悪妻単語

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悪妻とは、性質の悪い妻。悪女の一類。さげまん。対義は良妻、あげまん。

概要

人類が男女で分業制を行い、夫婦庭や社会の基礎単位としてから問題となって来たと思われる。やがて国家を作り上げ王制が成立すると、王統の永続的維持が国家の至上命題となりそれを担う女性たち(後宮・大奥ハーレム)の存在感が増し、行的にと言う意識に発展し臣下にまで及ぶようになる。

しかし、当然ながら男女間には価値観の違いや相性と言うものがあり、周囲の思惑通りに庭を運営できるとは限らない。また、王室に限らず多少の財や地位のある庭ならば婚間(外戚)の思惑が庭にもを与え、一度問題が起きれば当人にそれほどの非がなくても悪妻で片付けられてしまう傾向もある。これは暗君と変わらない傾向で、しかも史書は男性たちによって担われるので女性の立場は常に弱く、夫の暗君評の尾ひれになってしまう場合もある。逆に名君または歴史上に名を残した人物が悪妻を持って苦労したことで、人生の逆を乗り越えたり庭を捨てることで政治創作に集中出来たりしたとされることも間々ある。

総じて、良妻にしろ悪妻にしろ○○の妻またはと言う形でしか歴史に名を残せない不等な歴史を反映する女性歴史であるが、近現代になってフェミニズムによる歴史の見直しが進むと、悪妻とされた女性の中から彼女たちなりの男性国家に対する接し方が「発見」されることもあり、一方的な見方は善される傾向もあるようだ。

何故悪妻なのか

大きく分けると

  1. (外戚専横
  2. 対立渡る世間は鬼ばかりvs
  3. 不貞淫乱
  4. 嫉妬ヤンデレ
  5. ・傾美女
  6. 浪費

となるのではないだろうか。

1については古来よりを乱すと考えられ、ヨーロッパでは結婚を禁止し王間のみで婚姻を行うことが行われた。中国でも外戚が新しい王を築くことが散見され、実家と婚との挟みになり揺れた女性も多い。王莽であった王政君やの王皇后曹操の曹節、楊堅である麗は、忠節を捨てた実家家長を不忠となじり、男性とは違い孝より忠を取ったと言う逸話も残っている。このため、東洋では西洋とは逆に、あえて名門ではない庶民や下級貴族から側室として後宮に迎え入れることも行われた(近親婚を繰り返すよりは子孫のためにも望ましいことも古来より知られていた)。しかし、則天武后西太后日本の徳大奥女性たちのように外戚と関係なく専横を振るった例もある。

2については1と同様に、結婚が政略である以上は宿命であろう。これにおそらく人類が始まって以来の問題であるの対立が加わるのだから根は深い。

3は論外だが、逆に男性は世継ぎのためとは言え、後宮を設けたり側室が認められないヨーロッパでもを持ったりすることが然と行われていたのだから、現代的な観点から一方的に非難するのは難しいかもしれない。

4は3の逆と言え、根本的な原因は男性側は合法的に浮気が出来てしまうことである。によっては嫉妬を抑えて、後宮をつつがなく運営するを持つ女性が良妻とされることもある。イングランドヘンリー8世の王妃メアリー1世やエリザベス1世の継となったキャサリンパーように連れ子にも情を注いで尊敬された女性もいるが、夫の死後に対立した女性とその子ごと残虐な報復に及んだ例も多い。

5は当人の責かと言われると微妙だろう。むしろ、堕落してしまった君責任や1の実家の専横の責任を負わされてしまう例が多く、妃などの評では当世より同情のも多く悲劇が作品ともなった。

6は3の不貞と並び今日的な問題である。夫をATM代わりにするならまだ良い方で、国家と王室の財政の区別がつかない場合は国家ATMと化すこともある。ただし、宮廷費としてならば大奥のように国家的機を有している後宮もあり、一概に削減ありきでことを進めるのは難しいのも事実である。

いずれの問題も多かれ少なかれ、男性社会の中で起き得ることと言えるかもしれない。ただ、前述の通り女性が行えば悪く描かれてしまう側面はあり、特に政治宦官と並び関わった時点で批判となる例も散見される。

