チンギス・ハンは中世モンゴルの英雄。モンゴル帝国の建国者(太祖)。
生没年1162(1155、1167の説もあり)~1227年。
12~13世紀のモンゴルに割拠し周辺諸国を次々と討滅、アジアにまたがるモンゴル帝国を打ち立てた。
その征服事業は子孫達にも受け継がれ、ユーラシア広域を版図に収めた大帝国に発展した。
鎌倉時代の日本との戦争、いわゆる「元寇」を起こしたフビライ・ハンの祖父にあたる。
「モンゴル帝国」については別記事を参照。
※チンギス・ハン即位以前の部分は「元朝秘史」を参考に作成しています。
少年時代
本名はテムジン(由来は後述)。
後に大征服者として名を馳せるチンギス・ハンも人生の幸先は良いものではなかった。
父親のイェスゲイはモンゴルの勇猛な一部族長で、バアトル(英雄)の称号を持ち、勢力はかなりのものであった。しかしテムジンが9歳の時、敵対するタタール部族によって毒入りの馬乳酒で暗殺されてしまう。それまでイェスゲイに従っていた部民や家臣は次々と立ち去り、テムジンは母ホエルンと幼い弟妹達と共に、厳しいモンゴルの昼夜を生き抜くことを強いられた。
やがてテムジンに様々な事件が襲いかかる。
異母弟のベクテルはテムジンに不満を抱き逆らうが、テムジンは返り討ちにして弟を殺した。この時母ホエルンはテムジンを激しく叱責したと伝えられる。
またある時、テムジンが生き延びている事を知ったタイチウト部族が一家を襲撃。テムジンは捕らえられるが、ソルカンという親切な男に助けられて虎口を脱した。
更に、一家の財産である馬のほとんどを盗まれるという事件が勃発。
馬を探す途中でテムジンは一人の少年に出会い、奇特にも少年はテムジンに馬探しの手伝いを申し出た。この少年こそがテムジン生涯の右腕となり、モンゴル帝国筆頭将にまで上り詰めるボオルチュの若き姿であった。
こうしてテムジンの青春は困難のうちに経過していく。
青年時代
成長したテムジンは微弱ながらも部族の長としての活動を始めた。
幼馴染の婚約者であったボルテを娶り、ボオルチュを最初の幕僚として迎え、弟達も頼もしい勇者に成長していた。だがメルキト部族の襲撃を受けて新妻ボルテが攫われてしまう。メルキトは勇猛な部族であり、まだテムジンにはメルキトと戦える力は無かった。
そこで、父の盟友(アンダ)であったケレイト部族のオン・ハンの力を借り、テムジン自身の盟友であるジャダラン部族のジャムカと交友を復活させた。二人の力を借りてボルテを取り返す事が出来たが、ボルテはすでに身篭っており、生まれた男の子はジュチ(賓客)と名付けられた。
こうして寄る辺を得たところでテムジンは次第に頭角を現し始めていく。
力も知恵もあり器も大きいテムジンは草原での人望を獲得していき、その下には多くの人々が集ってきた。いくつかの部族からも支持を得て地位を固めていく。
こうなると面白くないのがジャムカであった。テムジンが自分より強力な存在になる事に危惧を抱き始めた。盟約はやがて決裂し、草原の覇を競う群雄として対する事となった。
テムジンは仇敵タタール、タイチウト、ジュルキンといった諸部族を滅ぼし、グル・ハンを称して一勢力を築いていたジャムカも撃ち破り追放した。
しかし、彼らはまだ中程度の群雄であった。モンゴル高原には三大部族たる勢力が健在であった。
すなわち東のケレイト、西のナイマン、北のメルキトの三つの王国である。
テムジンからチンギスへ
ケレイト王国のオン・ハンはテムジンにとっては宗主、亜父ともいえる存在であった。
一時オン・ハンはナイマンとの戦いで没落しかけたがテムジンの助力で返り咲き、テムジンは皮肉にも彼の尖兵として働き、強大化に寄与する事で、頭を抑えられる事にもなった。なんといってもケレイトは豊かな先進国であり、ヨーロッパまで名が伝わっている程である。
だが両雄の対峙は時間の問題であった。オン・ハンの息子セングンはテムジンを疎んじ、客分となっているジャムカに唆されてテムジンを討つ事を決める。老いたオン・ハンも子に従うしかなかった。
