司馬遷とは、中国史における最初の「正史」となる歴史書『史記』を編纂した歴史家である。
前漢王朝に仕えた。紀元前2世紀中ごろに生まれて、紀元前1世紀はじめに死去している。
概要
出仕前の大旅行
字は子長(シチョウ)。竜門(リュウモン)が存在する韓城(カンジョウ)の出身。
学説では、紀元前145年生年説の方が優勢のようであるが、特に定説はない。
ここでは、司馬遷が主に参考にした文献の関係と、司馬遷が若い方がロマンがあるため、紀元前135年生年説で説明する。
司馬遷は、代々の歴史家そして天文家の家に生まれた(後述「司馬遷の先祖」参照)。
父の司馬談(シバダン)もまた、前漢王朝に仕えて、歴史と天門を扱う「太史令(たいしれい)」の役職にあった。
紀元前127年、9歳の時に、茂陵(モリョウ)の地に移住する。その地で、後に、『史記』にその伝記を記すこととなる郭解(カクカイ)を見かけたようである。
紀元前126年、10歳の時に、都である〈長安〉に行き、文章を学んだ。〈長安〉では、有名な漢の将軍である李広(リコウ)を見かけたことがあった。この李広は某漫画の主人公として有名な秦の将軍であった李信(リシン)の子孫にあたる。
司馬遷は当時、重んじられはじめていた「儒教」を学び、董仲舒(トウチュウジョ)という大学者から教えを受けて、「公羊学(くようがく)」と呼ばれる学問を修めた。
紀元前116年、出仕する以前の20歳の時に、中国の中原地帯と江南地方に旅行へと出かける。
目的は不明であるが、多くの史蹟をたずね、様々な歴史に関する話を地元の古老たちから聞き出してきた。
すでに、歴史家としての彼の素質と興味、才能はあらわれていた。
朝廷に仕える
旅行から帰った後、司馬遷は漢王朝の朝廷に仕えることとなった。まずは、博士弟子からはじまり、成績上位であったため、「郎中(ろうちゅう)」という皇帝に近くで仕える下級の側近となった。司馬遷は、漢の都・長安に住むこととなった。
司馬遷が仕えた漢の皇帝は、武帝(ただし、武帝は皇帝号で死後の呼び名である。本当の姓名は、劉徹(リュウテツ))であった。
紀元前112年、24歳の時に、司馬遷は、武帝の行幸に従い、雍(ヨウ)の地を訪れている。
さらに、紀元前111年、25歳の時に、旅行の経験を買われたのか、自分から望んだのか、長安からはるか南にあり、厳しい山岳地を越える必要がある巴・蜀の地に使者としておもむく。
司馬遷はさらに蛮地と呼ばれていた、さらに南にある昆明(コンメイ)の地まで訪れている。これも、後に『史記』において、「西南夷列伝」を記すことにおおいに役立ったと思われる。
すでに、司馬遷の移動範囲は中国各地に及んでいた。
父の死と歴史への深い想い
しかし、紀元前110年、26歳になって司馬遷が洛陽にまでもどったところで、病に倒れた父の【司馬談】と面会することになる。
父は、武帝の行った「封禅(ほうぜん)」の儀式に、太史令の地位にあるのに、同行を許されなかったことを気に病み、病気になっていた。
「封禅」とは、徳のある天命を受けた天子(この時代は皇帝と同じ)が、天と地を祭る儀式である。代々、歴史にたずさわってきた司馬談としては、武帝の同行から外されたことはとてつもない屈辱と衝撃であった。
父は、司馬遷に「私の地位を継いて『太史』となり、先祖からの歴史と天文の事業を引き継ぎ、私が書いている歴史書を完成させよ。第二の孔子となり、第二の『春秋』を書くのだ」と遺言を残して、死去する。
『春秋』とは、当時、孔子が書いたと信じられた歴史書である。儒教を学ぶ人間には、政治と道徳の指針を示すゆらぐことのない「経典」の一つであった。
つまり、「自分の意思を継いで『春秋』に続く歴史書を書くように」ということが父の遺言である。
ただ、司馬談は、儒教よりも道家(老荘思想もしくは黄老思想を重んじる思想家)に傾倒していた。それでも、孔子や『春秋』の名を出したのは、司馬遷の思想を重んじたゆえの遺言である。それゆえに重いものであった。