歴史上の悪妻たち

中国の悪妻

  • 妲己-伝説美女日本では漫画によりヒロイン
     殷時代、紂王の妃。傾国の美女。紂王が有氏を討った際に献上された女であったが、美貌であったため紂王の寵を受けた。生来残虐であり、炮烙(猛火で熱した製の丸太の上を歩かせたり押し付けたりする処刑方法)を見物することを好み忠臣たちを処刑した。また、と呼ばれるぜいたくな宴を行い民を疲弊させた。周の武王によって紂王が自殺に追い込まれ殷が滅びると処刑され、首は旗にくくりつけられし者になった。藤崎竜版「封神演義」では悪のヒロイン的な立ち位置が与えられ人気を博した。現在中国でも魅的だが危険な美女の代名詞である。
  • 褒姒-中国イソップ童話
     西周時代、王の妻。傾国の美女。非常に見美しい女性であったが、笑ったことがなく王をやきもきさせていた。ある日、手違いで軍の召集を知らせる烽火(狼煙)があがってしまい、馳せ参じた諸将や兵は大混乱に陥ったが、褒はその様を面がり晴れやかに笑った。それに喜んだ王は以来、常時烽火をあげるようになってしまい、やがて狼煙を見てもも相手にしなくなって行った。
     王の褒姒への寵は度が過ぎており、すでに皇后についていた申氏と王太子をし、褒姒とその息子の伯を後につけた。怒った申氏のである申は異民族であるの援助を受けて西周へと侵攻。王は慌てて烽火をあげたが、慣れてしまった諸将は「どうせまただろう」と参集しなかった。結果、丸裸になってしまった王は捕らえられて殺されてしまい、西周は滅んだ。中国オオカミ少年として知られる故事。
  • 呂雉-後宮の悪妻、政の良妻
     西時代、高祖劉邦の妻。中国三大悪女の一人。族であった呂であり、沛県の亭長をしていた劉邦いだ。夫劉邦婚姻後、相手に兵を起こし身を立て呂雉も内助を尽くした。打倒後は項羽戦争状態に陥り連戦連敗を喫すると、留守を守っていた呂雉はと共に捕えられ人質とされるなどの辛をなめる。解放され最終的に劉邦勝利皇帝に即位したが、劉邦は呂雉を顧みなくなっており、戚夫人を中心とした側室に寵が移っていた。
     劉邦死後、呂雉は報復を開始し、戚夫人の息子でかつて自身の息子である恵帝皇太子の地位を争った如意を殺。戚夫人は閉の上で両手足を切断され、・喉を潰された上で厠にぶち込まれ「人」と呂雉から嘲りをうけた(中華圏では厠の下にを飼って人糞を餌とする)。また、外戚である呂氏一族は大いに繁栄し、氏の王族や功臣を粛清した上で一族の子を後釜に据えた。
     この専横に周囲の憎しみは募り、呂雉の死後まもなくクーデターが発生し呂一族はほとんどが処刑されると言う結末を迎える。
     中国酷刑史に不動の名を刻んだ呂雉だが、在野での苦労が長かったためか民衆には民休養と寛刑と言う逆の姿勢で臨んでおり、初は中国史の中でも代と並んで類を見ないほどの平和な時代であったとも言われる。
  • 竇妙-身分の賤しい側室に地位を脅かされる
     東時代、桓皇后。東の功臣の末裔である竇武のであり、身分の高さから皇后に立てられたが桓彼女愛することはなく、采女(側女)であった田を寵愛した。一時期は竇妙をして田皇后に立てることも考えた桓であったが、周囲が諌めたため実行はされず竇妙も慢を重ねた。やがて桓が崩御するといつものパターン通りに田を殺。桓に直系がいなかったため、彼の従甥にあたる霊帝を立て垂簾聴政を行った。
     しかし、桓時代に外戚や族を宦官によって排除する先例(第一次党錮の禁)が行われていたため、宮中では宦官の勢が強く思うような政策は取れなかった。そこで、である竇武はもとより宦官を憎んでいた清流と呼ばれる士大夫層と手を組みクーデターを計画。しかし、情報が洩れてしまい、逆に戦いに敗れて竇武自殺に追い込まれ清流はさらに排斥を受けた(第二次党錮の禁)。竇妙も閉され、のちに病死。死体された。この外戚と宦官の対立が宦官勝利に終わったことが黄巾の乱につながり、三立時代を誘発することとなる。
  • 皇后-ご存じ、屋の
     東時代、霊帝皇后。身分賤しいと畜商のであったが、美人であったので宮中に取り立てられ霊帝の寵を受け男子(少弁)を生んだ。異であった何進もこれに伴って大将軍にまで出世。元来気が強く、霊帝の寵妃であった王美人男子献帝)を生むといつものパターン通りに王美人を殺した。
     霊帝が崩御し少弁が即位したのちは竇妙死後に政に参画していたの董太后を殺。しかし、何氏の専横を憎んだ宦官たち(十常侍)と何進が対立すると、朝廷では宦官ともつながっていた何皇后挟みとなってしまう。最終的に何進十常侍に殺されてしまい、その十常侍も兵を陽に進めていた董卓漁夫の利的に殺されてしまう。外戚と宦官と言う二つの後ろを失った何皇后董卓軍事の前にはなすすべなく、少弁と共にされた上で殺された。
     批判が絶えない東の外戚と宦官だが、皮にも排除されたことが滅亡へとつながって行く。
  • 賈南風-暗君の陰に悪妻あり
     西時代、司馬衷(恵帝)の皇后。建の功臣である賈充三女嫉妬深く陰謀を好む性質があり、司馬衷は彼女を恐れていたと言われる。暗愚な司馬衷に位を譲ることを憂えた司馬炎武帝)は、書類仕事やらせてみることで嫡するかどうかを決めようと考えた。案の定、司馬衷は全く仕事をこなせなかったが、賈南風が優秀な官人を抱き込み代筆をさせた。しかし、完璧仕事ではバレてしまうので、わざと間違いを入れるなどの工夫を凝らしてあえて次第点程度の仕事に止めた。この内助の功(?)は大成功であり、武帝は「これなら官人は理でも皇帝程度ならこなせる」とすっかり騙されてしまったと言う。
     武帝が崩御し司馬衷が恵帝として即位すると、恵帝おろしに参加していた人臣を次々に粛清。皇太后の外戚で武帝の在世中から権勢を誇っていた駿にも及んだが、この際に地方に赴任していた諸王のを借りたことが西を衰退させる八王の乱の遠因となった。賈南風自体は諸王を常に使い捨てにすることにより上手く権闘争を勝ち抜き、いつものパターン通りに側室であった謝とその子供恵帝皇太子となっていた司馬遹を殺し権勢は絶頂に達した。しかし、諸王の一人で簒奪への野心があった司馬倫王)が偽りの詔を発してクーデターを決行。賈氏の勢は一掃され、賈南風も殺された。
     クーデター時に偽勅を突き付けられた際「詔はが書いているのに何故だ」と叫んだと言う笑い話のようなオチもついており、夫である恵帝の暗愚さをっている。ただし、張華や裴頠と言った賢臣に内政を任せることで、恵帝時代の中では評価される安定時代を築いてもいる。人の良いところを見るはあったが、悪いところを見るは欠けていたようだ。
  • 太后-中国史における事実上の初代「女
     南北朝時代、北の文成皇后。夫である文成の死後、13歳年下の義理の息子である献文秘密に再婚し拓跋(のちの孝文)を産んだ。献文が成人するとBBAは用済みとばかりに太后の排斥を開始。しかし、逆襲を受けて拓跋への譲位を強制され、のち殺された。政権を握した太后は自身への反対勢への底した粛清を行う一方、均田制や租調制など民族を受けた政治革を行い、北は増進。最盛期となる孝文時代への基礎を築いた。事実上の女の誕生は二年後の武則天の即位に先をつけるものであった。悪妻兼と言う稀有な例。
  • 胡太后-は先々代に及ばず
     南北朝時代、北の宣武帝の妃。元詡(のちの孝明)を産み立太子させた。北では通常、外戚の専横を防ぐために子が立太子された場合に生を殺する習(子死、前述の太后は表向きは義理の祖母なので免れている)があったが、宣武帝がこれをめたため中国的な室となっていた。しかし、この革は初っ端から弊を生むことになる。
     宣武帝が崩御すると幼少の孝明が即位し、胡太后が垂簾聴政を行ったが、太后のような政治的な才は伴っておらず、寺院建設などの公共事業にいたずらを浪費させた。宮中は宦官が支配し政は大いに乱れた。孝明は成長するに連れての存在に煩わしさを覚え、将軍の爾朱栄と共にクーデターを図ったが失敗し殺された。胡太后は孝明一の子であった女児を男児と偽って即位させたが、当然ながら露見し一日でされた。続いて従甥にあたる元を即位させたが、まぐるしく入れ替わった権の所在に諸将の不満が噴出。兵を挙げていた爾朱栄の前に抵抗する者はいなくなり、首都陽は陥落し胡太后と元は捕らえられ河陰の地において河に沈められた(河陰の変)。以後、北は軍人や軍閥のが強くなり、分裂と共に滅んで行くことになる。
  • 伽羅-良妻であるが故に後継者選びを誤る
