもすぐ死ぬ。
- 近衛前久
- 摂関。ガチでただの巻き添え。
- 勧修寺晴右
- 朝廷内での将軍擁立の立役者。
その他
- 武田信玄
- 漁夫の利その1。上杉謙信がこれなかった原因その1。
- 10年代に甲信越から濃尾まで文書が整理されてしまった結果、武田信玄どっちの陣営にいたのか論争が現在進行形で殴り合い中だったりする。
- 北条氏康、北条氏政
- 上杉謙信がこれなかった原因その2。
- 本願寺顕如
- 上杉謙信がこれなかった原因その3。
- 大友宗麟
- 漁夫の利その2。
- 宇喜多直家
- 漁夫の利その3。ぶっちゃけこの流れで頭角を現した感がある人1。
- 長宗我部元親
- 漁夫の利その4。ぶっちゃけこの流れで頭角を現した感がある人2。
- 龍造寺隆信
- 漁夫の利その5。ぶっちゃけこの流れで頭角を現した感がある人3。
- 島津貴久、島津義久
- 正直軽く巻き込まれただけの人1。
- 喜入季久
- 島津氏家臣。元亀元年に上洛させられました。
- 佐竹義重
- 正直軽く巻き込まれただけの人2。
- 相良義陽
- 九州の国衆。足利義輝あたりから急に直で交渉できるようになった家のひとつ。
- 流浪時から頼られていて、上洛戦中に城建てたいから金よろと言われている。
- 由良成繁
- 自称新田義貞の末裔。足利義輝あたりから急に直で交渉できるようになった家のひとつ。
- 流浪時から頼られていて、足利義昭政権でも割とほいほい贈与されている。
- 伊達輝宗
- 金請求されたことしか残ってない。息子の独眼竜も偏諱もらってないし。
- 大崎義隆
- 奥州探題。足利義昭から偏諱でもらったのが義の字らしい。
- 葛西晴胤
- 奥州の国衆。永禄12年にまさかの上洛である。
- 葛西義重
- ↑の息子…多分。足利義昭から偏諱でもらったのが義の字らしい。
- 土佐林禅棟
- 出羽の国衆。伊勢貞孝の反乱の後に蜷川親元を引き取るレベルにはパイプがあった。
- 上洛戦後、馬を送ったのと京都に屋敷を得た記録がある。
- 南部但馬守
- 昔は素朴に南部信長扱いされてた安東愛季の配下。この時期京都にいたらしい。
- 今川氏真
- この情勢を利用しようとしましたが…ダメでした!
- 尼子義久、尼子勝久
- 割とこの流れの中で利用されてしまった感がある人達。
- ルイス・フロイス
- 実はこの動乱に盛大に巻き込まれた。
- 里村紹巴
- こんな時期に旅をしたのは、この事件に絡んだ情報収集疑惑がある人。
- 斯波義銀
- お前マジでどこにいったの?
イエズス会士の証言
こうしたもろもろの傍ら、永禄8年(1565年)7月5日にある一つの重大な決定が下された。三好義継が正親町天皇の女房に働きかけ、天皇から伴天連追放令を得たのである。畿内における最初のイエズス会への弾圧であった。
【史料】
巳亥、天晴、天一天上、申刻晩立、予服之事可相尋之用、吉田へ可罷向之処、出京使有之、内山に被居之由申之間、則罷向、実母養母之服、雖為何可為存分次第之由返答之間、七ヶ年過之條、駿州之養母之服に可穢之存分也、
長橋局へ立寄、次台所之あかヽ相尋、本服云々、次内侍所之あかに香蕾散一包一両遣之、次伏見殿へ参、堂一包、一半、同南御方一半進之、次大祥寺殿、同実徳庵一、持参了、
柳原弁登山之由有之間、梨門へ書状、香蕾ヽ一ヽ、言伝進之、
大澤右兵衛大夫、与次郎等に同一包宛遣之、同宮千代に一包遣之明日大澤左衛門大夫小者南都へ下之間、広橋父子、左衛門大夫等へ書状、香蕾散三包、遣之、
外様番日野代に参、如例内々に祗候了、内々番衆万里小路大納言、三条中納言、実彦朝臣等也、被仰下之料紙仮閉調之持参了、
香蕾散又一済調合、以上五済也、
イエズス会士たちの認識としては松永久秀によって、都から追放され堺に追われた(なお、日付は太陰暦とグレゴリオ暦のずれがあるのでおおよそ1か月ずれがある感じで)。彼らの認識では三好長逸に助けられたとのこと。
【史料】
人々から天竺人と呼ばれる我らは、都でデウスの教えを説いたため追放され教会は没収されたが、我等は永久追放者なるが故に何びとも我らを庇護してはならぬというものであった。
O dia seguinte depois desuasayda do Meaco se deu pregāo publico por todo o Meaco, que os Tenquicusis, que assi nos chamāo, por pregarem a ley de Deos no Meaco, erāo desterrado, e a Igreija tomada eque pessoa algūa nāo fosse ousada aos fauorecer, porque os auia pordesterrados pera tod semper
【史料】
我らは、法華宗の仏僧らが公方様の奥方を殺した兵士に賄賂を贈り、我らは兵も持たぬも同然であり、いかなる兵士も昼夜の別なく容易になしうること故、我らの修道院に入って我らを短刀で殺すように求めたとの知らせを受けた。
Tinhamos nos tambem por auiso que os Bonzos Foquexus peytarāo a hum sodado que matou a molher do Cubucama, que entrasse em nossa casa, e que as adagadas nos matasse, por ser cousa q qualquer soldado de dia, ou de noite po dia sacimēte fazer, como estiuessemos sem gente.
【史料】
七月二十七日、金曜日の朝、我らは深い悲しみと共に飯盛へ向け出発した。三好殿の家中のキリシタンの貴人らは当地の争乱や異教徒が我らを追放、もしくは殺害しようと望んでいるのを知ったので、たがいに番を決めて昼夜、教会を警固しに来た。
ガスパル・ヴィレラ師が去ってから三日目、すなわち日曜日の午後、都のキリシタンや兵士らが私のもとに来て、(天)皇がすでに弾正殿の勧めにより我らを追放する許可を出し、弾正殿の子も同じく(追放の)為の伝言を発したというのは事実であり、教会を憐れむべき状態のまま放置して立ち去るべきであるといった。
se pertiro bem Jesconsolado pera Imoryhūa sesta feyra aos vinte e sete de Iuljo pola manhaā. Os fidalgos da casada Mioxindono christāos, por verem a terra como andauareuolta, e os gentios com grande desejo de nos deitarem fora, ou matarē, reparridos entre sia quartos vinhāo vigiar a Igreiha de noite, e de dia.
Dahi a tres dias depoisd i parrida do padre Gaspar Vilela, foy ao domingo a tarde me vierāo dizeros Christāos do Meaco, e os soldados, que era verdade q tinha ja o Voo passado papel por persuasem de Dajodono pera nos deytarē fora, e filho de Dajodono dado recado pera o mesmo, e que na mesina hora mesosse, e deyxasse a Ogreija assi como estauacom essa pobreza que nella tinhamo.
【史料】
月曜日の朝、都の重立った三名の執政官の内の一人で、名を(三好)日向(長逸)殿といい、異教徒ながら生来善良にして我らと甚だ親しい人が、彼のキリシタンの家臣を介して(以下のことを)私に述べた。すなわち、彼は我らが都から追放されぬよう能う限り努力したが、この一見の首謀者は弾正殿であるが故に功を奏さず、(したがって)私は堺か、もしくはガスパル・ヴィレラ師の滞在地へ向かうべきであり、彼は道中に襲われることのないよう私に兵を伴わせるであろう、とのことであった。
(中略)
翌日の朝、弾正殿と三好殿、ならびに彼が各城に戻るが、もし私がこれ以上とどまれば危険にさらされるので急ぐようにと伝えてきた。
A segundadeyra pola manha hum dos tres regedores principaes do meaco por nome Fiungandono gentio, porem naturalmentebom homem, e muyto nosso amigo, me mandou dizer por hum criado seu Christāo, que elle tinha trabalhado sobre no nāo deytarem do Meaco quanto podera, mas que nāo aproueytara, por Dajondono ser o autoradisto, que eu me sosse perao Sacay, ou pera onde estaua o padre Gaspar Vilela, que elle mandaria gēte comīgo, pera que nocaminho me nāo offendessem
(中略)
e q me desse a presa porque ao outro dia pola manhaā Dajondono, e Mioxindono, e elle se tornauāo pera suas fortalezas
以後、堺でこの地域を任されたルイス・フロイスもこの時代の情勢の証言者と化すので紹介したい。
実は、ガスパル・ヴィレラ、およびルイス・フロイスは、1565年8月初頭の時点で篠原長房が足利義栄を上洛させようとしていたことを把握している。和暦に換算すると永禄8年の7月の段階である。
【史料】
また、いかなる方法によっても暴君から我らが復帰するための許可を得られぬ時は、阿波と称する国に赴く決心をしている。すなわち、その時は多数の配下を有する篠原という名の貴人が、(今は)同国に滞在中で(やがて)都に来る公方様のもとに私を案内し、我らの復帰への同意を彼に求めることになろうが、これは我らの側にいっさい(の手立てが)失われた(場合)に備えてのことである。
Tambem tenho determinado, quando por nenhum mod podermos acabarcom este tyrannno que consinta em nossa tornada, darhūa chegada a hum reyno chamado Aua, porque ao Cuboque ali esta, que hadevir pera Meaxo, meleuara hum fidalgo, q sechama Xinouarādono que tem muyta gente, fazendo com elle q consinta em nossa tornada: Isto pera q nāo fique nadade no sa parte.
【史料】
また、もし状況が許すならば、数日後に司祭は阿波の国に行き、都に来る予定の新たな公方様と親交を結びうるか確かめるものと思われる。というのも、この阿波の国は篠原(長房)殿と称するはなはだ有力な貴人により治められているが、彼とその家臣三、四名はデウスのことをすでに三、四回聴いており、神の御恵みを賜り彼を仲立ちとすることにより我らの(都への)復帰が可能になるからである。
Tambem me parece que se ouuer disposiçāo pe raisso que ao Reyno Aua jra o padre daqui alguns dias ver se podeter algūa entrada como o nouo Cubo, que ha de vir pera o Meaco por ser este Reyno de Aua gouerado por hum fidalgo por nome Xinouarandono muy poderoso, que ja tem ouuidotres, ou quetro vezesas cousas de Deos, etres, ou quatro vezes as cousas de Deos, e tres , ou quatro criados feus, por meo do qual se pode com o diuino gauor esseytura nossa toranda.
以後、河内でキリシタン領主(後述の三箇頼照か?)らとのやり取りを記しているが、この過程で三好三人衆が家中を差配していたことがわかる。
【史料】
前述の貴人は(中略)四、五名の家臣だけを伴って当地の我らのもとに来た。翌日彼の不在が発覚すると、(国主の兵は)直ちに彼の邸に向かい、甚だ高価な家であったが、これを破壊し、跡には土台すら残らなかった。彼はデウスの教えに背かぬために己の俸禄や地位、名誉を失ったことを大いに喜んだ。
三好殿と称する河内の国主が住んでいる城のキリシタンの貴人や他のキリシタンらはこれを知ると、彼のことを父とも頭領とも見なしていたので、彼を復帰させることに決め、これがために国主の親戚である三人の異教徒の大身を介入させたが、国主は彼らのことを好ましく思わず、彼らを殺そうと欲していた。というのも、彼らは老人であり、今は彼らが都とその周辺諸国の絶対政権を握っていて、彼は何事においても彼らの助言に従って動かざるを得なかったからである。
Este fidalgo(中略)e elle soo com quatro, cu cinco criadosse veo aquitercom nosco. Odia seguite quese soube de sua ausencia forāo logo suas casa, que erāo de muito preço destruydas, que nemos alicesesficarāo em pee, eelle muyto alegre de perdersuarenda, estado, e honra, por nāo jr contra a leu de Deos.
Sabido isto por outros fidalgos, e homens Christāos da fortaleza, ōde o mesmo Rey d' Cauachy, por nome Mioxindono esataua pol terem todos por pay, e cabeça determinarāode o restituyr, e pera este effeytoderāoentrada a tres seuhores gērios parētes del Rey, aos quaes elle tinha ma vontade, e desejaua matalos por serem velhos, e auer elle de necessidade o gouerno absoluto de Meaco, e de outros Reynos porderpinkor.
やはりこの時点でも篠原長房が足利義栄をしきりに上洛させたがっていることを伝えてくる。
【史料】
私はデウスの恩寵により、早急に有力な大国主が一、二コント(万)の兵を率いて、新たな公方様(足利義栄)を都の領主に就かせることを期待している。その国主は篠原(長房)殿と称する人で、貪欲さやその他の悪徳に染まらず、幾度かデウスのことを聴いており、我等を庇護することを望んでいる。
(中略)
公方様を迎え、戦さが止んだ後、私は再び(復帰の許しを)懇請するであろう。
Espero com o diuino fauor muyto cedo por hum grande e poderoso Rey, com hum cono, ou dous de gente meter de posseno Meaco o nouo Cubucama: chamase este senhor Xinouarandono, alheo de cobiça, e outros vicios: tem algūas vezes ouuidas as cousas de Deos, e deseja em algūa maneyra de nos fauorecer.
(中略)
Depois que ouuer Cubucama, e as querras cessarem farey maisinstancia.
なお、ルイス・フロイスも松永久秀の状況を攫んでおり、堺近くでの戦いでかつて自分たちへの追放の命を受けた家臣が死んだようだ。
【史料】
都の地を過ぎ、坂東地方に向かって十五日の道のりの所に美濃と称する国がある。今、同国を納めている国主はその父が瀕死の状態にあった時、日本の偶像である神や仏に対して多くの供物を捧げることを命じ、諸僧院の仏僧らには彼の父が健康を回復するよう絶えず祈ることを請うた。
父が死ぬと息子の偶像に対する信心は消えた。かくも非力な神々に期待すべきではない(と考えた)ので、彼は僧院をことごとく破壊させ、今後は仏僧も尼僧も存在してはならぬと命じた。
Pera a partedo Bandou, quinze diasde camiho por terra do Meaxo, ha hum Reyno, por nome Mino, do qual o Rey que agora he estando seu pay pera morrer, mandou fazer muitos sacrificios aos Camis, e Fotoques, que sam seus idolos, pedinodo aos Bonzos polos mosteyros, que fizerssem continuamente oraçāo por seu pay, que lhe ouessem saude.
Morreu do o pay, e no filho a confiança, que em seus idolos rinha, mandou destruyr, e assolar todos os mosteyros, e que nāo ouesse mais Bonzos nem Bonzas, porque em deoses detam pouco podder nāo se auia deter esperança.
