悪妻とは、性質の悪い妻。悪女の一類型。さげまん。対義語は良妻、あげまん。
概要
人類が男女で分業制を行い、夫婦を家庭や社会の基礎単位としてから問題となって来たと思われる。やがて国家を作り上げ王制が成立すると、王統の永続的維持が国家の至上命題となりそれを担う女性たち(後宮・大奥・ハーレム)の存在感が増し、平行的に家と言う意識に発展し臣下にまで及ぶようになる。
しかし、当然ながら男女間には価値観の違いや相性と言うものがあり、周囲の思惑通りに家庭を運営できるとは限らない。また、王室に限らず多少の財や地位のある家庭ならば婚家間(外戚)の思惑が家庭にも影響を与え、一度問題が起きれば当人にそれほどの非がなくても悪妻で片付けられてしまう傾向もある。これは暗君と変わらない傾向で、しかも史書は男性たちによって担われるので女性の立場は常に弱く、夫の暗君評の尾ひれになってしまう場合もある。逆に名君または歴史上に名を残した人物が悪妻を持って苦労したことで、人生の逆境を乗り越えたり家庭を捨てることで政治や創作に集中出来たりしたとされることも間々ある。
総じて、良妻にしろ悪妻にしろ○○の妻または妾と言う形でしか歴史に名を残せない不平等な歴史を反映する女性の歴史であるが、近現代になってフェミニズムによる歴史の見直しが進むと、悪妻とされた女性の中から彼女たちなりの男性や国家に対する接し方が「発見」されることもあり、一方的な見方は改善される傾向もあるようだ。
何故悪妻なのか
大きく分けると
となるのではないだろうか。
1については古来より国を乱すと考えられ、ヨーロッパでは貴賤結婚を禁止し王家間のみで婚姻を行うことが行われた。中国でも外戚が新しい王朝を築くことが散見され、実家と婚家との板挟みになり揺れた女性も多い。王莽の姑母であった王政君や娘の王皇后、曹操の娘の曹節、楊堅の娘である楊華麗は、忠節を捨てた実家の家長を不忠となじり、男性とは違い孝より忠を取ったと言う逸話も残っている。このため、東洋では西洋とは逆に、あえて名門ではない庶民や下級貴族から側室として後宮に迎え入れることも行われた(近親婚を繰り返すよりは子孫のためにも望ましいことも古来より知られていた)。しかし、則天武后や西太后、日本の徳川家の大奥女性たちのように外戚と関係なく専横を振るった例もある。
2については1と同様に、結婚が政略である以上は宿命であろう。これにおそらく人類が始まって以来の問題である嫁と姑の対立が加わるのだから根は深い。
3は論外だが、逆に男性は世継ぎのためとは言え、後宮を設けたり側室が認められないヨーロッパでも公妾を持ったりすることが平然と行われていたのだから、現代的な観点から一方的に非難するのは難しいかもしれない。
4は3の逆と言え、根本的な原因は男性側は合法的に浮気が出来てしまうことである。国によっては嫉妬を抑えて、後宮をつつがなく運営する能力を持つ女性が良妻とされることもある。イングランドのヘンリー8世の王妃でメアリー1世やエリザベス1世の継母となったキャサリン・パーように連れ子にも愛情を注いで尊敬された女性もいるが、夫の死後に対立した女性とその子ごと残虐な報復に及んだ例も多い。
5は当人の責かと言われると微妙だろう。むしろ、堕落してしまった君主の責任や1の実家の専横の責任を負わされてしまう例が多く、楊貴妃などの評では当世より同情の声も多く悲劇が作品ともなった。
6は3の不貞と並び今日的な問題である。夫をATM代わりにするならまだ良い方で、国家と王室の財政の区別がつかない場合は国家がATMと化すこともある。ただし、宮廷費としてならば大奥のように国家的機能を有している後宮もあり、一概に削減ありきでことを進めるのは難しいのも事実である。
いずれの問題も多かれ少なかれ、男性の社会の中で起き得ることと言えるかもしれない。ただ、前述の通り女性が行えば悪く描かれてしまう側面はあり、特に政治は宦官と並び関わった時点で批判対象となる例も散見される。
歴史上の悪妻たち
中国の悪妻
- 妲己-伝説の美女、日本では漫画によりヒロインに
殷時代、紂王の妃。傾国の美女。紂王が有蘇氏を討った際に献上された女であったが、美貌であったため紂王の寵愛を受けた。生来残虐であり、炮烙(猛火で熱した銅製の丸太の上を歩かせたり押し付けたりする処刑方法)を見物することを好み忠臣たちを処刑した。また、酒池肉林と呼ばれるぜいたくな酒宴を行い民力を疲弊させた。周の武王によって紂王が自殺に追い込まれ殷が滅びると処刑され、首は旗にくくりつけられ晒し者になった。藤崎竜版「封神演義」では悪のヒロイン的な立ち位置が与えられ人気を博した。現在の中国でも魅力的だが危険な美女の代名詞である。 - 褒姒-中国版イソップ童話