     隋時代、楊堅の妻。創業前より夫を内助の功で支え、即位後も一族に対してさえ容赦せずに刑罰を下し正な政を行った。一方、出身部族である独氏は一夫一妻制であったため、夫にもそれをめ側室を殺するなど非常に嫉妬深い女性でもあった。夫人を大切にすべしと言う思いは身内に対する厳しさも重なり、もはや偏狭レベルとなってしまう。多数のを囲っていた皇太子勇を嫌い、表向きは質素さを装っていた次男の広(のちの煬帝)を推した。
     こう言った情勢もあり、楊堅勇を広を皇太子としたが、広は両の死による即位後に本性を現し、華奢を好み政を弛緩させ隋を短命王で終わらせる遠因を作ってしまった。
  • 武則天(武照)-説明不要の中国史一の女
     唐(武周)時代、高宗の皇后。武周初代皇帝中国三大悪女の一人。最初、太宗の後宮に入ったが、息子治(高宗)に見初められて太宗の崩御後に再入内した。末流貴族出身で有な後ろを持たなかったが、実家の権勢のみに固執する他の宮廷女性(王皇后や蕭淑妃)を巧みに出し抜いて行った。王皇后とは蕭淑妃排除のために結んだが、のちに武照の子息暗殺の嫌疑(武照自身が息子を殺したと言う逸話も残る)をかけて排除。立后されたのちに双方をこん棒で撲殺した。
     病気がちだった高宗に代わり政権を握すると、自身も低い身分であったことから出身身分にとらわれない人材登用を行い通しをよくした。外征も積極的に行い、済を滅ぼし江の戦いで旧済と倭の連合軍を破った。ついには隋滅亡の遠因となり長年に渡り懸案事項となっていた高句麗も滅亡させ、東方での優位を確固たるものとした。一方、酷吏と呼ばれる強な法治義者を登用し室や諸王間で恐怖政治を敷いた。このため、氏の縁戚を中心に反乱が頻発したが、内政自体は安定しており庶民の支持は得られなかったためことごとく鎮圧され族滅させられた。
     夫である高宗が崩御すると、子供たち(中宗・)を皇帝に立てたが武照はそれで満足するような女性ではなく、ついに登極し中国史上初にして一のの女となった(王名を武周と呼び、武照は武則天と称される)。当然ながら宗室は大混乱に陥ったが、武則天の「人を見る」は衰えることはなく名臣である狄仁傑を重用。のちに開元の治と呼ばれる唐代の黄金時代を築く姚崇や璟もこの時代に引き立てられた。
     武周の維持にこだわり、自分の死後に子供たちが再び位につくことを憂慮していた武則天であったが、さすがにこれは如何ともしがたく、死の直前に政変が起き、子の中宗を復位させる代わりに武則天皇帝として認めると言う妥協が図られ唐が復活した。
     婚女性自身が簒奪すると言う前代未聞の悪行と引き換えに、外征では多大な成果を挙げ人材登用も中国史上まれに見るほどの柔軟性を発揮。この社会の柔軟性は唐代を通じて維持され、遣唐使はじめ多くの外国人が唐を訪れ、外征の成功と合わせて東アジアでの中国の地位を高めた。全ての悪行にを瞑っても余りあるほどの功績と言えるが、女性の地位が相対的に低い民族での受けはよくなく、武則天の跡をついだのちに専横を振るった皇后と合わせて武の禍と称され不当に低い評価を受けるようになる。
  • 皇后-良妻転じて婦に
     唐時代、中宗の皇后の武照に疎まれ、中宗の位と共に北に流されると言う辛めた。中宗とは配流先でも協して生活を送るなど元は夫をよく立てる女性であったようだが、この経験が悪を与えたのか中宗復位後はにならって自らの即位を望みまたは安楽皇帝に立てようと欲し、中宗を殺した。しかし、宗の息子であった基(のちの玄宗)がクーデターを起こし、一族を皆殺しにして事なきをえた。
     以降は唐代のみならず中国史において武の禍が強調されるようになり、女性による簒奪と言う事態は起きなくなった。五胡十六国南北朝~隋唐は異民族時代であり、女性の地位は相対的に高く、悪妻の質も民族のそれとはかなり異なっていたと言えるだろう。
  • ダギ・カトン-異民族BBA
     元時代、皇太子チンキムの次男ダルマバラクビライの孫)の妃。夫との間にカイシャン(武宗)とアユバルワダを成したが、夫は世した。クビライの跡を継いでいたテムルが崩御すると、重臣たちのクーデターに馳せ参じ、即位を論んだアナンダと彼を立てようとしたテムルの皇后であったブルガンを排除。子のカイシャンを即位させ、アユバルワダを皇太とした。権勢欲・所有欲共に旺盛なダギは歴代皇后たちの財産を回収し、宮と呼ばれる大規模な宮殿を建て子供たちの王宮を圧倒した。
     ダギ本人はアユバルワダの方がお気に入りであり、カイシャンが死去するとアユバルワダとの兄弟間で交わされていた「カイシャン息子であるコシラを皇太子にする」と言う約束を反故にさせ、アユバルワダの息子であるシデバラ皇太子としカイシャンの勢を宮廷から一掃した。アユバルワダはには全く頭が上がらず、在世中は勅よりも宮が発する懿旨の方が重視され、実際の政も宮を中心に行われる始末であった。
     アユバルワダも世してしまい、ダギの思惑通りシデバラが即位した。しかし、シデバラはいつまでも死なないBBAを疎いだし、権勢には陰りが差し始める。ダギはシデバラの即位から二年後に死去し、ダギ一党は宮の落と共に消滅した。ただし、シデバラもその一年後に死去してしまい、相対的な安定期であったダギ時代から13年の間に7人もの皇帝が立つ混迷時代へと突入。元の王としての寿命彼女の死と共に縮んでしまったとも言える。
  • 西太后(慈太后)-伝説の悪妻の伝説
     清時代、咸豊の第二夫人。咸豊の間に一の男児である新覚羅載(のちの同治)を産む。アロー戦争により熱河に逃れた咸豊が崩御し載が同治として即位すると、咸豊の遺命で大臣となっていた載垣、端、粛順らを処刑(辛政変)。女性にはまず見られないような果断さをもって、第一夫人であった東太后と共に政権を握し垂簾聴政を行った。
     同治時代は太天国の乱が終結し、賢臣である鴻章や曾らが洋務運動と呼ばれた近代化を進め、西洋列強による植民地化に一定の止めをかけることに成功した(同治中)。同治が若くして死去すると、の子であった載湉をとして即位させた。
     ここまでは較的順調であった垂簾聴政であったが、東太后が死去し対外穏健だった恭王奕訢が失脚すると西太后の思惑をえて徐々に独裁向が強まって行く。
     ケチのつき始めは日清戦争敗北であった。敗因は同時期に近代化を始めた日本側の維新運動の方が国家革新としては優れていたことだが、西太后費を清漪園などの庭園事業に流用したことも一因であったと言われる。
     日清戦争終結後、西太后は表向き引退した。政を本格的に開始し、日本明治維新に倣って体制の変革を志し変法と呼ばれた康有為や梁啓らを登用した。しかし、科挙止をはじめとした急速過ぎる変革は士大夫層の反発を受け、守旧西太后西太后排除を企図しているとあることないことを吹き込み激怒させた。最終的に西太后を旗印にした宮廷クーデターが発生し閉。変法運動はわずか日で終結した(の政変)。
     同治時代と緒時代前半に続く三度の垂簾聴政であったが、日清戦争敗北を見た列強からの圧は強まりつつあり、位をはじめ思うように政を行うことが以前より出来ない情勢であった。外キリスト教徒)との住民同士のいざこざから大規模な外国人排斥運動が発生(義和団の変)。反乱側が「扶清滅洋」を掲げていたことを知った西太后はこれを機に外の一掃を図り列強八カ宣戦布告(北清事変)。しかし、列強一に対してのみでも勝ちはなく、連戦連敗を喫し北京は陥落。西太后北京から敗走し戦争敗で終わった。
     この敗北により清の半植民地化は進み、西太后も本格的な国家革新を認めざるを得なくなった。場当たり的な三度の垂簾聴政は西太后の死去で終結。余程、の仕打ちがに据えかねたのか、死去の直前に殺を命じ崩御の報を聞いてから鬼籍に入ったと伝えられる。その後、清は近代化にも失敗。死去から三年に辛革命で消滅した。
     近代の人物であり、中国が辛めた時代の責任者とされるため、現在でも評価は低い。ただし、重臣たちによるものとは言え、洋務運動自体は一定の成果を挙げており、権を握っていた間に何もしなかったと言う訳ではない。日清戦争の敗因と言われる庭園事業も西太后以前から進められていたもので、も歴代皇帝の意思を継ぐ意味では積極的だったと言われる。また、変法運動自体も明らか現実無視していたと言う批判現在では流になりつつある。体の良い敗因の押し付け対になった側面は否定できず、清末が彼女の時代であったこともあり中立的な研究は進められている。

