朝倉敏景(あさくら・としかげ 1428 ~ 1481)とは、越前国の戦国大名である。朝倉教景・朝倉孝景(英林)とも名乗ったが、この記事では同名の人物との区別の為、一時期の名乗りである敏景として記述する。
概要
朝倉家7代当主。
朝倉家景の嫡男。弟に朝倉経景、朝倉景冬、朝倉光玖、朝倉定国など。子に朝倉氏景、朝倉景明、朝倉孫四郎、朝倉景総、朝倉教景(以千宗勝)、朝倉時景、朝倉景儀、朝倉宗滴がいる。
元々は名門・斯波武衛家の一家臣であったが、武衛家当主と守護代甲斐氏の対立関係の中で徐々に頭角を現す。応仁の乱でははじめ西軍に属したが、越前の支配権を条件に西軍から東軍へ寝返り、最前線で大活躍した。
独立大名としての立場の完成は息子に託すことになるが、この後の戦国時代に多発する守護代勢力による下克上、その第一号と言える。自立の下準備を整え、朝倉氏100年の繁栄の基盤を作った名将である。
名前について
元服当初は教景、次に敏景を一時名乗ったが、理由あって教景に戻す。その後は孝景と改名した。
『朝倉教景』の名前は祖父(法名は心月宗覚)、父(のち朝倉家景)、五男(法名は以千宗勝)、八男(朝倉宗滴)と歴代で5人も名乗っている由緒ある紛らわしい名前である。詳しくは朝倉教景の項目を参照。
次に、主君・斯波義敏から一字拝領して敏景と改名。だが義敏と対立関係となったため、「敏」の字を捨てて教景に戻した。実は敏景を名乗っていた期間はかなり短いのだが、他の歴代当主と被らないので、区別の為にこの名前が用いられる事も多い(この記事もそうだが)。
やがて寺社横領などを繰り返したために、教景の名前に対して呪詛をかけられてしまい、朝倉孝景へと改名した(1463年)。でも呪われたはずの教景の名前を息子に継がせている不思議。
曾孫にあたる10代当主・朝倉孝景は、この7代孝景(敏景)にあやかって同じ名を名乗った。二人を区別するため、7代目(敏景)を『英林孝景』と呼ぶこともある。英林は法名。(゚∀゚)o彡゜えーりん!えーりん! (この場合、10代目の事は『宗淳孝景』として区別する)
背景 … 朝倉氏と斯波氏との関係
当時の朝倉氏は三管領の一家・斯波武衛家の重臣であり、越前守護代を務めていた。同じく越前守護代を務める有力家臣に甲斐氏が、尾張守護代としては織田氏がいる。
100年後に朝倉氏は織田信長によって滅ぼされるのだが、この頃は(国は違えど)同じ武衛家に仕える同僚という間柄であった。余談だが織田氏も発祥の地は越前である。
朝倉氏らの主君である斯波武衛家は越前・尾張・遠江の3ヶ国を治める守護大名で、管領職を務めるなど室町幕府にて代々重きをなしていた。が、7代当主・斯波義淳の子(斯波義豊)が1432年に18歳の若さで亡くなった所から、名門の歯車が狂いだした。
翌年に義淳も亡くなり、弟の斯波義郷が跡を継ぐが、3年後に落馬が原因で27歳で死去。わずか2歳であった義郷の嫡男・斯波義健が継ぐことになる。義淳&義郷の弟である斯波持有がこれを補佐するが、彼も1440年に28歳で若くして死去する。
そして朝倉敏景の時代、1452年にはとうとう斯波義健も18歳で跡継ぎなく夭逝してしまい、武衛家の嫡流は断絶する。このため有力分家である大野斯波家から、斯波持種の子・斯波義敏が本家を継承することになった。
生涯
1450年、23歳の時に父・朝倉家景が亡くなったため、祖父・朝倉教景(宗覚)の後見を受けて家督を継いだ。当初の名前は父も祖父も名乗っていた「朝倉教景」。まだ存命であった祖父から名前を譲られたのだろうか。
上述の通り1452年に斯波義敏が新当主となったため、偏諱を受けて敏景と改名した。
長禄合戦
先述したとおり、当時の斯波武衛家は当主の夭逝が続き、重臣クラスの守護代が権力を握っていた。この越前も守護代・甲斐常治[1]によって長年に渡り支配されていた。常治は斯波義淳の頃から仕えている古参の臣だが、以前から主をないがしろにして専横を極めており、それを好ましく思わない他の家臣や斯波一族と対立していた。そして新当主の義敏も自然と甲斐氏との対立路線を歩むようになる。
加えて朝倉家中においても、敏景の叔父であり舅でもある朝倉将景が、敏景と対立を深めていた。