西周時代、幽王の妻。傾国の美女。非常に見目美しい女性であったが、笑ったことがなく幽王をやきもきさせていた。ある日、手違いで軍の召集を知らせる烽火(狼煙)があがってしまい、馳せ参じた諸将や兵は大混乱に陥ったが、褒姒はその様を面白がり晴れやかに笑った。それに喜んだ幽王は以来、常時烽火をあげるようになってしまい、やがて狼煙を見ても誰も相手にしなくなって行った。
幽王の褒姒への寵愛は度が過ぎており、すでに皇后についていた申氏と王太子を廃し、褒姒とその息子の伯服を後につけた。怒った申氏の父である申候は異民族である犬戎の援助を受けて西周へと侵攻。幽王は慌てて烽火をあげたが、慣れてしまった諸将は「どうせまた嘘だろう」と参集しなかった。結果、丸裸になってしまった幽王は捕らえられて殺害されてしまい、西周は滅んだ。中国版オオカミ少年として知られる故事。 - 呂雉-後宮の悪妻、国政の良妻
西漢時代、高祖劉邦の妻。中国三大悪女の一人。豪族であった呂公の娘であり、沛県の亭長をしていた劉邦に嫁いだ。夫劉邦は婚姻後、秦相手に兵を起こし身を立て呂雉も内助を尽くした。秦打倒後は項羽と戦争状態に陥り連戦連敗を喫すると、留守を守っていた呂雉は舅の劉太公と共に捕えられ人質とされるなどの辛酸をなめる。解放され最終的に劉邦が勝利し皇帝に即位したが、劉邦は呂雉を顧みなくなっており、戚夫人を中心とした側室に寵愛が移っていた。
劉邦死後、呂雉は報復を開始し、戚夫人の息子でかつて自身の息子である恵帝と皇太子の地位を争った劉如意を殺害。戚夫人は幽閉の上で両手足を切断され、耳・目・喉を潰された上で厠にぶち込まれ「人豚」と呂雉から嘲りをうけた(中華圏では厠の下に豚を飼って人糞を餌とする)。また、外戚である呂氏一族は大いに繁栄し、劉氏の王族や功臣を粛清した上で一族の子弟を後釜に据えた。
この専横に周囲の憎しみは募り、呂雉の死後まもなくクーデターが発生し呂一族はほとんどが処刑されると言う結末を迎える。
中国酷刑史に不動の名を刻んだ呂雉だが、在野での苦労が長かったためか民衆には民力休養と寛刑と言う真逆の姿勢で臨んでおり、漢初は中国史の中でも宋代と並んで類を見ないほどの平和な時代であったとも言われる。 - 竇妙-身分の賤しい側室に地位を脅かされる
東漢時代、桓帝の皇后。東漢建国の功臣の末裔である竇武の娘であり、身分の高さから皇后に立てられたが桓帝は彼女を愛することはなく、采女(側女)であった田聖を寵愛した。一時期は竇妙を廃して田聖を皇后に立てることも考えた桓帝であったが、周囲が諌めたため実行はされず竇妙も我慢を重ねた。やがて桓帝が崩御するといつものパターン通りに田聖を殺害。桓帝に直系がいなかったため、彼の従甥にあたる霊帝を立て垂簾聴政を行った。
しかし、桓帝時代に外戚や豪族を宦官によって排除する先例(第一次党錮の禁)が行われていたため、宮中では宦官の勢力が強く思うような政策は取れなかった。そこで、父である竇武はもとより宦官を憎んでいた清流派と呼ばれる士大夫層と手を組みクーデターを計画。しかし、情報が洩れてしまい、逆に戦いに敗れて竇武は自殺に追い込まれ清流派はさらに排斥を受けた(第二次党錮の禁)。竇妙も幽閉され、のちに病死。死体は城壁に晒された。この外戚と宦官の対立が宦官の勝利に終わったことが黄巾の乱につながり、三国鼎立時代を誘発することとなる。 - 何皇后-ご存じ、肉屋の娘
東漢時代、霊帝の皇后。身分賤しいと畜商の娘であったが、美人であったので宮中に取り立てられ霊帝の寵愛を受け男子(少帝弁)を生んだ。異母兄であった何進もこれに伴って大将軍にまで出世。元来気が強く、霊帝の寵妃であった王美人が男子(献帝)を生むといつものパターン通りに王美人を殺害した。
霊帝が崩御し少帝弁が即位したのちは竇妙死後に朝政に参画していた姑の董太后を殺害。しかし、何氏の専横を憎んだ宦官たち(十常侍)と何進が対立すると、朝廷では宦官ともつながっていた何皇后は板挟みとなってしまう。最終的に何進は十常侍に殺害されてしまい、その十常侍も兵を洛陽に進めていた董卓に漁夫の利的に殺害されてしまう。外戚と宦官と言う二つの後ろ盾を失った何皇后は董卓の軍事力の前にはなすすべなく、少帝弁と共に廃された上で殺害された。
批判が絶えない東漢の外戚と宦官だが、皮肉にも排除されたことが滅亡へとつながって行く。 - 賈南風-暗君の陰に悪妻あり
