大正デモクラシーとは、大正時代の日本で国民が起こした民主主義運動から始まる民主化現象である。
概要
日本は明治時代に入る前の時代では民主主義と考えは全く無かった。たとえば国民による政治への参画、主に行政における法律を作ったりする議会、その議員決める選挙といった民主主義の基本ともいえる参政権が無いどころか、参政権と言う概念すら知らなかった。幕末に江戸幕府が行ったヨーロッパ視察に参加した福沢諭吉らは初めて国民による議会や選挙と言うものを目の当たりにしたが、選挙も議会も全く知らなかったため、当時のイギリスの通訳に『選挙、議会とは何なのですか?』と聞いて壱から説明しなくてはならず解説が大変だったと言うエピソードもあるくらいである。
日本における民主主義の船出は世界から大きく遅れたガラパゴス化した概念の払拭からであった。
明治時代
江戸幕府が崩壊して明治維新に入ると、明治新政府を打ち立てた幕末の志士らは新政府の高官となり明治天皇の裁可のもとで政治を行っていたが、高官たちは徴税から財政運営まで政府の利権を握っていたため、現在の官房機密費のように勝手放題に金を使って贅沢な暮らしをしていた。まだ歳入と歳出を管理する現在の財務省の権利を握っていたのが政府の高官であり、それらの予算審議を行う議会が無かったからである。
西南戦争と秩父事件が終わって明治時代前期の反乱は収まったが、国民たちは政府の好き放題ぶりに対し、それまでの反乱ではなく言論で政府に立ち向かおうとする機運が高まった。士族の反乱のように暴力を持ち出すと政府の軍事力によって殺されてしまうからである。そのための国民の議会の設置と選挙権を要求する自由民権運動が盛んになり、明治政府の元高官であった板垣退助や大隈重信が中心になって国民運動を盛り上げた。明治政府は警官を使って厳しく弾圧したが、日本中で運動が盛んになると抑えきれなくなり1890年に第1回帝国議会が開催されて、日本における議会政治が始まる。これが民主主義の第一歩であった。
大正デモクラシー
大正時代に入るころには明治前期の自由民権運動が全国で波及した下地をもって、政治に対する批判や不満と言った政治への意見を国民が持つようになった。とは言うものの、実際には明治時代は飛躍的な発展を遂げたのは都市部だけで、地方の農村などは相変わらず江戸時代と同様で備中鍬や千歯扱きが相変わらず現役であった。農村の住人は日露戦争以降の増税ラッシュでロクに煙草すら吸えないほどの困窮ぶりであったが、それでも民権運動によって希望を持った農村の若者たちが民主主義を啓蒙して政治への主張を農民に広めたことで、農村でも民主主義への機運が高まり始めていた時期であった。
第1次護憲運動
当時の帝国陸軍が政府の西園寺公望内閣に対して陸軍の予算を引き上げろと要求してきた。当時の西園寺首相は日露戦争での国家予算16年分にもおよぶ19億円もの戦費のやりくりに困り果てており、陸軍も軍備削減の対象として予算10%減を決めていたため、当然ながら陸軍の要求など吞めなかった。西園寺が断ると陸軍省の上原陸軍大臣は大臣を辞めてしまった。当時は政府の軍部大臣は現役軍人の大将もしくは中将が就任する原則があり、西園寺公望は代わりの陸軍大将を立てなければならなかったが、陸軍は予算増額を渋る西園寺に対して大将を出すのを拒否したため西園寺内閣は組閣が出来なくなって退陣になってしまった。
西園寺内閣が倒れると、それを横目で見ていた元陸軍大将で元老の山縣有朋が動き出し、元陸軍大将で帝国陸軍とも仲が良い桂太郎を時期総理に抜擢して第3次桂内閣が誕生した。この西園寺内閣の倒閣から桂内閣までの陸軍のゴリ押しと陸軍にパイプを持つ元老の山縣有朋の思い通りに運んで政治が覆された経緯が明治憲法における立憲政治を完全に無視したものであったため、国民が猛反発して都市部の知識人や比較的裕福な中間層の市民を中心に憲法を守れと叫び、元薩摩藩と長州藩出身の元老が政治を牛耳る藩閥政治の打破を要求する国民運動が起きた。次第に運動はヒートアップし、国会議事堂を市民が取り囲む事態になった。