【史料】
タイセキ(Tayxequi)と呼ばれる仏僧(中略)某貴人は(彼の)親戚であるが、国主の不興を買ったのか、或いは彼が国主に悪感情を抱いたのか、過ぐる年、都に来てデウスの噂を聞くと我らのもとに来訪した。
(中略)
彼がキリシタンになろうとした時、突如彼が仕えていた日本の将軍なる公方様が謀反により殺された。
Bonzo, por nome Tayxequi(中略) Hum parente seu fidalgo(中略)se agraouo del Rey, ouel Rey delle, veo o annno passado ao Meaco, e ouindo falar as cousas de Deos, veo ter cōnosco.
(中略)
Estao do perasefazer Christāo matarāo subitamēte a treyçao o Cubucama Emperador de Iapāo, a quem elle seruia.
『1567年6月12日付、フロイス書簡』では、美濃の国主は次々と師と仰ぐ僧を鞍替えしているので、キリスト教に帰依するのも簡単とみなされている。
【史料】
公方様を殺した河内の国主、三好殿の顧問である都の四人の執政官の一人がこの市に住んでおり、当地で最も壮麗な家を支柱に構えている。聞くところによれば、俸禄のほかにも金子にして一コントの黄金を持っているという。彼は市のこの地区で我らを保護している一キリシタンのもとに人を遣わし、彼が私に会ってデウスについて聴くことを希望しており、その旨を私に知らせるよう請うと伝えさせた。
(中略)
その地を納める四人の執政官の一人で、彼ら(他の三人)と同等の力と権威を有する異教徒は(中略)大いに従事している戦さが終われば、必ず最後まで聴聞してキリシタンになることを約束した。
Hum dos quatro regedores do Meaco do conselho de Mioxindono Rey de Cauachy, que matou a Cubucama, mora nesta cidade de assent, e nella tem as milhores, e maisricas ccasas que aqui ha, e alem de suarendadizem ter hum conto douro em dinheyro.Este mandou dizer a hū Christāodesta rua que aquinos tem debaixo de sua proteyçāo, que desejaua verme, e ouuir as cousas de Deos, que lhe rogaua mo fizesse a saber e, e comser hum poderoso senhor
(中略)
Outro gentio de hum dos quatro regedores que tem o gouerno da terra(中略)prometido, que com as guerras xessarem, nas quaes elle annda muito ocupado, que sem duuida tem detaminado acabar de ouuir, e fazerse Christāo
【史料】
都に三好殿と称する大身がいる。彼は今、河内と称する国の領主にして、はなはだ有力な異教徒であり、彼が殺害した全日本の君主たる公方様は彼に服従していた。家中の一貴人で彼の秘書を務める人はキリシタンであるが、彼は全く我らを恥じ入らせるほど善良なキリシタンである。
Ha hum Senhor no Meaco, por nome Mioxindono, que agora he Rey de hum Reyno por nome Cauachy, gentio muy pod roso, a quem o Cubucama, que elle matou, senhor de todo Iapāo obedecia. Hum fidalgo de sua casa, e seu secretario he Christāo, e tam bom Christāo, que realmente nos confunde
【史料】
降誕祭に至ると、当市には敵対する二つの軍勢が滞在し、両軍には当地方の武士やキリシタンの貴人が多数あり、我らが今逗留している粗末な借家がはなはだ小さく、多数の人を収容することができなかったので、私は異教徒らにキリシタンの忠誠と愛、平和、および一致を一層よく知らしめるため、キリシタンをことごとく一つの網に入れることを望み、この町内の会議室または会議所が広くて祝祭に適しているため、これを借り受けるよう努めた。
(中略)
敵対する両軍の武士も約七十名参列したが、彼らはただ一人の国主もしくは主君の家臣であるかのように、いとも深い信愛の情と礼儀をもって語り合っていた。
Chegada a festa do Natal por estarem nesta cidade dous exercitos de īmigos contrarios jims ds pitrps, & nelles dambas as bandas a maior copia dos fidalgos & Christāos nobres deltas partes, sendo esta pobre ccasa d'aluger, em que ficamos muito pequena, & pouco capaz de tanta gente defejando eu tambem deos meter a todos em hūa pinke peramais constar aos gentios a fidelidade, amor, paz & vniāo dos Christāos, trabalhei por auer emprestada desta ruaa camara ou casa de seu conselho, porser larga & conueniente pera a festa,
(中略)
aonde estauāo obra de setenta fidalgos qie sendo de dous exercitos contraitos, assi se trata uaō com tanto amor, & cortesias, como se fossem subditos de hum so Reiou senhor.
この書状ではキリシタン武将のサンチョ(三箇頼照)の協力で聖週が実現したが、三好殿の戦いで命からがら逃亡した旨が記載されているが、長いので割愛させてほしい。
【史料】
しかし、最高の裁判権はデウスの限りなき全能に属するが故に、神の思し召しにより、諸大身中最も有力な篠原(長房)殿と称する人の側近の中で、彼が大いに寵する一人がキリシタンになった。
todauia xomo a jurisdiçāo suprema he da infinita omnipotēcia de Deos, ordenou sua diuina vōtade q na corte do maior Sōrde tods q se chama Xinouaradono, ouuesse hū fidalgo muito seu prinado Christāo, por cuja ocasiaū ate aguora me fauoreceo sempre
なお、こうした家中のキリシタンたちの扱いで、三好三人衆や篠原長房の間では統一が図れていないというのが同書状からわかるが長いので割愛させてほしい。
ちなみに、ルイス・フロイスの認識同様、日本側でも三好長逸、三好宗渭、篠原長房がイエズス会の擁護者だったという認識であった。
【史料】
この度、篠原殿は都の国主に新たな使いを派遣し、もし(国主が)司祭らの都への復帰に同意する気が少しもないのであれば、司祭らを追放すべき理由は何ひとつないのであるから、(篠原殿が)自らの絶対権力により司祭を復帰させるつもりであることを伝えた。
五、六日前、尾張の国主(織田信長)が殺された公方様の兄弟(足利義昭)を武力によって都の領主につかせるため、突如、六万の兵を率いて都に到来した、いとも大きな戦さが生じることは避け難い。
Agora tinha mādado Xinobaradono outro recado a elRei di Miaco, que se de todo nāo determinaua contentir em os padres tornarem ao Miaco qie de seu poder absoluto os auia d tormar a restituir, pois nāo auia causa algūa por onde com rezāo os excluissem, se nāo quando de repentesacra cinco ou feis dias que veo elREi de Voari sobre Miaco com sesenta mil homens pera meter por for ça darmas de posse ao irmāo do Cubocama que mataraō no mesmo Miaco, & nāo pode deixar de auer gran dissmas guerras.
そして、いともあっけなく足利義昭体制となった。なお、この後イエズス会が復権したからといって松永久秀と日乗上人に対してとてつもなく恨みつらみをぶちまけているが、長いので割愛させてほしい。
足利義維流のその後
軍記『平島記』によると、息子・足利義栄をあっけなく失った足利義維は、足利義昭が追放されたよりもさらに後の天正元年(1573年)10月8日に亡くなり、西光寺に埋葬されたようである。
やがて蜂須賀正勝が阿波に入ると、茶料千石という捨扶持のみ与えられて、子孫は飼い殺しさせられていく。なお、名前は平島又太郎に代々改められ、足利というレガリアすら放棄させられてしまった。
徳島藩内の平島公方の序列は諸奉行、鷹匠、猿楽の次で、池田士、三名士の前にある。『平島記』によれば大坂の陣の際大野治長に招かれたが、蜂須賀至鎮のやり取りを経て断ったらしいのだが、史実かは不明。
【史料】
一 慶長拾九甲寅年ノ大坂籠城ノ節、秀頼ノ家老大野修理治長方ヨリ、秀頼申付候由ニテ、拙者父子大坂江可罷上旨、米村新助ト云者使ニテ、状并小舩一艘指下、乍拙者思様、此儀侍冥加ニ叶処ナリト、早々可打立ト思ヒシカ、乍去唯今マテ太守公之育ヲ得テ、今此儀沙汰モナク上ル儀本意ニアラスト思ヒ、大坂江ノ返事調使者ヲモトシ、即修理亮方ノ状ヲ渭津江持テ行、細山主水正政慶以テ此旨太守公江申ケレハ、至鎮公某ニ対面有テ、神妙ナル仕合カンシ入候、重而申来候トモ、同心有間敷候、此状次而能候ハヽ、御所ノ御目ニ懸ヘキ也、具足箱ニ置候ヘト、梶浦作右衛門ニ御渡シ有ケリ、其時拙者云ケルハ、破具足成共着シ可申候、此度陣ニ召ツレ給リ候ヘト云ケレハ、太守公尤ニ候、然共家頼者共同前ニ召連申事モ不成、今ブセイナル入指添、不自由ナル武具ヲ調申事モ難成、心サシハイツレノ道ニテモ同前ニ候間、留守ノ城中江度々見舞ケリ、然所太守公無比類高名ニテ帰国被成ケルカ、留守中骨折満足ニ候トテ米三拾石給ケリ
その後、あまりに薄給だった平島公方家は米や銀を藩から借りる旨の文書が多数残されている。
ところが、藩政改革を進めていた養子入りした藩主・蜂須賀重喜が家臣と軋轢を起こし、お家騒動を起こすと、京都や江戸に顔が利いた平島義宜が政治力を発揮し、禄高を増やすことに成功したのである。蜂須賀重喜が藩を追われた一方で、得をしたのであった。
とはいえ、これでもまだ薄給の貧乏生活であり、平島義宜は徳島藩になおも従属せざるを得なかった。
そこで、平島義根の代についに交渉の結果京都に脱出する。以後、足利義根と名を改めて京都に居つくが、特に何かすることもなく明治維新を迎える。
維新後、押小路実潔が三条実美に明治12年(1879年)の時点で華族に列せられていない家として若江・半井・幸徳井・氷室・尊龍院・西山・平島の七家をあげており、さらに言えば前述の退去のせいで士族ですらなく平民とされてしまったのである。かくして、喜連川家の於菟丸は男爵だったことから明治16年(1583年)に天龍寺・相国寺・等持院・金閣寺・銀閣寺の五寺が華族にしてやったらどうや的な書状を送り、足利義孝の周辺からも斯波順三郎・山下数栄・大井周蔵・玉村新太郎・玉村嘉平・七条信義らと連署した請願書が京都知事に送られた。
しかし結局認められなかったようで、特に何事もなく今に至る。
松永久秀の関与について
上述の通り、当事者意識としては松永久秀は全く変にかかわっておらず、山科言継の『言継卿記』にも松永久秀は出てこないのだが、ルイス・フロイスといった少し距離を置いた同時代人にとってみればこの時期の三好家は松永久秀に差配されていると認識であり、この変も松永久秀に主導されたと思われていたようだ(加えて三好長慶が亡くなったことの秘匿は成功しているため松永久秀は三好長慶を傀儡にしているとまで書かれており、『信長公記』などに至っては三好長慶も出てきている)。
【史料】
都の政治は三名の人物に依存している。第一の人は、公方様(将軍足利義輝)と称する全日本の王である。第二は、彼の家臣の一人で、三好(長慶)殿と称する。第三は三好殿の家臣で、名を松永(久秀)殿という。第一の人は国王としての名声以外に有するものがなく、第二の人は家臣ながらも権力を有している。また第三の人は第二の人に臣従し、国を治め、法を司る役職にある。
O gouerno de Meaco depende de tres pessoas. A primeyrahe, o Reyde todo o Iapāo, chamado Cubucama, A segunda hum seu criadode Mioxindono. A tereceyra hehum criadode Mioxindono, chamado Maçumangadono. O rimeyro nāo tem mays que a honra e nome de Rey. O segundo, ainda quehe seu criado tem o poder. O terceyro, que he criado do segundo tem o negocio de gouernaro reyno esazejustiça.
ただし、乱当日のルイス・フロイスの書簡では以下のように松永久秀は表されている。
なおこの時すでに三好長慶が亡くなっていることをルイス・フロイスはつかんでおらず、乱当日も三好長慶が松永久秀らとともに上京していたという認識だった。
【史料】
およそ一か月半前、公方様は三好殿の名誉を高めた。すなわち、大いなる威厳を表す称号により名誉を加えるのが慣例である。三好殿はこの栄誉を賜ったことを感謝するため、己れの城から(彼のもとに)出向くことを欲し、彼の息子と執政官の弾正殿、および他の甚だ有力な大身一人を同伴した。
Auera obra de hū mes e meo, que Cubucama acrecenton a MioXindono em hūa honra, que acostumadarnas alcunhas, em que o posem muitadinidade, e qnerendo Mioxindono vir desua fortaleza fratisicarlhe esta merce: que lhe fez: trouxe consigo o filho, e Dajondono seu regedor, e outro senhormuy grande
このことはルイス・フロイスに限ったことではなく、同時期のルイス・アルメイダもそのような認識であった。
【史料】
四月二十九日、(中略)当城は彼が仕える(松永)弾正(久秀)殿と称する主君のものである。この人は、日本全国で最も身分高き絶対君主なる三好殿と公方様の家臣であるにもかかわらず、その才知により、今は七カ国を有するに過ぎないが、彼らを(逆に)己れの家臣のようにしている。すなわち、同人は彼らに臣従しながら、彼らは同人の望むこと以外何もなし得ないのである。
(中略)aos vinte e noue de Abril(中略)que se chama Dajondono. Este por sua discriçao, e saber, com ser subdito e vasalo de Mioxindono, e do Cubucama, qsam os mais honrados de dtodo Iapāo, e senhores absolutos delle, ainda que agorasomentesenhoreāo sete Reynosos temcomo subditos, porque nāo fazem mais, que oque elle quer, cō toda via lhes obedecer.