1203年にケレイトとの戦争が勃発し、最初は一敗地にまみれた。
僅か19人の部下にまで撃ち減らされたテムジンであったが、落ち延びたバルジュナ湖で湖水を啜り、捲土重来を誓って反撃を開始した。たちまちのうちに兵力をかき集めて、ケレイトの主力を奇襲して撃破に成功。そのまま王国を奪い取る大逆転となった。
こうしてテムジンは完全に独立した。
ケレイト王国を「簒奪」して飛躍的に勢力を増大したテムジンは残ったナイマン、メルキトも立て続けに討ち滅ぼし、ナイマンの参謀となっていたジャムカを処刑すると、モンゴルにテムジンの敵はいなくなった。
世界帝国の建設
帝国の基礎
1206年に「チンギス」と称しハンとなり、全モンゴルの支配者として即位する。
チンギス・ハンとモンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)の誕生である。
チンギスは討滅・服属した部族を千人隊に分けて再編成し、功臣と傘下の部族長を千人隊長に封じた。
千人隊長は兵士1,000人を指揮する武将であると同時に、1,000人を動員できる民を治める貴族ともなった。特に勲功がすぐれていた者は万人隊長となり、多数の千人長を統率した。
千人隊は中軍、右翼軍、左翼軍の各万人隊に配属され、一部の者達は王傅(チンギス一族の家老的存在)として分配された。
また、ハン直属の親衛機関ケシクを設立し、将来の幹部を養成を行い、情報伝達の駅伝(ジャムチ)を開通する。チンギス法典ともいうべき大ヤサの制定が行われ、強力な戦闘集団たるモンゴル帝国軍の原型が作り上げられた。
こうしてモンゴル高原を本拠地とした帝国の、第一次世界征服作戦が発動されていく。
アジア席巻
チンギス自身は西方諸国の経略を担当し、右翼軍万人隊長ボオルチュを軍師に据えた。
東方の中国方面には、左翼軍万人隊長ムカリを派遣して兵力の半分を分け与えた。また、大部隊を動かしつつ、ジェベ、スブタイといった驍将を遊撃部隊として各地で暴れさせて威力偵察や略奪を行わせている。
1227年にチンギスが崩御するまでに、中央アジアのホラズム帝国、西遼を滅ぼし、中国北半の金王朝の大部分を征服した。馬蹄は南はインド、北はロシアにまで達し、チンギスが生涯に滅ぼした国は四十を数えたという。
しかし、チンギスは単なる略奪者ではなく統治者としても振る舞い、征服した国のシステムを帝国に取り込み経済や官僚機構の整備を行なう。こうして遊牧民の武力と定住民の国力が結合した一大帝国が創りあげられていった。
宗教に対しては、帝国に服属する限り何を信じようと自由という寛容なスタンスを示し、異教徒の共存を可能として東西の文明の風通しを良くした。同時にモンゴルのシャーマン信仰を背景として、自身に迫ったテブ・テングリを粛清して、モンゴル国内の宗教統制を行っている。
最後の遠征は中国西北の西夏国であった。西夏を降すも陣中で倒れ没した。
生前の遺言により次期ハンは三男のオゴタイとなる。
敵対者
チンギスの半生の盟友にして宿敵となったジャムカはセチェン(賢明)の称号を持つ智謀に長けた梟雄であり、チンギスとの戦いに敗れて基盤を失った後でも、ケレイトやナイマンの元に身を寄せて謀主としてチンギスに敵対した。
しかし、チンギスとナイマンとの戦いではわざとナイマンの長であるダヤン・ハンに、いかにチンギスが恐ろしいかを吹聴して臆病なダヤンの心を砕いたという。
やがて捕虜となったジャムカに、チンギスは昔のように友達に戻ろうと手を差し伸べたが、ジャムカは感謝しつつも拒否する。やむを得ずチンギスは貴人の礼遇をもって旧友を処刑した。
ナイマンのダヤン・ハンの王子であるクチュルクは父と違い知勇にすぐれ、ナイマンが滅亡すると西遼に亡命。
皇帝に気に入られて皇女を娶ると西遼を乗っ取ってしまった。だが仏教を強制してイスラム教徒が多い民の不満を招き、国内が混乱したところをチンギスが送り込んだ部隊により討ち滅ぼされた。
