王莽(紀元前45年~紀元23年)とは、古代中国の政治家である。
漢王朝から禅譲を受けて「新」王朝の皇帝となったことで知られる。
外戚から皇帝へ
伯母(王政君)が漢王朝第11代皇帝、元帝の皇后になったため一族は外戚として権勢を極めた。しかし王莽の父の王曼と兄の王永が早死にしたためか、王莽は列侯に取り立てられることもなく、家は貧しかったという。
王莽は儒教の教育を受け、儒者のように身を慎み母や兄嫁に仕え、兄の子を実の子以上に可愛がった。また様々な人物と交わり、権勢を極めていた父の兄弟親族にも恭しく接していた。
紀元前22年、伯父の王鳳が死の床につくと王莽はこれを看病する。王鳳は死に臨んで王莽の事を成帝(元帝と王政君君の子)に託し、王莽はこれから出世街道を登ることとなった。紀元前16年に新都侯となる(新都は河南省南陽市新野県内)。また紀元前8年には親戚(伯母の子)でライバルだった淳于長を失脚させ、大司馬(国防長官)に就任する。
成帝死後、王氏を嫌った哀帝(成帝の甥)によって一時政治の表舞台から遠ざけられるが、多くの復帰嘆願の声によって再び表舞台に返り咲いた。哀帝が早世すると従弟の平帝を擁立し、王莽は自分の娘をこれの皇后とする。
王莽に反対する声も少なくなく、権力を握る過程で王莽は実の男子2人をそれぞれ自殺に追い込んでいる。また王莽は全国各地から自身を支持する嘆願や瑞兆の報告などを行わせることで世論の支持があるように見せかけ、讖緯とよばれる予言説を儒教に取り組み己の禅譲への道を正当化した。
紀元5年、平帝が14歳で崩じると(王莽による毒殺説もある)、翌年遠縁の劉嬰という3歳児を皇太子とし、王莽は「宰衡」「安漢公」「摂皇帝」「仮皇帝」と称号を進めて自分の即位への準備を進める。
翟義や皇族の劉信の反乱を鎮圧し反対勢力を軒並み潰した王莽は、ついに紀元8年自ら皇帝に即位、自分の封地から国号を「新」とした。
理想の儒教国家
漢王朝の政治は決して上手くいっていたわけでなく、深刻な財政難に悩まされ、貧富の差が拡大するなど多くの矛盾を抱えていた。
新王朝の皇帝となった王莽は、政権を握った頃から友人の経学者劉歆などの助けを借りて儒教に基づいた政策を行っていた。これらの政策を行うにあたり王莽は古代の周王朝の制度を記したとされる『周礼』を拠り所にしたが、実のところ王莽は儒教の名を借りて、皆が明るく平和に暮らせるぼくのかんがえたせいじしすてむ理想国家を描き出そうとしていたのである。政策の根拠にされた周礼自体が、実は劉歆の捏造ではないかと言われている所以である。
王莽の政策は主に次があげられる。
- 土地制度の改革…「王田制」を施行することで、豪族と化していた各地の大土地所有者の土地を削り、これを多くの小作農に与えた。また豪族が所有していた奴婢の売買を禁止し身分的に解放したが、豪族らの反発を買い政令の多くは撤回するはめになった。
- 金融制度の改革…前漢は「五銖銭」と呼ばれる貨幣を使っていたがこれを改め、多種多様な貨幣を発行した。しかし市場が混乱し、貨幣の種類が度々変更されたこともさらに拍車をかけた。
- 商業政策の統制…前漢後期から行われていた塩や鉄、酒等の専売制を強化し、市場混乱を防ぐための物価統制、農民への低金利融資を行った。これら政策を王莽は「夫れ塩は食肴の将、酒は百薬の長にして、嘉会の好なり(中略)庶民を救い富ますために必要なんだよ」と言い訳しているが、結果として大商人らの反発を買うことになった。
- 外交政策の見直し…周辺各国に封じていた王号から侯号への見直し。また下にも見るような改名マニアの悪い癖で、匈奴を降奴、高句麗を下句麗と表記するなど新王朝の権威増大どころか各国の反発を買った。
- 各種名称の変更・規制…改名マニアだったと思われる王莽は首都長安を「常安」にするなど、官名や地名などモノの名前を頻繁に変えた。また、この頃、霍去病のように二字名が多くなっていたが一字名の強制化を通達している(匈奴の単于も一度は「嚢知牙斯」という名前を「知」と変えてこれに従った)。
- 積極的な軍事出兵…敵対するようになった匈奴や国内の反乱地への積極的な出兵。しかしいずれも上手く行かず国家は財政難となり、農民への負担が一層強まった。
結局は王莽は理想的な政策を性急に行ったことで多くの反発を呼び起こした。運が悪いことに治世中は度々天変地異が多発、失政もあいまって国内は疲弊、多くの流民を生み出し、これが新王朝の命取りとなる。
赤眉・緑林の乱
紀元17年に山東で発生した「呂母の乱」は至って小さい規模の出来事だった。しかし一度集まった反乱軍は次々と流民を吸収し赤眉軍という一大勢力となる。
また、湖北省にある緑林山に拠った群盗らが緑林軍となり、その一部が南陽の豪族で旧皇族だった劉氏と結びついた。のちに漢王朝を再興する劉秀もその一人であった。劉秀らは旧皇族の劉玄を更始帝として擁立する。
王莽は反乱軍に対し討伐軍を送ったが各地で敗れ、南陽にある昆陽という城を包囲した時は劉秀が寡兵で100万を号した政府軍を一敗地に塗れさせる(昆陽の戦い)。紀元23年6月、この戦いで新王朝の権威は地に落ち、各地で群雄が蜂起した。