桂太郎は帝国議会を停会して国会をストップさせ、国民運動を止めなければ衆議院を解散すると脅したが、逆に桂太郎が国民の足元を見て脅迫したと見なされてさらに運動が激化してしまった。桂内閣は警視庁に命令して警官隊を送り込んで運動を暴力で潰そうとしたが、弾圧をやったことで新聞各社が写真付きで報道して騒ぎが余計に広まってしまい、警官隊を送り込んで弾圧すればするほど運動が激化する悪循環に陥ってしまい、桂太郎は総理を辞任に追い込まれた。在任期間は僅か62日で当時の短命内閣の日本レコード記録である。国民の民意による運動で政権が倒れた日本における初めての出来事であった。
山本権兵衛内閣
桂内閣退陣の後に成立したのは元海軍大将の山本権兵衛が元老に指名された山本内閣であった。
山本権兵衛総理は桂内閣の二の舞にならないよう、軍部大臣の現役武官制を廃止するなど国民が求めた民主主義のなかで実現できそうなものには対応していたが、まもなく海軍の汚職事件であるシーメンス事件が発覚してしまい、元海軍大将で山本総理自身も過去に外国の造船業者から賄賂を貰っていた疑惑まで浮上したために、再び山本内閣打倒の国民運動が始まり、総理就任1年余りで第1次山本内閣は退陣してしまった。
その後は元老は枢密院の清浦圭吾を総理に立てようとしたが、これが報じられると総理就任前から国会議事堂を取り囲むほどの大騒ぎになったために話は立ち消えになった。困り果てた山縣有朋らが選んだのは国民に人気が高い元立憲改進党の党首であった大隈重信であった。第2次大隈内閣の成立で国民運動は収まり、第1次護憲運動は収束に向かう。
大正米騒動
大正デモクラシーとは直接関係ない。
第1次世界大戦での日本の輸出増による貿易黒字で国内でインフレがおきて物価高になり、その一方で給料は全く増えなかったことから国民は窮乏していた。第1次世界大戦が終結してもシベリア出兵が行われて兵士たちのために米をシベリアに輸送するため、ただでさえ窮乏していたところで米の値段が当時の通常価格の2倍以上にも急騰したため貧しい国民たちは追い込まれて窮状を訴えるようになる。1918年7月、富山県の魚津市で女性たちが米の廉売を求めて米屋を襲撃したのを契機に各地で一揆や打ちこわしが発生、いわゆる暴動であったが米の価格低下を求める暴動は全国に波及して米屋や大商店に暴徒が押し寄せて店舗を破壊、放火、略奪が行われた騒動が発生し政府は軍隊を派遣して鎮圧にあたり9月の新米が出回る時期になってようやく騒動は下火になった。
この責任を取って寺内正毅首相が辞任して寺内内閣は総辞職したが、次に成立した内閣は立憲政友会の総裁で山本内閣の内務大臣を務めた原敬が抜擢された。原敬は元士族出身で爵位を一切持っていない平民であり元新聞記者という経歴の持ち主。平民が首相になったと国民は歓喜して大正デモクラシーの集大成が実現した。
原敬内閣
平民宰相の原内閣が成立したが、平民が首相になったと言っても政治体制は天皇による帝政で大正天皇がトップであり、その下には元老が居座り、元老の下には枢密院と貴族院がいて政策実行の際に裁可を貰わねばならず、民主主義を政治に反映するには厳しい状況であった。
しかし国民の間では東京大学教授の吉野作造が提唱する民主主義の原点である民本主義が浸透しており、国民は民主主義に完全に目覚めていた。民本主義思想は『国民が選んだ議員による議会で過半数の議席を取った政党が行政権を握って政治を行う』という戦後民主主義の政治体制の基本になった思想であり、これが国民に根付いたうえに平民の原敬が総理大臣になったことで、国民の間で原フィーバーが起きていた。しかし前述のとおり、原内閣は国民の期待に応えるのは非常に難しい状況にあった。
総理就任直後から原敬のもとには普通選挙の実現や政党政治の提言と言った様々な要求が飛び込んできたが、当然ながらすぐには実現できそうもない要求ばかりだったので対応には苦慮していたと言う。
労働運動から普通選挙運動へ
原内閣の誕生によって国民の間では政治運動の機運が高まっており、第1次世界大戦終結後の不景気と物価高騰、それに伴う労働者の低賃金の不満から労働運動が盛んになっており、国民の労働運動の高まりに対して財界からは労働運動の取り締まりを要求される板挟みの状況に追い込まれた。1920年に八幡製鉄所で発生した労働者1万人を超える大規模労働争議が起きた際には止むを得ず警官隊を送り込んで鎮圧したが、それが新聞などで全国に知られると原内閣への不満が強まり出して、今度は全ての成人男子に選挙権を要求する普通選挙を要求する運動が強まり、選挙で原内閣を正そうとする運動が起こるようになった。あまりにも運動が激しく鎮圧できるレベルではなかったために原内閣は従来の選挙権規定であった年間10円の租税納付条件を3円に引き下げて選挙権を獲得しやすくしたことで有権者は100万人から300万人に増えたが、これで国民が納得することはなく、普通選挙運動は収まらなかった。