ホラズム帝国の皇子ジャラール(ジャラールッディーン・メングベルディー)は古の英雄にも例えられ、モンゴル帝国との戦闘で勝利した勇者であった。
インダス川との戦闘では破れるが単騎で敵中突破を行い、天晴な武者ぶりにチンギスもあえて追撃はせずに、「あのような息子を持ちたいものだ」と称賛した。
家臣
チンギス・ハンは自身が傑出した英雄であると同時に、有能な臣下達を束ねる天才でもあった。
人種や宗旨にかかわらず、有能な人物は登用して能力に相応しい仕事と褒美を分け与えた。これにより、彼の麾下には多くの人材が結集した。
その中でも有名なのが「四駿四狗」と称される者達である。
四駿(馬)はボオルチュ、ムカリ、ボロクル、チラウンといい、側近や高位の将軍としてチンギスの補佐を行った名臣。
四狗(犬)はジェルメ、ジェベ、スブタイ、クビライであり、先鋒や遠征軍の指揮官として用いられた猛将。
さらにモンフト部族のクイルダル、ウルウト部族のジュルチダイという勇敢な二人の盟友を加えて「十功臣」となる。
他にも多くの功臣達が活躍し、モンゴル譜代の者は「八十八功臣」。
ケレイトとの敗戦で共にバルジュナ湖の誓いを行った者達は「バルジュナト」「バルジュナの十九功臣」と称される。
異郷の人物としては耶律楚材が有名。
後世に帝国の宰相格として謳われるが、実際はそこまでの権限はなく、チンギスのお気に入りの占術師という立ち位置であった。オゴタイの時代で中国北部の有力な官僚の一人となったというのが実情らしい。
四人の皇子
長男のジュチは母ボルテがメルキトに囚われた後に生まれた事からチンギスの胤かどうかを疑う声があった。次男のチャガタイは厳格な性分から、これを信じ兄を軽んじていたので、温厚なジュチも気分を害し、両者の仲は非常に険悪であった。
チンギス自身はジュチを拘りなく扱い、ボルテに対する愛情も変わらず以後8人もの子供を産ませている。
だがやはり心中屈託していたのか、後に讒言を信じ、ジュチが謀反を企んで領地に引きこもっていると思い込み、チャガタイとオゴタイに討伐を命じた。その途中でジュチが無実で、病死した事を知り大いに悲しんだ。
それまで二人の兄の間を取り持っていたのが三男のオゴタイである。兄弟達から一目おかれ、鷹揚で太っ腹なオゴタイをチンギスは高く評価して後継のハンとして指名する。
四男のトゥルイは次期ハンとは別に、チンギス家の末子として遺産を相続できる立場からか冷静を貫いた。
後のオゴタイ時代の行動から、あまり権勢には興味が無く、戦争に情熱を注ぐ武人気質の人物だったらしい。
四人の皇子達は個性は違ったが知勇に優れた人物で、父の覇業を良く手伝い、帝国の発展に寄与した。
チンギスはジュチに狩猟、チャガタイに法律、オゴタイに財産、トゥルイに戦争の管理を委ねさせた。
一族とウルス
チンギスの母ホエルン、正室のボルテは賢夫人としてチンギスの苦難を内助して支え、チンギスも二人を重んじた。
チンギスの後宮には500人の妻妾たちが控えていたという。それらはボルテを筆頭とした5人の皇后により、複数のオルド(幕営)に分けられて運営された。
チンギスが儲けた子女で史料に確認されている者は15人(9男6女)であり、そのうち9人(4男5女)はボルテの所生となる。
ボルテが生んだ4人の皇子ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイは嫡子として別格の扱いを受け、上の三人は帝国西方に領土を与えられてウルス(国家)の建設を許された。
末っ子のトゥルイは末子相続の慣習に則りモンゴル本土と遺産の大半を受け継いだ。
弟のカサル、カチウン(の遺児アルチダイ)、テムゲには帝国東方にウルスを与えられた。
妹や娘達は部族間の紐帯を強くするために各部族の首長の家に嫁がされた。
異母弟のベルグタイは国主ではなく大貴族として遇し、嫡庶の分別を示したものの、例外的に晩年に儲けた