西晋時代、司馬衷(恵帝)の皇后。建国の功臣である賈充の三女。嫉妬深く陰謀を好む性質があり、司馬衷は彼女を恐れていたと言われる。暗愚な司馬衷に帝位を譲ることを憂えた父帝司馬炎(武帝)は、書類仕事をやらせてみることで廃嫡するかどうかを決めようと考えた。案の定、司馬衷は全く仕事をこなせなかったが、賈南風が優秀な官人を抱き込み代筆をさせた。しかし、完璧な仕事ではバレてしまうので、わざと間違いを入れるなどの工夫を凝らしてあえて次第点程度の仕事に止めた。この内助の功(?)は大成功であり、武帝は「これなら官人は無理でも皇帝程度ならこなせる」とすっかり騙されてしまったと言う。
武帝が崩御し司馬衷が恵帝として即位すると、恵帝おろしに参加していた人臣を次々に粛清。皇太后の外戚で武帝の在世中から権勢を誇っていた楊駿にも及んだが、この際に地方に赴任していた諸王の力を借りたことが西晋を衰退させる八王の乱の遠因となった。賈南風自体は諸王を常に使い捨てにすることにより上手く権力闘争を勝ち抜き、いつものパターン通りに側室であった謝玖とその子供で恵帝の皇太子となっていた司馬遹を殺害し権勢は絶頂に達した。しかし、諸王の一人で簒奪への野心があった司馬倫(趙王)が偽りの詔を発してクーデターを決行。賈氏の勢力は一掃され、賈南風も殺害された。
クーデター時に偽勅を突き付けられた際「詔は我が書いているのに何故だ」と叫んだと言う笑い話のようなオチもついており、夫である恵帝の暗愚さを彩っている。ただし、張華や裴頠と言った賢臣に内政を任せることで、恵帝時代の中では評価される安定時代を築いてもいる。人の良いところを見る目はあったが、悪いところを見る目は欠けていたようだ。 - 馮太后-中国史における事実上の初代「女帝」
南北朝時代、北魏の文成帝の皇后。夫である文成帝の死後、13歳年下の義理の息子である献文帝と秘密裡に再婚し拓跋宏(のちの孝文帝)を産んだ。献文帝が成人するとBBAは用済みとばかりに馮太后の排斥を開始。しかし、逆襲を受けて拓跋宏への譲位を強制され、のち毒殺された。政権を完全掌握した馮太后は自身への反対勢力への徹底した粛清を行う一方、均田制や租調制など漢民族の影響を受けた政治改革を行い、北魏の国力は増進。最盛期となる孝文帝時代への基礎を築いた。事実上の女帝の誕生は二百年後の武則天の即位に先鞭をつけるものであった。悪妻兼国母と言う稀有な例。 - 胡太后-能力は先々代に及ばず
南北朝時代、北魏の宣武帝の妃。元詡(のちの孝明帝)を産み立太子させた。北魏では通常、外戚の専横を防ぐために子が立太子された場合に生母を殺害する風習(子貴母死、前述の馮太后は表向きは義理の祖母なので免れている)があったが、宣武帝がこれを改めたため中国的な帝室となっていた。しかし、この改革は初っ端から弊害を生むことになる。
宣武帝が崩御すると幼少の孝明帝が即位し、胡太后が垂簾聴政を行ったが、馮太后のような政治的な才は伴っておらず、寺院建設などの公共事業にいたずらに国力を浪費させた。宮中は宦官が支配し国政は大いに乱れた。孝明帝は成長するに連れて母の存在に煩わしさを覚え、将軍の爾朱栄と共にクーデターを図ったが失敗し毒殺された。胡太后は孝明帝の唯一の子であった女児を男児と偽って即位させたが、当然ながら露見し一日で廃された。続いて従甥にあたる元釗を即位させたが、目まぐるしく入れ替わった帝権の所在に諸将の不満が噴出。兵を挙げていた爾朱栄の前に抵抗する者はいなくなり、首都洛陽は陥落し胡太后と元釗は捕らえられ河陰の地において黄河に沈められた(河陰の変)。以後、北魏は軍人や軍閥の力が強くなり、分裂と共に滅んで行くことになる。 - 独狐伽羅-良妻であるが故に後継者選びを誤る
隋時代、楊堅の妻。創業前より夫を内助の功で支え、即位後も一族に対してさえ容赦せずに刑罰を下し公正な朝政を行った。一方、出身部族である独狐氏は一夫一妻制であったため、夫にもそれを求め側室を殺害するなど非常に嫉妬深い女性でもあった。夫人を大切にすべしと言う思いは身内に対する厳しさも重なり、もはや偏狭レベルとなってしまう。多数の妾を囲っていた皇太子の楊勇を嫌い、表向きは質素さを装っていた次男の楊広(のちの煬帝)を推した。
こう言った情勢もあり、楊堅は楊勇を廃し楊広を皇太子としたが、楊広は両親の死による即位後に本性を現し、華奢を好み国政を弛緩させ隋を短命王朝で終わらせる遠因を作ってしまった。 - 武則天(武照)-説明不要の中国史唯一の女帝
唐(武周)時代、高宗の皇后。武周初代皇帝。中国三大悪女の一人。最初、太宗の後宮に入ったが、息子の李治(高宗)に見初められて太宗の崩御後に再入内した。末流貴族出身で有力な後ろ盾を持たなかったが、実家の権勢のみに固執する他の宮廷女性(王皇后や蕭淑妃)を巧みに出し抜いて行った。王皇后とは蕭淑妃排除のために結んだが、のちに武照の子息暗殺の嫌疑(武照自身が息子を殺害したと言う逸話も残る)をかけて排除。立后されたのちに双方をこん棒で撲殺した。