1458年(長禄2年)、常治が病気に倒れたのを樹として、遂に義敏派と甲斐派が衝突して長禄合戦が勃発した。すると敏景は甲斐側に肩入れし、「敏」の字を捨てて教景に名前を戻した(ただし本項では以降も敏景名義で統一)。一方、将景は義敏側に味方したため、朝倉一族も二つに分かれて争う事になった。はじめ義敏派は堀江利真(敏景の義兄)を大将として、甲斐敏光(常治の子)らを撃ち破り、甲斐派を越前から追放する。
追放されて近江へと逃れた敏景らは中央への接触を試みる。翌年、幕府の調停に義敏派が反発した事から次第に幕府は甲斐派に肩入れするようになっていった。以前から常治と幕府のパイプが太かったというのもある。
しかも義敏はこの前後、関東で起こっていた享徳の乱への出兵(足利成氏の討伐)を幕府から命じられていた[2]・・・が、両派とも互いの動きを警戒したために派兵できず、結果、命令を無視してしまう。これがトドメとなって8代将軍・足利義政の逆鱗に触れた義敏は追放処分を食らい、西国の大内教弘の下へと逃亡。越前にいた義敏派もことごとく討ち果たされた。
敏景にとっては、目の上のたんこぶとも言えた将景らを討つことができたのは大きかった。義敏派に属していた岳父・朝倉将景、義兄・堀江利真、庶流の朝倉景契(祖父・朝倉教景の弟の孫)らは、この戦いで全員戦死した。更に甲斐常治もまもなく病死し、跡を継いだ甲斐敏光の立場は不安定だった。代わって長禄合戦で名声を挙げた朝倉敏景が、朝倉・斯波家中はもちろんのこと、周辺諸国にまで名を響かせるようになる。
応仁の乱
斯波義敏が追放処分となり、武衛家の家督は義敏の子・斯波義寛[3]がわずか3歳で継いだ。が、幕府の介入で足利氏および斯波氏の遠縁である渋川氏出身の斯波義廉に交代させられた[4]。
義敏は当然こうした動きに反発して義廉と対立する。こうして斯波武衛家は二派に分裂。同時期に河内畠山氏、さらに足利将軍家でも後継者を巡る争いが勃発してしまう。やがて当時の幕府の二大実力者である細川勝元と山名宗全に、争う二派がそれぞれ助力を求め、時代は応仁の乱へと向かっていく。
1461年に斯波義廉が当主となったが、実父の失脚などで義廉の立場が悪化し、1466年に義敏が家督を奪い返す事に成功した。だがその直後、山名宗全の力を借りた義廉および敏景らが文正の政変を起こし、またも家督は義廉に戻る。翌年には応仁の乱の前哨戦というべき御霊合戦がおこるが、敏景はこれにも畠山義就(のちの応仁西軍)の友軍として参戦。それ以前の義敏との対立関係もあって、敏景は義廉方(のちの西軍)の主力として活躍した。
本格的な乱の勃発となった「上京の戦い」では、敏景は甲斐一族と協力して細川勝久(備中細川氏当主)を攻めたが、東軍の京極持清・赤松政則が援軍に現れ、痛み分けに終わった。
当初は東軍優勢であり、足利義政から西軍への降伏勧告が行われると、賊軍扱いとなるのを恐れた義廉たちは降伏に応じようとするも、その条件が『朝倉敏景の首級』だったために降伏を断念している。それほどまでに当時の敏景は、劣勢の西軍を獅子奮迅の活躍で支えていたのだった。
敏景が戦線を支えた甲斐あって、周防の大大名・大内政弘を筆頭とした西軍の援軍が京都に到着した。こうなると形勢は逆転、敏景は水を得た魚となり、1468年には西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取るなど、更なる働きを見せた。
敏景の不穏な動き
京都が焼け野原となり、次第に争いの舞台が各地へと広がっていったためか、敏景もどうやら1470年には越前に戻っているようである。そして不可解な出来事が起きた。畠山義就の猶子となっていた畠山政国[5]という人物が、越前で敏景によって殺されたのだ。義就、敏景ともに西軍であるにも拘わらずである。
政国は分家である能登畠山氏の出身で、義就に実子・畠山修羅が誕生したことにより廃嫡・追放されていた。能登の実家へと戻る最中だったと推測される。能登畠山氏も西軍で、義就を支持していた。
この事件の翌年……敏景は越前守護の座という条件と引き換えに意気揚々と東軍に寝返った。