結局ルイス・フロイスは翌月になっても以下の認識のままであったようだ。
【史料】
すなわち、三位一体の日曜日の朝、当国の主たる二人の統治者で、一方は(松永)弾正殿、他方は三好殿と称する人たちが一万、乃至一万二千の兵を率いて、全日本の君主にして皇帝なる公方様の宮殿を囲み、彼とその奥方、子供、兄弟、親戚、および都の主だった貴人をことごとく殺害し、宮殿を略奪させた。その後、これに火を掛けたが、このいっさい(の出来事)はおよそ二時間のうちに行われたのであり、日本では未曾有の戦慄かつ驚嘆すべき事件であった。
この謀反人の筆頭者は(松永)弾正殿と称し、当国とその他多数の国々を従え、我らが広めるデウスの教えの大敵である。彼らが我らに牙をむかないのは我らの主なるデウスがそれを許し給わないからであり、また名誉に置いて彼よりも高く、その配下に約百五十名のキリシタンを擁している三好殿が妨げになっているからであると思われる。
porqo domingo da Trinddade pola menhā os dous gouernadores principaes deste reino, hum por nome Dayandono,& outro Meoxindono com dez, ou doze milhomens cercaraō os paços de Cubocama Senhor & emperador de todo o Iapaō, & mataraō e elle, & a rainha sua molher, e a seus filhos, irmāos & parentes, & toda a principal sidalgula do Miaco & mandaraō saquear os paços, e depois lhe poseraō fogo, e tudo isto se fez em obra de duas horas o mais horrendo, &espantoso caso qnunca a conteceo em Iapaō, o principal destes traidores a quem todo este reino, e outros muitos obedecē, se cha ma
A Dayandono, que he capital inimi go da lei de Deos nosso Senhor pola pregarmos, & se ja nāo tē em no executado seu turor, parece que he, porqlhe Deos nosso Seohor nāo da licença & ter algum pejo do MEoxindono que he mais alto, que elle em hora em cu ja corte auera obra de cento, & cincoenta soldados fidalgos Christāos
【史料】
(松永)弾正(久秀)殿と称する暴君〔残虐さにおいては第二のネロ(である)〕がはなはだ不当に全日本の君主なる公方様(足利義輝)を、その母や妻子、兄弟、親戚、その他の人々もろとも殺害した後、彼の飽くことなき残虐さはこれに止まらず、都では多数の家を破壊し、毎日人が殺され、また追放された。
Depoys que tyrannno(segundo Nero na crueldade) camado Dajondono matou tam injustamente o Cubucama a senhor de todo Iapāo com sua māy, molher, efilos, e jrmāos, e parētes, e outra muita gēte, nāo parando nisto sua insaciauel ceueldade, no Meaco assolou muitas casas, cada dia auia mortes, e dsterros
こうした結果軍記でもあれは松永久秀によって行われたものだ、というように記憶されていき、江戸時代にどんどんイメージが増幅していった。
成立年代 | 名前 |
---|---|
元亀4年(1573年)と称する | 細川両家記 |
細川両家記よりは後 | 足利季世記 |
天正5年(1577年) | 朝倉始末記 |
首巻はともかく一巻なので慶長18年(1613年)以前 | 信長公記 |
信長公記よりは後 | 永禄記 |
後陽成天皇の治世は終わったあたり | 皇年代略記 |
元和3年(1617年) | 後太平記 |
寛永2年(1625年) | 阿州将裔記 |
寛永6年(1629年) | 平島記 |
足利義昭の孫世代が把握されている時期 | 義昭興廃記 |
寛永11年(1634年) | 太閤記 |
慶安5年(1652年) | 日本王代一覧 |
寛文5年(1665年) | 陰徳太平記 |
寛文10年(1670年) | 本朝通鑑 |
貞享2年(1685年) | 総見記(信長軍記) |
宝永8年(1711年) | 重編応仁記(続応仁後記) |
享保3年(1718年) | 南海通記 |
不明 | 室町殿日記(室町殿物語) |
元文5年(1740年) | 武徳編年集成 |
18世紀後半(早くても桜町天皇期) | 皇年代私記 |
安永7年(1778年) | 綿考輯録 |
寛政10年(1798年) | 続史愚抄 |
文化・文政年間(1804~1830年) | 常山紀談 |
文政10年(1827年)以前 | 日本外史 |
天保14年(1844年) | 徳川実紀 |
嘉永4年(1851年) | 大日本野史 |
1850年代 | 系図簒用 |
『朝倉始末記』では実行者は三好義継と松永久通だが、裏に松永久秀がいるっぽい書き方ではある(□はソではないソとyの中間みたいな字で何か判断できなかった…)。
【史料】
永禄九年丙寅九月ノ末源義昭公不慮ニ朝倉左衛門督義景ヲ頼給ヒテ越前国ヘ御下向アリシ由来ヲ委尋ヌルニ前大樹万松院殿ニ御曹司三人御座シケリ第一ハ都ノ御所ニテ義輝公ト申セシカ御他界以後ハ光源院殿トソ申ケル第二ハ奈良一乗院ニ入セ給ヒテ覚慶ト申ケリ是義昭公御事ナリ第三ハ北山鹿苑院ニ御座□周暠トソ申ケル
此光源院殿ノ御代ニ天下ノ武士多ク官位ヲ歴進シテ御威光殊ニ高カリケリ去程ニ越後ノ長尾ハ弾正ノ少弼ニ任シテ御相伴衆ニソ被成ケル阿波ノ三好氏モ本ハ細川家ノ郎等タリシヲ修理大夫ニ任シテ御相伴衆ニ召加ヘラルヽノミナラス猛威次第ニ秀出□五畿内ヲコソ治メケレ
爰ニ松永弾正ト云者アリ本ハ名モナキ者ナリシカ三好ニ随逐□イツトナク勢ヲ得遂ニ大和山城ノ守護職トナリ奈良ノ多門山ヲ城郭ニ構テ南都京都ノ成敗ヲ司リケルカ修理大夫モ老衰シ子息筑前守義長モ早世シケル程ニ十河氏ノ子ヲ取立テ三好ニナシ左京大夫義継ト号シツヽ松永洛中ヲ恣ニ進退マサヽリシニ潜カニ三好ヲ勤メツヽ左京大夫義継幷ニ松永カ嫡子右衛門佐久通両大将トシテ一万兵ヲ引率シ永禄八年五月十九日清水詣ニ事寄セテ
――『朝倉始末記』
【史料】
抑光源院殿御自害、同舎弟鹿苑寺(殿)、及其外諸侯討死の事、その濫觴は細川右京大夫晴元被官三好筑前守長慶、是管領の権威を請て、五畿内其覚あり。
誇て累代主従の義を忘れ、既右京兆に敵をなして晴元殿股肱翼と存ずる臣、肩をならぶる傍輩たりといへども、摂州江口におゐて悉打倒す。
依て細川家没落。絶言語者也。彌驕を窮め、万松院殿、朝倉を御相伴衆に被召加、其例證を尋て御供衆を望。
其以後三好長慶御相伴衆に進て、松永弾正少輔久秀御供衆に被准之重々恣之義也。
忝も直参して、猶もつて可致馳走の処に、還て公儀違背せしむるのみなり。然ば御遺恨もありつべし察して、自然刻可有御謀反も案中なり。
一大事と存之処に御館四方に深溝、高壘、長関、堅固の御造作たり。然といへども、未御門扉已下不首尾之已前を急いで、御所巻に及ぶべき事、彼一類調談を極め、永禄八年五月十九日清水参詣と号し、早朝より人数を寄せ、其時に当て公方様へ訴訟有よし申触て、三好訴状を捧て、條々御点を申請る。――『永禄記』
【史料】
四海の擾乱終に不穏逆浪天に漲狼烟翳地不立去何れか兵革不動所もなし三綱五常忽泯没して子としては害親臣としては弑君其比三好修理大夫長慶恣に天下を執事し権威券官爵驕為其子左京大夫義継には忝も太樹の御妹を婚結坐しければ一族も門葉奢侈尚盛強宗藟を連奸をなす中にも三好日向守 同下野守 松永弾正少弼は畿内を守護して我意任因茲将軍門下の輩共讒を立。奸を催し彼等が行跡悪不欺人一人もなし
三好一族是を聞て己が無道私曲を辱且恐れ後災不来前に倡や備運の太樹を討左京大夫義継を天下の主とし一族後栄を楽まんと議しければ悪心飽まで深き者ども言下忽随順し軈て謀畧不怠左あらば事泄ぬ前片時も急げ人々とて永禄八年五月十九日東山佛詣且遊興と事寄せて兵ども呼集其勢三千餘騎夜深辻々を固させ其後三好日向守 同下野守 松永弾正少弼 同右衛門佐 岩成主悦助 松山新入松謙斎 御所の三方を打囲
――『後太平記』
『室町殿日記(室町殿物語)』では三好家の人々が大体生き残っており、主犯はこれらの人々である。
【史料】
永禄八年三月上旬のころ、義長相伝の者に林久太夫といふ、万事にさかしき男有りけり、かれをひそかによびて、「京都へのぼり、御所中のやうをば、くはしくうかゞふべし。いかにも静かなるらん折節、此の方へ告げ来たれ」とて旅料を沢山にとらせてのぼしけり。
去る程に久太夫、京都に着きて、七条なる朱雀の辺に、したしきものゝ有りければ、爰に宿をとりて、毎日御所中のやうをぞうかゞひける。かゝる程に、昨日今日とうち暮れて、五月上旬になりにける。時来たれば、五月雨つゞきて、御所中もいかにもしづやかにつれ〲なる折からなれば、さま〲の御遊興のみにて暮させ給ふ。かゝる程に久太夫は、「折こそよけれ」と思ひて、急ぎ中嶋に下りて、此のよしつぶさに語りにける。
長慶聞きて、「音なせそ。一段よし。いかにもつゝみて、他言かまひてすべらず」といひて、其の後松永弾正・十河一存入道・三好修理大夫・岩成主悦助等をひそかに呼びていひけるは、「仁木右京亮、諸方のてきを手につけ、今里の城へうち入りて、此の入道を窺ふ上は、つゐにはそれがし、かれがためにうたれぬべし。さもあらば御辺達も命あるべしを覚へず。累年、公方のために命を捨てゝ、をの〱苦戦をつくして、其の恩賞には還って死をたまはらん事、誠に口惜き次第、これにすぎず。さ候へば、このせつ御所中いかにもしづまりて何のさはりもなきと聞き給へば、夜うちにをしよせ、一時にほろぼしまいらせて、年来の鬱憤をさんぜんと思ふなり。をの〱を始めとして、松永日向守・同じく主水頭・同じく主殿助、うってにのぼるべし。それがしは此の城に残りて、跡を堅固に守るべし。をの〱が居城にも、家老どもを残して、城中に有る勢をば、半分宛ぐしてのぼり給へ。道のほど西国大名の東国へくだる風情にいひなして。いかにも〱忍びやかにのぼるべし」とぞ申しける。
各、承って、「一同にのぼりなば、人もあやしみ、万民気づかふ事もありぬべし」とて五十・三十づつ、次第々々にのぼりけり。伏見・木幡・淀・竹田・美須・御牧あたりに宿をとりて、暮れかゝりて京へぞ入りにける。
『信長公記』では三好修理大夫、つまり三好長慶と松永久秀があくまでも主犯である。
【史料】
永禄七年七月廿四日、三好長慶病死す、今年冬の初めより公方家室町の御所を御造営あり、進藤山城守、松永主殿助を奉行人に定められ、作料の為にとて、摂州上下の郡へ棟別役を増しかけらる、家一軒に金二歩づゝを出すべき由、昼夜をいはず責めはたるに、乱後の大営課役なれば、畿内辺土の民家困窮して、諸人公儀の政道を恨みうとむ処に能き時節とや思召しけん、阿波の御所より、三好家の三人衆幷に松永を御頼あつて、御上洛の御企あり、長慶死後なれば三人衆、松永も心替し、当公方を背きまゐらせ、ひそかに謀反の企あり、
永禄八年五月十九日清水詣と披露して、人数を催し集めけり、その面々、三好日向守、同下野守、松永弾正少弼、同右衛門佐、岩成主悦助、松山安芸守、同新太郎等
――『総見記』
【史料】
同年ノ冬ノ初公方家来春より室町御所造営有ヘシトテ進藤某ト松永主殿助ヲ奉行人ニ被仰付其作料ノ為ニ摂州上下郡エ棟別役ヲ課ケ加ヘ家一軒ヨリ金弐分宛ヲ責取ラル
其外畿内国々エ課役有リ
乱後ノ大営ナレハ諸人貧窮ソ畿内ノ庶民等皆公方家ノ御政道ヲウトミササヤク
