カーネーション革命単語

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カーネーションカクメイ
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カーネーション革命とは、1974年4月25日ポルトガルで起きた軍事クーデター民主主義革命である。

概要

当時のポルトガル植民地戦争の最中でありほかのヨーロッパより経済が遅れていた。

これに危機感を抱いた青年将校らは体制の変革をし、20世紀で最も長い独裁体制のエスタド・ノヴォ体制を打倒するに至った。

無血?革命

革命だったとされることもある。

ただし、独裁政権側の政治警察組織DGS抵抗していたようで、英語版Wikipediaの関連記事(2014年3月21日閲覧)exitには「DGSが包囲していた群衆に発し、4名が死亡45名が負傷した」と記載されている。

ただし同記載には「正確性に疑問」の警告マークが貼付されており、またポルトガル語版の関連記事(2014年3月21日閲覧)exitには同様の記述が見当たらないことから偽は不明。

赤いカーネーション

この革命当日はちょうどカーネーションの時期であり、革命の中心地だったリスボン市場ではカーネーションが豊富に並んでいた。

革命兵士たちは口にカーネーションを挿し、市民カーネーションを抱えて祝ったという。これが「カーネーション革命」の呼称の由来となった。

革命を起こしたグループはいわゆる左だったとされており、カーネーションい色もそれを意図したものだったのかもしれない。

革命後

その後、革命政権は内輪もめを始める。お約束だね。

その背景には、そもそもの革命の理由の一つでもあった植民地戦争打ち切りがあった。革命の結果、各植民地では現地での独立義勢との対話や休戦に入ったわけだが、結果として植民地からの大規模な引き揚げを行わざるをえなくなった。

引き揚げてきた者たち(「retornados」と呼ばれる)の総数は50万人から100万人と言われる。結果として、当然のことながら政治・経済社会全ては大混乱に陥った。さらにその引き揚げてきた者たちの中から各閥の急進に流入する者も居たため、緊を増す大きな要因となった。

また、そもそも思想的に全く折り合わない者を政権のトップに据えるという痛いミスやらかした。カーネーション革命後の初代大統領にはポルトガル軍のアントーニオ・デ・スピーノラ将軍陸軍大将?)が就いたのだが、この人は右だったのだ。やはりというかスピーノラ将軍は左体の革命政権と折り合わず、半年もたたない1974年9月30日には辞任に追い込まれた。

その後の右派

1975年1月にはDGSの残党により極右組織ELPが結成される。エマーソン・レイク・アンド・パーマーじゃないよ。Exército de Libertação de Portugal、「ポルトガル解放軍」である。

また同年3月11日には、なんと先のスピーノラ将軍により右クーデターが勃発した。彼はELPの関係者となっていたのだ。このクーデターは鎮圧されるが、スピーノラ将軍本人はスペインを経由してブラジル逃げおおせた。

同年5月。スピーノラ将軍の元、極右組織MDLPMovimento Democrático de Libertação de Portugal、「ポルトガル解放のための民主運動」)が結成される。

このMDLPとELPは、1975年に「Verão Quente(暑い)」と呼ばれる一連の事件を引き起こす。左政党の根拠地各所に、次々に爆弾テロを仕掛けたのだ。爆弾テロ事件にもいちいちロマンチック名前を付けるところがヨーロッパ的であるなあ。

ちなみにこのMDLPやELP1976年には解散したようだ。後述するように敵対勢である急進左が政権内でのを衰えさせたために存在意義を失ったのかもしれない。

ただ、1976年にはスピーノラ将軍についてある際スクー報道もなされている。西ドイツの潜入ジャーナリストであるギュンター・ヴァルラフが、西ドイツ武器商人と名乗ってスピーノラ将軍に接近し情報収集、「将軍は武ポルトガルの政権を奪還する計画を立てている」と明らかにしたのだ。この暴露が痛手となった可性もある。

その後の左派

ちなみに左側も、それまで政権の中心であった急進左と、次第に勢いを増す中道の間での緊が高まっていった。

先に述べたように革命の中心は左であり、スピーノラ将軍を追い出してからは更に急進左の勢いが増していった。要生産手段の有化などのあからさまに共産主義な政策も実行された。これには政権に残っていた中道民主社会中央党(CDSCentro Democrático Social)は激おこで、野党宣言しちゃったりした。

だが、1975年4月憲法制定議会選挙が行われる。独裁政権下では望めなかった、数十年ぶりの民主選挙である。

その結果、社会党(PS : Partido Socialista)や人民民主党(PPD : Partido Popular Democrático)などの中道が躍進し、2党合わせて約64%の得票率で197議席、総議席数の八割近くを得た。

対して、急進左ポルトガル共産党(PCP : Partido Comunista Português)は約12%の得票率で30議席、総議席数の一割程度だった。

ちなみに先ほどのCDSも約8%の得票で16議席を得ている。

こうして、共産主義急進左政治導権を中道に譲らざるを得ず、また中道無視できないかたちとなった。

1975年11月25日には軍内部の急進左により複数の空軍基地が占拠されるというクーデター事件も発生したが、鎮圧される。ここで急進左の勢いは全に削がれた形となる。

以後、ポルトガル中道政権により、急進左が行った共産主義寄りの政策を徐々にひきもどしつつ歴史を重ねていくこととなる。

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カーネーション革命

1 ななしのよっしん
2011/04/04(月) 23:14:19 ID: zPu8sTBfI3
4月25日を常に!
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2 ななしのよっしん
2015/04/06(月) 16:21:36 ID: fTm5tHyLUL
左翼学生徴兵して軍隊で鍛えなおす!」をやったら軍部そのものが左翼の巣窟になったでござるの巻
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3 ななしのよっしん
2016/07/12(火) 04:49:46 ID: toahIgM/fc
植民地支配なんか割に合わない事が分かって他の西洋諸は手を引いたのに変なプライドでダラダラ植民地支配独立戦争弾圧を続けた結果がこれ
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4 ななしのよっしん
2023/06/18(日) 01:23:47 ID: cgdjKsEIhx
プライド帝国義への郷愁があったことは否定しないが、植民地維持してたのはそれだけで片付けられるものじゃない。
ポルトガル二次大戦以来西側でも東側でもない、ヨーロッパでは希少な中立で、EECに入ることもできずに独自の経済でやっていくしかなくて、割に合わない植民地だとしてもないよりはマシとして残す必要に迫られていた
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