病気がちだった高宗に代わり政権を掌握すると、自身も低い身分であったことから出身身分にとらわれない人材登用を行い風通しをよくした。外征も積極的に行い、百済を滅ぼし白村江の戦いで旧百済と倭の連合軍を破った。ついには隋滅亡の遠因となり長年に渡り懸案事項となっていた高句麗も滅亡させ、東方での優位を確固たるものとした。一方、酷吏と呼ばれる強烈な法治主義者を登用し帝室や諸王間で恐怖政治を敷いた。このため、李氏の縁戚を中心に反乱が頻発したが、内政自体は安定しており庶民の支持は得られなかったためことごとく鎮圧され族滅させられた。
夫である高宗が崩御すると、子供たち(中宗・睿宋)を皇帝に立てたが武照はそれで満足するような女性ではなく、ついに登極し中国史上初にして唯一のの女帝となった(王朝名を武周と呼び、武照は武則天と称される)。当然ながら宗室は大混乱に陥ったが、武則天の「人を見る目」は衰えることはなく名臣である狄仁傑を重用。のちに開元の治と呼ばれる唐代の黄金時代を築く姚崇や宋璟もこの時代に引き立てられた。
武周の維持にこだわり、自分の死後に子供たちが再び帝位につくことを憂慮していた武則天であったが、さすがにこれは如何ともしがたく、死の直前に政変が起き、子の中宗を復位させる代わりに武則天を皇帝として認めると言う妥協が図られ唐が復活した。
婚家を女性自身が簒奪すると言う前代未聞の悪行と引き換えに、外征では多大な成果を挙げ人材登用も中国史上まれに見るほどの柔軟性を発揮。この社会の柔軟性は唐代を通じて維持され、遣唐使はじめ多くの外国人が唐を訪れ、外征の成功と合わせて東アジアでの中国の地位を高めた。全ての悪行に目を瞑っても余りあるほどの功績と言えるが、女性の地位が相対的に低い漢民族での受けはよくなく、武則天の跡をついだのちに専横を振るった韋皇后と合わせて武韋の禍と称され不当に低い評価を受けるようになる。 - 韋皇后-良妻転じて毒婦に
唐時代、中宗の皇后。姑の武照に疎まれ、中宗の廃位と共に湖北に流されると言う辛酸を舐めた。中宗とは配流先でも協力して生活を送るなど元は夫をよく立てる女性であったようだが、この経験が悪影響を与えたのか中宗復位後は姑にならって自らの即位を望みまたは娘の安楽公主を皇帝に立てようと欲し、中宗を毒殺した。しかし、睿宗の息子であった李隆基(のちの玄宗)がクーデターを起こし、韋一族を皆殺しにして事なきをえた。
以降は唐代のみならず中国史において武韋の禍が強調されるようになり、女性による簒奪と言う事態は起きなくなった。五胡十六国~南北朝~隋唐は異民族時代であり、女性の地位は相対的に高く、悪妻の質も漢民族のそれとはかなり異なっていたと言えるだろう。 - ダギ・カトン-異民族王朝のBBA
元時代、皇太子チンキムの次男ダルマバラ(クビライの孫)の妃。夫との間にカイシャン(武宗)とアユルバルワダを成したが、夫は早世した。クビライの跡を継いでいたテムルが崩御すると、重臣たちのクーデターに馳せ参じ、即位を目論んだアナンダと彼を立てようとしたテムルの皇后であったブルガンを排除。子のカイシャンを即位させ、アユルバルワダを皇太弟とした。権勢欲・所有欲共に旺盛なダギは歴代皇后たちの財産を回収し、興聖宮と呼ばれる大規模な宮殿を建て子供たちの王宮を圧倒した。
ダギ本人は弟のアユルバルワダの方がお気に入りであり、カイシャンが死去するとアユルバルワダとの兄弟間で交わされていた「カイシャンの息子であるコシラを皇太子にする」と言う約束を反故にさせ、アユルバルワダの息子であるシデバラを皇太子としカイシャンの勢力を宮廷から一掃した。アユルバルワダは母には全く頭が上がらず、在世中は勅令よりも興聖宮が発する懿旨の方が重視され、実際の朝政も興聖宮を中心に行われる始末であった。
アユルバルワダも早世してしまい、ダギの思惑通りシデバラが即位した。しかし、シデバラはいつまでも死なないBBAを疎いだし、権勢には陰りが差し始める。ダギはシデバラの即位から二年後に死去し、ダギ一党は興聖宮の没落と共に消滅した。ただし、シデバラもその一年後に死去してしまい、相対的な安定期であったダギ時代から13年の間に7人もの皇帝が立つ混迷時代へと突入。元の王朝としての寿命は彼女の死と共に縮んでしまったとも言える。 - 西太后(慈禧太后)-伝説の悪妻の伝説
清時代、咸豊帝の第二夫人。咸豊帝の間に唯一の男児である愛新覚羅載淳(のちの同治帝)を産む。アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝が崩御し載淳が同治帝として即位すると、咸豊帝の遺命で大臣となっていた載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変)。女性にはまず見られないような果断さをもって、第一夫人であった東太后と共に政権を掌握し垂簾聴政を行った。