此等ヲ能キ幸ノ時節トシテ明レハ永禄八年先年逝去有シ堺冠者義維ノ御子阿波ノ御所義栄ヨリ御上洛ノ御事三好三人衆 同山城守 松永 篠原ヲ頗ニ頻ニ頼ミ思召由蜜々懇疑ヲ尽サレケル先年ヨリ毎度此事有ト云へ共長慶存生ノ中ハ無二ニ京都ノ公方家ヲ崇敬シテ阿波ノ御所ノ御味方申セレサル故サラニ御請無リケルカ今ハ長慶ハ死後也
家督ハ幼若也
三好家ノ一族執事輩皆我ママヲ挙動ケル程ニ何レモ頼マレ奉テ阿波御所ヲ取立参ラセ京都ノ公方家ヲ討奉ラン企ヲシ既ニ評議一決ス抑其比公方家ニハ御所ノ御作事大概ハ成就シテ御移徒有ケレ共未タ御門ノ扉ナントモ半造作ニテ不出来
御構ノ疎略ナルヲ好時節ト思慮セシメ永禄八年五月十九日三好日向守長縁入道釣閑 同下野守政康入道譲斎 岩成主悦助左通 松永弾正忠久秀 同右衛門佐久通 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ輩多勢ヲ催シ清水詣ト披露シテ人数ヲ集メ俄ニ起テ公方ノ御所二条室町武衛陣ノ御構エヒタヒタト押寄セ――『続応仁後記』
『陰徳太平記』では足利義栄の命で、三好義詰が実行したに過ぎない(ここまで突っ込みを入れなかったが、三好方で名前を正確に書かれるのは松永久秀くらいである)。なお、同時刻という違いはあるものの、足利義輝と最期を共にしたのが小侍従局と割と正確ではある。なお、書かなかったが松永久秀は出てこず、南都には上野信孝や長岡藤孝が一乗院覚慶の討ち手として派遣されたのをそのまま一行が反三好軍となったという経緯である。
【史料】
三好義詰(一本に継)は義栄(一本に親)朝臣に頼まれ奉る事の有りければ義輝卿を奉ち討るべきが為、永禄八年五月十九日の夜、室町の御所を取巻きて攻め動かす、御所の中よりも武臣多く討つて出で火水に成つて戦ひ、二三箇度迄敵を追ひ出したりけれ共、多勢の寄手に叶はずして、皆討死したりける間、義輝卿も終に御自害し給ひけり、行年卅歳、光源院道円融山大居士と號し奉る、御母公慶寿院殿、幷に御愛妾小侍従の御方も、共に御自殺あり、北の御方も既に刃を御身に加へらるべき所を、三好日向守奪ひ取つて、近衛殿ヘぞ進せける、若君をば乳母抱き奉りて、御花園の石井に身を投げたりけり、かくて御所には火を掛けゝる間さしもの金殿玉楼敷を悉して、一時に焦土と成るこそ浅ましけれ、
さて南都一乗院覚慶。北山鹿苑院周高の両門主は、共に公方の御連枝なれば、後の禍ひをや生ずべきとて、義詰、先づ平田和泉守に下知して北山ヘ遣しけり、平田鹿苑院に参りて方便て誘引出し申し、洛中夷河の町にて切奉りけるを、供奉に有りける亀助、太刀抜合せ平田を討ちて、主君の仇を即時に複したりけるが、是も又武士共に切られにけり、
――『陰徳太平記』
『南海通紀』では、最後にダメ押しと言わんばかりにあれは松永久秀のせいなのであって三好長慶は関係ないし三好家も悪くない的なくだりがある。
【史料】
永禄八年五月十九日松永弾正少弼カ籌策ヲ以テ公方義輝ヲ殺シ奉ル其所以ハ三好修理大夫長慶老衰ニ及テ嗣子筑前守義長卒去シ十河一存ノ男義詰ヲ養子トソ世務ヲ譲リ永禄三年ニ阿州飯盛山ノ城ヲ渡シ其身ハ摂州仲之島城ニ隠居ス
松永弾正義詰ノ執事トシテ天下ノ柄ヲ取ル
長慶ハ永禄六年ニ中之島ノ城ニ於テ卒ス然トモ天下乱世ヲ救ン為ニ其死ヲ隠テ世上ニ披露セス
弾正猶以自己ノ櫂ヲ専トシテ将軍家ヲ蔑如シ三好家ヲ軽ンス
公方コレヲ憤給ヒテ松永三好ヲ退ン事ヲ謀リ江州佐々木越前ノ朝倉安芸毛利等ニ松永追討ノ牒文ヲ遣サルル由ヲ風聞ス松永コレヲ聞テ三好日向守城岩成主悦助等ヲ呼テ潜カニ談シテ曰公方ノ謀ヲ廻シ給フ事聞給ツラン三好家ノ力ヲ以テ公方ヲ立天下ノ人ニ尊マレ給フ恩ヲ忘れレテ当家ヲ亡サントノ謀以ノ外ノ結構ナリ緩々トソ大事ニ及ハハ悔ルトモ益アルヘカラス速ニ撃テ根ヲ絶タハ諸国ノ兵将ノ拠トスル所アラスシテ当家ノ運長久ナラン是ヲ忽ニセハ我カ家ノ傾敗ヲ待ツノミ也此儀イカカ思ヒ給フソト云ケレハ皆ソノ意ニ同シテ陰謀ヲ廻シケル
公方ノ謀ハ外方二露見シテ内方ニ隠密ス何ソ其カクレ有ヘキヤ誠ニ愚ナル事也
即其罪我身ニ向ヒ来テ其適ヲ受給フ也然シテ松永弾正久秀三好日向入道釣閑 岩成主悦介 安富家人トモ五人三人宛上京シテ段々ニ兵ヲ増ヌ
公方ハ我ヨリ起シ給フ乱ナレトモ御内ニハ何ノ備モナク男女ササメキ渡テ遊興ソ催シ計也(中略)
阿州飯盛山城城主三好左京大夫義詰ハ此事ヲ不知シテ京都ニ事アリト聞キ何事トハ知ラネトモ先ツ兵ヲ揃テ三千人ヲ挙テカケ出シ宇治橋ニ到リケレハ松永弾正 三好日向守カ計トソ公方義輝公殺シ奉リタリト告来ル
是ニ因テ路次ヨリ班軍ス
此一挙松永弾正 三好日向守カ所為ニシテ三好家ニハ不知事也
殊ニ長慶ハ永禄六年卒シテ其後ノ事也
乱世ヲ救販ハン為ニ長慶ノ卒去ヲ密シテ世ニ露ハササル故ニ長慶ノ企也ト云説アレトモ左ニハ非ス
其上御所ノ兵士二百人ニ過ス執事方ノ兵士六千人ニ及ヘリ外州ノ兵士ヲ催スニ及ハス
殊ニ松永己カ櫂ヲ専トシテ佗ノ力ヲ籍ス三好左京大夫ニモ知ラセサル事ヲ以テ見ツベキ松永弾正ト三好氏族ト不快ノ事ハ是ヨリシテ起ルト也
是十河家ノ臣古老口ツカラ語伝所也――『南海通紀』
ちなみに、『義昭興廃記』では三好長慶の弟たちが生存している以外は、主犯が三好義継・松永久通と正確である。
また、『阿州将裔記』、『平島記』では三好長逸が主犯っぽい感じである。
なお、あの『太閤記』にすらこの事件は出てくる。
近世史料だと他にもこんな扱いである。
18世紀の『綿考輯録』になると、結局誰がやったことなのかどうかすらあやふやになっている(うまく再現できなかったが、でもこのころ実は長慶死んでたっぽいよ的な下りは本文ではなく注である)。
ついには江戸時代後期の諸本では以下のようにまで言われてしまった(なお、意外なことにあの『名将言行録』にはこの変の関係者は一切出てこない)。
そしてついに『常山紀談』で以下のように言われることとなる。
足利義輝の奮戦について
実際のところよくわからない。限りなくリアルタイムに近い『言継卿記』からは辰の刻から正午の2時間程度粘ったことしかわからないからだ。
一応、ルイス・フロイスらは前述のように記していたが、前日に足利義輝は脱出しようとしたがやめたと記した未だ検証できていないエピソードを書いたのは彼であり、本当かどうかは不明である。
ただし、軍記には以下のように記憶されていくこととなった。要点をかいつまんで言うと、足利義輝の最期については、大きく分けて、よく謂われる障子に圧迫されて槍で刺されたものと、義輝が自害したものの2通りとその他といったバリエーションに分かれていく。なお、あくまでも生き残った逸話がこれであり、『本朝通鑑』を見る限り、もっと他にも足利義輝の死因はいろいろ伝わっていたようだ。
なお、慶寿院のキャラクターや家族との会話などにかなりバリエーションがあり、辞世の句もあの和歌ではなく五言絶句になっているものなどもある。
一応今更だが、松永久秀の欄にほぼ書いてしまったものは省略する。
まず、『細川両家記』には戦いの姿は一切描かれていない。
【史料】
(前略)乙丑五月十九日に、二条武衛陣の御構へ人数押入御生害候上は、御内侍衆討死候成。御方様は近衛殿の御姫君成ければ、近衛殿へ三好日向送り被申由(に)候。又御寵愛小侍従殿は害被申候。御袋様慶寿院様は、此世にながらへてせんなしとて御自害の由候成。御内衆今度御供の人数の事、畠山九郎殿十四、大館岩千代殿十五、上野兵部少輔殿、細川宮内少輔殿、一色淡路守殿、上野(予)八郎殿、荒川治部少輔殿、一色又三郎殿、武田左兵衛殿尉殿、一色三郎殿、有馬源次郎殿、彦部雅楽頭、同孫四郎。摂津糸千代十三、沼田上野介、朝日新三郎、治部三郎、左衛門尉、福阿弥、結城主膳正、進士美作守、同主馬允、松阿弥、小林左京亮、松新三郎、西面孫三郎、金阿弥、竹阿弥、慶阿弥、大弐、杉原兵庫介は忍隠候を尋出以後生害の由に候。或討死或腹切る人も有。以上三十壹人の由に候。あはれさ無申計候計候由風聞候。
――『細川両家記』
それが、『足利季世記』になるとこうなる。
【史料】
カカリケル所ニ松永弾正 三好日向守 同下野守 石成主悦 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ族清水寺参詣ト披露シ勢ヲ集メ永禄八年五月十九日二条御所武衛陣ノ御構エ奉押寄偽テ公方様エ御訴訟アル由申上ケル
進士美作守晴舎ヲ以テ訴状ヲ捧テ條々御点ヲ申請ントス
其間ニ御所中ヘ人衆ヲ入レン為也
公方様ノ御母儀様慶寿院殿ハ御女儀タルニヨリ彼等カ訴訟叶エサセ給ハハ公方様御恙有へカラスト思食御点ヲ如何ニモ加ヘ給ヘト啼詢キ御異見アル謀ニカク申トハ露被思食サリケル御心ノ中コソアハレナレ
カクテ御使再任ニテ祗候退出ニ態ト時刻ヲ移シ三好方人衆御土居の四方ニ入渡リ一度ニトキヲ作リカケ即鉄砲ヲ打カケ殿中ニ乱入ル折御当番ノ外伺候ノ武士モナカリケレハ凶徒思ノ俄ニ責入ケリ御所方ニ一色淡路守 有馬源二郎 一色又三郎秋成 上野兵部少輔輝清 同予八郎 結城主膳正 高伊予守師宣 彦部雅楽頭時直弟孫四郎 高木右近 小林左京亮 河端左近大夫 畠山九郎十四歳 大館岩千代丸十五歳 一命ヲ捨切テ出レハ凶徒数十人被打容易ク攻入事ヲ得ス
其時進士美作守晴舎ハ只今カレラニ方便レ無念御使仕候事口惜ト申テ御前ニテ腹ヲ切ル
カクテ最後御盃ヲ被下皆々御前エ参リ酒ヲ給リケル
細川宮内少輔隆是ハ御前ニアリシ女房ノ小袖ヲ覆ヒ立テ舞カナテケル
最後ノ舞一入出来タリト御感アリカヤウニ少モ臆霊タル気色モナシ扨テ公方切テ出サセ給フ御供ニハ治部三郎左衛藤通弟 福阿弥 彌阿弥 輪阿弥 武田左衛門佐信景信豊二男 杉原兵庫助晴盛 朝日新三郎 摂津糸千代丸十三歳 谷田部民部丞 西川新左衛門尉 疋田弥四郎 松井進三郎 西面左馬允 金阿弥 心蔵主 荒川治部少輔 二宮弥三郎 寺司予二 細川宮内少輔 進士主馬允 飯田左吉 木村小四郎 松原小三郎 粟津甚三郎 同仙千代 台阿弥 松阿弥 竹阿弥 大弐
而モ不振切テ出四角八面突テ廻リ究見ノ敵二百余人切捨ケレトモ入替々々責ケレハ此人々一人モ不残打死シケレハ残ルハ女性ヤ幼稚ノ人々ナリ扨テ公方様御前に利劔ヲアマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ御勢ニ恐怖シテ近付申ス者ナシ
御太刀ヲ拋テ諸卒ニトラサシムル体ニテ重
而御手ニカカル敵数輩也サスカ武将ノ御器量コソ勇々シケレト奉誉声タウタウタリ
然ルニ三好方池田丹後守カ子コサカシキヤカラニテ戸ノ脇ニカクレテ御足ヲナキテケレハコロヒ給フ上ニ障子ヲ倒カケ奉リ上ヨリ鑓ニテ突奉ル其時奥ヨリ火ヲカケモヘ出ケレハ御首ヲハ不給
卅歳ト聞エシ御供ノ輩卅一人打死也不思議ナリ公方奉打シ池田カ子障子ヲ上ニ奉掩トテ眼ヲ突キ其ヨリ目イタミテ終ニ亡目ニ成リ座頭ト成リテ三好検校トテ京ニ居ケルヲ諸人ニクミケルト聞エシ
扨テモ公方の御母儀慶寿院殿モ火ノ中エ飛入失セ給フ
公方ノ御寵愛アリシ小侍従殿ト申女性ヲハ害シ奉ル
公方ノ御方所ハ近衛殿ノ御息女ナレハ三好日向守哀レミ奉リ近衛殿エ奉送ケリ
杉原兵庫助晴盛ハ文庫ノ中ニ忍ケルヲ引出テ打テケリ御弟鹿苑寺殿(周暠)ヲハタハカリ奉打
御供ノ三人トモニ自害シケリ――『足利季世記』
かなり描写がマシマシになっており、足利義輝の近臣たちの動向や、最後に刀を次々と交換して切りかかっていたところ、陰から足を斬られて倒されて障子で覆われ槍で突かれたあの話が出てきている。
なお、足利義輝を切り倒した池田丹後守の息子にも罰が当たっている。
なお、よく見ると、ルイス・フロイスによれば一緒に襲撃されたはずの周暠が別の場所で殺される場面が増えている。
『信長公記』ではこんな感じである。
簡素だが、周暠が殺される場面がその下手人と敵討ちに踏み込まれ始めた。
【史料】
永禄八年五月十九日清水詣と披露して、人数を催し集めけり、その面々、三好日向守、同下野守、松永弾正少弼、同右衛門佐、岩成主悦助、松山安芸守、同新太郎等、多勢を率して二条の御所武衛陣の御構に押寄せ〱取巻きけるが、先づ偽つて公方家へ御訴訟ある由申上ぐる、進士美作守晴舎を以て訴状を捧げ奉る、是は其間に御所中へ人数を入れんとの謀りなり、
扨其時刻ふる間に三好の者共土居の四方に入り渡り、一手の輩一様に竹の葉を印にさし、一度に鬨を作りかけて鉄砲を打ちかけ、殿中に乱れ入る、折節当番の外、殿中伺候の武士なければ、凶徒思ひのまゝに攻め入りけり、御所方の当番衆一色淡路守、有馬源次郎、一色又三郎秋成、上野兵部少輔輝清、同与八郎、結城主膳正、高伊予守師宣、彦部雅楽頭晴直 弟の孫四郎、高木右近大夫、小林左京亮、河端左近大夫、畠山九郎十四歳、大館岩千代丸十五歳、此者ども切つて出で、合戦数刻に及び畢んぬ、進士美作守は、唯今敵にたばかられ無念の御使仕り候ふ事口惜しき由申上げて、御前にて腹切り死失せけり、
