ティムール朝またはティムール帝国(1370-1507)とは、現在のウズベキスタン中央部を発祥とする、中央アジアからイランにかけて存在したイスラーム帝国である。首都はサマルカンド。
王朝(王家、一族)としてのティムール王朝は、この帝国のみならず、この国の後継に当たるムガル帝国をも統治した。そのため「ティムール朝」を王朝として見た場合、それはティムール帝国の創設(1370年)からムガル帝国の滅亡(1858年)まで、実に約500年間継続したことになる。ムガル帝国を第2次ティムール帝国と見做すことができるのもこのためである。
概要
モンゴル帝国のウルスの一つ、チャガタイ・ハン国が分裂した西チャガタイ・ハン国からティムールにより建国された。当時、チャガタイ・ハン国は分裂の様相を呈しており、東チャガタイ・ハン国によって1360年に一時的に統一されるもその後すぐに分裂状態に戻った。こうした中でティムールは勢力を伸ばし、チンギス・ハンの子孫を形式的なハンとし、自身はその婿としてアミール・キュレゲン(ハンの婿の意)を名乗って建国した。
その後、彼はチャガタイ・ハン国の領域を統合。ホラズムを征服し、ジョチ・ウルスに介入して同国を安定させると、イラン方面へ侵攻。ジョチ・ウルスとの関係が悪化すると、カフカスを通り首都サライを襲って破壊し、イラン平定を継続。1398年には矛先をインドへ変えて、デリーを占拠。アゼルバイジャンで王子が反乱を起こすとこれを討ち、これに加担したグルジアを攻撃。加えて、マムルーク朝と対決して、ダマスカスを占拠。更にアンカラの戦いでオスマン帝国に勝利して、スルタンであるバヤズィトを捕虜とし、アナトリアまでを勢力圏に組み込んだ。明征服を計画して東征する途上でティムールは死亡するが、こうした征服運動によってできた彼の国の領域はモンゴル帝国の西側を覆った。
ティムールの死後、各地で知事としていた息子たちが王位を巡って争いあう状態が発生。ティムールの第四皇子シャー・ルフはこれをおさめて、交易を振興し、中央アジアにはイスラム文化が花開いたが、彼の死後には再度混乱が発生し、イラン西部は黒羊朝に奪われた。こうした混乱が十年以上続いたのち、アブー・サイードは一時的に統合するが、彼が白羊朝との戦いで討たれると、帝国はサマルカンドとヘラートの政権に分かれた。
こうした混乱の中でウズベクのシャイバーニー朝がサマルカンド、ついでヘラートを奪取し、帝国は滅亡した。ティムール朝の王子、バーブルはサマルカンドを取り返したが、維持ができずに失陥。ホラーサーンに逃れ、アフガンを抜け、最終的にインドのデリーでムガル帝国を起こすこととなる。
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関連項目
前身
周辺諸国
- 東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)
- スーフィー朝
- ジョチ・ウルス
- トゥグルグ朝
- クルト朝
- グルジア王国
- マムルーク朝
- ムザッファル朝
- 黒羊朝
- 白羊朝
- エルテナ侯国
- オスマン帝国
- シャイバーニー朝(ブハラ・ハン国)
後継
領域
- ウズベキスタン
- カザフスタン
- キルギス
- タジキスタン
- トルクメニスタン
- アフガニスタン
- パキスタン
- インド
- イラン
- イラク
- クウェート
- サウジアラビア
- シリア
- アゼルバイジャン
- グルジア
- アルメニア
- トルコ
- ロシア連邦
- 中華人民共和国
人物
その他
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