同治帝時代は太平天国の乱が終結し、賢臣である李鴻章や曾国藩らが洋務運動と呼ばれた近代化を進め、西洋列強による植民地化に一定の歯止めをかけることに成功した(同治中興)。同治帝が若くして死去すると、妹の子であった載湉を光緒帝として即位させた。
ここまでは比較的順調であった垂簾聴政であったが、東太后が死去し対外穏健派だった恭親王奕訢が失脚すると西太后の思惑を超えて徐々に独裁指向が強まって行く。
ケチのつき始めは日清戦争の敗北であった。敗因は同時期に近代化を始めた日本側の維新運動の方が国家革新としては優れていたことだが、西太后が国費を清漪園などの庭園事業に流用したことも一因であったと言われる。
日清戦争終結後、西太后は表向き引退した。光緒帝は親政を本格的に開始し、日本の明治維新に倣って体制の変革を志し変法派と呼ばれた康有為や梁啓超らを登用した。しかし、科挙の廃止をはじめとした急速過ぎる変革は士大夫層の反発を受け、守旧派は西太后に光緒帝が西太后排除を企図しているとあることないことを吹き込み激怒させた。最終的に西太后を旗印にした宮廷クーデターが発生し光緒帝は幽閉。変法運動はわずか百日で終結した(戊戌の政変)。
同治時代と光緒時代前半に続く三度目の垂簾聴政であったが、日清戦争の敗北を見た列強からの圧力は強まりつつあり、光緒帝の廃位をはじめ思うように政を行うことが以前より出来ない情勢であった。外国勢力(キリスト教徒)との住民同士のいざこざから大規模な外国人排斥運動が発生(義和団の変)。反乱側が「扶清滅洋」を掲げていたことを知った西太后はこれを機に外国勢力の一掃を図り列強八カ国に宣戦布告(北清事変)。しかし、列強一国に対してのみでも勝ち目はなく、連戦連敗を喫し北京は陥落。西太后は北京から敗走し戦争は完敗で終わった。
この敗北により清の半植民地化は進み、西太后も本格的な国家革新を認めざるを得なくなった。場当たり的な三度目の垂簾聴政は西太后の死去で終結。余程、光緒帝の仕打ちが腹に据えかねたのか、死去の直前に毒殺を命じ崩御の報を聞いてから鬼籍に入ったと伝えられる。その後、清は近代化にも失敗。死去から三年目に辛亥革命で消滅した。
近代の人物であり、中国が辛酸を舐めた時代の責任者とされるため、現在でも評価は低い。ただし、重臣たちによるものとは言え、洋務運動自体は一定の成果を挙げており、権力を握っていた間に何もしなかったと言う訳ではない。日清戦争の敗因と言われる庭園事業も西太后以前から進められていたもので、光緒帝も歴代皇帝の意思を継ぐ意味では積極的だったと言われる。また、変法運動自体も明らかに現実を無視していたと言う批判も現在では主流になりつつある。体の良い敗因の押し付け対象になった側面は否定できず、清末が彼女の時代であったこともあり中立的な研究は進められている。
世界の悪妻
- クサンティッペ-哲学者の条件は悪妻持ち
古代ギリシャ時代、ソクラテスの妻。ソクラテス曰く「結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」とのこと。西洋においては悪妻の代名詞的存在であり、女性の地位がかなり低かった古代ギリシャにしては多数のエピソードを残している。ただし、ソクラテスのような生業をほったらかしにして哲学にばかり現を抜かす夫では普通は悪妻になることだろう。 - ヤシャーダラー-女人往生し難し
古代インド時代、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈迦)の妻。王族の夫との間に一子をなしたが、出家を志していた夫からラーフラ(障壁)と言うDQNネームを付けられる。シッダールタが出家したのちも夫の実家(カピラヴァストゥー)に残り、子供と舅を献身的に支えた。
12年の修行と伝道ののち、夫が帰郷すると、ラーフラに「お父さんに遺産を貰いなさい」と死んだことを前提とする皮肉な言葉をかけて会うようにけしかけた。しかし、ラーフラは夫側について出家してしまった。
釈迦の説法も聞いたが、周りが感動し預流果(聖人への前段階)に入ったのに対し、彼女だけは全く理解しなかったと伝えられる。ただし、ソクラテス-クサンティッペと同様、釈迦が夫では幸福な家庭は無理だろうと思われる。 - クレオパトラ7世-鼻はそもそも低かったかもしれない