ちなみに当時の1円は現在の貨幣価値に換算して6000円前後である。3円であれば現在の貨幣価値で2万円以下であるが、この程度の税金も納められないほど国民の所得は低かったのである。
これでも運動が収まらないと見るや原内閣は衆議院を解散させてしまい、衆議院選挙では立憲政友会は普通選挙を導入したら全く働いていない社会不適合者まで選挙権を得て政治を乗っ取り、富裕層の財産を奪うような共産主義の政治を行いかねないといった半ば脅すようなプロパガンダで富裕層や中間層をけん制したため、立憲政友会が衆議院選挙で勝利して普通選挙の実現は遠のいてしまい、原内閣も健在となった。
原敬暗殺事件
この立憲政友会の勝利で原内閣が盤石になったことで低所得層である多くの国民は期待を裏切られたことで原敬への不満は頂点に達した。1921年11月、原敬は東京駅を訪れた際に18歳の少年にナイフで刺されて殺されてしまう。原敬を殺さなくては民主主義政治は死んでしまうと思い詰めての犯行であったと言う。
原敬の急死によって代理で高橋是清が総理に就任したが、翌1922年には元老の山縣有朋が推薦する貴族院の加藤友三郎海軍大将が総理大臣になると、加藤内閣は閣僚を政府の役人と貴族院で固めて政党を締め出してしまい政党政治は途絶えた。国民の手によって自ら政党政治を閉ざしてしまったようなものである。
第2次護憲運動
1923年、関東大震災が発生すると加藤友三郎総理が急死、臨時で山本権兵衛が総理大臣に再登板して第2次山本内閣が誕生する。このころになると震災復興の高まりと共に民主主義政治を求める普通選挙運動が再び盛んになり、労働運動も依然として根強く、当時の植民地であった朝鮮では三・一独立運動と呼ぶ朝鮮半島全体での大きな独立運動が起きていた。国民の政治に対する要求の強まりは運動の激化に繋がり、そのときに当時皇太子であった裕仁親王(のちの昭和天皇)が乗った車が銃撃される事件が起きて、山本内閣は事件の責任を取って総辞職となった。
山本権兵衛内閣の退陣後は元老はまたしても部下の枢密院から総理を立てようとして清浦圭吾を抜擢して清浦内閣を成立させるが、当時の政党であった立憲政友会、憲政会、革新俱楽部が猛反発して国民の間でも清浦内閣打倒の抗議運動も激しかった。国民の支持を得た政党は清浦内閣の倒閣運動に乗り出し、立憲政友会は清浦内閣の賛成派と反対派で対立、立憲政友会と政友本党に分裂して清浦内閣打倒を掲げた犬養毅は立憲政友会を率いた。
1924年の衆議院選挙では清浦内閣の継続と打倒で分かれた立憲政友会の動向と護憲派と非立憲派の勝敗が注目されたが、選挙結果は護憲三派と言われた立憲政友会、憲政会、革新倶楽部が464議席のうち281議席を獲得、非立憲派は政友本党の114議席にとどまり護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣は退陣し、後任は憲政会の加藤高明が総理大臣になり政党政治が復活した。
普通選挙法と治安維持法
加藤内閣は直ちに普通選挙実現のために動いたが、枢密院が普通選挙法の裁可を頑なに認めず難航した。普通選挙が実現しても国民の民主主義運動への機運が収まるとは思わなかったためである。協議の末に枢密院は普通選挙法と交換条件で、国民の過激な運動を取り締まる治安維持法の導入を要求してきた。加藤高明は本来の健全な労働運動や社会運動は取り締まらないと言う枢密院の甘言を信じて交換条件を受け入れたが、この治安維持法は次第に民主主義のガンとなって昭和の軍国主義を支える悪法となって行くことになる。
交換条件をもって1925年3月に普通選挙法が成立。普通選挙導入によって有権者の数は1200万人と4倍、人口の約20%が選挙権を得て、これを境に大正デモクラシーの原点である民本主義の基礎が実現した。その後は犬養毅の暗殺事件が起きるまでの8年間、政党内閣が存属して民主主義政治は続くことになる。
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