公方義輝公は武勇の大将にて、御自身、切つて出でさせ給ふ、御供の人々には、治部三郎左衛門藤通、其弟福阿弥、輪阿弥、武田左衛門佐信景、杉原兵庫助晴盛、朝日新三郎、摂津糸千代丸十三歳、谷田民部丞、西河新右衛門尉、疋田弥四郎、松井新三郎、西尾左馬允、金阿弥、心蔵主、荒川治部少輔、二宮弥三郎、寺司与次郎、細川宮内少輔、進士主馬允、飯田左吉、木村小四郎、松原小三郎、粟津甚三郎、同仙千代、台阿弥、松阿弥、竹阿弥、大弐、沼田上野介等、一同に突いて出で、敵を四方へ追散して、各討死せしめけり、義輝公御最後と思召し、御辞世を書き置き給ふ
扨も公方は名剣を抜持ち給ひ、度々切つて出で給ふを、三好方の池田丹後守が子こざかしき男にて、戸の脇に隠れ居て御足を薙ぎ奉りければ、ころび給ふところを、障子を倒し掛け奉つて上より鑓にて突伏する、其時奥より火を放つて燃え立ちければ、御頸をば取り得ざりけり、御年三十歳、御供討死の者、三十一人とぞ聞えける、
御母公慶寿院殿は近衛殿下稙家公の御息女なるが火の中へ忽ち飛入り、終に失せさせ給びけり、御台所をば、日向守がはからひにて近衛殿へ送り入れ奉る、杉原兵庫助晴盛は文庫の中に忍び居けるを、引出して討ちてけり、
扨義輝公御舎弟二人の内、一人は周暠喝食とて、北山の鹿苑寺にまし〱けるを、たばかりて討ち奉る、
――『総見記』
『信長公記』が元ネタといいつつも描写はほとんど『足利季世記』にならっており、周暠が殺される場面も簡素である(よく見ると周暠の敵討ちをしたはずの木村小四郎が足利義輝らとともに討死している)。
ついでに『永禄記』ではこのようになる。
【史料】
一大事と存之処に御館四方に深溝、高壘、長関、堅固の御造作たり。然といへども、未御門扉已下不首尾之已前を急いで、御所巻に及ぶべき事、彼一類調談を極め、永禄八年五月十九日清水参詣と号し、早朝より人数を寄せ、其時に当て公方様へ訴訟有よし申触て、三好訴状を捧て、條々御点を申請る。其間に御構へ人数を入者也。御母慶寿院殿御女義たるによりて、訴訟叶へ給ふにおゐては、公方様御恙有べからずと思召て、御点は如何様にも加へ給ふべきよし啼くどき御意見様々御申。さりともとの御心中の程察し奉りて、見る人聞くもの、袖を温す計なり。是非の御史の伺公退出に時刻を移し、御土居四方に入渡て、即鉄砲を放、殿中に入らんとす。
則御ぎ戦ひ手を砕く諸侯数百人たり。中にも進士美作守は唯今の御使斉。色々方便を廻せし事を不覚也と憤て自害せしむ。御同朋福阿弥は鎌鑓にて相戦。則此鑓にかかれるもの数十人、御前は御最後の御盃を被下。細川宮内少輔は御前にさぶらはるる女中衆御衣を覆てたち舞体、優にしてをくれたる色なし。
さて御所様は御前に利劔をたてをかれ、度々取替て切崩せ給ふ御勢に恐怖し、半は向ひ奉るものなし。しからば御太刀を拋て、諸卒にとらさしむる体にて、重て御手にかかるもの数輩也。近衆心ざし有ほどの族は御先にて悉討死す。残れるは女房衆幼稚の類迄なり。御一所と成つて、幾千万の軍兵に戦せ給ふ哀、項羽十万騎兵、僅に廿八騎に討漏されて、漢陣百万余騎を掛破て、大将三人の首取て鋒に貫し類とも可申候。
鹿苑寺殿へは平田和泉といふ者さし向。同刻御生害、御供衆悉逝去といへ共、其中に日来御目をかけられし美濃屋小四郎若年たりしが、即座に平田を討てけり
――『永禄記』
『足利季世記』等のダイジェスト版に文学表現マシマシになっている。
『後太平記』ではこうなる
【史料】
永禄八年五月十九日東山佛詣且遊興と事寄せて兵ども呼集其勢三千餘騎夜深辻々を固させ其後三好日向守 同下野守 松永弾正少弼 同右衛門佐 岩成主悦助 松山新入松謙斎 御所の三方を打囲東門鬨を噇と作ば西北是を請謀合冥々たる暁天一時凱歌を挙たりければ洛中徹発してすわ金翅鳥動が百千の雷電が世界の壊滅此時かと肝を動かし膽を冷て驚愕す御所中には斯る企ありとは夢幻にも不思夜寝臥未醒熟眠す
高門の守護人走り入て敵已寄せぬ呼しかば宿直の面々驚目を擦々起立敵と云か不審や畿内此比謐り四夷は君恨なし唐土南蠻の蒙古が攻寄たるが内無勢なればこはそも大事ぞと周章騒ぎ太刀争鑓を論じ具足を着れども甲を不着弓を取て矢を忘魂魄悶乱して心不穏手に取り足に踏所迄悉く其気に不順
去程三好が兵共鬨作や否壁上擡手無風に攻入んとぞ進ける敵を御所内に入立てば甲斐あらじ防げ人々と将軍自再拝取て大庭出させ給へば心得たりと訇て先一番出る人々には畠山九郎 大館岩松 一色淡路守 結城主膳正 彦部雅楽頭 同孫四郎 沼田上野介 同与八郎 高木右近大夫 一色又三郎 河端左近大夫 牧島孫三郎 京極兵部少輔 小森左京亮 彼等を宗徒勇士とし正兵突気二百餘騎大庭討出爰を専度と防ぎ戦ひ大門を込出し込入られつ七度迄こそまくりける
去れ共多勢に無勢勞て引て入二番 杉原兵庫頭 武田左兵衛佐 朝日新三郎 谷口民部丞 治部新三郎左衛門尉 同弟福阿弥 輪阿弥 臨済心蔵主 同朋金阿弥 西河新右衛門尉 疋田弥四郎 松井新次郎 坂田孫次郎 西面左馬允 宗徒勇士八十餘騎鑓先を揃弓筈を並散々射たりけり大勢の込たる中なればあだ矢は一筋もなく門外に横はる屍は一時の山築石階崩すに不異
去れども敵は大勢荒手を入替々々喚き呼て攻寄たり三番 細川宮内少輔 荒川治部少輔 二宮弥次郎 上野兵部少輔 寺司与三郎 飯田左橘兵衛尉 木村小四郎 粟津甚三郎 同仙千代 松原小三郎 同朋松阿弥 慶阿弥 台阿弥 竹阿弥 今を最後と進出鑓先より火焔を出防戦へば三好が兵も玉箭に当て死し痛手負者庭下に算を如蒔
去ども屍を飛越へ乗越へ垣壁に攀上後日天罰をも不恐我先と功名を争揉破んと込入ば御方も今は戦勞或は討れ或は痛手を負て不進得
去程太樹は敵はや御所に攻入りぬと聞給ひ今は叶はじ自最後の合戦し悪逆無道の奴原矢一筋射付命の中怨を報じ鬱憤の霧を晴し冥途黄泉の底迄も少し恨謝んと長刀をつ取伸已出させ給けるを母儀慶寿院殿御袖取付給暫し待たせ給へ御方千騎百騎一騎討迄も大将軍は其場在て士卒の成果をも見届申者とかや日比人の申せしを聞つるぞ亦御内外様の武士共も敵通路を支られ御所へ入事不叶して三本松に勢揃して扣へたりと聞へしかば軈て馳参るべしと泪咽諫給へ共太樹今は極運時を待計なれば辞するに不遑大庭討出給什貯へ置給ひし金銀珍宝重器を敵の中投入給へば欲に溺る兵共是を奪取らんと塀を越勝盖をかなぐり呼々で押込ける思儘敵を引請給
長刀取伸塀に掛りし奴原をば胴切はらりと切瓜切づぶと切り給へば数多の凶徒屍を外横へ首は壁裏零つ御跡継く兵には細川宮内少輔 杉原兵庫頭 朝日新三郎 谷口民部丞死を一塲に極右点左点変化自在に戦しかば究竟の敵百餘騎唯片時の刃掛させ給ける是ぞ項羽烏江の軍自鉾を携へ敵当る競も角やと思はれて勇々しかりし形勢也
角て御方を顧給に僅六七騎には過ざりけり今は此よと亦殿中掛入玉最後時移なば雑人原の手懸り末世人口嘲如何早疾と宜へば同朋金阿弥承て御殿に火を放つ其間心静に御腹めされ火裏飛炎滅の烟と共御歳廿九歳にして消させ給哀と云も愚也
慶寿院殿同御殿入せ給しを女姓殿原取付こは如何成御事ぞや斯る例は世になきにてい候はず一先南都の方へも忍せ給候と取々諫申せ共兎角思切給て朝日待間の露の身を何存命て益やあり迚も遁れぬ道の末四手山三津川迄も手と手を取て同し蓮台あらばやと御死骸抱き付共に烟と成せ給ぞ哀さよ
其外上臈端下至迄炎の中身を焦す聞にを哀を被促見に涙痕不止呼々天下の主将として仁義暗昧の代を保斯る無墓御消息哀なりし事共也御代を継せ給て十六年の夢の中も電光の影移る間よりも早し忽金殿楼閣玉粧金鋪の台も一時の烟とぞ成にける
――『後太平記』
よく見なくても足利義輝の最後が全く異なっている。なお、慶寿院の描写がだいぶ多い気がする。
『続応仁後記』ではさらにこうなる。
【史料】
御構ノ疎略ナルヲ好時節ト思慮セシメ永禄八年五月十九日三好日向守長逸入道釣閑 同下野守政康入道譲斎 岩成主悦助左通 松永弾正忠久秀 同右衛門佐久通 松山安芸守 同新太郎等一味同心ノ輩多勢ヲ催シ清水詣ト披露シテ人数ヲ集メ俄ニ起テ公方ノ御所二条室町武衛陣ノ御構エヒタヒタト押寄セ先ツ偽テ公方家エ御訴訟有ル由申シ入レ進士美作守晴舎ヲ取次ニ頼ンテ一通ノ書状ヲ差上ル
是ハ其隙ニ御所ヲ囲ミ人数ヲ賦テ乱レ入ントノ謀也抑一族多勢ヲ徒党シ御所ヲ囲テ讒訴ノ例昔日貞和ニハ高武州師直多勢ヲ将テ等持院殿近衛東洞院御所ヲ囲ミテ上杉畠山等ノ讒臣ヲ申シ請又去ル文正ニハ山名入道宗全一家ヲ尽シ大軍ニテ慈照院殿ノ花ノ御所ヲ取巻テ斯波ノ家督ヲ回復シス其例有ル事ナレハ今度モ一先ツ三好家ノ申処御承引マシマシ騒動ヲ御鎮メ可然思召由御母公慶寿院殿ヨリ公方家エ御異見有リ
是ハ女中故カカル野心ノ企共思召ヨラサリケル御心ノ中哀也角テ御使再往ニ及ヒ参上退出ニ態時刻ヲ移ラセテ寄手ノ人数等思フ
俄ニ御所ノ四方ニ入リ渡リ総軍皆一党ニ竹葉ヲ腰ニ差シ是ヲ寄手ノ相験ト多勢一同ニ鬨ヲ作テ攻駆ル
斯ニテ無紛レ寄手ハ謀反ト顕レケレハ御所中弥々騒立ツ折即当番ノ外御所中伺候ノ人無シテ凶徒思ノ儘ニ堀塀ヲ乗越乱レ入ル
当番ノ面々一色淡路守 同又三郎秋成 有馬源次郎 上野兵部少輔輝清 同予八郎 結城主膳正 高伊予守師宣 彦部雅楽頭晴直 同弟孫四郎 高木右近将監 小林左京亮 畠山九郎十四歳 大館岩千代十五歳 河端左近大夫以下一同ニ切テ出命ヲ不惜防戦フ
寄手の凶徒切立ラレテ数十人討レケレハ容易モ攻入難シ進士美作守晴舎ハ只今彼等ニタハカラレ訴状ノ御取次仕切リ口惜キ次第也我等若シ二心トヤ思召サン無念也ト言テ公方家ノ御前ニテ腹切死タリケリ
沼田上野介ト福阿弥ハ私ノ宿所ニ在ケルカ此乱ヲ聞テ駆着ケレハ敵ハヤ御所ヲ取囲ンテ其儘駆入事不叶
俄ニ竹葉ヲ腰ニ差シ敵人ノ真似ヲシ紛入テ御勢ニ加リ防キ戦フ寄手ハ多勢御所ハ無勢九牛ノ一毛対用スヘキ様無レハ公方家頓而思召切リ御最期ノ御酒宴有ヘシトテ宗徒ノ者共ヲ御前エ召サレ御盃ヲ下サレケルニ細川宮内少輔隆是ハ御前ニ侍ケル上臈女房ノ小袖ヲ取テ頭ニカフリツト起テ一差舞ヌ
公方家是ヲ御覧シテ最期ノ舞程有テ一入出来タリト御笑有ケル
加様ニ皆人ワルヒレタル色ナケレハ公方家御快御気色ニテ御硯ヲ取寄せラレ上臈女房袖上ニ御辞世ノ御詠ヲ書留給フ
其歌ニ云ク其ヨリ公方ハ名刀数多抜置レ取替取替切テ出サレ給ケルニ我劣シト御供シテ切テ出ル
而々細川宮内少輔隆是 治部三郎左衛門藤通 其弟福阿弥 輪阿弥 武田左衛門佐信景 杉原兵庫助晴盛 沼田上野介 朝日新三郎 摂津糸千代丸十三歳 谷田民部丞 西河新右衛門 疋田弥四郎 松井新三郎 西面左馬允 同金阿弥 心臓主 荒川治部少輔 二宮弥三郎 寺司予次郎 進士主馬允 飯田左吉 木村小四郎 松原小三郎 粟津甚三郎 同仙千代 台阿弥 松阿弥 武阿弥 大弐等公方ノ御前ニ我モ我モト立塞テ究見ノ敵二百余人討取テ一人モ不残討死セシム公方ノ御手ニ掛給テ切伏給者幾等ト云フ和シラネハ敵徒皆懼レテ近着モノモ無シ所ニ敵方ノ池田丹後守カ子池田ノ某コザカシキ男ニテ密ニ忍ヒ寄テ戸ヒラノ陰ヨリフト立出鑓ヲ以テ公方家ノ御足ヲ薙払ヘハ其ママ公方家ウツ伏ニコロハセ給ケルヲ多勢寄合テ上ヨリ障子ヲ倒シ掛ケ奉リ終ニ敢モ鑓ニテ突伏セ奉ル
此時奥ヨリ放タル猛火一同ニ燃掛リケル程ニ御頸ヲハ給ハラス
御歳三十歳哀レト申スモ恐レ有リ同キ場所ニテ御供ノ討死ノ士三十一人トソ聞ヘシ
慶寿院殿ハ尼公ノ御身ナカラ只一筋ニ思召切リ焔々タル猛火ノ中エ飛入ラセ給ツツ即失サセ給ケリ
公方ノ御台所ハ当近衛殿ノ御息女ナルヲ日向守長縁カ計ヒニテ近衛殿エ人ヲ附ケテ送リ入レ奉ル
公方御寵愛有シ小侍従殿ト申セシ局ハ雑兵等情無クモ討殺シ捨タリケリ角テ御所ヲハ焼払テ寄手各々帰陣シケルカ末世ト云ヘ共不思議也シハ公方家ヲ撃奉リシ池田ノ某シ其時倒シ掛ケ奉リシ障子ノ骨ニテ目ヲ突テ其レヨリ目痛ミ両眼盲ニ身ヲ立ヘキ様モ無ク三好家ノ助力ヲ得テ座頭ト成リ京都ニ住シ三好検校ト云ケルカ然モ長生シテアレコソ公方ヲ伐奉リシ悪人也ト世上ノ人ニアサメラレシヲ近キ此ノ人迄モ皆能覚ヘテ語リ伝ヘヌ
扨公方家ノ御舎弟御両人マシマシケルカ先年ヨリ何レモ御出家ナルヘシトテ一人ハ覚慶得業ト御名リ一乗院ノ門跡ニ立定マラセ給フ
当時和州南都ニ住セマシマシケレハ今日ノ乱ニ不合給今一人ハ未タ御童形ニテ周暠喝食ト申シ奉リ北山鹿苑院ニ入ラセマシマシケルヲ今日是ヲモ撃奉リレトテ三好方ヨリ平田和泉守ト云者ヲ北山エ討手ニ差遣わス
平田先ツタハカリ奉テ鹿苑院エ入リ御喝食エ申シ上ルハ三好家ノ者其公方家エ恨ヲ合テ撃奉リ候ヘ共当御所ヲ御家督ニ立奉ラントテ其ヲ御迎ニ参ラセ候疾々御出京候様ニト申上ル
御喝食モ二心トハ知シ召レサリケルカ平田ヲ御供ニテ疎忽ニ京都エ出サセ給フニ其路次ノ夷川ヲ渡ラセ給フ時平田忽太刀ヲ抜キ情無クモ御後ヨリ終ニ周暠喝食ヲ伐奉テ御頸ヲ揚タリ
近仕ノ者共驚テ恐散タル所ニ京都小川通リノ商人ノ子ニ美濃屋小四郎トテ生年十六歳ノ美少年常に御寵愛有テ此時モ御喝食ノ御供シケルカ是ヲ見テ刀ヲ抜切テ駆リケル程ニ終ニ平田和泉守ハ此小四郎ニ切殺サレ小四郎忽ニ亡君ノ仇ヲ報シケリ