古代エジプト時代、プトレマイオス朝最後のファラオ。プトレマイオス朝では権力を巡る骨肉の争いが常態化していた。そこで、対立を避けるため、プトレイマイオス12世は娘のクレオパトラ7世と息子のプトレイマイオス13世を結婚させ共同王位とすることで融和を図ろうとした。しかし、この結婚は顕在化していたエジプト内の親ローマ派と反ローマ派に格好の旗頭を与える結果となってしまい、反ローマ派についたプトレイマイオス13世は親ローマ派と共にクレオパトラ7世を排撃。
追い詰められたクレオパトラ7世は当時、ポンペイウスとの内戦に勝利し彼を追ってエジプト入りしていたガイウス・ユリウス・カエサルと接近。カエサルの愛人となることでローマ軍を引き入れ戦況を有利にすすめ、プトレイマイオス13世を敗死させ、彼についていた妹のアルシノエ4世を捕えた。
その後、さらに年少の弟であるプトレイマイオス14世と再婚したが、実質的にはカエサルとの共同統治でありカエサルとの間にカエサリオンを産んだ。
カエサルが10年間の独裁官となり捕虜となったアルシノエ4世を引き回すために凱旋を行うと、これに従ってカエサリオンと共にローマ入り。彼女の人生の中ではほぼ唯一平穏な生活を送っていたと思われるが、カエサルはそれから二年後に元老院の反発を買って暗殺されてしまう。
カエサルの死後、エジプトに帰還すると、形ばかりの夫であったプトレイマイオス14世を殺害。息子との共同王位と言う形で再び実権を握った。次に彼女が味方と目したのはカエサルの後継者であるガイウス・オクタウィウスと対立していたマルクス・アントニウスであり、またしても籠絡に成功しアントニウスが支配していたシリアと合わせて一大勢力となった。
アントニウスと共に行った東方遠征によりアルメニア王国にまで版図を拡大。しかし、この遠征の凱旋式はエジプトで行われ、ローマにはほとんど還元がなかった。失望したローマ市民はオクタウィウス支持に傾き、アントニウスはローマでの支持基盤を喪失した。
オクタウィウスとアントニウス・クレオパトラ連合軍は雌雄を決すべく、ギリシャ沿岸のアクティウムで激突(アクティウムの海戦)。クレオパトラ7世は早々に敗退し戦場を離脱してしまい、憂慮したアントニウスも彼女の後について撤退。戦いはオクタウィウスの勝利に終わった。
敗戦後は軍の寝返りが相次ぎ、追い詰められたアントニウスは自決。クレオパトラ7世は捕虜となったが、アントニウスに殉じたかったのか妹のアルシノエ4世のような市中引き回しには耐えられないと思ったのか、隙を見て自決した。カエサリオンもカエサルの血を恐れたオクタウィウスにより殺害されプトレマイオス朝は滅亡した(アントニウスとの子供たちは助命されている)。
カエサルとアントニウスと言う二人の英雄を籠絡したことから、後世において絶世の美女と称されることも多いが、同時代の人々の間では容姿はそこそこだが数か国語を操る知的な女性と目されており、美女伝説は尾ひれがついたもののようだ。ヨーロッパでは美女としての評価の他、悪女としての評も立っているが、エジプトでは困難な国勢に立ち向かったファラオの一人として評価がなされている。 - へロディア-さげまんは一夫人としては良妻
古代イスラエル・ヘロデ朝の国主ヘロデ・アンティパスの妻。当初はアンティパスの異母兄に嫁いでいたが、アンティパスの方が有力と見て夫を捨て娘のサロメを連れてアンティパスの元に走った。ユダヤ教では生存している兄弟の妻を娶るのはタブーであり、この結婚は聖界から大きな批判を浴びた。特に洗礼者ヨハネは批判の急先鋒であり、民衆を扇動した廉で捕らえられてしまう。
アンティパス自体はヨハネの民衆人気を考慮して幽閉に止めていたが、憎んだへロディアはヨハネ殺害の機会をうかがっていた。そんな中、アンティパスの誕生日祝いに娘のサロメが舞を献じた。喜んだアンティパスは返礼に願うものは何でも与えると言ってしまった。これを聞きつけたへロディアはサロメを唆してヨハネの処刑を乞わせた。アンティパスは躊躇したが、約束は約束なのでヨハネを処刑し首をサロメに与えた。
以上が新約聖書に描かれたヨハネの最期(ただし「サロメ」の名前は別史料由来)であり、のちに多くの宗教画で描かれることになる故事である。その後、へロディアにより追い出されたアンティパスの前妻の実家、ナバテア王アレタスはヘロデ朝に侵攻を開始。アンティパスは惨敗し権勢は失墜。ついにはへロディアの兄弟であったアグリッパが裏切り、ローマに反意を讒言したことにより失脚させられ流刑に処せられた。
へロディア本人はアグリッパが寛恕したため刑罰の対象にはならなかったが、自ら望んで夫と共に流刑地に赴きそこで夫と同時期に没したとされる。さげまん振りは凄まじいものだったが、夫への愛情は本物だったようだ。 - ウァレリナ・メッサリナ-金!暴力!SEX!