世界の悪妻

日本の悪妻

  • 藤原子-丼は美味しいです(^q^
     平安時代藤原の妻で藤原種継の。幼少の桓武天皇皇太子殿王の宮女となり自身も安殿王に仕えたが、安殿王は年上の子の色香に参ってしまい丼にして美味しく頂いてしまった。それなんてエロゲ展開を妬んだ人倫にる性激怒した君の桓武天皇子を追放した。安殿王が即位の器なのかをも危ぶみだし崩御の際、安殿王の子供たちには皇位を継がせず神野王を皇太とするように遺言した。
     こうして安殿王は即位(平城天皇)したが、この遺言は皇位継承争いにを注いでしまい権闘争は化。平城天皇の異であった伊予王が謀反の罪で死に追い込まれるなどの事態が起きた。また、桓武天皇の崩御で子との関係を遠慮する必要もなくなり手元に呼び寄せる一方、夫の藤原を強制的に昇進させて大宰府に飛ばすと言うジャイアン的な横暴も行っている。子の一族、特に藤原仲成は厚遇され朝廷で重きをなした。
     これだけ見るとただのバカ息子である平城天皇だが、政治は優れており冗官の削減や公共事業の停止などの民休養政策を行い人民には善政を敷いた。しかし、元来病気がちであったため在位三年で神野王に譲位(嵯峨天皇)し上皇となった。
     退位と共に旧都であるに移った上皇だったが、依然に朝廷内へのを有しており嵯峨天皇との対立関係は退位後にむしろ化。ニ所朝廷と揶揄される二重権状態となってしまった。子や仲成も上皇の復位を企図するようになり、への再遷都を計画した。
     ついに嵯峨天皇上皇在位中の革を否定し始めると、上皇への再遷都を宣言。嵯峨天皇は表向きこれを尊重しつつ、上皇側に嵯峨を送り込むことで地盤を切り崩して行った。頃合いを見た嵯峨天皇遷都を取りやめ近畿一円を兵をもって封鎖。仲成と子を逮捕した。上皇東北に逃れようとしたものの、坂上田村麻呂の軍に阻まれてしまい抵抗を諦め剃髪して嵯峨側に出頭した。
     仲成は処刑され(ちなみに平安時代死刑止されていたと言われるが、実際に仲成から346年後の源為義まで貴族に対する死刑はなくなった)子は自害に追い込まれた。嵯峨天皇はこれ以上の報復はめず、上皇はお咎めなしとされ皇位継承は諦める代わりに大な宮廷費を支出され余生を過ごした。
     子は変の首謀者とされ事件自体が「子の変」と称されるがごとく千年以上に渡り中傷を受けたが、実際は嵯峨天皇側の挑発行為が変を招いたことや上皇の資質及び二重権体制にも問題があったと言う中立的な見解が流になり、近年は太上天皇の変と呼ぶようになっている。
  • 野廉子-雌の口先
     鎌倉時代から南北朝期、後醍醐天皇の妃。最初は後醍醐天皇の中宮であった西園寺子に仕える女官だったが、後醍醐天皇の寵を受けて三位にまで出世。三位の局と呼ばれた。元弘の乱後醍醐天皇が隠岐に配流された際も周囲の反対を押し切って随伴した。やがて逃亡していた護良親王を旗印に楠木正成新田義貞らが兵を挙げ、足利尊氏がこれに同調し鎌倉幕府を滅ぼすと夫と共に復位。建武の新政の一を担った。
     しかし、建武の新政現実を見ない失策であり、自身の子である王を後継にしようと画策した廉子と武勲第一の護良親王との対立も化。護良親王乱心と叛意を理由に失脚してしまい、中先代の乱のゴタゴタの間に殺された(利が一致した尊氏と廉子が連携していた説が根強い)。
     最大の政敵を排除した廉子だったが、夫である後醍醐天皇足利尊氏と対立。一旦は尊氏を九州にまで退けるも反攻を受けて吉野へ退避。ここに南北朝時代が幕を開けた。廉子は夫の死を見届けたのちに王を即位させ(後村上天皇)後見を行った。
     太平記では便佞(口先だけが達者)とされ、建武の新政の失敗の責を彼女に帰し「雌がないて明けを報せると一家が滅ぶ」と言う中国故事まで取り上げてしい非難を行っている。また、南北朝期でも好感は持たれず南が不利になる遠因ともなっている。ただし、後醍醐天皇とは両輪の輪であった側面も否定できず、夫の評価と同様に時代によって揺れ動く点は見逃せない事実だろう。
  • 日野富子-戦国を招いた銭ゲバ女王
     室町時代足利義政の正室。非常に嫉妬深く、その嫉妬被害妄想寄りで最初の出産が死産に終わると、義政のが呪詛をしたと誣告して自殺に追い込んだ。返すで義政側室の追放も行い、義政を恐れおののかせ不仲は決定的となった。
     その後も子を成せなかったことや義政自身が隠棲を望んだことから、義政は門に入っていた義尋を還俗させ足利義視とし細川勝元を後見として後継者とした。しかし、富子はこれに不満で幸か不幸か義政の間に義尚が生まれた。富子は勝元と対立していた山名宗全と組み義視・勝元を排撃。斯波氏と畠山氏の後継者争いもあって大規模な軍事衝突に発展した(応仁の乱)。
     応仁の乱自体には東軍である勝元についたが、一方で西軍諸将にも銭の貸付を行い、相場に投資してがっぽり稼いだ。まさに銭ゲバであり、賄賂と合わせて夫との不仲を銭欲で補うがごとく私を肥やして行く。
     戦乱は十数年に及んだが、西軍を賄賂で許す方策が功をなし大内が撤兵したことで終結。都はボロボロになったものの、富子周辺だけは肥え太っていた。復が急がれたが、富子は税の徴収を理由に各所に関所を設けて流通を阻。しかも、その税のほとんどを懐に入れたため、賤問わずルサンチマンが渦巻いた。
     夫との不仲は相変わらずで火事により再び同居を始めたが、義政が耐え切れず東山の山荘(のちの慈照寺、通称は銀閣寺)へと逃走。義尚・富子組と義政の二重権体制となってしまう。また、夫の造園趣味にはビタ一文出すことはしなかったと伝えられる。
     義政の死後は義尚の後見に当たったが、義尚は六角氏討伐の最中に将軍位は結局のところ義視と富子のとの間の子であった義材に転がりこんだ。後見人となった義視は息子と共に報復とばかりに富子の財産収を開始。これにキレた富子は勝元の跡を継いでいた細川政元と組んでクーデターを起こし義政の甥である足利義澄を立てた(明応の政変)。以降、足利幕府は幕府としてのを喪失し、臣下のお飾りにすぎない存在にまで落ちぶれ戦国時代が幕を開けた。
     まさに絵に描いたような悪妻ぶりであり、特に蓄財は生前からしい非難にさらされていた。ただし、賄賂については既に直轄領収入が滞り始めており、儀礼や和交渉で稼ぐこと自体は合理的であったと言う意見もある。いずれにせよ、暗君の陰(どころではなかったが)に悪妻ありの典ではあった。
