嘉吉の乱とは室町時代中期にあった反乱であり、室町将軍の権勢が下り坂になるターニングポイントとなってしまった事件である。
そもそもどういう経緯があったのか
室町幕府は内乱からスタートし、また鎌倉幕府と違い一からのスタートというわけにもいかなかったので、トップである将軍の下に強い力を持った身内を大量に抱えてしまうことになった。
その弊害の顕著な例が幕府を二つに割ってしまった観応の擾乱であり、その次の足利義詮の代にも当初権力を握っていた細川清氏、仁木義長、畠山国清がそろいもそろって順次失脚していくとかいうものすごい内ゲバを続けていったのである。
どう考えてもわかる通り、これは将軍にとって非常によろしくない。というわけでこんな軍閥の親玉みたいな危うい状況を改善し、早いとこ内政のトップになるために、歴代の将軍は考えた。その結論……それは…隙を見せたやつから順次ぶん殴って自分の都合のいい存在に挿げ替える…まさにこれが以来続く室町将軍の課題になったのである。
というわけでまずは教科書でおなじみの足利義満。彼の父親の足利義詮の代には敵側についていた山名や大内といった元身内を必死に頭下げて味方に引き戻した…でもそんな大勢力いつまでも放置してるわけないだろ!と言わんばかりに行われたのが以下のとおりである。
※表は原則として最初に登場する人物を基準とする
年 | 大名 | 国 | 以前の守護 | 事件 | 以降の守護 | 補足 |
---|---|---|---|---|---|---|
1389 | 土岐氏 | 美濃 | 土岐康行 | 乱 | 土岐頼忠(伯父) | 尾張はその後斯波氏が入り、美濃と伊勢の二家に分断。 |
尾張 | 土岐満貞(従兄弟) | |||||
伊勢 | 仁木満長→土岐康行 | |||||
1390 | 山名氏 | 但馬 | 山名時熙 | 乱 | 山名氏清(叔父) | 惣領となった末弟の系統への不満が爆発したとされるが、話はまだ終わらない。 |
伯耆 | 山名氏幸(義弟) | 山名満幸(従兄弟) | ||||
1391 | 山名氏 | 但馬 | 山名氏清 | 乱 | 山名時熙(甥) | 足利義満が前と逆の陣営の味方についてしまった。これが世にいう明徳の乱で、ふたを開けてみれば山名一門には但馬、伯耆、因幡の3国しか残らなかった。 |
丹波 | 細川頼元 | |||||
山城 | 畠山基国 | |||||
和泉 | 大内義弘 | |||||
伯耆 | 山名満幸(甥) | 山名氏幸(甥) | ||||
丹後 | 一色満範 | |||||
出雲 | 京極高詮 | |||||
隠岐 | ||||||
美作 | 山名義理(兄) | 赤松義則 | ||||
紀伊 | 大内義弘 | |||||
因幡 | 山名氏家(甥) | 山名氏家(続投) | ||||
1395 | 今川氏 | 九州 | 今川貞世 | 更迭 | 渋川満頼 | |
1399 | 大内氏 | 周防 | 大内義弘 | 乱 | 大内弘茂(弟) | 応永の乱である。ただし別の弟の大内盛見が盛り返し、周防・長門に豊前・筑前もセットで復権した。 |
長門 | ||||||
和泉 | 仁木義員 | |||||
紀伊 | 畠山元国 | |||||
石見 | 京極高詮 |
、という具合に土岐は分断、山名は三分の一に縮小、今川は東海道の一勢力程度に弱体化、大内は畿内への接続を絶たれる、と大成功に終わった。南北朝終結に貢献したとかそんなの関係ないのである。
さて次に足利義持である。彼はいくら何でも親父のやり方はワンマンすぎる、と足利義満の路線から軌道修正を行ったものの、各大名への徹底的な痛めつけっぷりはそっくりそのままであった
年 | 大名 | 国 | 以前の守護 | 事件 | 以降の守護 | 補足 |
---|---|---|---|---|---|---|
1414 | 斯波氏 | 加賀 | 斯波満種 | 更迭 | 富樫満春 | 富樫満成は義持の近習で、のちに怪死を遂げる。 |
富樫満成 | ||||||
1427 | 赤松氏 | 播磨 | 赤松義則 | 家督介入 | 赤松持貞(従甥) | 赤松持貞は義持の近習で、結局義持が満祐を取って彼を始末したため未遂。 |
備前 | 赤松満祐(子) | |||||
美作 |
このころになると将軍に直で使える近習を隙あらば大名にとって代わらせようとする代々続けられるパティーンが出来上がった。とはいったもののまだまだ大名たちへの遠慮が感じられ、無理を通せていないようである。