司馬遷は父の意思を受け継ぎ、遺言を果たすことを決意した。
司馬遷は斉の地にいた武帝の行幸に追いつき、泰山(タイザン)で行われた封禅の儀式にも参加した。
このおかげで、『封禅書』の内容も知り、後に『史記』に記すことができた。
その後、司馬遷は武帝に従って、中国の北部方面である河北(カホク)を抜け、北の匈奴の地に近い五原(ゴゲン)を通り、甘泉(カンセン)の地までもどってきた。
これで、司馬遷は、東の海と北の沙漠までを見ることができた。これも後に『史記』を記すことに役に立った。
さらに、司馬遷は、暇を見つけては、地元の長老をたずねて、歴史の話を聞きだした。
司馬遷にとって、見るもの、聞くもの全てが歴史への取材であった。
太史公・司馬遷
紀元前109年、司馬遷は27歳となった。また、武帝に従い、河南から斉の地へ向かい、泰山行きに同行する。この時、「黄河」が決壊していたため、瓠子(コシ)という土地で、武帝は従っていた百官に薪を背負わせ、竹をさし、石と土を投げ入れさせ、決壊箇所を防がせる。
司馬遷もその一人として参加した。この時の経験から『史記』の「河渠書(かきょしょ)」は記された。
紀元前108年、28歳となって、念願の「太史令」に任じられる。
この時は、武帝の政治もうまくいっており、大臣の桑弘羊(ソウコウヨウ)の進めた「平準政策」も順調で、物価も安定していた。また、武帝の外征も成功し、西域の交通が発達し、漢の都である長安の街並みも活気も増していた。
司馬遷も、「太史令」として、天下中の史料や昔話を集めていて、充実していた。そのため、友人の摯峻(シシュン)に、漢王朝に仕えるように勧めている。
摯峻には断られたが、司馬遷はただ一心に仕事に専念し、武帝の意に沿うように宮廷を出入りしていた。
紀元前107年、29歳の時、また、武帝の封禅の儀式のお供となった。
この時は長安の西から後の涼州と呼ばれる地帯を過ぎ、大回りして河北にある涿鹿(タクロク)の地を過ぎ、恒山(コウザン)から帰る大旅行であった。
さらに、紀元前106年、30歳の時、武帝の南方の巡幸にも従った。南郡、九疑山(キュウギザン)、廬山(ロザン)を過ぎ、中国の東にある海を見た後で、泰山へもまた行った。
紀元前105年、31歳の時にも、武帝の巡幸に従い、甘粛(カンシュク)から河東(カトウ)まで赴いた。
すでに、司馬遷は当時において、有数の大旅行者となっていた。
司馬遷の二大事業
紀元前104年、32歳の時に、ついに生涯の二つの大事業の一つを完成させる。
それは、「太初暦(たいしょれき)」という暦(こよみ)であった。
司馬遷はこの「太初暦」の主な推進者の一人であり、後に、「私は(同僚の)壺遂(コツイ)とともに律暦(りつれき)を定めた」と豪語するほどの役割を果たしていた。
司馬遷の家は、元々、歴史ばかりでなく、暦を定めるために必要な「天文」を扱う家であり、父の遺言である「先祖の事業を継ぐ」という言葉に沿うものであった。
さらに、司馬遷は父が書き残していた歴史書である『史記』の続きを書くという大事業に着手する。財産を使いつくして司馬遷が集めてきた史料や、各地の旅行の時に聞き出した古老の話はすでに膨大なものとなっていた。
司馬遷は史料を取捨選択し、整理にあたった。司馬遷は分かりづらい部分は直したが、あくまで、史料はそのまま残すつもりであった。
ただし、武帝の巡幸は相変わらず続いていた。司馬遷は、例年にわたるその巡幸に従ったものと考えられる。
司馬遷の性格
司馬遷は感情が豊かな人物であった。よく怒り、かつ、情愛に満ちていた。
彼の文章は全て、彼の感情を乗せていた。変化が豊かであるという反面、句が不ぞろいでばらつきが多かった。
特に、すぐれたもの、変わったものを好み、なかでもすぐれた才能を持つ人間に対して、多くの愛情を示した。人格については気にいらない人物であっても、その才能を積極的に認めた。