古代ローマ時代、ローマ皇帝グラディウスの皇妃。ヨーロッパ史における伝説的な淫売で、皇妃でありながら売春婦として売春宿にいた、一晩で25人の男性と交わったなどの伝説を残す。酷薄さも持ち合わせており、気に入らない人物を夫に処刑させたとも言われる。元老院議員であったガイウス・シリウスと共に夫の暗殺計画を練ったが、支持者はほとんどなく逆襲を受けて殺害された。娘のオクタウィアはのちの皇帝ネロに嫁いだが事実無根の姦通罪により手足を切られて処刑され、息子のブリタンニクスも暗殺された。 - 小アグリッピナ-この親にしてこの子あり
古代ローマ時代、ローマ皇帝グラディウスの皇妃。カリグラ帝の妹で、死別した夫の子であるネロを連れてメッサリナ亡き後のグラディウスと婚姻した。結婚そのものがネロを皇帝につかせるためのものであったとされ、権勢欲は非常に旺盛であったと伝えられる。ネロをグラディウスの養子とすることに成功し、継子のブリタンニクスを冷遇(ネロ即位後暗殺)。グラディウスがキノコ中毒(アグリッピナによる暗殺説が有力)により崩御すると、目論見通りにネロを即位させた。
ネロ即位後は彼女の思いのままになると思われたローマの国政であったが、ネロ本人はしだいに母を煩わしく思うようになっていた。そこで旅行中の水難事故に見せかけて殺害するために、外見だけ豪華で中身はおそまつなボロ船に母を載せたが、アグリッピナは泳ぎが達者で失敗した。アグリッピナは無事を知らせる使者をネロに遣わせたが、ネロはこの使者が帯剣していたことを口実に「自分に刺客を送った」との容疑をアグリッピナに被せて誅殺した。息子のこの仕打ちによほど腹を据えかねたのか、殺害される前にネロを育てた自身の胎を刺すように刺客に叫んだと伝わる。 - ゼノビア-ローマを脅かした「今」クレオパトラ
古代ローマ時代、シリアにあったパルミラ王国の王セプティミウス・オダエナトゥスの妻。パルミラの女王の方が通りが良い。数か国語を操る才女であり歴史にも精通し、クレオパトラ7世などの古代王国の女王に憧れていたと言われる。夫の遠征には常に軍装をして参陣。ローマと協力し反乱軍を鎮圧し、対立していたサーサーン朝を二度に渡って脅かした。夫が死去(暗殺説が根強い)すると、息子のウァバッラトゥスと共同王位につき女王となった。
同時期のローマは軍人皇帝時代であり、ガリアの反乱や異民族の侵入に悩まされ中近東に空白域が生じていた。ゼノビアはこれを見逃さず、サーサーン朝の脅威からローマを守ると言う名目のもと侵攻を開始。一地方王国に過ぎなかったパルミラをエジプトから小アジアにまで及ぶ一大帝国にまで拡大させた。
しかし、内戦を制したルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスが反撃を開始。ウァバッラトゥスを敗死させ、パルミラを陥落させたのちにゼノビアを捕えた。
ゼノビア本人はクレオパトラ7世に憧れていたが、自殺する気はなく慣例となっていた敵国女性のローマにおける市中引き回しにも堂々と応じた。その際につながれた鎖は自ら用意した黄金製だったと伝えられる。この堂々とした態度に多くの人が感じ入ったのか、助命された上で元老院議員と再婚し社交界の華として余生を全うしたと伝えられる。
彼女が築いたパルミラ王国の遺跡は古代ローマとオリエント、さらにはのちのキリスト教教会が交わるまさにシリアの宝であったが、残念なことに2015年にイスラーム原理主義グループISILにより破壊された。 - テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナ-マナーを守って地獄へ堕ちた?
中世ヨーロッパ、東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス10世ドゥーカスの皇女で、ヴェネツィア共和国元首ドメニコ・セルヴォの妻。嫁ぎ先のヴェネツィアでフォークとナイフ、ナプキンを使った食事を行い、ヴェネツィア人を動転させた。「何でそんなことに驚くのだ?」と思われるかもしれないが、当時のヨーロッパは階層の上下あるいは男女の別問わず手づかみが主流であり、文明的なマナーを持ち込むことは野蛮な中世人から見れば高慢な挑戦にしか映らなかったのである。
婦人病で早世したが、朴訥なヴェネツィア人は「神判が下った」と大喜びしたと伝わる。現代から見た中世ヨーロッパ時代とのカルチャーギャップを語る際には外せない女性と言える。 - フアナ(カスティーリャ女王)-早すぎた桂言葉
近世ヨーロッパ、カスティーリャ王国女王のイザベル1世とアラゴン王国国王フェルナンド2世(共同王位となりスペイン王へ)との間に生まれた王女。政略結婚で神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の長男、ブルゴーニュ公フィリップと結婚した。フアナ自体は信仰の厚い淑女で夫を愛していたが、夫のフィリップは端麗公と称されるがごとく金髪碧眼の絵に描いたような美男子であり浮名を流していた。結婚後も夫の女性遍歴は治らず、徐々にフアナの精神状態は悪化。夫の浮気現場に自ら突入し、夫と愛人双方を罵倒したため「二度とお前なんか抱くものか!」と夫から言われるほど憎まれてしまう。
ここまではよくある不仲な王家の家庭事情に過ぎず、当人たちと王族の頭を悩ませる問題に過ぎなかったが、フアナの兄弟姉妹が早世してしまい、情緒不安定になってしまったフアナが王位継承者になったためこの不幸な婚姻自体が国を揺るがす事態へと発展してしまう。