庶子コルゲンはチンギスも余程可愛かったのか、正嫡の皇子と同等に扱われウルスを与えられた。
こうして建国初期には、西方の三王家+中央の二王家?(トゥルイ家は本土でおそらくコルゲン家は付随)+東方の三王家、合わせて八王家を帝国に内包する事となった。
後に四つに分裂した帝国はこれらの王家をベースとしている。
- 大元ウルス(トゥルイ王家とコルゲン王家と東方三王家が連合。中国における元王朝。フビライ以降ハーン位を独占する)
- ジュチ・ウルス(ジュチ王家。キプチャク・ハン国とも呼称)
- チャガタイ・ウルス(チャガタイ王家。後にオゴタイ・ウルスも取り込む)
- オゴタイ・ウルス(オゴタイ王家。かつてはオゴタイ・ハン国と呼称されたが、オゴタイの孫ハイドゥが反フビライ勢力を糾合して立ち上げた「ハイドゥの王国」を指す場合もある。後にチャガタイ・ウルスに取り込まれた)
- フラグ・ウルス(トゥルイ王家が分裂した一派。イル・ハン国とも呼称)
チンギス以降のユーラシアの遊牧系国家では、チンギスの男系の子孫でないとハーンになれないという、
「チンギス統原理」という掟が生まれた。
またある学説ではチンギス・ハンの子孫は現在1,600万人を超えると推計される。
呼称について
漢文表記は「成吉思汗」(ピンイン: Chéngjísī Hán, チェンヂースー・ハン)。
各言語での表記や発音の関係から「チンギス・ハン」、「チンギス・カン」、「ジンギス・カン」等と呼称されている。13世紀当時の中期モンゴル語の発音では「チンギス・カ(ア)ン」となる。
英語では Genghis Khan 等と表記して「ゲンギス・カーン」あるいは「ジンギス・カーン」と発音する。「チ」が「ジ」や「ゲ」に訛っているのは、アラビア文字で書かれた文献が欧州諸語に翻訳された際に生じたものである可能性がある。
語源はモンゴル語で「力」を指すチン(ching)に由来する説、あるいはバイカル湖を指したテンギス(tenggis)に由来する説、などなど諸説乱立しているが真相はよくわかっていない。
称号であるハンの部分はハーン(カーン、カアン)とも呼ばれるが、中期モンゴル語では明確な違いがある。ハン(中期モンゴル語でカン)は「(一部族の)王」。ハーン(中期モンゴル語でカアン。カーンは慣用表記)はハンの古形だったが、西域の習慣に倣ってモンゴル帝国時代に「王の中の王」(諸部族を束ねる大王、皇帝、チンギスの正統に連なる王)といった意味付けがなされた。なお、チンギス自身はカンを名乗っていたが、後代より元朝の太祖としてカアンと呼ばれる。
しかしながら帝国の興隆と衰退に伴いハーン号を自称する支配者が乱立して格下のハン号が廃れると、この区別は意味を失っていった。現代モンゴル語ではいずれもハーン(khaan)と呼ぶ。このため、モンゴル帝国の皇帝は「大ハーン」「大カアン」等と「大」を付して他のハーンと区別する場合もある。
※この記事では「チンギス・ハン」と表記します。
逸話(白)
戦いに勝ち捕虜の引見を行った時、率直にチンギスを狙撃した事を告白した者がいた。
チンギスは彼の正直さと武勇を評価して、罪を免じ家臣の列に加えた。この勇者は後に四狗の一人となり、勇名を知られるジェベである。
耶律楚材を召しだした時、楚材が金に滅ばされた遼の皇族である事から「お前の仇は私が討っているようなものだな」と言ったところ、楚材は「金は我が仇ではなく主です」と返したので、チンギスはその率直さに感心して側近に取り立てた。
チンギスは忠誠心には敏感で、敵であっても忠誠を尽くす者を見事と感じた。そして敵味方を問わず裏切りには厳しく、たとえそれが自分に利益をもたらす事でも嫌悪した。
チンギスは酒量を弁えており、特に君主や将軍といった者は判断力を鈍らせるので控えるように苦言していた。
月に3回程度が丁度いい、飲まないのが一番だが、酒を飲まない者はいないだろう言っている。だが跡継ぎのオゴタイはアル中であった。