司馬遷は、法律で人を縛ろうとする法家(ほうか)や酷吏(こくり)の人間を嫌っていたが、その才能を認め、美点を積極的にほめている。特に、世の中の規格を破り、悲劇の最期をとげた人物に感情移入していた。
そのため、司馬遷は友情を求め、友人を大事にした。司馬遷の友人として知られる人物には、任安(ジンアン)や田仁(デンジン)といった人物がいるが、彼らはいずれも義侠心で知られた人物であった。
感情が豊かで、友情を大事にし、利益のない相手でも積極的にその才能を認め、悲劇の人物に感情移入する司馬遷は、宮廷で仕えるには余りにも「わざわい」に遭いやすい危うい性格であった。
運命の「李陵」事件
武帝の治世は、ひたすら続く外征による財政危機と、大幅に広くなった国土の統治のために、次第に暴政の色合いが強くなっていた。桑弘羊(ソウコウヨウ)の「平準政策」も漢の民をただ苦しめるものに変わっていた。このため、司馬遷は批判を込めて、後に、「平準書」を『史記』に加えた。
次第に、武帝が用いる漢王朝の法は厳しいものとなり、法を厳しく適用し、多くの人を重刑と財産没収に追い込むような「酷吏(こくり)」の存在が目立ちだした。
紀元前99年、武帝は漢王朝の宿敵である「匈奴」を討伐させようとして、討伐軍を送っていた。討伐軍の中に李陵(リリョウ)という武将がいた。李陵は、司馬遷が見たことがある漢の名将の李広の孫にあたる。
だが、李陵は不運にも圧倒的大軍を有する匈奴の騎兵に包囲される。李陵は奮戦したが、完全に包囲され、やむなく降伏する。
この報告を聞いた武帝は激怒した。李陵は武帝の前で、大言をしたことがあり、小数とはいえ、独立して軍を任されていた。武帝は李陵が自殺せずに降伏したことが許せなかった。
創作では親友とされることも多いが、司馬遷は李陵とは別に親しい仲ではない。
だが、清廉ですぐれた人格と才能を有した李陵の奮戦が無視され、いつわって降伏しただけで、もどるつもりかもしれない李陵が罪されるのは耐えられなかった。
また、李陵は李広の孫である。漢の名将である李広の家が絶えることは司馬遷には見過ごすことはできなかった。。
そこで、司馬遷は李陵を弁護することにした。太史令はそれほど重要な役職ではない。だが、司馬遷は武帝へと進言した。
「いま、多くの人が李陵の悪口を言っています。しかし、李陵はいにしえの名将よりすぐれた人物です。敗れはしましたが、機会を得てから、後日、帰国しようと考えているのでしょう。あれほど、「匈奴」をいためつけた功績については、むしろ、天下に誇っていいものです」
しかし、この言葉は武帝のさらなる怒りに火をつけることとなった。
武帝は、自分の寵愛した李夫人の兄である李広利(リコウリ)に大軍を任せて、勝利を得られないことにいらだっていた。
司馬遷の言葉はこのことを思い出させ、また、遠回しの皮肉と思われたようであった。
司馬遷は37歳となっていたが、史料や書物を得るために財産を使い果たしており、家は貧しかった。罪を償う金を出せるはずもなかった。
司馬遷の友人であった任安や田仁もまた、武帝に仕えており、司馬遷よりも高い地位にあった。
しかし、義侠心に厚いはずの彼らも武帝の怒りを恐れ、司馬遷をとりなさなかった。また、罪をつぐなうための金もくれなかった。
司馬遷は地位も低く、勢力もなかったので、高官や貴人たちに助けも求められなかった。
年が過ぎて、紀元前98年、武帝はもどってきた捕虜から李陵が匈奴に協力しているという誤った報告を聞いた。武帝は激怒して、李陵の一族を滅ぼしてしまう。武帝の怒りはおさまらず、司馬遷は「腐刑(ふけい)」に処されることとなった。
「腐刑」とは、「宮刑」ともいい、男性の股間の一物を切り、生殖能力を奪う刑罰であった。司馬遷としては、人間としての最低の尊厳を奪う最悪の刑罰である。
しかし、司馬遷には父から託された歴史書を記すという使命がある。不朽の名作となる歴史書『史記』は完成間近であった。