しかし、この次にこの路線を発展させたうえ大名に容赦ない、とんでもないのが出てきてしまうのである。
足利義教の野望
というわけでこの次に出てくるのが、そうだね、足利義教だね。
くじ引きで選ばれたのが影響したんだかしてないんだかわからないが、初期は自分より年長の宿老たちに遠慮しがちだった彼も、そうした人々が死んでいくにつれ、どんどん集権化を図り守護たちの後継問題に介入していくのである(泥沼化している関東・九州対策っていうのはあるけどね)。
年 | 大名 | 以前の家督 | 本来の後継者 | 介入後の家督 | 補足 |
---|---|---|---|---|---|
1428 | 山名氏 | 山名時熙 | 山名持豊(三男) | 山名持熙(次男) | 山名持熙は義教の近習で、結局時熙が回復してしまったため未遂、おまけにその後持熙も切り捨てられて結局持豊が継ぐ。 |
1431 | 大内氏 | 大内盛見 | 大内持盛(甥) | 大内持世(甥) | 少弐たちとの戦いで戦死した盛見に代えて…というタイミングで、あくまでも疑惑レベルである。 |
1433 | 畠山氏 | 畠山満家 | 畠山持国(長男) | 畠山持永(次男) | |
1433 | 斯波氏 | 斯波義淳 | 斯波持有(弟) | 斯波義郷(弟) | 義郷はこの二年半後に落馬事故で死亡 |
1439 | 京極氏 | 京極持高 | 京極持清(弟) | 京極高数(伯父) | 京極高光(父)→京極持高(子)の際に高数が代わった可能性も |
一方で大名を強引にデストロイすることで配置替えをすることもあった。
年 | 大名 | 国 | 以前の守護 | 事件 | 以降の守護 | 補足 |
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1440 | 一色氏 | 丹後 | 一色義貫 | 殺害 | 一色教親(甥) | 一色教親は義教の近習。武田は殺害の実行者。 |
若狭 | 武田信栄 | |||||
三河 | 細川持常 | |||||
1440 | 土岐氏 | 伊勢 | 土岐持頼 | 殺害 | 一色教親 | 伊勢守護であった世保家はこれでほぼ没落。 |
1441 | 富樫氏 | 加賀 | 富樫教家 | 更迭 | 富樫泰高(弟) | 教家の場合は追い出されただけなので、この6日後非常にめんどくさいことに。 |
また大名ではないものの、裏松義資を筆頭にした将軍家の姻族である日野流勢力の排除(中条氏や畠山氏の傍流といった近習層も盛大に巻き込まれた)、南朝皇統への締め付けも彼によって行われている。
ここまで見ればわかる通り、中央にいた大名はもう後細川か赤松か、といった具合なのである。さらに言ってしまえば赤松はつい最近未遂があったばかりなのである。
ところで近習って何?
近習とは、足利義満の代から次第に形作られてきた守護たちを飛び越して将軍に直接近侍する武士たちのことである。
その構成員はおおよそ
- 各守護の子弟、分家
特に佐々木、赤松、土岐などの非一門の外様が圧倒的で、僅かながら京都小笠原氏、京都武田氏、国清流畠山氏、細川野州家、氏冬流山名氏といった人々が続く - 政所奉行人、足利氏の根本被官
- 小早川、小串、熊谷、朝日、曾我といった守護に被官化されなかった将軍への直勤御家人
ここまでみて、あれ?…どこかで見たような…と思うのももっともだが大体後に奉公衆と呼ばれる存在である。
とは言ったものの足利義政の代には出来上がる、職能ごとの「~衆」への分化はまだ起きてるんだか起きてないんだか…といった状態で、また役割によって上下差が出来たりといったこともなく、色々と業務を兼ね備えた、微妙にまだ違う存在だったらしい(これに関しても体系的な研究は半世紀近く前からないため、現在の認識とは微妙に違うかもしれない)。
ここまでに名前があがっていないが、例えば石見守護も山名熙貴といった具合に近習に守護が移っていた。
そしていよいよ乱へ…
さてこうして中央で集権化を図っている間に、関東ではついに歴代の悲願であった鎌倉公方の没落が永享の乱、次いで結城合戦で実現しちゃったのである。また大和永享の乱の時、都から消えて各地を逃亡していた弟の義昭もようやく島津が始末してくれたようである。これでいよいよめでたしめでたしって感じで、元号が嘉吉に変わる。
