ザヒールッディーン・ムハンマド・バーブル(1483年2月14日 - 1530年12月26日)とは、ティムール朝の王子、ムガル帝国の初代皇帝である。文人としての才能にも優れ、自身の回想録『バーブル・ナーマ』を残した。(ティムール朝、ムガル帝国も参照)
概要
バーブルは初代ティムールの三男ミーラーン・シャーの家系の王子であり、ティムールから5代後の子孫(来孫)である。
父ウマル・シャイフはサマルカンド政権下、フェルガナの領主。母クトルグ・ニガール・ハーヌムは東チャガタイ・ハン(モグーリスタン)の王女であり、チンギス・ハーンの末裔である。バーブルはティムールとチンギスという二人の英雄の血を引くことを誇りとしていた。
フェルガナ・サマルカンド時代
当時ティムール朝はサマルカンド政権(ウズベキスタン周辺)とヘラート政権(イラン・アフガニスタン周辺)の分割統治下にあった。
幼少期を健やかに過ごしたバーブルだが、12歳の時に父が事故で死亡し、以降苦難の道のりが続くこととなる。フェルガナ領主の地位を継いだバーブルだったが、サマルカンドと東チャガタイは彼が年少であることから、それぞれフェルガナの接収を狙い軍を派遣する。しかしバーブルはこれを退け、後の軍事・政治手腕の片鱗を示す。
この当時北方ではウズベクのシャイバーン朝が強大化しており、サマルカンド政権は風前の灯であった。バーブルもサマルカンドの後継者争いに乗じ、サマルカンドに入城するも維持しきれず撤退。その後ウズベクに占拠されることとなる。それでもウズベクと争い続け、一時はサマルカンド奪還に成功するもやはり維持できず、更には反乱で本拠地のフェルガナをも失陥し、バーブルは一族を連れ南へ落ち延びることとなる。
ヘラート・アフガニスタン時代
領地を失い放浪するバーブルだったが、彼の元にはウズベクから逃れた人々が集まり、再び軍としての威容を取り戻しつつあった。バーブルはアフガニスタンに入りカブールの占拠に成功、ここを基盤として勢力の回復に努めた。
ウズベクがヘラートにも攻めてくると、援軍を出して一時撃退するものの、結局はヘラートも征服され、ティムール朝はバーブルを残して滅亡する。その後もバーブルは、今度は西のサファヴィー朝の支援を受けサマルカンドを攻撃し、奪還に成功するもまたも維持できず撤退。これで諦めがついたのか目をインドに転じ、本格的な侵攻に乗り出すことになる。
インド侵攻
バーブルはアフガニスタン時代から、北インドへの略奪を行い、その豊かさに目をつけていた。しかし征服し、本拠を移すとなれば、サマルカンド奪還は距離、地形(アフガンの山脈を丸々越えねばならない)上、極めて困難になる。しかしサマルカンドを諦めたバーブルは全力で北インド征服に乗り出した。
当時の北インドはデリー・ローディー朝のイブラヒムが支配しており、ローディー朝も元はアフガンの軍事貴族出身である。遡ればインドのイスラーム王朝もアフガニスタンを越えてインドを征服した。バーブルもかつての王たちと同じ道を辿り、インドへ侵攻したのである。
パーニーパットの戦い
数年にわたる侵攻の末に、パーニーパットで一大決戦が生起した。バーブル軍は12,000、対してローディー朝はイブラヒム自身が指揮する100,000の軍勢、1,000頭の戦象を以て反撃した(実際の兵数かは疑問が残るが、バーブルに数倍する兵力ではあった)。
この頃までにバーブルの戦術は、モンゴル以来の騎馬戦術から、サファヴィー朝やオスマン帝国における技術革新、即ち大砲や小銃の大規模な編成を取り入れたものになっていた。本陣に銃砲陣地(砲を運ぶ荷車で防壁も形成した。いわゆるウォーワゴン、ワゴンブルグ)を構え、両翼に弓騎兵を配置するというもので、バーブルの軍事的才能が伺える。
インド軍はいまだ銃砲は普及しておらず、このように大規模な銃砲陣地を相手にするのは初めての経験である。数を頼みに平押しに攻撃するも戦象が砲撃に驚き統率が取れず、歩兵の一部は陣地に取りついたが破ることができない。ついに両翼から騎兵に包囲されるに至り、数の優位を活かせず敗走、イブラヒムも打ち取られローディー朝は滅亡した。この時のインド側の死者は16,000以上という。
ムガル帝国
デリーに入城し北インドを征服したこの時を以て、ムガル帝国の成立とする。ムガルの呼称はインドでの「モンゴル」の意味であり他称であるから、バーブル自身がムガル帝国を宣言した訳ではないが、流浪の王子は北インドで皇帝にまで登り詰めたのだった。
とはいえアフガニスタンからデリーまでを抑えたにすぎず、広大なインドの大半は未だ手つかず、帝国と言うにはあまりにも脆弱である。バーブルは更に南下しインド征服を進めるも、この頃から病気がちになってしまう。そんな中、跡継ぎ息子のフマーユーンが重い病にかかると、バーブルは自身の命を犠牲に息子の回復を祈る祈祷を行った。この祈祷が本当に効いてしまったのかどうか、フマーユーンは無事回復したが、バーブルは間もなく息を引き取ったという。47歳。
バーブルの死後、フマーユーンはベンガルのシェール・シャーの反乱、更には弟たちの裏切りにもあい、全土失陥をやらかして帝国は一時滅亡する。しかしサファヴィー朝の元に逃れ、諦めず北インド再征服を果たした。困難な状況から再起を果たした不屈の精神は、バーブルの血筋ということかも知れない。
文人としてのバーブル
バーブルは優れた軍事指導者であった一方、文人としての才能も傑出していた。チャガタイ語で書かれた自身の回想録『バーブル・ナーマ』は、歴史的資料としての価値も極めて高いものであるが(なにせ皇帝自身による全生涯の詳細な記録である)、日記文学として読んでも優れたものである。気候風土・地理・産物・政治や軍事・人物評・内心の吐露までも詳細に描写されている。
彼は詩作と読書を好み、回想録でも自身の詩作を載せるほか、他の人々の詩の巧拙にも辛口に批評している。特に韻律論には一家言持っており、幾つかの著作を残している。
『バーブル・ナーマ』は現代までに多数の言語に翻訳されており、日本でも間野英二氏による全訳が出版されている。有名な肖像画では本を読んでいるところが描かれており、文人としてのバーブルを印象付けるものとなっている。
関連動画
関連静画
関連商品
関連項目
- 2
- 0pt