司馬遷は怒りをこらえ、「腐刑」をうけいれた。
司馬遷、38歳のことである。
中書令となる
司馬遷が入獄してから4年が過ぎた。
この事件と体験は司馬遷の精神に重大な影響を与えたが、司馬遷の歴史に対する情熱は衰えなかった。
紀元前96年、40歳の時に、大赦が行われた。司馬遷は、武帝に仕える官官の長である「中書令(ちゅうしょれい)」に任じられた。
「中書令」とは政府から出されるあらゆる書類を取り扱い、皇帝である武帝に奏上するという皇帝の秘書の長のような存在であった。これにより、あらゆる臣下からの奏上や皇帝からの詔は、司馬遷が扱うこととなった。
司馬遷としては、屈辱以外何ものでもなかったが、もはや、大臣といってもいい重要な役職である。司馬遷の才能は、実は武帝からも認められていた。
だが、司馬遷にはもうどうでもいいことであった。
司馬遷は、変わらず武帝の巡幸に従ったが、歴史書の完成ばかりが急がれた。
紀元前93年、43歳の時になって、かつての友人であった任安から手紙が来た。重要な立場である中書令となった司馬遷に、すぐれた人材を求めて推薦するように勧める内容であった。
かつての友人のいまさらな頼みを、司馬遷は恨みと痛憤に満ちた長い言葉をつづった手紙を返して断る。(後述、「任安への手紙の内容と時期について」参照)
『史記』は完成していない。司馬遷はいまだ、生きる必要があった。他のことに費やす時間などはなかった。
『史記』の完成と司馬遷の死
紀元前92年、44歳の時、また、事件が起きた。いわゆる「巫蟲(ふこ)事件」である。
武帝の晩年の時代には、「巫蟲」という呪人形を使い、相手を呪詛する迷信が流行っていた。このような行為をすれば、一族は処刑となるにも関わらず。
これは同時に、相手をおとしいれるために、便利な手段でもあった。これを使って、相手を呪詛したり、呪人形を相手の庭や家に埋めて置いて破滅に追いやったりする事件が相次いでいた。
紀元前91年に、武帝の臣下である江充(コウジュウ)が「巫蟲」を利用して、対立していた武帝の後継者である「太子」(姓名は劉拠(リュウキョ))をはめようとした。江充によって、おとしいれられて処刑となったものは数万人にも及び、太子にも取り調べが及んだ。
このままでは、証拠を捏造されて破滅すると感じた太子は、江充を切り捨てる。太子が反乱を起こしたものと考えた武帝は、太子の討伐を命じた。
武帝と太子の兵は争い、死者は数万人にも及んだ。太子は敗走し、長安から脱出した。この時、太子を見逃したのが、司馬遷のかつての友人であった任安と田仁であった。
二人の行動はそれなりに義侠心からであったが、彼らもまた武帝の怒りを買い、「腰斬(ようざん)」という重い刑罰に処された。司馬遷に二人を弁護したという事績は残っていない。司馬遷は、かつて自分を見捨てた友人のために命を投げ出す気持ちはなかった。
紀元前90年、司馬遷が46歳の時に、李夫人の兄にあたる李広利が匈奴に敗れて降伏した。最後にこのことを書いて、司馬遷は『史記』を完成させた。
司馬遷はしっかりと「自序」を書き、『史記』の一部は名山に隠し、一部は長安に置いた。
その後の司馬遷の事績は伝わらないが、この後、数年間以内に死去したものと考えられる。
評価
司馬遷の書いた『史記』は司馬遷の外孫の代になって、前漢の宣帝(せんてい)の時代に、世に知れ渡った。
王莽が建国した新王朝の時代には、司馬遷の子孫が探し出され、「史通子(しつうし)」の称号を与えられる。
司馬遷の列伝は『漢書』に残った。『漢書』を記した班固(ハンコ)は司馬遷をこのように評している。
「司馬遷の歴史記録に関する論議は細かいが、経書(儒教の経典)などからの史料の抜粋について、不注意であり、いいかげんであり、史料を勝手に扱っている。また、道徳の教えとしては、老荘思想を重んじ、儒教を軽視した。