  • 築山殿-家康くんの黒歴史
     戦国時代徳川家康の正室。人質として送り込まれた今川である義元の姪にあたる女性。嫡男松平信康を産む。しかし、家康今川と手を切り独立を果たすと実質的な離縁となり、家康が本拠地としたには住むこともなく息子と共に岡崎に残った。
     悪質で妬み深く、夫を立てることも知らずに唐人医師と密会したと伝えられる。信康が織田信長を信康にがせておりにあたる)から武田と密通していると言う疑いをかけられ失脚すると、責任を取らされ家康臣に殺された。信康ものちに切腹臣も粛清を受け、岡崎勢は排除された。
     後世信長の言いがかりで泣く泣く息子を処刑した悲劇とされ、逆に徳初代御台所でありながら築山殿しい中傷を受けることになった。しかし、近年では信康が武田であったことは事実であり、実際に家康とは独立した臣団を率いていたことからも、むしろ家康から見て妻子共々の上のたんこぶに成りつつあったのが実情であったようだ。である信長との仲も悪く、織田との関係を口実にして家康が進んで粛清を行ったのではないかと言う説が現在では有。また、性格や密通に対する一次資料も存在していない。
     いずれにせよ、家康はこの結婚に懲りて、以降は身分の高い女性は避けるようになった。性癖的に合わなかったのか、築山殿のように男の世界の政略に巻き込まれるのは哀れだと思ったかは定かではない。
  • の方-女三界し、では四回は?
     安土桃山時代豊臣秀吉の側室。浅井長政お市浅井三姉妹の一人。本名は浅井茶々または菊子。である浅井長政伯父である織田信長に討たれると救出され、信長の本拠地である尾に移り住んだ。信長本能寺の変明智光秀に殺されたのち、お市臣であった柴田勝家と再婚すると越前国の北のに移る。やがて、勝豊臣秀吉との争いに敗れて自害するとお市もそれに殉じた。三人の姉妹は生き延び、織田縁者に引き続き養育された。
     成人すると下人としてをつけていた豊臣秀吉の側室となり、捨(折)と拾(豊臣秀頼)を産み側室として大きな権勢を誇った。秀吉死後は秀頼の後見としての大蔵卿局と彼女息子たち(大野治長ら)を重用して豊臣の実権を握る。
     秀吉ダース単位で愛人を抱えるほどの好色であったが、子供はほとんど出来ず、出来ても死産ばかりであったため、秀頼の出生に対する疑念は当世から疑われていた。また、秀吉最期の一大イベント醍醐花見」において側室たちと杯の順番を争ったなど権勢欲が強い女性と言う逸話も残る。
     関ヶ原の戦い以降は豊臣の威信は順次低下し、五大老の一人であった徳川家康が台頭。の方は家康への臣従(自身が人質となるまたは転封など)を拒否して対家康強硬論を導。大阪の陣を起こし子共に自害に追い込まれ豊臣を滅亡させた。
     戦後、勝者となった徳真田信繁後藤又兵衛など大阪方の勇士を賞賛してガス抜きを行う一方、大野長治やの方ら秀頼側近・後見を誹謗中傷責任を全て負わせた。これにより、非常に評価が低くなってしまったの方だが、実際に家康への臣従を拒否したのは秀頼であると言う説も強くなっており、彼女一人の責ではないと言う意見もある。良くも悪くも大阪の陣では武装して前線の諸将を督戦するなど、三回のの滅亡(浅井織田柴田豊臣も入れると四回)を経験と合わせて戦国の気を最後まで残した女性であったことは事実であるようだ。
  • 万の方(院)-名君の悪妻
     江戸時代徳川秀忠のご落胤であった会津保科正之の継室。名君と誉れ高い正之には全く釣り合わない悪妻であり、側室の子供が自分の子供よりも大である加賀ぐことに嫉妬殺を企図。しかし、誤って自分の子供入りのおが回ってしまいその子供が死んでしまった。また、自身の子供である保科正経が子をなさずに世してしまい異である保科正容(正容)がとなると、あまりの口惜しさに死後、遺体となったにも関わらず弔問に訪れた正容の袖を握ったと言う怪談話まで残る。
     ただし、殺説は年近くのちの伝記類であるためこの説は疑わしい。怪談話は当然ながらであり、そもそも正容との仲は良好で、彼がとなったのちは政からは距離を置いて夫の菩提を弔うことに専念している。名君の妻が悪妻だったと言う聞が、後世において面おかしく受け入れられたのが事実であるようだ。
  • -最恐のヤンデレ鬼姫
     江戸時代岡山池田由貞の妻、のちに同じく滝川一宗の妻。初代池田光政の庶子であったが、正室に憚って子共に冷遇し臣であった祖で育てられた。流石に哀れと思った臣たちの意見もあって子と認知した上でに迎えたが、情のなさは相変わらずでこの生い立ちのため人格形成はんだと思われる。
     最初に岡山家老の嫡男で池田縁者であった池田由貞にいだ。しかし、六嫉妬心はもはや狂気レベルであり、外出するたびに「どこへ行くのか、帰宅はいつになるのか」を問いただした。少しでも六が定めた門限を破ると大暴れし屋や財を破壊した。由貞のにすら嫉妬し、久々の里帰りの際に温かく迎えた由貞と歓待を受けたを罵倒し中は険悪なものとなった。池田が火宅であることは中で知らぬ者がいないほどになり、由貞の精状態は悪化。代を剃らず帯もせずに登し、政から叱責を受けるハメにもなった。
     そんなある日、隣女性が琴を弾いている音が由貞に聞こえてきたのでその音を楽しんでいると、六に見つかってしまい彼女プッチン。暴れに暴れ、這う這うの体で由貞はからはもちろんからも逐電した。やがて倉敷天城に潜しているところを発見されてしまい、哀れ由貞はの蛮行が明るみに出るのを恐れた政から士覚悟を理由に切腹を申し付けられた。しかし、夫の死にも彼女は「当然」としか答えなかったと言う。
     この段階で落飾させるべきだったと思われるが、政は出生に対する負いもあったのかそれはさせず、かと言ってに出せばまたとんでもないことをしでかすのはに見えていたので、出戻りのまま彼女を屋敷に置いた。
     由貞死去から一年半後、屋敷に狩の獲物を献上した岡山滝川一宗(滝川一益の子孫)に六は一ぼれ。今度は六側からの婚なのだから上手く行くだろうと言うの思いもあって再婚した。