其此ノ落首ニ――『続応仁後記』
『続応仁後記』ではさらにシーンが詳細になり、進士晴舎の切腹と細川隆是の舞の間に沼田上野介と福阿弥が外から駆け付ける場面が挿入され、細川隆是の舞は全員で見ておりあの辞世の句も出てきている(なお、カッコウではなく当時はほぼホトトギスが読みなので現在知られるものと変わらない)。
辞世の句に関して『釋義俊光源院贈左府追善和歌序』にはこうある。
【史料】
さいつ頃三好松永といひて世にむくつけきものゝ侍り。いにし卯月のすゑつかた。大和河内よりのぼりつどひぬ。細川右京大夫といひしは譜代の主従者のあいだにて侍るを。そむきはてゝよりこのかた。及なき雲のうへまで聞えあげ。征夷大将軍の御紋をも心に残る事なく成のぼり侍りて。みてるをかくとやいふばからん。過つる五月の十九日辰の刻ばかりに何の故ともなく御かまへの内に押入ぬ。
御はらからの鹿苑寺殿へ平田和泉守と申すものを御むかへに参らせて。北山より御出京の道のほどにてまづ討奉りぬるを。御供にさぶらひける人年の程十三四の小童の有つるが。たち所にて彼平田を討とりぬ。ちかき世に稀なるはたらきとぞ申ける。
そのまゝ殿中おまし所へ乱れ入ぬれば。母公慶寿院殿もながらへても何かせん。光源院殿とおなじ道にとおぼしさだめけり。御先にすゝみ出て討死するものあり。又腹十文字にきるものもあり。当番の外は厳しく警固をすへて一人も入ざりしに。こゝに沼田上野介と福阿弥といふ者あり。敵の相じるしを見とがめ。竹の葉をこしにさして。そとより内へはしり入。日来早道の御馬を自愛ありけるは。かやうの時の御用ぞや。我々をはじめ先がけして軍は花をちらすべし。具足はきるもきぬ人も。砌にしげる夏草の。友草ずりにみがくれて。我も〱とうち出ば。しばしのひまに御馬をひがし河原にかけいだされば。御当家さらにあひはつまじと。涙をながし福阿弥が度々いさめ申上れば。尤神妙の気づかひかなと仰もあへず。
をの〱が討死したらん其跡に。残らせ給ふ事あらじとおぼし定め給ひつゝいどみたゝかひ給へるが。ちから及び給はねば。御腹をめされ侍りぬるきはに。
と。御自筆にて残されける。
『室町殿日記(室町殿物語)』ではこうなる(ここだけでもかなり長いので、周暠と平田和泉、木村小四郎の下りは割愛)。
【史料】
五月十九日の夜半ばかりに押し寄せけるが、兼ねて評議しければ、ひそかに御所をひし〱とぞ取り巻きけり。先づひがしの手は、三好修理大夫は四百五十にて、三本木東洞院に本陣を立つる。南は烏丸春日おもて、松永弾正少弼久秀、室町は大門大手口、十河一存五百にて押し寄する。西大路は三好笑岸斎三百五十、腹帯の地蔵堂をうしろにあてゝ陣どりけり。北は室町勘解由小路・烏丸桜馬場、是は岩成主悦助六百にて押しよせけり。御所中には、旧臣・武功の人々は、方々の宿所に帰りて一人もなかりけり。外様のさぶらひ、さては小姓衆・同朋ばかりにて、何の用心もなくしづまりかへって見えけるに、四方よりも鯨波をどっとあげにける。
此のこゑに御所中驚きて、うへもしたも一同におきあへりけり。されども表の番所にありあふ人々、矢倉にあがりておもてを見けるに、たいまつを万燈のごとくにたてゝ、ほり際近くつめよせ、我も〱と堀につかんととび入りける。
義輝公すこしもさはぎ給はず、「夜討は何ものなるぞ。さだめて長慶入道にてあるらむ。誰か有る。敵のやうを見て帰れ」と仰せられければ、沼田上総介うけ給はって、大手の門矢倉にはせあがって、大音あげていふやう、「こよひの夜うちは何者なるぞ。なのれ、さかん」とよばはりければ、十河一存進み出でて、「三好長慶入道、年来の遺恨をさんぜんために、罷り向って候ぞや」とぞ申しける。沼田帰って御前に参り、「大手の門へ、雲霞のごとく詰めよせ候。人々出で合ひてふせぎ給へ」といひすてゝ、をのがふしどに入りて、よろひを取り出し、さる間こそ遅かりけり、甲の緒をしめ、二人ばりの弓持ちて走り出づる。敵、いやがうへと詰め寄せて、門を打ち破り、我さきにと乱れ入る。畠山・一色・杉原・脇屋・大脇・加持・岡部などの小姓がた、さては同朋十五六人には過ぎざりけり。我も〱とよろひなげかけ、甲をきるも有り、はちまきをしけるも有り、思ひ〱に六具をしめて、東西南北に切って出で、よせ来る敵をおふつまくっつ責め戦ふ。
かゝる内に、義輝公、重代の御させなが、鍬形うったる五枚甲の緒をしめさせ給ひて、重藤の弓に廿四さいたるゑびらを付けさせたまひ、玄関に出でたまひ、さしとり引き詰めさん〲に射たまへば、死生はしらず、毛よき武者七八人、矢を負ふてぞふしたりける。御所中の人数上下二百ばかり成りけるが、四方へうちまはり防ぎければ、いづくに人有りとも見へざりけり。寄手、あら手を入れ替へ、息もつかず攻めいりければ、御所方の人々、あるひは討死、あるひは痛手・薄手をかうぶりて、めん〱にじがいしうせにけり。公方御覧じて、常阿弥・円阿弥・一色などをめして「今はゝや自害すべし。重代の宝物などをちろいだして、火を付けよ。さては母公・きたの御方・わか君などを自害すゝむべし」と仰せ出されければ、をの〱涙にむせんで御返事もさだかならず。
されども、敵四方より殿中へ乱れ入れば、いかに思ふとも甲斐あらじと、慶寿院に参りて、かくと申せば、「兼ねて心得たり。我が身はとし老ひぬれば命をしからず。公方・北の方、思ひもよらぬ死をし給はん事こそ、かなしけれ」と仰せられて、しばらく御泪にむせび給ふ。そのゝち西にむかはせ給ひて、仏の御名をやゝしばらく唱へさせ給ひて、守りがたなを御むねに突き貫き、うつぶしにさせ給ふ。北の御かたも、はや御用意したまひけるにや、白きすゞしをめしかへさせ給ひて、常にねがはせ給ふ釈迦牟尼仏を、ねんごろに拝み給ひて、其の後、念仏十ぺんばかりとなへ給ひて、守り刀を心もとに押し込み、「南無」とばかりを最期にて、うつぶしにふし給ひ、あしたの露とぞ消へ給ふ。あわれといふもあまりあり。御乳母是を見て、「涼しくも見せさせ給ふものかな。我らもかやうに御供申し度く候へども、ねをびれたまふ若君をみれば、目もくれ、こゝろも消えて、よみぢのさはりと成りやせん」と、かきいだき奉りて、前後ふかくに見えけるが、はや殿中に火かゝりて、猛火さかんなれば、ちからなくはしり出でて、東おもての花園にかけ入りて、岩井の中へ、わか君いだきて入りにけり。むざん成りとも、なか〱申すもおろか成りけり。小宰相・小侍従・にしむき・春日の局・うなみのつぼね・丹波の上らう女房三十二人、中居・はしたにいたるまで、八十ばかりの女ぼう達、ほのほのうちに飛び入りて、ひとりも残らずうせにけり。
角て時刻もうつりければ、敵方々の御殿に乱れ入りて、おめきさけびて、手にあたる御宝ども、ほのほの中より奪ひとってぞ出でにける。人々是をにくしと、さし取り引き詰め、さん〲に射る程に、矢場に十四五人ふしまろびてをめきける。
さるほどに義輝公、人々のいまはゝや御自害ときこしめし、「さては心やすし」とて、御きせながをぬがせ給ひて、西に向はせたまひ、御硯をよせられ、御辞世をぞあそばしける。
刀を抛って諸有を空す。
又何ぞ鋒鋩を説かん。
転身の路を知らんと要せば、
火裏清涼を得。筆を捨てゝ、御腹十文字に切り給ひて、永禄八年五月十九天の、あしたの露とぞきえさせ給ふ、御くわほうのほどこそかなしけれ。
君すでに御自害おはしませば、日ごろ御なさけ蒙りし小姓中、又は譜代の同朋中、患ひ〱に自害しけり。殿々に火付き、楼閣一時にもえあがりければ、洛中にかくれなく、上下京に有りける旧臣、いづれも驚き、手あやまちと思ひて、すはだに道具も持たせず、四方よりかけ付けけれども、義長がむほんと聞きてければ、むかふべきやうもなく、御所の近辺には、馬・人・手負・死人ども引きいだして、爰かしこにさんをみだして見えにける。ちからなく、をの〱宿へぞ帰りにける。去る程に、夜すでにあけゝれば、在家に諸勢をしこみて、米穀をうばひとり、馬・人こそはたすかりける。
ちなみに『南海通紀』も参照してみよう。
【史料】
五月十九日ノ夜中ニ俄ニ大軍四方ヨリ取囲ミトキヲ作ル
義輝公少モサワキ給ハスソ敵ハ何者ソ問ヘト被仰ケレハ沼田上総介承リ門楼ニ上リ今夜ノ夜討ハ何者ソ名ノレ聞ント云
武者一騎ススミ出テ曰ク君ノ御陰謀顕レテ三好殿ノ代官トシテ松永弾正久秀馳向テ候四方八面大軍ノ囲ヲ受給ヘハ洩ル所更ニナシ疾々御腹召サルヘキ也ト云沼田御前ヘ参リ三好松永カ謀反ニテ候ナル御自害ヲ急給フヘシト申ス
義輝公聞シメシテ察タリ彼原ニ一矢射ントテ日来御嗜ノ事ナレハ弓トリ合セサシ詰メ引詰射給ヘハ矢ニハニ十余人射殺シ又太刀ヲ捕テ十余人伐伏セ給ヒテ扨ハ快シ是マテ也トテ引入給フ御所中ニアリ合フ人々ハ沼田色畠山当番ノ士十余人児扈従同胴十五人凡名字ノ士五十人ニハ過サリケル
敵ハ松永三千余人 芥川城主三好日向守六百人 淀ノ城主岩成主悦助五百人 京中ノ奉行人或ハ五十人或ハ百人ツレテ事ノ子細ハ知ラネトモ皆松永方ニ馳来テ御所ノ四方尺地モ残サス囲ミケル御所ニハ亀井能登守今日ノ大将軍ヲ賜テ兵士を下知シトモニ長刀ヲ持テ込入ル敵ヲ払出ス
松永カ千峰ニ槍中村ト云フ者一番高名シテ僕従ニ渡シ槍ヲ取テ渡リ合互ニ挑戦シカ中村勝テ能登守ヲ討ツ
御所中ノ兵士身命ヲ捨テ戦ヒ生ヲ遁レントスル者ハ一人モナシ義輝公今ハ是マテト思シ召シ御母公御台所ト当阿弥円阿弥ヲ以テ御自害ヲススメ将軍家ノ宝物ヲ焼テ御年三十ニソ自殺シ給フ
尊氏公ヨリ十三代義輝公ニ至リテ断絶ス――『南海通紀』
『南海通紀』に至っては完全に原型が無くなり、『足利季世記』などで描かれた場面は何もない。
『朝倉始末記』では朝倉義景本人がかかわっているわけではないので、あっさり目である。
【史料】
爰ニ松永弾正ト云者アリ本ハ名モナキ者ナリシカ三好ニ随逐□イツトナク勢ヲ得遂ニ大和山城ノ守護職トナリ奈良ノ多門山ヲ城郭ニ構テ南都京都ノ成敗ヲ司リケルカ修理大夫モ老衰シ子息筑前守義長モ早世シケル程ニ十河氏ノ子ヲ取立テ三好ニナシ左京大夫義継ト号シツヽ松永洛中ヲ恣ニ進退マサヽリシニ潜カニ三好ヲ勤メツヽ左京大夫義継幷ニ松永カ嫡子右衛門佐久通両大将トシテ一万兵ヲ引率シ永禄八年五月十九日清水詣ニ事寄セテマタ夜ノ深キニ何トハ不知洛陽東山ノ御所ニソ推寄ケル
其頃ハ畿内暫無為ニシテ御用心モ可有折ナラ子ハ当番ノ外伺公ノ武士無リケル程ニ凶徒思フ図ニ攻入テ義輝公不慮ニ御生害サレケリ北山ニマシ〱ケル鹿苑院殿ヘモ平田和泉ト云者ヲ指越方便ツヽ遂ニ恵比須川ニテ撃奉ケリ
――『朝倉始末記』
『太閤記』では豊臣秀吉には全くかかわりがないので、あっさり目である。ただし、もしかしたら刊本の編纂過程の誤りかもしれないが、池田丹後守の息子ではなく、伝言ゲームを続けるうちに池田丹後守本人になっている。これがおそらく戦後出たムック本にコピペされまくることとなった。
【史料】
永禄七年三好長慶病死、同八年松永久秀三老臣と計を定め、将軍義輝公清水寺に詣で給ふに、路次の警固なりと偽り、帷子の上に具足を着し、兵卒を集むる事三千餘人、卒に二条室町の御所に押し寄せ、鯨波を作つて攻め入るける。
将軍家の近士上野・一色・馬木・彦部・有馬・小林・大館・富山が輩、手痛く防ぎ戦ふといへども、元来不意の事なれば、甲冑の着たる者なく、三好・松永が多勢に取込められ、討死する者三十一人、義輝公も今は是れまでなりと思召しければ、辞世と思しくて、「五月雨か露か涙か時鳥我が名をあげよ雲の上まで」斯くなん詠じ捨て給ひて、御剱を抜き持ち駆け出で給ひ、鎧武者三騎切り倒し、多勢を目懸け進み給ふを、三好が郎党池田丹後妻戸の蔭に隠れ居て、御足薙ぎて打倒し、障子を以て押臥せ奉り、上より槍にて突き通す。
此時御殿の内火燃え出て、黒烟御所中に満ちて、御首を取り得ずして退きける。義輝公御年三十歳、嗚呼此日は如何なる日ぞや、足利家十二代の逆心のために弑せられ、永く泉下の鬼となり給ふ、武運の末こそ悲しけれ。
――『太閤記』
『綿考輯録』では細川藤孝が直接かかわってるわけではないので、あっさり目である。
『本朝通鑑』だが、まず本文で義輝自害説を記している。しかしその後乱戦中池田丹後守の息子に切られて障子を覆われて殺された説(いつものやつ)、渡辺源蔵真綱が黒鎧の男を射殺したら足利義輝だった説、簀子の上から矢を射かけられ続けた説。等多数紹介している。なお、長いので省略したが、美濃屋小四郎とは別に木村小四郎がさらっと登場している。
【史料】
久秀等兵於外。構有訴望之事。而入営門。以進士晴舎。捧状白之。其間。久秀出招諸軍。諸軍囲幕府。揚げ言曰。聞幕府欲滅三好族及久秀。未知我輩有何罪哉。言未畢発大放砲。義輝母慶寿院泣曰。大変俄生。将軍幸免則足矣。雖何等之訴宜任彼心。