だが、多くの人物が歴史家としての司馬遷を評価している。確かに、司馬遷は雄弁であるが、軽薄でなく、質実であるが、野卑ではない。
文章は率直であり、扱って事実は堅実である。美しいことは捏造してはおらず、悪いことを隠してはいない。それゆえにその書は『実録』を呼ばれるのだろう。
だが、彼はそれでも自分を危害から守る方法を悟り得なかったのだ」
と評している。
司馬遷は、班固からは厳しい評価は得ており、歴史記述の粗さについては、確かに批判はある程度はあたっている。
しかし、班固自身もわざわいから免れておらず、司馬遷の受けたわざわいは、王朝に仕える歴史家の宿命といえる。
また、司馬遷の記述はかなり正確であり、できるだけ記録通りに記そうという姿勢が見られる。
そのため、儒教や漢王朝のために記述の一部を改ざんしたことが判明している『漢書』と比べても、『史記』はもっとも粉飾が少ない歴史書であると研究者からも評されている。
小説家の司馬遼太郎のペンネームは、司馬遷に由来している。wikipediaによると、「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」だそうである。
司馬遷について
司馬遷の先祖
司馬遷の記述によれば、司馬遷の先祖は伝説の帝王である顓頊(センギョク)・尭(ギョウ)・舜(シュン)の時代から伝わる家系であり、当時から天文と地上のことに関する職務にあたっていたらしい。ただし、この時代については、司馬遷も詳しい知識はもっていなかったようである。
周代になって「司馬」氏を名乗り、周王朝の歴史を扱う役職になったという。
その後、春秋時代となり、一族は分かれて、晋や衛、趙、秦といった諸国に分かれ住むこととなる。
戦国時代になって、秦にいた一族から、名将として知られる司馬錯(シバサク)が登場する。これが司馬遷の直系の先祖である。司馬錯は蜀を討伐した後、蜀を統治する。
司馬錯の孫が、司馬靳(シバキン)といい、秦の名将である白起(ハクキ)の武将となった。
長平の戦い(白起が率いる秦軍が趙括(チョウカツ)率いる趙軍に大勝利し、45万人を生き埋めにした戦い)の勝利後に、司馬靳は白起とともに自殺を命じられている。
司馬靳の孫が司馬昌(シバショウ)である。鉄を扱う役人の長となった。
司馬昌の子を司馬無択(シバムタク)という。漢王朝に仕え、市場の長となった。
その子が司馬喜(シバキ)である。漢から五大夫という爵位を得ていた。
この司馬喜の子が、司馬遷の父にあたる司馬談である。漢に仕え、紀元前140年から紀元前110年まで「太史」の地位についていた。
司馬談は、天文や易を学び、「道家」の教えを受けて重んじていた。司馬談はすぐれた学者であり、「道家」だけでなく、「陰陽家」、「儒教」、「墨家」、「法家」、「名家」の考えにも通じていて、その五つの思想について、長所と短所を論じている。
ただ、「司馬」姓で、歴史家であったものは司馬談、司馬遷親子より先に記録がない。
また、代々の歴史家であるならば、司馬錯、司馬靳の代の時の蜀討伐や蜀を統治した話、長平の戦いなど秦の戦争における記録が詳細なものになるはずであるが、『史記』における記録は簡素なものである。
反面、後世の「正史」ではほとんど記されることがなかった「貨殖列伝」の中で、司馬遷は当時の経済や商売のあり方についても論じており、鉄を扱う役人の長である司馬昌や市場の長である司馬無択の子孫であることは、とても納得できる。
そのため、司馬遷が先祖を飾っていたかどうかは別として、司馬遷の先祖が歴史家として歴史の記述を行いはじめたのは、それほど先の代のことではないのではないか、と考えられる。
『史記』を書いた理由
司馬遷が『史記』を書いた理由は、本文の通り、父の司馬談の遺言によるものであるが、それ以外の理由も『史記』において、司馬遷は記している。
司馬遷は、同僚の壺遂(コツイ)の質問に答える形で、