     実際に六と一宗は仲の良い夫婦となり子供もなした。幸薄い幼少時代の思い出もあったのか、子供には掛け値なしの情を注ぎ庭は円満であった。ところが、夫の体を気遣いめに寝るように促したところ、一宗はこれ幸いにと女に手を出してしまいそれが六に見つかってしまった。もっとも、六もさすがに大人になっており、かつてのように嫉妬から暴れることはせず、冷静に床の間の掛けにおいてあった一宗の小を抜き夫をザシュした。
     悲鳴から惨劇を知った人や義は冷静に対処し、女を始末すると一宗は乱心自害したことにされ六は再び実家に送り返された。
     岡山で一宗の自害を信じる者はなく、六は夫を次々に死に追いやった鬼姫と呼ばれ恐れられた。政はがせることを諦め生涯手元に置くことを決意。孫も同時に引き取り、以後は穏に暮らしたと伝えられる。
     政本人はいわゆるえた・非人も領民であるとして横暴を振るった役人を一し、人的に接するように命じたことで知られる江戸時代でも屈の名君であるが、その子供環境の悪さでここまでのヤンデレ少女に育つのだから、つくづく人間とは生まれより育ちであることを思い知らされる逸話であった。
  • 本寿院(福)-伝わってしまった淫乱伝説
     江戸時代、尾の側室。徳吉通生江戸の商であったが、美女であったので綱の側室となった。綱死後はとなった吉通の後見として政に絶大なを保った。好色絶倫であり「ナニがデカいと言う理由だけで相撲取りを幾人も抱えた」「町中におびで出かけた際に気に入った町人にをかけて乱交パーティーじた」「の子かも分からぬ子を宿して堕胎した」などの所業を江戸時代風俗ルポライターである朝日重章(有名な鸚鵡籠中日作者)に書かれてしまい、江戸時代強欲女性と言う伝説を後世にまで残すことになってしまった。
     吉通がを勤める尾御三家筆頭であり、当時は江戸将軍でも後継者不足による断絶が危惧され始めていた。将来的に将軍職に就く可性も高まり出したため、本寿院の乱交振りは幕閣の間でも無視できないものとなって行く。最終的に将軍である徳川綱吉であった院の死去に際し、芝居見物をしていたことを理由に居処分となり江戸屋敷に閉。吉通死後は名古屋に移されたが居処分は解かれなかった。
     閉先でも好色さは相変わらずで、庭木に性器をくくりつけて自慰をしていたと言われる。男もいない手さもない生活彼女にとってまさに生き地獄であったが、同じく好色で手好きだった徳川宗春となると、同情されたのか恩赦を受けて26年ぶりに閉を解かれた。以降は中の祭を楽しむなど穏便な晩年生活を送ったと伝えられる。
     尾土的に女性が極めて強く、本寿院も社会を形成していた江戸の出で、悪い意味で化学反応を起こした観はある。尾の良く言えばおおらかな性風俗、悪く言えば紀の弛緩は江戸時代を通じて維持されてしまい、御三家の中では軽んじられ幾度とない断絶危機を迎えても将軍を出すことはついぞなかった。
  • 如院(貞)-巻き込まれた
     江戸時代加賀前田吉徳の側室。前田利和らの生。吉徳死後、自身の息子である利和をの座につけようとし、位を継いだ前田である浄珠院を殺を図るも失敗。捜の過程で重臣であった大槻伝蔵との密通が発覚し乗っ取り計画が露見。子供たちの出生も疑われた。如院は殺され、大槻自害。利和ら男子二人は閉された上で世し、稀代の奸臣である伝蔵と婦の如院は天罰を受けてめでたしめでたし加賀騒動)。
     と言われているが、実際のところ一連の姦通から乗っ取り計画まで全くと言ってよいほど資料はない。むしろ、伝蔵の来歴を見ると一介の足軽の出でありながら、相場を利用した見事な経営手腕と新税や倹約を中心とした堅実な財政手腕を発揮し、米沢上杉鷹山に半世紀ほど先駆ける革を行っていた。これが既得権益を侵されたと考えた保守逆鱗に触れ、失脚させられた末に貶められてしまった可性が高いとされる。実際、前述の山ですら保守による君押し込めの危機に常に怯えていたと言われており、があり前吉徳の支持を得ていたとは言え、身分が低い彼が吉徳の死後に生き残れる可性は皆無であった。
     政治と言う男の世界の都合に巻き込まれてしまった如院とその子供たちであったが、加賀政がこの騒動によって立ち直ることもなく、幕末に至るまで大きな足跡を残すこともなかった。
  • 葛飾応為-世界史にも名を残した稀代の醜女
     江戸時代絵師である葛飾北斎。自身も譲りの画才に恵まれていたが、一度は同じく絵師の南沢等明にいだ。しかし、事はクリエティブな仕事とは思えなかったのか全くせず、画力はもちろん自身よりも劣る夫を立てることも出来ずに彼が描いた絵を馬鹿にしていた(あるいは彼女なりに内助のつもりでダメ出しした)と言われる。これでは夫婦生活など送れるはずもなく、離縁されてしまいのもとに出戻った。
     北斎は性格の悪さとアゴが飛び出た醜女と言うハンデを考慮したのか、あるいは才さえあれば男だろうが女だろうがどうでもよいと思ったのか、再婚はさせずに自身の助手として迎えて晩年までの二十年を共に過ごした。醜女と言うコンプがあったためか、美人画を得意とし北斎すら自身より上だ評するほど。また、北斎晩年の作の色は彼女が担当していたと言う説もあり、絵師としては大きな足跡を残した。
     応為自体の人間性はともかくとして、世界の北斎をに持った時点で絵師を見るについて厳しくなってしまうのは当然で、同業者を夫にしてしまったことに理があったと思われる。
  • 小林はつ-一方的に貶められた継日本代表
     江戸時代小林弥太郎の妻。俳諧師小林一茶の継。気性のしい性格で、内向的だった一茶とはソリが合わず、の死後は容赦なく一茶イジメたとされる。見かねた一茶長男であったにも関わらず、あえて江戸に奉に出して離れさせた。
     一茶は奉先を転々として苦労したものの、俳句覚め俳諧師となりを始めた。松尾芭蕉の細から現代的視点では俳諧師のは物見遊山な印があるが、実際は厳しい修行であり、ネットはもちろん出版流通すら満足に存在しない江戸時代では渡世人と同様に自分の名を売りパトロンを探す営業でもあった。
     こう言った苦労が実り、多少は名の知られた俳諧師となったが、はつや異である仙六は浮のような生活をしていた一茶をよく思わず、弥太郎危篤の際に帰郷した一茶遺産当てではないかと疑った。弥太郎は死去の際、財産兄弟で等分するように遺言を残して死去。しかし、小林財産はほとんど自分たちが盛り立てたものだと考えていたはつと仙六はこれを認めずに13年にも及ぶ骨肉の争いに発展した。
