山名祐豊単語

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ヤマナスケトヨ
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山名祐豊1511~1580)とは、山名氏の惣領但山名氏の当であり、あと一歩で戦国大名化しきれなかった人物である。

ここまでの山名氏

ご存知の通り応仁の乱の西軍の当山名宗全は乱の終結を見ることなくこの世を去った。その子山名教豊は応仁元年にすでに亡くなっており、宗全の孫、もしくは教豊のとされる山名政豊が跡を継ぐことになったのである。

そのあとの山名氏を待ち受けていたのは、応仁の乱後山名氏の領毛利次郎の乱を引き起こし、見事播磨・備前・美作の三かの守護として復活した赤松政則との十数年にわたる泥沼の戦いである。山名氏は伯耆など元来から守護にあったの奪取は阻止したものの、その後の逆侵攻による奪取に失敗、威信を低下させることになったのである。

その結果起こったのが当を擁立しようとするかという臣団の勢抗争であり、伯耆山名氏のみならず、惣領である但山名氏でも山名政豊の息子山名俊豊と山名致豊をめぐる争いが生じたのである。政豊は事これをし、致豊が新たな当になり、致豊の・山名豊の代には再度赤松氏の播磨に侵攻することが可になったのである。

かしこ攻略も失敗、山名氏は赤松領の奪還をあきらめ、同じく弱体化しい同族の因幡山名氏が納める因幡ターゲットにするようになった。しかしこの間山名四天王と呼ばれる垣屋氏、太田垣氏、田結氏、八木氏の臣たちが勢を伸ばし、また赤松氏gdgdやっているうちに西側には尼子経久大内義興、南側には浦上村宗が勢を拡大させていたのであった。

祐豊誕生

この状況下で誕生したのが、大名としての山名氏の最期の当となってしまった山名祐豊である。彼は山名致豊の次男として1511年この世に生をうけ、の後を引き受けていた叔父・山名豊の養子という形で但山名氏の後継者となり隅山となったのである。

彼が幸運だったのは1542年に自領で生野山が発見されたことである。確かにに及ぶ臣団の統制には困難を極めたものの、豊富な資の存在が広域での活動を可にしたのである。

彼がまず行ったことは隣因幡の守護であった同族、因幡山名氏の乗っ取りである。1548年、・山名豊定を因幡に送り込み因幡守護を称させ、因幡山名氏の山名通(山名久通)を戦死させてこれに取って代わったのである。その結果何が起こったかというと彼の勢圏が西の出雲と接してしまう。そう、尼子氏との抗争の始まりである。

伯耆山名氏の混乱に乗じ尼子氏の勢因幡に及ぶと彼は大内義隆と手を結んだ。彼は但のみならず因幡を死守し、豊定が亡くなると息子の山名棟豊を、棟豊も亡くなると豊定の息子である山名豊数に統治を任せ、二かの大名として君臨したのである。ここまでくればあとは国衆をまとめあげ、中統一に努めれば山名氏復権の姿もあったかもしれない。しかしそうはいかなかったのである。

ラスボス登場

最初のほころびは1563年に因幡の反抗勢をまとめ上げ、豊のとされる山名豊を擁立し山名豊数を因幡から落させた武田高信の登場である。山名祐豊が山中幸盛尼子勝久率いる尼子再軍側について支援を行ったことから武田高信、および山名豊毛利側につき、尼子対毛利の代理戦争の様相を見せたのである。

さらにここで次の問題が起こる。1569年当時はまだ毛利と協体制にあった織田信長配下・羽柴秀吉が攻めて来たのである。秀吉の攻撃に対し山名祐豊は逃走、一時は亡命さえしたといわれている。しかし織田信長との会見により但に復権し、信長が尼子側につき毛利と敵対したこともあり彼に従ったのである。なおこの際出石に居を移している。

尼子再軍と連合した山名豊数の山名豊国は1573年見事武田高信を追い払い因幡回復させた。山名氏の但山陰地方攻略する毛利側の吉川元春織田信長の緩衝地帯として機し、一見安泰のように見えていた。

しかし話はここで終わらない。山名氏は吉川元春の攻撃の前に降毛利側についてしまうのである。その結果但因幡羽柴秀吉の攻撃を再度受けることとなり、1580年出石秀吉に包囲され降、そのすぐ後に山名祐豊は病することとなったのである。一方因幡山名豊国も単身で鳥取を脱出、織田方に降りここに大名としての但山名氏は滅びることとなった。

その後の但馬山名氏

この後但山名氏は秀吉包囲中に出奔して降した山名祐豊の三男・山名堯煕が跡を継ぐことになる。彼は決して大名になることはなかったものの秀吉に仕え、朝鮮出兵の際には御伽衆としてその姿を見ることができる。彼はそのまま豊臣秀頼にも使え大坂の陣に参加、落後は京都六条に浪居、年は諸説あるようだ。

彼の息子に山名義熙、山名堯政らがいるが義熙は堯煕と同一人物説もあり、堯政は大坂の陣で戦死した。その後山名堯政の息子である山名恒豊はに連れられ祖と潜居、旧山名臣である清水正親が自身の采地を譲り幕臣として取り立ててほしいと申し出、それが許されて清水氏となった。恒豊はそのまま大番組頭まで上り詰め子孫は幕臣として続いていく。

一方山名豊国もまた秀吉に仕え、同じく朝鮮出兵の際には御伽衆としてその姿を見ることができる。宗と彼の明暗を分けたのは関ケ原の戦い徳川家康に従ったことである。以来徳川家康徳川秀忠御伽衆として仕え、子孫は交代寄合高家並として一般幕臣の宗に変わり山名氏嫡流としてみなされるようになった。その結果明治維新後は男爵として族の一員となり、今もなおその系は続いているのである。

補足

信長の野望シリーズにおける一覧

近年はザ・々ともいうべきパラメーターで、初心者にはお勧めできない勢の一つである。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 61 政治 66 86 野望 70
武将風雲録(S1) 戦闘 64 政治 51 72 野望 64 教養 42
覇王 采配 72 戦闘 65 智謀 44 政治 62 野望 42
天翔記 戦才 124(B) 智才 130(B) 政才 90(B) 72 野望 48
将星 戦闘 59 智謀 50 政治 61
烈風 采配 52 戦闘 53 智謀 47 政治 55
世記 采配 47 智謀 38 政治 51 野望 63
蒼天録 統率 45 知略 47 政治 56
下創世 統率 45 知略 47 政治 57 教養 59
革新 統率 58 武勇 50 知略 53 政治 64
統率 58 武勇 50 知略 53 政治 64
創造 統率 55 武勇 54 知略 54 政治 64
大志 統率 54 武勇 53 智謀 55 内政 63 外政 60

 

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山名祐豊

1 ななしのよっしん
2017/03/02(木) 22:07:55 ID: tAn5ylAtnz
信長公記には一行も書かれていないくらい気が付いたら滅んでいた大名。
若いころの秀吉にあっさり滅ぼされてしまい、
後に復活するもやっぱり秀吉に滅ぼされる。
命があっただけめっけもんか
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