それはそれとして、次のターゲットはやっぱり赤松だろってことで、惣領は嫡流に代わって近習の赤松貞村(春日部家・持貞の甥)が守護につく、という噂も漂っていたらしい(さすがに痴情のもつれは文学的表現だろう…たぶん)。
というわけで殺られる前に殺ってやる!、と赤松満祐の息子である赤松教康の家で6月24日に行われた戦勝パーティーで一気に襲撃を行う。大名の多くは戦闘そのものから逃げ切ったものの、足利義教、山名熙貴、京極高数、大内持世が死亡、細川持春は片腕を失う、といった具合に将軍本人と彼に仕えた近習たちは戦闘に参加して討ち取られてしまったのである。
赤松は嫡流とそれに親しい一門が結集、後南朝の協力は得られなかったものの足利直冬の子孫・義尊を旗頭に本国に軍を構えた。
そしてここで時の管領細川持之は、とりあえずのところ将軍を嫡男の足利義勝を修め、さらに赤松退治の足固めのためにある決定を行う…足利義教に排除された人々の復権である。
この決定自体は流れからして仕方ないといえば仕方ないのだが…なんだかいろいろとめんどくさい問題が関東と畠山と富樫に生じたのは、のちの伏線といえば伏線である。
乱そのもの
ぶっちゃけあっけなく終わる。だって近習やってた赤松庶流の面々ほとんど味方してないし。
細川持常、細川成春、細川基之、赤松貞村(春日部家)、赤松持家(有馬家)、武田国信、山名持豊、山名教清、山名教之、といった人々に攻められて9月10日にはもう赤松満祐が自害している。もっとも分家のうち大河内家の赤松満政がこっそり赤松満祐の甥赤松時勝を助けていたことからまためんどくさいことになるのだがそれはそれ。
とりあえずこの結果、播磨守護が山名持豊、美作守護が山名教清、備前守護が山名教之の手にわたる。……あれ?六分の一殿復活してね?
というわけで山名がだいぶ東に進出して、とうとう近国に接してきたこともこれまためんどくさいことになるのだがそれはそれ。
その後
復権した畠山持国が細川と派閥抗争してた割りに自分の後継者のけじめつけられなかったとか、細川勝元が山名に接近するも復権したい赤松と現状維持したい山名の争いに胃を痛めるとか、やたらめったらどこでも後継争いが繰り広げられるとか、いろいろあるけどそれは応仁の乱の勉強してくれ。
ただここで一つ言えることは将軍の基本戦略は足利義教があんな死にかたしても続けられていったことである。しかし足利義政もある程度成果を上げたものの、もう時代遅れといわんばかりに守護からやり返されて側近を切り捨てる羽目になったり、またこのころもう世紀末になってた関東への戦力のために守護たちに気を遣うことになったり…といった具合もあってすごい中途半端なものになってしまった(そしてやる気を失った)。
応仁の乱を経て足利義尚の代になっても依然として努力が続けられて、奉公衆を筆頭にした近習を取立てて国にこもった守護たちに代えようという構想も、本人があっけなく死んだことから失敗に終わる。
そして明応の政変で家督争いレベルじゃない、本当に将軍家が二つできちゃうことになってそれどころじゃなくなり、もう完全にこの路線は破綻しちゃうのである。
赤松氏のその後
事実上の当主である赤松満祐は乱で死亡、その子である赤松教康は村上源氏頼りに北畠氏を頼るが受け入れられず死亡、満祐の弟のうち赤松義雅は息子の赤松時勝を託し死亡、別の弟の赤松則繁も一時期朝鮮にわたって倭寇のように暴れるも結局送り返されて討伐、といった具合に嫡流はあらかた討ち取られてしまった。
さらに山名と播磨を半分に領有することになった大河内家の赤松満政は結局山名に追い落とされた挙句討伐され、再興を約束された満祐の甥・赤松則尚も山名に討たれることとなり、一門の多くが生き残ってはいたもののなかなか家名復興には至らないままだったようだ。
しかしここで転機が訪れる。1443年に後南朝と日野有光が蜂起する禁闕の変が起こったのだ。変自体はあっさり鎮圧されたものの、三種の神器のうち神爾が奪われたままになってしまう。そこに目を付けたのが山名氏の支配下で逼迫していた赤松旧臣たち、彼らは現地の協力も得て大和の後南朝の本拠地に侵入して戦闘、この1457年の長禄の変で無事神爾を取り戻したことでついに赤松時勝の息子・赤松政則が加賀半国の守護として復帰することとなった。
その後応仁の乱で旧領回復になるが、山名氏との泥沼の戦いに始まる赤松氏の苦難の第二幕が始まったにすぎないのをまだ誰も知らないのである…
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