「(『春秋』を書いた孔子の時代と違って)、現在は漢王朝として名君が統治し、すぐれた人物が統治している世であり、(孔子が書いたと伝えられる)『春秋』のような歴史書を書いて道徳を教える必要はない。
しかし、だからこそ、この漢王朝の素晴らしい治世と盛んな徳を後世に伝えず、その功臣や世家、すぐれた人物の事業を記述しないでおき、さらに父の遺言を忘れたなら、これ以上、大きな罪はない。
そこで、私は過去の出来事の家系と年代記(や様々な書物)を整理して、記しておくことにしたのだ。孔子のように歴史書を作ったわけではない」
と言っている。
なお、司馬遷は孔子が『春秋』を書く時に、話の創作をいれたとは考えていないが、道徳を教えるために自分の解釈をいれた、とはみなしていたようである。
司馬遷は孔子とは違い、独自の解釈は『史記』の中にはいれていないと主張している。
この言葉を信じれば、司馬遷が『史記』を書いた理由は、王朝の命令によって書かれた後世の「正史」とはかなり異なる。
司馬遷が全くの嘘をつく理由は乏しいため、司馬遷の書いた『史記』について、後世の「正史」と同列に粉飾や創作が行われたと考えることについては、かなり注意を要する。
任安の手紙への返事の時期について
司馬遷の残した貴重な記録として、友人であった任安の手紙に対する司馬遷の返事が残っている。
内容は、「国家のために人材を推薦したらどうか」という任安からの手紙に対して、司馬遷から、
「「宮刑」を受けて、宦官となり、生き恥をさらしています。そんな自分が人材など推薦できるわけがありません。私は国家のために、何も功績も残せていません。そんな自分が語ることなどはあるはずがないでしょう。
朝廷に仕えて、忠誠を尽くしたつもりでしたが、誤解をうけてしまいました。李陵を弁護したため、武帝の怒りを買い、刑罰を受けてしまいました。
私の父は、天文と暦を扱っていました。これは、占い師のような立場で楽師と俳優と近い扱いを受けていました。そんな地位をついだだけの私が死刑になっても誰も気にしないでしょうね。そして、「腐刑」を受けることなど、本当に死ぬ以上の恥辱でしたよ。
そのような私が生きているのは、私の著作がまだ完成しておらず、後世に伝わらないことを恐れたからに過ぎません。私の著作は、評価は死後に決定されることでしょう。
私の気持ちを書き尽くすことは不可能です。そのため、簡単に述べておきます」
という趣旨の簡単といいながら、かなりの長文で、司馬遷自身の苦しい思いを伝えた手紙である。
この司馬遷の返事が書かれた手紙について、古来の説では、この手紙に「あなた(任安)は、現在、恐ろしい罪を背負っています。(死刑が行われる時期である)冬の終わりが近づいています」という文言があるため、任安たちが処刑された紀元前91年のことであるとされていた。
また、任安の手紙も、実は、任安自身の助命を願って、司馬遷へ向けて書かれたものという説がとなえられていた。
しかし、近年の説では、この手紙に、司馬遷がすぐに手紙に返事を書かなかった理由として、「帝(武帝)に同行して東に旅しなければならなかった」と書いているが、武帝は紀元前91年も紀元前92年も東へ行っておらず、最も近くに行った時は、紀元前93年のことである。
そのため、この手紙が書かれたのは、紀元前93年のことであり、実際に【任安】が処刑された紀元前91年やその前年にあたる紀元前92年ではないと考えられる。
武帝は任安に対しても、「死に相当する大きな罪をたくさん犯したが、いつも許してきた」と語っていた。そのため、任安は、司馬遷の手紙が書かれた年にも死刑になりそうな罪状を得ていたことが分かる。
任安は確かに司馬遷の友人としては薄情な人物であったかもしれないが、武帝から罰せられる臣下は相当に多く、任安も相当に危うい立場であり、最終的には太子を見逃し、武帝に処刑されている。
そのため、任安の義侠心が形だけだったと評することには注意を要する。
『史記』は武帝に対する「誹謗の書」なのか?