     一茶はこの過程を「終焉日記」として私小説としてまとめ、後世において近代小説のハシリと賞されるほどの人気を産んだ。現代の遺産相続と同様、対立当事者を悪者にする傾向が一茶にもあり、この作品ではつと仙六は悪役になってしまったため、一農民に過ぎないにも関わらず悪名を残してしまう結果となった。
     ただ、前述の通り俳諧師と言う一茶職業が正業として認知されていたとは思えず、小林財産の大半を実際に形成したのははつと仙六であったのも事実であった。相当に損な役回りだったのも事実で、日本文学史に不朽の名を残した一茶族として持ってしまったゆえの悲劇であった。
  • お由羅の方-皇室にも血を残した悪妻
     江戸時代薩摩島津の側室。島津久光の生息子のために、斉の嫡男であった島津斉彬を呪詛しその子息を呪い殺したと言う逸話が残る。実際のところ、斉と斉彬は不仲であり斉彬の嫡または逆に斉の隠居を巡って血生臭い粛清事件が相次いだ(お由羅騒動)。
     この緊は60歳で40歳世子と言う異常事態を生み(江戸時代は世子が元して落ち着いたら隠居するのが常識)、幕閣の間でも問題になってしまった。結局、斉彬としく海外情勢にも通じていたことを期待した老中の阿部正弘の裁定により斉は隠居。斉彬がとなった。
     その後、開後に起きた安政の大抗議するため斉彬は兵を率いた上を計画したが、直前になって急死してしまった。これは殺説が根強く、お由羅の方が関与したのではないかと言う聞が現在でもある。
     西郷隆盛はお由羅騒動において斉彬であったの上切腹し、その最期を聞かされて育ったためお由羅と久を嫌っており、そこに加えて斉彬の殺説を信じたため君の久とは生涯不仲であったと伝えられる。大久保利通もお由羅騒動に巻き込まれ遠に処せられるなど、多くの薩摩士の人生を与えた。
     お由羅の方自身は久就任を見届けたのちは静かに余生を送り、明治になる直前にした。なお、昭和天皇の妃であった香皇后はお由羅の方の玄孫に当たる。
  • -東大の別称「門」の由緒
     江戸時代加賀前田斉泰正室。徳将軍徳川家斉の子女。斉の外様大名への懐柔(統制)政策の一環として加賀前田いだ。夫よりも高かつぎ先が外様大名と言う負いもあって格差婚と言えた。多数の女中を連れて輿入れしたが、この女中たちは事あるごとに前田女中を「田舎者」と馬鹿にしたため中の雰囲気は険悪なものとなってしまう。また、輿入れ費用は前田が持ったため、ただでさえ逼迫していた財政は破滅的なものとなった。
     溶、お美代の方は権勢欲が大変に強い女性であり、溶の子で孫にあたる前田慶寧を次期将軍にと画策した。しかし、女系かつ外様大名の男系では見込みなどほとんどなく、権闘争に敗れて大奥から実質的に追放されてしまった。哀れに思った斉泰と溶はお美代の方を引き取ったが、大奥同様の暮らしぶりで散財したため士たちの更なる憎しみを買った。
     この婚姻関係は幕末論にもを与え、斉泰は佐幕だったが、息子の慶寧はへの反発かはたまた将軍になれなかったことへのあてつけ故か尊王だった。禁門の変の際に加賀は御所警備についたが、慶寧は長州との内通が疑われ斉泰は謹慎処分に付し尊王を弾圧した。慶寧がとなると、今度は佐幕への弾圧を開始し論の統一は遅れに遅れた。結果、百万石の大でありながら維新に何の貢献も残せず明治を迎えることとなり、士は新政府において冷遇された。遺臣たちは溶の輿入れは貧乏くじだった言して憚らなかったと伝えられる。
     ただし、加賀自体、溶ぐ以前より加賀騒動の遺恨などから革は常に失敗を重ねており、当然ながら溶のみの責任ではない。妻としては狩から帰った夫の履を進んで脱がせたと言うエピソードも伝わり、夫婦仲は大変良く斉泰は最後まで佐幕に留まった。評判の良くない斉の降・養子縁組政策だが、将軍との関係を考えればこの婚姻は例外的にその役を果たしたと言えなくもない。
     なお、加賀の財政逼迫化の遠因となり不評の因となった溶殿の正門、通称「門」は明治になって敷地が東京大学となったのちも門として残され現在でも日本の最高学府にその威信を伝えている。
  • 志げ-文はやはり悪妻
     明治昭和時代、文森鷗外の妻。大持ちのであり、婚姻後は銭についてはしまり屋だったの峰と仲が悪く別居してしまった。外は困り果て、実家と妻のを行き来する二重生活を送る。庭内不和は創作意欲を掻き立てるものなのか、この時期の苦労が家族人間の尊厳を書いた高瀬舟につながったと言われる。
     容姿に対して極端なまでのこだわりがあり、たちを器量が悪いと叱ったり皮を言ったりしたエピソードが伝わる。器量など叱責したところでどうにかなるものでもなく、この仕打ちは大変に恨まれ、子供たちは成人したのち、や夫の文人仲間から虐げられる志げを擁護することなく、彼女自身晩年は孤独であったと言われる。死後も憂さらしとばかりに文人となった子供たちに悪妻振りを喧伝されてしまい、前述のトルスタヤばりの悪評が残ることになった。もう一人の巨頭、夏目漱石の妻である鏡子が漱石死後も文人たちから慕われたのとは対照的であったと言える。
  • 吉井徳子-族から手に
     昭和時代、伯爵歌人吉井勇の妻。伯爵である柳原の出で、大正天皇の生である柳原愛子は大叔母に当たる。14歳年上の夫である勇は遊び人であり庭を顧みることはなく、寂しさのあまりダンスホールに通い詰めるようになる。そこでダンス教師と意気投合し密通。ところが、ダンス教師は「色魔」と評されるがごとく色情狂いであり、徳子を通じて様々な上流階級女性と関係を結んで行く。
     やがて戦時色が濃くなり娯楽施設や西洋文化への当たりが強くなると、ダンスホールにも綱紀粛正を理由に警察の手入れが入るようになる。その過程で徳子の密通事件が発覚。当時は姦通罪があったため、不倫犯罪(夫側が未婚女性不倫をすることは問題がない)であった。
     身分の高さ故に最終的には不起訴となったが、一大スキャンダルとなってしまい夫婦離婚。徳子は実家柳原に戻った。阿部定のチン切り事件と並んで当時のエログロナンセンス徴する事件であり、自由恋愛観も芽生えていたおおらかな大正期の最後の残滓と言えなくもないが、警察が特権階級にも向けられるきっかけともなった。なお、実質的に夫婦仲は破たんしていたために、同じ族や上流階級の間ではむしろ徳子に同情するが多かったとも伝えられる。