時宿直之士不多。然一色淡路守。有馬源次郎。一色又三郎秋成。上野兵部少輔輝清。上野与八郎。結城主膳正。高伊予守師宣。彦部雅楽頭晴直。其弟孫四郎。高木右近。小林左京亮。河端左近大夫。畠山九郎。十四歳。大館岩千世丸。十五歳。等暫拒雖却敵。敵多競来。一色。有馬等十余輩皆戦死。衆議奉義輝欲逃去。然賊党囲厳不能脱。進士晴舎曰。我等老族被欺。早鎖営門至此。乃自殺。
残士白義輝曰。賊勢甚逼願賜一盃。死於義。義輝威之各勤酒。細川隆是被女衣起舞。義輝壮之在洛諸士聞幕府有変。各会三本木。謀救之。或曰。賊徒甚多。救之無益。不如立新主催兵。以再義兵。或曰。不計多寡。往而戦死。衆口不浅。唯治部三郎藤通。其弟福阿弥馳到府門曰。人各有主。我兄弟欲死義。幸許入門。賊等威之。解囲而納之。義輝憐其志欲脱之謂治部曰。汝往呼三本木兵来。治部曰。事急。臣不雖御座。有簾工小次郎者。雖不為士人。常蒙義輝懇遇。聞雖趨来戦士。既而賊兵群進。
義輝自乗馬。把長刀出。武田左兵衛佐信景。杉原兵庫晴盛。朝日新三郎。摂津糸丸。十六歳。谷口民部。。細川右衛門尉。疋田弥四郎。松井新次郎。西面左馬助。治部三郎。福阿弥。輪阿弥。全阿弥。儈心臓主従之。荒川治部少輔晴宣。二宮弥次郎。寺司与三郎。飯田左吉。木村小四郎。杉原小三郎。粟津甚三郎。粟津仙千代。台阿弥。松阿弥。竹阿弥。大弐等軽死拒賊。
義輝欲再戦。其母慶寿院引袖泣止之。松永久秀令曰。幕府兵寡。然移時未克者。乃其畏憚武将乎。宜登隣壁放矢犯之。義輝猶一快戦。而散金銀於庭。賊徒聚争之。義輝率残士競馳奮戦殺賊百余人。而揚言曰。我今為賊臣松永損命。汝老賊何逃天罰哉。乃入奥唱時世称曰。抛刀空諸有。又何説鋒鋩。要知転身路。火裡得清涼。唱畢授幼童。而放火於営中自裁。時歳三十。
――『本朝通鑑』
かくして、江戸時代後期にはこのようになる。
【史料】
永禄八年三好義継、松永久秀、大和河内より京に打ち入り、五月十九日辰の刻、光源院殿の館を囲み乱れ入りければ、防ぐ者共或は討れ或は自害す。沼田上野介と福阿弥と言ふ者、敵の相印竹の葉を腰に挿して、外より紛れ入り、光源院殿の御前に参り、我等二人を始として防ぎ箭仕り、思ふ程戦ひ候はん。其間に日比愛させ給ふ早足の御馬に召され、東川原に駆け出でさせ給はば、御運を開かせ給ふべき、と涙を流し申しければ、尤忠義の志神妙に申しつるよ。然れ共汝等討死したる跡に残り留る可きや、とて散々に防ぎ戦ひて終に自害有りける。其のきはに、五月雨は露か涙かほととぎすわが名をあげよ雲の上まで 自ら筆を把りて書き残し給ひけるとぞ。
光源院殿の弟に鹿苑寺の周暠と言ふ者有りしが平田和泉守と言ふ者迎ひに遣し、北山より出でたる道にて討取りしに、供せし十三四の童忽ちに彼の平田を討取りければ、世の人褒め合へり。
――『常山紀談』
【史料】
五月、三党、久秀及びその子の久通らと、千余人を率ゐ、人ごとに一竹枝を佩びて号となし、清水寺に詣づと宣言し、以て京都に入る。またその備を紓めしめてこれに逼らんと謀り、佯つて訴状を奉じ幕府の近臣進士晴舎に因つて、これを義輝に納る。義輝の母慶寿、義輝に謂って曰く、「劫して訴ふるは、師直・宗全の故事のみ。今亦た当に且くその請を聴し、以て無事を計るべし」と。晴舎、往復再三す。而して賊已に幕府に傅り、四面より閧して入る。一府中、大に驚く。
宿直の者、一色秋成・上野輝清・高師宣・彦部晴直・細川隆是・武田信景・杉原晴盛三十余人、鋒を聯ねて突出し、肉薄して賊と闘ひ、数十人を斬る。晴舎曰く、「悔ゆらくは賊に誑され、君をして我を疑はしむ」と。乃ち自刃して死す。
この時に当り、府兵、京帥に在る者、変を聞いて三樹里に聚る。或は曰く、「速にこれを救はん」と。或は曰く、「衆寡敵せず、救ふも益なきなり」と。治部藤通、その弟福阿弥、沼田某と奮って曰く、「我死あるのみ」と。槍を提げ馳せて府門に至り、呼んで曰く、「吾れ、将軍とともに死せんと欲す。願はくは入るを得しめよ」と。賊許さず、すなわち竹枝を佩び、賊に混じて入る。
則ち義輝、方に衆を会して決飲す。三人の者を憫んで、脱去せしめんと欲し、曰く、「汝出でて来らざる者を招け」と。三人の者、辞して曰く、「これを他人に命ぜよ」と。義輝、絶命の辞を為り、これを姫人の衣袖に書す。曰く、「足利氏の運命ここに窮る」と。伝家の宝刀十余口を出し、更々取つて出でて戦ふ。刀皆缺折す。因つて庫を発き、尽くその珍宝を庭に散ず。賊争つてこれを攫む。義輝、三十余人と、従つてこれを蹂躙し、殺傷過当なり。而して我が兵、終に皆これに死す。義輝、猶ほ奮戦す。賊敢て逼らず。賊池田某、扉陰より跳り出でて、義輝の足を刈つてこれを踣す。賊、堆集し、障をその上に仆し、槍を攢めてこれを弑す。
遂にその姫を殺し、夫人近衛氏を脱す。慶寿、大に慟して曰く、「将軍死せり。老婦何ぞ生くるをなさん」と。火を縦つて自ら焼殺す。池田、目を障に傷き、後終に盲して癈人となり、行々市に乞ふ。京師の人、指して以て弑逆の報となす。
――『日本外史』
【史料】
五月、久秀、其の子久通及び三好長縁・政康・岩成左通等と三好義継を擁し、騎数千を率ゐ、潜かに京師に入り、伴りて清水寺に詣づと称し、十九日急に二条の第を囲み、矢砲を縦発す。義輝、左右に謂つて曰く、敵は誰と為すと。沼田上野介馳せて門楼に登り、呼んで曰く、夜襲する者は誰ぞ矣、興に須らく名を掲ぐべきなりと。一兵前んで曰く、君の陰謀已発覚し、為めに三好の代官松永弾正来り攻む。更に洩るる路有るべからず、疾く応に死を決すべきなりと。沼田入りて報ず。
義輝の母、慶寿太夫人涕を酒ぎ謂つて曰く、変遽に至る、将軍須らく免るべし、渠等の訟獄する所、枉げて其の意に応じ、以て社稷を保つべし矣と。時に宿直の士多からず。唯だ畠山九郎・一色淡路守・上野兵部少輔・大館岩丸・結城主膳正・沼田上野介・彦部晴直・弟孫四郎・高木右近大夫・小森左京亮・河端左近大夫等、防御奮戦し、賊輒ち前むを得ず。或謂ふ将軍を奉じて走れ矣と。然りと雖も賊党四面を円繞し、門戸梗塞せり。
進士晴舎憤怒して曰く、我嘗て老族 久秀を指す の為に欺かれ、早く四門を鎖さずして以て斯の難に及ぶ、千たび悔ゆとも術無しと。乃ち力闘して死す。餘衆義輝に謂うて曰く、賊勢甚だ偪れり遁るべからず矣、希はくは一盞を賜はりて快く死なんと。義輝感泣して即ち酒を薦む。細川隆是、女衣を被り起ちて舞ふ。義輝之を壮とす。時に治部三郎藤通・弟福阿弥、変を聞いて馳せて府門に至り、呼んで曰く、人各主有り、我等兄弟義に死なんと欲す、謂ふ幸に門を開けと。賊徒感じ、囲みを解いて入れしむ。義輝、其の志を憐み、治部に謂つて曰く、子往いて三本木の兵を呼び来れと。対へて曰く、事既に急なり、須臾も側を離るべからざるなりと。又た簾工小次郎なる者有り、嘗て恩遇を蒙る。変を聞いて趨り入りて死せり。
義輝親自ら盾尖刀を揮び、出でて捍戦す。藤通・福阿弥・輪阿弥・武田信景・杉原晴盛・朝日進三郎・摂津糸丸・谷口民部丞・西川新右衛門・疋田弥四郎・松井新次郎・西面左馬允・心蔵主金阿弥等先んじ進み、禦戦奮闘し、死傷する者多く、賊の一隊を卻く。尋いで義輝将に再戦せんとす。隆是・兵部・荒川晴宣・二宮弥次郎・寺司与三郎・飯田頼次・木村小四郎・松原小三郎・粟津甚三郎・同仙千代・台阿弥・松阿弥・慶阿弥・竹阿弥等諫めて之を止め、各進撃して戦ひ、多く賊兵を斬戮せり。義輝猶ほ将に出でんとす、太夫人袂を控へて強ひて抑止するも、揮つて出で奮撃す。
賊辟易す。久秀衆を励まして縦射せしめ、肉薄して登る。義輝親自ら金銀資材を庭上に投げ散らすに、賊先を争うて奪掠す。其の隙に乗じて復た電撃し賊百餘人を斬る。賊尚ほ前み逼る。命じて火を営裏に縦ちて寝殿に自裁す。時に歳三十。太夫人所在亦た火を縦つ。或避け去るを勧むるも聴かず。自ら火中に投ず。侍衛殉ずる者十八人。南海治乱記に云ふ五十餘人と 又た義輝の夫人は関白藤原稙家の女なり、賊索めて之を得、以て其の第に送れりと云ふ。
弟二人倶に僧と為る。一を周暠と曰ふ、鹿苑寺の主と為る。久秀等弑逆を行ふや、而る後平田和泉を遣はし、詭き謂つて曰く、三好逆謀して二条殿を侵伐するも、君に対し敢へて異議有る莫し、請ふ京師に趣け、彼奚ぞ尊崇せざるべけんやと。乃ち之を出で、夷川街に到る。平田後より刺して之を弑す。侍士美乃屋小四郎、歳十六、刀を把りて和泉を斬り立どころに讐を報じ、併して五六人を殺し、而して自殺せりと云ふ。
――『大日本野史』
近代の永禄の変
明治維新後、この事件は室町時代/足利時代と織田時代の狭間の出来事として(大体上に書いたイメージのコピペ)で語られ続けた。戦後の研究は本文に反映しまくっているので、戦前の「記憶」を順番に見ていきたい。なお、近代にいたっても足利義輝が障子で覆われて槍で突き殺されたのか、自害して火炎に覆われたのかの2通りの最後で記憶されている。
とはいえ、戦前日本史研究の泰斗・渡辺世祐の19世紀に早稲田大学で行った講義録『室町時代史』には足利義輝期が全く出てこないことがすべてを表しているといえる。三好長慶や足利義輝の活動は『安土桃山時代史』の織田信長の上洛の章にすべて突っ込まれており、こんな感じである(なおこの講義は1908年に出版されている)。
【史料】
三好長慶の卒去後は松永久秀の時代となりぬ、久秀は元と近江の人或は云ふ京都西岡の人なりと。才略ありて厚く長慶に重用され大和信貴城にありて専恣漸く甚だし、必ずや機会を作りて雄飛せんとの念切なり。
この時に当て足利義維の子義栄阿波にあり、三好の一族篠原長房に就て将軍とならん事を望めり、久秀及び三好三人衆は驕専にして将軍義輝の己を喜ばざるを察し義輝に代るに義維若くは義栄を以てせんとし、引いて義稙義澄の関係を再演せんとせり。三好氏の臣僚者之に賛せり。是に於て長慶の細密なる注意は全く破られ義輝対義栄の関係成らんとせり。
久秀等幕府修理成り未だ門扉完全せざるに乗じ室町邸を襲はんと企て、長慶の養子義継を擁し三人衆とともに入洛し、策を設けて其反跡を掩ひ故意に請願する所あるかの如くし幕府の士の備へざるに乗じ、永禄八年五月其兵と共に室町邸に義輝を襲ふ。時に宿直の士多からず、一色淡路守、有馬源次郎、一色又三郎秋成、上野兵部少輔輝清、上野与八郎、結城主膳正、高伊予守師宣等暫く拒て敵を郤ぐと雖も敵衆競来り一色有馬等皆戦死す。仍て諸士義輝を奉じて一時難を避けんとせしも敵包囲厳にして脱し難し、是に於て死を決して戦ふ。
義輝も亦自ら馬に乗り長刀を把て戦ふ。従士皆奮闘し賊勢一時挫折せしも久秀部下を令して競ひ進ましむ。義輝一旦奥に入り「五月雨は露か涙か郭公、我名をあげよ雲上まて」と云ふ辞世を詠じ火を営中に放て自殺す、時に歳三十、母慶寿院も亦火中に投ず、残士十八人共に殉死す。義輝の夫人近衛氏は久秀の爰めに獲られ兄関白前久の第に送らる。
応仁の乱から織田信長の登場までいきなり飛んでいる。足利義輝は一文字たりとも出てこない。
翌1890年に出た参考書『受験応用日本小歴史』にもこの程度である。
なお、国会図書館にあるこの本は過去の使用者に線引きされまくっているが、松永久秀が四角で囲われ義輝が二重線なのに、なんだか意識の差が見られる。
同じ年に出版された『新選大日本帝国史』ではまだ戦国時代という名前が存在せず、尚武時代として叙述されているが、この事件に関しては足利時代の側に記述されているのに意識を見て取れる。
翌1891年の『大日本文明略史』ではこの時代の出来事はまさかの箇条書きである。
1892年に教師向けに出版された『日本歴史教授法』では織田信長すら登場せず、応仁の乱から豊臣秀吉までほとんどカットされている。
また、同じ年に出版された『受験必携日本歴史問答』も織田信長などの扱いは同じであり、戦国時代は大名の配置を暗記するだけで終わっていたようだ。
1893年の『帝国史略』を見てみると、戦国時代の文字が出てくるが、この事件は室町時代の最後である。
『帝国小歴史』では、この事件はそれ以前の足利時代にくくられており、三好三人衆が出てくる程度の違いしかない。
一問一答的な参考書でも織田信長とまとめて足利氏の最後が出てくる。
富山房版『日本歴史問答』は織田信長すら足利時代に突っ込まれて事績も飛び飛びとなっており、足利氏が最後どうなったのかは全くわからない。
1898年の『受験必携日本歴史問答』頃には織豊時代と足利時代が分けられ、戦国時代は大体足利時代に突っ込まれている。ただし、結局書いてあることは全く変わらない。
なお、同年の中学校教科書では三好義興も松永久秀に殺されたことになっている。
19世紀末になると、天文慶長年間を室町幕府と江戸幕府の間の独自の時代とみなすようになるが、特にこの事件の扱いが変わるわけではない。
1900年に出た有名武将の最期を描いた『豪傑の臨終』にも当然掲載されている。
