|
山縣有朋とは、日本の内閣総理大臣(第3代、第9代)である。山県有朋とも。
概要
長州藩の足軽・山縣有稔の長男・辰之助として誕生。5歳で母と死に別れ、祖母に育てられる。父は奉行所の下級役人ながら国学に覚えがあり、その影響もあってか有朋はその生涯に数万の和歌を詠むほどであった。
20歳のころ長州藩の時勢調査のため伊藤博文らと京都へ行き、そこで知り合った久坂玄瑞らの影響もあり松下村塾、次いで奇兵隊に参加。奇兵隊では実質No.2の軍監を務めた。その後の戊辰戦争では越後・奥羽の平定に尽力した。
明治2年(1869)西郷従道とヨーロッパ諸国の軍事体制を視察すると、帰国後に徴兵令制定、近衛兵・鎮台設置などの軍整備を行った。西南戦争後、財政ひっ迫で恩賞がもらえなかったとして陸軍内で反山縣の声が上がり、精神不調となる。山縣はこの原因を同時期に白熱していた自由民権運動とにらみ、軍人訓戒(のちに軍人勅諭となる)を発令し軍紀の引き締めを図った。その後、陸軍参謀本部を設置しその初代本部長となる。後世の渾名である「陸軍の父」はこれをきっかけに陸軍に強い影響力を保持したことに由来する。この後も現役の軍人として、日清戦争では第1軍司令官として現地で指揮を取り(ただし病気のため3ヶ月で交代)、日露戦争では陸軍参謀総長として東京から満州軍を支援した。
明治18年(1885)第1次伊藤博文内閣の内務大臣に就任すると当時の井上馨外相の妥協的条約改正交渉が反対運動である三大事件建白運動などによって中止になるも、保安条例を発令してこれを鎮めた。また市制・町村制の制定にも携わった。
明治22年(1889)12月、1度目の組閣をすると、兼任した内務大臣の地位も使って府県制・郡制の整備、教育勅語の発布を行う。また第一回帝国議会中、朝鮮を「利益線」(ニュアンスとしては緩衝国に近い)と称して軍備予算の拡張を訴え、民党の反対に遭うも陸奥宗光農商務相らの工作によって修正予算案を可決させ、議会解散回避を達成すると総辞職。
次の第1次松方正義内閣には伊藤・井上・黒田清隆らとともに元勲として助言を与え(このことから「黒幕内閣」と揶揄されることもある)、次の第2次伊藤博文では司法大臣として入閣するも1年ほどで辞職、枢密院議長に転身。第2次松方内閣、第3次伊藤内閣では山縣自身は入閣せず、彼の子飼の官僚が数人いた。続く第1次大隈重信内閣では与党・憲政党が大隈派の旧進歩党と内相・板垣派の旧自由党とで内部分裂、山縣閥は外相としての入閣を許されなかった星亨と急接近、尾崎行雄文相の共和演説事件等も重なり倒閣につながった。
これを受けた元老からの組閣依頼を受諾、明治31年(1898)11月第2次内閣を組閣する。大臣を松方や西郷従道、山縣閥・藩閥官僚で固め、与党を作らなかった。懸案の軍備拡張と地租増徴達成のため星亨ら憲政党(名前は同じだが大隈派が憲政本党を結成し脱党している)と協力し、地租を2.5%から3.3%へと増やすことに成功し、見返りに憲政党の要求の一つであった衆議院選挙法改正(投票権を納税額15円以上から10円以上に減額)や府県制・郡制改革等諸々の地方改革制度を実現した。しかしその1月後に文官任用令の改正(党員が官僚になる際一定の学歴を持つこと等の条件を設けた)、のちに様々な内閣が倒れる要因となった軍部大臣現役武官制(陸・海相を現役の大将に限る)制定など、徹底的に政党排除をしたため市民の反発を招くが、治安警察法の導入でこれを取り締まると、憲政党は耐えかねて山縣の政敵・伊藤博文らと合流し立憲政友会を結党。これに怒った山縣は総辞職、次の総理にほとんどいやがらせで伊藤を指名した。
以後、大正12年(1922)の死までに元老・長州閥・陸軍閥の中心として強い政治的影響力を持った。
逸話
- 身長171cmの(当時としては)長身で、出っ歯であったため影で「反歯伯」と揶揄されていた。井上馨の見合いに参加するため大隈重信の家に行った際は廊下で女性とぶつかって前歯で怪我させたらしい。
- 同じ長州閥の伊藤博文とは政治的に逆の思考をもっていたが、仲は非常に良かった。日清戦争終結後司令官の役を降りた際に、互いに歌を送りあっている。1910年に伊藤がハルビン駅で刺殺された際には弔歌を送った。
「かたりあひて尽し丶人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
なお、この歌は元総理大臣・安倍晋三の国葬の際に菅義偉が弔辞内で引用した。 - 同年生まれの大隈重信(大隈が3月、山縣は6月生まれ)とは政治的に対立し、最初の政党内閣とも評される第1次大隈内閣組閣時には「明治政府の落城」と嘆いている。なお大隈とは没年も同じ。
- 非常に面倒見のいい人物で、桂太郎・寺内正毅・清浦奎吾・田中義一など後の総理大臣から、西周や森鴎外までを登用している。森鴎外の『舞姫』に登場する「天方伯」のモデルとされている。
しかし桂は山縣に反して立憲同志会という政党をつくるなど、後に政治的に対立するものも現れた。 - 大の政党嫌いで、普通選挙制や民主主義の台頭を嫌がった。政治的提携も憲政党の星亨や、立憲政友会の原敬など妥協できるもの以外拒んだ。
- のち立憲政友会会長、総理大臣を担う原敬のことを「屈指の人物」と評価しており、原内閣成立時には「能く出来た」と上機嫌だったそうである。当の原は山縣をそこまで良くは思っていなかったようだが、対外姿勢を評価しており、「山縣が生きている限り日米戦争は起こらない」と発言していた。原が暗殺された後に山縣は「原と云ふ男は実に偉い男であった。ああ云ふ男をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と評していた。
関連項目
第2代 | 第3代 | 第4代 |
- 1
- 0pt