近現代の悪妻

AA

たいていの男は、も自分の妻をさらってくれないことを嘆く。

      ●
     /ヾ|>
 _| ̄|○.<

byニーチェ


女房にされる技術というものは発明されないものだろうか

     ●y一 ̄ ̄
     |ヽヘ
 _| ̄|○  ̄|

byラ・ブリュイエール


結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。

 ●y一 ̄ ̄
 (| へ
  」  ○| ̄|_

宝くじなら当たることもあるのだから。

byバーナード・ショウ


女房は死んだ、自由だ!

 \○ノ
 へ/
  >

byボードレール

最後に

悪妻は年の不作であるという。しかし、女性にとって悪夫は年の飢餓である。
                               by菊池

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1 ななしのよっしん
2018/09/03(月) 17:58:55 ID: jTe7SuOc2n
・荘襄王の正妻趙姫嫪毐と密通。呂不韋との件は濡れ衣の可性あり
伊達輝宗正室の義姫…ある程度は不当評価
野村沙知代…結婚後に犯罪歴あり
安倍昭恵…友問題など
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2 ななしのよっしん
2019/02/21(木) 21:51:25 ID: Hs4LEIzSqX
なんだこの記事は…たまげたなぁ
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3 ななしのよっしん
2020/12/08(火) 00:41:20 ID: OVZ0S+PWTl
ただ有名な女君あげてるだけじゃねーか
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4 ななしのよっしん
2022/07/14(木) 12:02:07 ID: 4biN8L2tUh
アベのも入れちゃどうかな?
本人に悪気はないだろうが、一の宰相の妻がやっていいことじゃないやらかしを連発。
コロナ禍の最中ヘイトを荒稼ぎ。
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5 ななしのよっしん
2022/07/14(木) 12:06:17 ID: 7gX7qfoDqV
安倍ちゃんの場合は割れじ蓋
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