水面下で東軍と接触を図っていたのだ。
晩年
この突然の寝返りには、長年対立していた斯波義敏も困惑せざるを得ず、今まで配下と見ていた斯波義廉も愕然としたであろう。同じ東軍になったとはいえ、義敏からすれば勝手に越前の支配権をお土産にされてしまった訳で、到底協力などできる間柄では無かった。このため、将軍命令により義敏は強制的に中立にされてしまった。無念の義敏は、後を父・斯波持種(当時59歳)と息子・斯波義寛(当時15歳)に託すことになった。
越前の切取次第を将軍・足利義政から半ば公認された敏景は、次々と西軍(斯波義廉方)の拠点を攻略。1475年の甲斐敏光の降伏で制圧がほぼ完了した。応仁の乱自体は1477年に終息するが、この後も斯波家残党の抵抗は続く。1479年には23歳の若武者に成長した斯波義寛に越前奪還の兵を出され、苦戦を強いられることになる。
また、東軍に寝返った1471年には本願寺蓮如が越前吉崎へと赴いてきた。敏景はこれ以前から次々と寺社の荘園を横領して支配下に組み込んでいたのだが、これを受けた興福寺別当・経覚が対抗手段として、宗派違いであるが師弟関係(経覚が師)にあった蓮如を招いたことによる(ちなみに以前「教景」の名に呪詛をかけたのも興福寺)。これによって、今後の朝倉家にとっての不倶戴天の敵・一向一揆が越前に根付く、その種を植えることになってしまった。
こうして越前統一を目前にしつつ、1481年に死去した。54歳だった。ちなみに余談だが、法名の「英林」の名付け主は一休宗純である。
その後
死後、嫡男・朝倉氏景が跡を継ぎ、まもなく斯波義寛の侵攻を撃退して越前は朝倉氏の手に入った。この為、武衛家は本拠地を尾張へ移す事になる。だが武衛家の越前奪回の野望は消えなかった。
こうした状況の為、氏景は越前支配を正当化するために奇策に出る。かつての敏景の主である斯波義廉、彼は応仁の乱の後は義敏・義寛との勢力争いに敗れて行方不明になっていた。この義廉の息子・斯波義俊を保護して、名目上の主に据えることで武衛家に対抗したのである。
義寛はこの後も越前に執念を燃やしていたが、彼の後の武衛家は今川氏に押されて凋落していき、越前どころではなくなっていく。一方の朝倉家は一族内紛や一向一揆に苦しみながらも、一乗谷を拠点とした戦国大名として成長していった。
補足
蒼天録に正式に参加していたわけではなく、蒼天録PKの特選カスタマイズの賞品としてである。賞品なだけあって強い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 74 | 知略 | 85 | 政治 | 95 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
関連動画
関連項目
- 朝倉氏
- 朝倉教景
- 朝倉孝景
- 朝倉家景
- 朝倉経景
- 朝倉景冬
- 朝倉光玖
- 朝倉定国
- 朝倉氏景
- 朝倉景明
- 朝倉孫四郎
- 朝倉景総
- 朝倉時景
- 朝倉景儀
- 朝倉宗滴
- 斯波義廉
- 斯波義敏
- 斯波義寛
- 足利義政
- 山名宗全
- 甲斐将久/甲斐常治
- 甲斐敏光
- 戦国大名
- 戦国時代
- 戦国時代の人物の一覧
- 福井県
- 福井市
脚注
- *かい・じょうち。常治は出家後の法名(号)で、諱は甲斐将久。越前と遠江の守護代を兼任していた。
- *鎌倉公方(のち古河公方)足利成氏の挙兵に対し、幕府は新たな鎌倉公方候補として足利政知(堀越公方)を送り込むなどの対応を取っていた。この援軍要請もその一環。
- *幼名は松王丸。元服当初は斯波義良を名乗る。1485年から義寛。
- *斯波義廉の父・渋川義鏡は堀越公方・足利政知の側近。先の出兵命令を武衛家がガン無視してしまったため、より幕府・堀越公方の意が通りやすい人物を武衛家の当主に据えたいという思惑があった。しかし渋川義鏡はまもなく失脚してしまう。
- *戦国時代の畠山尾州家当主とは別人。
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