とまれ節度ある生活を送ったのか、チンギスは当時では長命だった方である。
家臣の一人に飢えや乾きに非常に強い、勇猛で不死身めいた男がいた。
チンギスは彼を評価しながらも、あまりに強い者は他人の痛みに鈍感となり、指揮官としては向いていない。人の上に立つものは下の者の疲労に心を配らなければならないと言っている。
ある時、長春真人という道士を呼び寄せて不老不死の方法を尋ねた。
真人はそんなものは無く、長命の方ならありますと答えたところ、チンギスは気を悪くした様子もなく真人の言葉を傾聴した。
逸話(黒)
ある時、チンギスは家臣達に男子の最大の楽しみは何かと問いかけた。
家臣達は天気の良い日に馬に乗って狩猟をする事、と当たり障りの無い返答をしたが、チンギスは否定して「敵を皆殺しにして、その財産を奪い、知人たちが悲しむ顔を拝見し、分捕った馬に跨り、殺した者達の妻と娘を抱きしめる事にある」とぶっちゃけたという。
「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」と伝えられるように。モンゴル帝国軍は逆らう者には全く容赦せず、都市ごと殲滅するのをデフォルトの戦法とした。それ故に血なまぐさい逸話には事欠かない。
ただし後世に誇張され、反モンゴルの材料として喧伝されたものや、帝国軍自体が悪名を逆用して戦略目的として利用(戦わずに降伏させる)したという説もある。
タタール部族はチンギスにとって父祖の敵である。
彼らとの戦いに勝った時、「車輪より背の高い男どもは皆殺しにしてしまえ」と命令した。弟のカサルにも捕虜1000人を預けて殺すよう命令したが、タタール出身の妻を持つカサルは半分しか殺せず半分は匿った。これを聞いたチンギスは激怒した。
チンギスとカサルは幼い頃は仲が良かった兄弟であったが、次第に険悪となっていき、後には弟を殺そうとたり、分前をわざと少なくしたりと冷遇した。ただしカサルのほうでも増長したりと問題はあった。
チンギスは孫の一人ムトゥゲンを大変可愛がっていた。しかし、ムトゥゲンはチンギスの下にいた時にバーミヤーンの戦闘で死んでしまう。怒ったチンギスはバーミヤーンの住民を皆殺しにして報復した。
その後、ムトゥゲンの父親のチャガタイを呼んで、昔チャガタイが犯した過失を蒸し返して叱責した。
チャガタイは恐れて父の言うことなんでも聞きますと許しを乞うた。言質をとったチンギスはおまえの息子は死んだ、だがこの件で悲しむ事は許さぬと言い渡した。チンギスが立ち去った後、チャガタイは泣いた。
チンギスは「子孫達は富貴に包まれて贅沢できるのは、誰のお陰か考えもしないだろうな」と、皮肉めいた発言を残している。
補足
チンギスが属する氏族・ボルジギン氏には、蒼き狼と白き牝鹿という伝承がある。
すなわち始祖は天命を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(蒼き狼)とコアイ・マラル(白き牝鹿)で、このボルテ・チノより数えて11代目のドブン・メルゲンが早世した後、未亡人のアラン・ゴアが天の光を受けて産んだ三人の子の一人・ボドンチャルを祖とする。
生まれた時に、血の塊を握って生まれてきたという。
その頃イェスゲイはタタールとの戦に勝ちテムジン(一般に「鉄」を意味するテムールという語に由来するとされ、製鉄や鉄器製造に関係する可能性がある)という族長を捕らえたので、これを記念して自分の長男にテムジン(铁木真、ピンイン: Tiěmùzhēn, ティェムーヂョン)という名を与えた。
チンギスの前半生には不明な点が多く、テムジン時代の事績は『元朝秘史』といった史料としては神話的で正確性に欠ける英雄叙事詩でしか辿る事が難しくなっている。
日本ではそんな背景に判官贔屓と貴種流来譚の伝統が合わさり、江戸時代あたりから「源義経(音読みでゲンギケイ)が大陸に渡ってチンギス・ハンとなった」という奇説が生まれた。