現在では、中国の歴史書の中でも相当に高く評価される司馬遷の『史記』であるが、古来より、司馬遷が漢王朝や武帝を批判するために書かれたという説が存在する。
これは、記録に残る限り、班固の『典引』に引用された後漢王朝の明帝(姓名は劉荘(リュウソウ))の詔を原因とする。
その詔によると、「司馬遷は書物を書いて名をあげたが、刑罰を受けたため、微妙な言葉を用いて(武帝の)時代を非難した。正しい学士ではなかった」としている。
これを受けて、班固もまた、『漢書』において、司馬遷を批判はしているが、さすがに班固は歴史家の意地を見せ、司馬遷は正直に書いているだけであると、遠回しに反論している。
だが、後漢王朝の公式見解であるため、その後も、「三国志」で知られる王允(オウイン)が『後漢書』において、「武帝は司馬遷を処刑しなかったので、誹謗の書(『史記』)を書かせ、後世に伝わることとなった」という発言までしている。
正史『三国志』においても、魏の皇帝である曹叡(ソウエイ)と王粛(オウシュク)も「司馬遷が武帝を恨んで、批判した」という話題について、会話をしている。
『史記』に関するこういった評価は、南朝宋(劉宋)の時代に裴松之(ハイショウシ)が王允の発言を否定しているため、この頃にはなくなっていたと思われるが、かなり長い間、信じられたようである。
後漢の明帝の頃は、漢王朝を称えるための歴史記述と、漢王朝に都合のよい儒教思想の徹底が求められており、そのために班固の記した『漢書』もかなりの妥協を強いられている。
ただ、司馬遷が『史記』の「平準書」などで、漢王朝はともかく、武帝に対しては強い批判を加えていると主張している研究者も多く存在している。
関連動画
創作物における司馬遷
北方謙三『史記 武帝紀』
タイトルに『史記』が入っているが、司馬遷が生きた武帝の時代を描いた長編小説。
主人公は、武帝、衛青(エイセイ)、霍去病(カクキョヘイ)、李広、張騫(チョウケン)、頭屠(トウト、架空の匈奴の武将)、李陵、蘇武(ソブ)、司馬遷、桑弘羊、霍光(カクコウ)と多数いる。
司馬遷は主人公の一人である。
司馬遷は、父の意思を継いで歴史書を書くことを目指す。若い頃は理想主義者で、正論が多く、かなり煙たがれる存在であった。なお、史実通り、李陵とは深い交際はなかった。
李陵を弁護し、罪を得てからは、一転して、ハードボイルドな性格となり、淡々と感情を見せずに中書令の業務をこなし、ひたすら、『史記』の完成を目指す。
史実とは違い、武帝も『史記』を読んで高く評価した上に、『史記』は司馬遷に生前に多くの人に読まれ、流通することになり、充実した人生を全うする。
関連書籍
『司馬遷』 (徳間文庫) 李 長之 (著), 和田 武司 (翻訳)
仮説は大胆であるが、時代、地域、家学の3つの視点から論理的に組み立てていき、説得力のあるものとなっている。
著者によれば、司馬遷の本質は「浪漫的自然主義」であり、「孔子の古典精神への傾倒」があったとみなしている。また、多数の史記研究者とは異なり、司馬遷には露骨な「風刺や称揚の精神」があったと論じている。
著者は、中国の文化大革命に巻き込まれ、家財を没収され、家を占拠され、20年間もの間、「労働改造」の対象となり、大学の掃除をさせられた。
解放されてからも、昼は拘束され、夜に学習ノートを書いたが、最後はストレスと生活苦による病魔によって死去していることが、訳者のあとがきで分かる。
なお、この記事はこの著書をベースとしている。
『司馬遷』 (研文社) 岡崎 文夫 (著), 藤田 勝久(解説)
近年、復刻となった冊子。エッセンスだけを要約しているため、それほど厚くはなく読みやすい。
さすがに内容は難しいが、全てが専門的というわけではなく、中国史や中国思想、文化の理解にある程度の自信がある人は挑戦してみよう。
内容は、「①司馬遷の生涯」、「②司馬遷に与えた時世の影響」、「③史記に就いて」と三つに分かれて解説している。
②については武帝時代について司馬遷とからめて論じており、「武帝の外征」、「経済的な動き」、「政治の動き」、「儒学の勃興」についてそれぞれ論じられている。
そのため、武帝の時代についての理解を深めるのにとても便利である。
『司馬遷とその時代』 (東洋叢書) 藤田勝久
近年の研究結果や考古学の発見、歴史地理と実地調査を反映させて、司馬遷の生涯について、新たに研究した書籍。著者自身もかなりの年月をかけて実地調査をしている。
二つある司馬遷の生年説をA説とB説に分けて、それぞれ検討している。著者は、この記事でも採用している司馬遷が若いB説の方が説得力を感じている。
巻末の参考文献がとても充実している。
この記事でも一部、採用している部分がある。
関連項目
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