20世紀になり皇国史観全開の『国史』が成立して織田信長の扱いが浮上したところで、足利将軍家の事績がほとんど触れられなくなっていくため、『国史』に関連する本の扱いで変わることはない。
以後大体同じような記述が続く。
1904年の『日本歴史講義』ではついに永禄の変は戦国時代の章に入っている。
1906年の受験参考書ではもう少し踏み込んだ叙述になっている…のだが何かとてつもない間違いがある。
足利時代をぼろくそにこけ下した1906年の『闇黒日本史』でも足利義政より後の将軍はひとくくりのカスなのかこの程度の扱いである。
なお、当時のいわゆる真実の歴史本である1909年の『裏面観的異説日本史』には応仁の乱から後の足利将軍が具体的に一切出てこない。
1910年代の受験参考用の時点では義輝以後が全部一項目である。
1910年の『室町時代之裏面』に見られるように、ようやく足利時代から室町時代に変わってきている…のだが、国会図書館のものはこの時期の箇所だけなぜか欠けているので割愛せざるを得ない。
1913年の『足利十五代史』はほぼ軍記そのままの内容である。が、ここまで松永久秀に三好義興が殺されただの管領になっただのが続いてきただけに、逆に新鮮である。
【史料】
是より先、松永久秀は三好政康、同康長等と謀り、義輝を廃して義栄を立てんとす。義栄又将軍たるを望み、数々長慶に意を示す。長慶肯んぜず。永禄七年冬、義輝二條の第を修築し、翌八年門扉未だ成らざるに新第に徒る。久秀等の一党此の期を逸すべからずとなし、五月十九日其の子右衛門佐久通及三好義継等と清水寺参詣と号し、早朝より人数を寄せ、其の時に当り公方様に訴證有るよし申触し、幕府の臣進士美作守晴舎に因りて之れを義輝に納む。
斯くて是非の返答時刻を移し、晴舎再三往復せる間に、賊兵幕府の四面より鬨を上げ、鉄砲を放ち殿中に乱入せんとしければ、府中大に驚き、宿直の者、一色秋成、上野輝清、杉原晴盛等卅餘人禦ぎ戦ふ、
進士美作守晴舎は其の不法を憤りて自害せり。義輝は最後の酒宴を催して足利氏の運命玆に窮ると称し、伝家の宝刀を出して切崩し、大に奮戦せり、近習の士皆討死しければ、遂に火を放ちて自殺す、年卅。
――『足利十五代史』
1915年の国史叢書のうち歴代征夷大将軍を記した『将軍記』では源義輝として最期が記載されている。さすがにちゃんとした本なので、当時としてはちゃんとしている。
【史料】
同八年、将軍家、日頃より、三好・松永が権威を専とし、天下の事恣に振舞ひ、公方蔑にして、奢を極めける事を、憤り悪み給ひて、竊に彼等を追討せらるべき謀を運らし、備を設けらる。五月十九日、三好左京太夫義継・松永右衛門佐久通 弾正が子 等、此由聞付けて、頓て反逆を起し、俄に御所に押寄せ、急に打入りけるを、警固の人々、之を防ぐと雖も、折節人数少なく、皆討死しけり。将軍家落遁れんとし給ふに、軍兵四方を囲み、隙間なく込入りければ、力なく御所に火をかけしめ、将軍家自ら打つて出でつヽ戦ひ給ふに、数多所疵を被り、終に薨じ給ふ。時に御年卅歳。慶寿院殿同じく自害し給ふ。一乗院の門跡覚慶・鹿苑寺の周暠は、皆将軍家の御舎弟なり。三好・松永即ち軍兵を遣して、周暠を路次にして殺す。
1916年の『歴史教授と歴史の本質徹底の実際的研究 : 国民志操養成上より観たる』では足利義政より後は系図だけでほぼ終わらせており、足利義昭の追放の箇所でほんのちょっと足利義輝が出てきている。
当時はまだこの時期は近世という認識があったようで、1916年から刊行されたシリーズ『日本近世史』の1巻にこの事件が出てくる。
【史料】
長慶の卒するや、三好三人衆と共に、政権を執り、将軍義輝を倒して、義栄を擁し、騒乱に乗じて雄飛せんことを欲す。義輝もまた久秀等の専横を厭ひたれば世人久秀征討の流言を伝ふるあり。久秀等乃ち先づ発して機先を制せんとし、幕府の修理未だ成らざるを窺ひ、永禄八年五月、三好義継を擁し、兵数千騎を率ゐて京に入り、清水寺に詣ると称して十九日急に二條第を襲ふ。宿直の士一色淡路守、有馬源次郎等皆奮戦して死し、義輝も自眉尖刀を掲げ従士を督励して戦ひ、重囲の脱し難きを見て一旦奥に退き、火を営中に放ちて自殺す。年三十歳也。五月雨は露か涙か郭公、わが名をあげよ雲の上まで、雲間飛び去る杜鵑の聲、裂帛の衰音、人をしてそヾろに銷魂の思ひに堪へざらしむ。
1919年から刊行がスタートした徳富蘇峰の『近世日本国民史』では織田時代からスタートしているため、実は最初に出てきている。なお、異なる史料を用いたがために、足利義輝の正室と小侍従局を混同している。
【史料】
長慶死後の京畿は、松永久秀と、三好三人衆との、並頭政治であつた。三人衆とは、長慶の養子、其の弟十河一存の子、義継が若年である故に、一族三好日向守、同下野守、岩成主悦助三人を、後見役としたのぢや。
将軍義輝は、長慶存生忠は隠忍して居たが、其の死後は三好、松永一党の手より独立す可く、種々計企した。而して久秀等も、阿波御所義栄を奉じて、其志を逞うせんと欲し、茲に三好、松永対義輝の反目は、発揮して来た。彼らは幕府の修理未だ成らず、その門扉の未だ完からざるに乗じて、奇襲を企てた。彼等は永禄八年五月十九日、清水詣と披露し、人数を催ほし、更らに訴状を捧ぐる様を為して、飽迄油断をなさしめ、四方より取り囲み、乱入した。将軍方にては、不用意の事であり、宿直の者、何れも奮闘したが、衆寡敵せず。而して義輝も其の重囲を脱す可き望み絶え、「五月雨は露か涙か時鳥、我が名をあげよ雲の上まで」の辞世を残して、討死した。
扨も公方は名剣を抜持給ひ、切て出給ふを、三好方の池田丹後守が子、こざかしき男にて、戸の脇に隠れ居て、御足薙奉りければ、転び給ふ所を、障子を倒し掛け奉りて、上より鑓にて突伏る。其の時奥より火を放ちて燃え立ければ、御頸をば取得ざりけり、御歳三十歳、御供の討死の者三十一人とぞ聞えける。御母公慶寿院殿は、近衛殿下稙家公の御息女なるが、火の中へ忽飛入り、終に失せさせ給ひけり。御台所をば、日向守計ひにて、近衛殿へ送り入れ奉る。(総見記)
誠に悲惨の最期であつた。然るに夫人に関しては、当時京都にあるて、此の悲劇を目撃したる、葡萄牙の宣教師の報告は、左の如くであつた。
此難を脱したるは、独り公方の夫人のみであつた。三日を経て、京都の郊外半里計の、仏僧の閑室に、潜居せるを捜出した。逆徒の二将、二卒を遣りて之を斬らしめた。夫人時に齢二十七。其の容姿端麗、儀容端正、慈愛深く、勇気の逞しき、男子にも優り、如何に高位に即くも、恥ぢざる女丈夫であつた。
其生、其死、何れにしても、惨の又た惨であつた。
1919年に刊行された武将の最期を記した『遺言』に至っても『大日本野史』と大筋では変わっていないので割愛させてほしい。
そして、1920年代になろうが、書いてあることはそんなに変わらない。
この頃になると応仁の乱後の畿内戦国史もだいぶ詳しく書かれるようになってきたが、結局松永久秀に殺されただけで終わりである。
なお1923年の『国民の日本史』のうち室町時代の巻では、ついに三好長慶・松永久秀が時代の新人として大きくクローズアップされ始めた。そのため、永禄の変もやや長い。
【史料】
三好氏凋落して今度は松永久秀全盛時代となつた。彼れは享禄二年十月始めて三好長慶に仕へ、天文十八年長慶が京都に上つて以来、京都鎮撫を司り、之からして勢力を得、永禄三年長慶が管領となるや、久秀代つて幕府の政務を執つた。長慶没して後、彼れは将軍義輝を廃して義栄を擁し、愈、己の勢力を張らうと企てた。義輝はかねて久秀の専横を厭うて居たから、世間では将軍が久秀を征伐するの意があると流言した。そこで久秀は先づ発して機先を制せんものと、永禄八年五月義輝の二條の第が修築中で、門扉がまだ出来て居ないのを幸ひ、其十九日に清水寺参詣に托して、早朝から兵を集めて二條第を襲つた。義輝は自ら伝家の宝刀を取出して拒き戦つたが、近習の士が皆討死したので、営中に火を懸けて自殺した。年三十歳であつた。
義輝最期の模様は、流石に部門の棟梁たる名を辱めなかつた。義満、義政、其他の足利将軍は、多くは柔弱な道楽息子の様に思はれ、特に、応仁大乱以後の将軍は干戈を手にするにも堪へぬ公方様のやうに見える。然るに義輝は凶変当日、まだ夜が明けぬ中、門外が急に物騒がしくなるのを聞いて蹶起し、毫も狼狽する色なく、松永久秀らの狼藉討入りと聞くや、重代のお着背長、鍬形打つたる五枚甲の緒を締めさせ、重藤の弓を取り、玄関に出て敵の武者七八人を射伏せたが、衆寡敵せず、近侍の士も大抵討死した。義輝は自害と覚悟し、先づ母公、後室、若君らに自害を勧めた。母公慶寿院は之を聞いて「其儀は予ねて心得て居ます。我身は年老いて命も惜しいとは思はぬが、公方北の方が思ひも寄らぬ死を遂げるのが、如何にも悲しい」といつて、暫し涙に咽んだが、軈て仏名を唱へて守刀を胸に突貫き俯伏した儘息が絶えた。北の方も已白き生絹に着換へて念仏十遍唱へ、是れ亦守刀を心元に突込み、南無とばかり俯伏した。之を見た乳母は男らしくも若君を抱き、花園に駈け入りて井戸へ投身して果てた、その他女房達三十二人、中居、婢に至る迄八十人ばかりの女は、一同火焔の中へ飛入り、一人残らず亡せた。其後で義輝は悠々辞世の句を認め、筆を捨てて腹を十文字に掻き切つた。永禄八年五月十九日の晩であつた。
義輝の最期は本能寺の信長を見るが如く、其勇武の状乱世の将軍として予て覚悟が出来て居たものと見える。其母公、北の方、其他女房達迄皆潔く自害し、或は猛火に飛込んで亡せたといふに至つては、将軍家の家風厳存したものと見える。将軍の櫂力は失はれたが、世は群雄割拠時代故、殺伐勇敢の風が一度に行き瓦つて、儒弱淫靡の傾向が少なかつたのであらう。之を暗黒時代と呼ぶにしても、柔弱淫佚を意味するよりは、寧ろ混乱無学の時代と見るべく、其間に剛健の気風が張つて居た。
かくして戦前の日本史研究者の泰斗・田中義成によって1925年に『足利時代史』が書かれたのだが、この本には永禄の変は収録されていない。翌1926年の『織田時代史』でもこの程度である。
1930年代になったところで特に記述が変わらないのは察してきただろうが、最後に見ておこう。
なお、引用はしないが1932年に出てくる読み物調の『少年応仁の大乱と其前後』等に至っても、足利義輝を覆ったのが障子であって畳ではなかったり、具体的な刀の名前が出てきたりは一切ない。この辺りはおそらくここ十数年の間に広まった都市伝説のような気もする。
なお、1920年代後半からは階級闘争史観を押し出したプロレタリア系の日本史本も出てくるが、この事件には特に関係ないので触れない。
そしてついに1934年に岩波書店から現在も続く『岩波講座日本歴史』の最初のバージョンが出版された。とはいえ、ここに現在の研究水準からすると興味深い記述がある。松永久秀は計画のみで実行犯ではないとしているのである。
【史料】
その後長慶が卒してからは重臣松永久秀が勢力を有してゐて三好三人衆である三好日向守長逸・同下野守政康・岩成主悦助友通の三人と議して専ら政務の要衝に当つた。義維はその子義栄と共に将軍たらんことを望んでゐたので阿波の三好一族の宿将篠原山城守長房に依り、その翼望を遂せんとした。そこで長房は堺に赴いて久秀及び三人衆に説く所があつたので久秀等の心を動かした。久秀等は久しく専櫂を壇にしてゐたが、義輝がこれを喜ばないので疑櫂の念に駆られてゐた。加之に義輝が動もすれば地方の豪族を誘致して上洛せしめ、争覇の計画を立てしめんとするの形成があるのを恐れてゐた。機会だにあらば義輝は久秀等を剪除するかも知れぬと甚しく危んでゐたのである。恰も好し長房が義栄の薦めに擁立を勤誘したから、これに勢を得て義輝を先んじて除かんと決した。そこで不意に兵を遣はして幕府を襲い義輝を弑せしむるの暴挙に出でた。
久秀の義輝弑逆は決して自身には手を下さなかつたのである。これ久秀の最も術策も長じてゐたが為であるといはれてゐるのである。久秀はその子久通 当時義久をして三人衆と三好家の惣領である義継 当時義重の未だ長せざるを擁して京都に赴かしめたのである。この時に久秀はその本拠大和信貴山城に居て与り知らぬ態度を持してゐた。義継は三人衆及び久通等と幕府の修理未だ完からず門扉出来せざるに乗じて義輝に請願するところありと称し、幕府の備なきを機会に俄然幕府を襲ひ一挙にして義輝を弑したのである。
最期に興味深い記述を書きたい。あの直木三十五が1941年に記した『日本剣豪列伝』に足利義輝も登場するのである。1940年代には出所不明の剣豪将軍の伝説が出来上がっていたのであった。
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