若い頃、オン・ハンと共に中国の金王朝の依頼で働いた事があった。
金の異民族政策(夷をもって夷を制する)としてタタール部族と戦い、褒賞として百人長の官爵を与えられた。後にチンギスは金の将軍、要人を多く臣下に加える事となるが、チンギス自身の位官は中国的には下級武官程度だったりする。
ダヤン・ハンから金の皇帝の箭筒士(衛士)呼ばわりされた事もあったという。
外見についてはいくつかの証言が残されている。
長身(矮躯という説もあり)で立派な体躯。額は広く、目は猫のようであり、長髭(まばらという説もある)を蓄えていたという。
チンギスの墓は現在まで発見されておらず、世界史の謎のひとつとされている。
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モンゴル系史料
元朝秘史はチンギス生誕以前からオゴタイの治世の途中までを描いたもの。
モンゴル秘史は元朝秘史に詳細な注釈が加えられているもの。
蒙古源流はかなり趣が違っているが、独自の記述が多く含まれている。
ペルシャ系史料
モンゴル帝国史は集史をはじめとするペルシャ語文献から豊富な史料が引用されている。
集史の日本語訳は現在無いが、「史集」という名前の中国語訳の書籍が中国系の書店で入手可能。
漢文系史料
中国古典新書から元史の抄訳が刊行されており、太祖(チンギス)本紀の訳が載っている。残念ながら品切重版未定でamazonからのリンクも不可。
海外の維基文庫から元史、新元史の原文の閲覧が無料で可能。
書籍
歴史群像シリーズのものや、チンギス・ハーン新聞は図解やネタが効いていて読み易いが残念ながら品切重版未定となっている。
小説・漫画
蒼き狼は元朝秘史を現代でも読みやすく、架空のエピソードも織り込んでアレンジした小説。
「ペルシャの幻術師」は司馬遼太郎の短篇集で、戈壁(ゴビ)の匈奴に登場している。
小説「ジハード」では敵対する武将として登場する。文庫版では大幅に改訂され解釈が分れる表現となる。
DVD
「チンギス・ハーン」は中国で制作された大河ドラマ級の大作。
チンギスを演じた巴森扎布(バーサンジャブ)は大河ドラマ「北条時宗」のフビライ・ハーン。映画「レッドクリフ」の関羽の人でもあり、チンギスの次男チャガタイの末裔といわれる。事実出身地の新疆にはオゴタイの子孫が多い。
「蒼き狼」はボオルチュを田中邦衛が演じた事が未だに語り継がれているという。
ゲーム
「蒼き狼と白き牝鹿」シリーズは、かつては「信長の野望」、「三國志」と肩を並べた作品。
ただし1998年以降新作は出ていない。すでにファンの渇望は怨念の域に達しているという。
体力 | 政治 | 戦力 | 指揮 | 魅力 |
15 | C | A | A | A |
政治 | 戦闘 | 智謀 | 歩 | 弓 | 騎 | 水 |
81 | 97 | 92 | A | A | S | E |
政治 | 采配 | 戦闘 | 智謀 | 足軽 | 騎馬 | 鉄砲 | 水軍 |
81 | 99 | 100 | 97 | B | S | E | E |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 |
100 | 92 | 86 | 73 |
シヴィライゼーション(Civilization)4、Ⅴでは指導者として登場する。
性能については掲示板1に詳細が記載されています。
関連項目
- モンゴルの歴史
- モンゴル帝国
- 元王朝
- モンゴル
- テムジン
- スブタイ
- クビライ
- ジンギスカン
- 源義経
- 中国史の人物一覧
- 世界史
- 蒼き狼と白き牝鹿
- Civilization(シヴィライゼーション)
- ゴルゴ13(デューク東郷の正体がチンギス・ハンの末裔という説がある)
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