友人だった劉歆にすら離反され、10月3日、王莽は常安に乱入してきた更始帝の軍兵に殺される。享年68。彼の遺体は功を争う兵士らによってバラバラにされ、晒された首は殴られたり舌を切り取って食べられたりしたという。
更始帝の政権も長続きせず、動乱を鎮め中国を再統一した劉秀が光武帝として漢王朝の再興に成功する。
この後漢王朝は前漢以上に儒教を重視した統治を行い、王莽が創出した制度のいくつか(儀式や学校制度など)は後の世に引き継がれた。王莽が目指した儒教に基づく国家統治の夢は別の意味で実現したといえる。
エピソード
- 王莽は身長は七尺五寸(約173cm)だったが、痩せ型で口が大きくアゴが短く大きな赤眼が飛び出し声は大きいがしわがれていたという。容姿に威厳が無いと思ったのか王莽はシークレットブーツと高く作った冠、鳩胸に見える剛毛入りの服を着て胸を反らして高い所を見て遠くを見るような目つきをしていたという。
- 当時の中国の偉い人は冠を被っていた。冠の上側は何もなかったが、頭頂部が禿げていた王莽はハゲ隠しのために頭巾を被った上で冠を被ったという。
- 天下を取るために予言書を多数偽造したが、王盛と王興という人物が天下を取った王莽を補佐することになっていた。ところが、いざ天下を取ってみると高級官僚に2人の名前がなかったので、門番の王興と餅売りの王盛を高級官僚に昇進させた。
- 翟義の乱で捕らえた王孫慶という人物を生きたまま解剖し、医者に記録させ「これで病気の治療法が分かる」と言った。
- 王莽が匈奴に戦を挑むにあたって、全国から戦うための特技を募集したところ万単位の応募があった。ある者は櫓がなくとも河を渡れる水陸両用戦車を、ある者は長時間飢えずに済む兵糧丸を上奏した。
ある者は一日千里を翔ぶグライダーを上奏した。大鳥の翼を両腕に付け、全身を羽毛で覆い、紐で引っ張って大空に舞わせる仕組みだった。数百歩(百歩は約140メートル)くらい飛んだ所で墜落したという。 - 昆陽の戦いで新王朝の権威が衰えると、ある人の上奏を真に受けて、人を集めてみんなで天に向けて慟哭しまくっていた。歌ってみたならぬ「泣いてみた」コンテストで官職に取り立てられる者5千人と史書は記す。
- 王朝も末期になると、権威付けのために前妻に先立たれていた王莽は新しい皇后を冊立し後宮に120人の女を囲った、また儀式では髪や髭を黒く染めて若作りした。昆陽の戦い後はめっきりふさぎこみ、アワビを肴に酒ばかり飲んで、兵法書を読むも読み疲れて机の上で寝てしまう生活を送っていた。
嘉量銘
始皇帝は天下を統一すると各国でまちまちだった度量衡を統一するために、度量衡の標準器を作成した。これを「権量」という。
時は流れて、王莽が新を建国すると度量衡を改訂し、その標準機を作成した。これを「嘉量」という。この嘉量は複数の枡を組み合わせて容積を量るものであったが、同時に長さや重さも量れるという非常に優秀なもので、流転を経て現在も台湾の台湾の故旧博物院で保存されている。もっとも、王莽というよりは制作者の劉歆の手柄というべきなのだが。ここまではいい話であるが、それだけは終わらないのが王莽たるゆえんである。
嘉量には証明文が刻まれていた。これを「嘉量銘」といい現在にも残る新代の貴重な筆跡なのだが、これが非常に王莽らしい内容だったのである。
黄帝は我が始祖にして、その徳は虞(五帝の最後の帝である舜の別名)に集まり、虞は我が先祖にして、その徳も(また転々として同じ土徳である)新にめぐって来た。戊辰の年(初始元年)、木星は大梁の方角に至り、東方七宿(東にあって青龍を構成する7つの星)の星々が戊辰の方角に集まって、天下は安定した。ここに天命によって民を安堵せしめ、(火徳の前漢より生ずる)土徳によって(前漢に代わりその天命を)受けて国号を改め帝位に就いた。そして丑の月(初始元年12月)を年始と定め、長寿隆崇である。度量衡の基準を統一し、精密に考えた上で前人の制度に合わせた。東方七宿が己巳の方角に集まり、木星が実沈の方角に至った己巳の年(始建国元年)に至って、初めて天下に公布した。みな末永く守り実行し、子や孫の代まで受け継いで、億年の先までも長く伝えよ。
wikipedia(嘉量銘)より引用
次に権量に書かれた「権量銘」と比較してみよう。
権量銘と比較すると仰々しいのが一目瞭然である。「権量銘」と「嘉量銘」の目的は単純に「権量」と「嘉量」の証明文なので、製造年月日と製造由来を書けば充分である。嘉量銘はあまりにも無駄が多すぎる。(権量銘には二世皇帝が作成したバージョンがあるが、原文には始皇帝の名がないため、度量衡統一を二世皇帝が行ったという勘違いを防ぐための但し書きが追記されている程度)
特に難解なのが、初始元年と書けばいいのに天文の話。しかも、十二支以前の廃れた表現を用いて回りくどく書いているところである。こういったところに王莽の個性や性格やらが反映されているといっても過言ではないだろう。だから失敗するんだよ。
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