夫の領地があったネーデルランドからスペインに向かった両者であったが、フィリップはスペインの田舎臭い風土を嫌って身重のフアナを置いてすぐ帰還。その際、フィリップは岳母のイザベル1世にフアナの精神状態を告げ口し、自身を王位につけるように要求。イザベル1世は逆にこのフィリップの姑息さと娘に対する仕打ちに激怒し、フアナを単独のカスティーリャ王位とする遺言を残した上で崩御した。
スペイン王位をも狙っていたフィリップは妻の王位継承にショックを受け、再三に渡って王位を譲るよう持ち掛けたがフアナはこれを拒否。すると「妻のものは俺のもの。俺のものは俺のもの」とばかりに共同王位を主張しフェリペ1世(フィリップのスペイン語読み)を僭称。女王の王配(配偶者)が女王に王位を請求すると言う前代未聞の事態を引き起こした。結局、父王であったフェルナンド2世が仲裁しフィリップを摂政とすることで妥協が図られたが、その後もフィリップが王位を諦めることはなく公的な場ではフェリペ1世を自称し続けた。
このフィリップのDQN振りには神も愛想を尽かしたのか、争いが続く最中に生水に当たって急死してしまった(親仏派だったフィリップに危機感を抱いた反仏派による毒殺説あり)。フェルナンド2世も馬鹿義息の死に内心やれやれと言ったところだったが、夫としてはフィリップを心の底から愛していたフアナは完全に精神崩壊。フィリップの遺体を埋葬せず、これで二人きりになれたとばかりに棺を伴ってスペイン各地を放浪した。
このヤンデレ奇行はたちまち国民の間にも噂となり、フェルナンド2世はフアナを幽閉。フェルナンド2世崩御後も息子で神聖ローマ帝国皇帝となったカール5世(カルロス1世)によって継続され、以後40年間フアナが崩御するまで続いた。
ヤリチンとヤンデレと言う伊藤誠と桂言葉のような夫婦であったが、夫婦仲自体はそこまで悪くなく六人の子供に恵まれハプスブルク家全盛期に至る基礎を築いた。 - マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ王妃)-ヒロインとなった淫売王女
近世ヨーロッパ、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの王女。のちにアンリ4世となるナバラ王(ブルボン家)アンリの最初の王妃。当世随一の美貌を誇り、かのドン・フアンのモデルの一人、ドン・フアン・デ・アウストリアをして「男を破滅させるほど」と言わしめた。生来、淫乱で兄弟たちとも近親相姦していたと言う説がある。あまりの淫蕩振りに兄であるアンリ3世が注意をしたところ「殿方と交わることの楽しみはお兄様が教えてくださったのではなくて?」と返したと言う逸話も残る。
当時のフランスはカトリックとプロテスタント(ユグノー)間の内戦に揺れており、マルグリット本人は行状に似合わずカトリックへの信仰が強く、カトリック派だったギーズ公アンリとの結婚を望んでいた。しかし、王室の実権を握っていた王太后のカトリーヌはユグノーとの和解を望み、ユグノーの指導者だったナバラ王アンリと結婚させた。
この結婚は始まりから不幸で、兄王のシャルル9世とギーズ公は婚姻でユグノー派貴族がパリに集まることを奇貨として一網打尽にすることを企図(最初から計画的であったかは諸説あり)。夜明けと共に宿舎にいたユグノー派貴族の殺戮を開始した(サン・バルテルミの虐殺)。シャルル9世は主要な貴族さえ殺せば満足であったが、合法的に暴力が振るえると勘違いした民衆が殺戮に加担。やがてフランス全土でお祭り騒ぎのような暴動となり一万人から三万人に及ぶ犠牲者(大半はユグノーだが、少なくないカトリック教徒も巻き込まれた)を出した。
ナバラ王アンリはカトリックに強制改宗されて助命されたが、こんな血塗られた婚姻ではマルグリットに対し愛情を持ちようもなく夫婦仲は大変に不仲であった。結局、幽閉されていた宮廷からマルグリットを捨てて脱出し、再改宗した上でギーズ公アンリとシャルル9世の跡を継いだ義兄のアンリ3世に挑み、王位継承問題も絡んだ三つどもえの内戦へと突入した(三アンリの戦い)。最終的にギーズ公アンリとアンリ3世は暗殺の応酬で共倒れとなり、王位はナバラ王アンリのものとなった(アンリ4世、ブルボン朝の始まり)。
王妃となったマルグリットだったが、この地位には何らの未練も持たず愛人たちに囲まれる生活を選び即位から10年後に正式に離婚。以後は悠々自適な生活を送った。
伝説的な美貌と悲劇的な婚姻のため、醜聞に塗れつつもフランス史では人気のある王妃であり、文豪アレクサンドル・デュマも彼女をヒロインにした作品を書き上げている。 - エリザベート・バートリ-ヴラド3世、ジル・ド・レ、そして…
近世ヨーロッパ、ハンガリーの名家であるバートリ家から伯爵ナーダシュディ・フェレンツ2世に嫁いだ。フェレンツ2世はオスマン帝国との戦いで大きな戦果を挙げた有能な軍人であったが、非常に残虐極まりない性格をしており、味方からでさえ黒騎士とあだ名されるほど毀誉褒貶の激しい人物であった。
どちらかと言えば成り上がりに近い夫ではあったが、生来気性が激しいエリザベートは男らしく勇猛果敢なフェレンツ2世には心から惚れこんでいたらしく夫婦仲は非常に良かった。ただし、侍女に対する虐待の楽しみややり方も彼から学んだとされ、彼の死後の悲劇につながる。
夫の死後は遺贈されたチェイテ城で未亡人として何不自由ない生活をしていたが、老いを恐れるようになりヒステリックな性格に拍車がかかり始める。ある日、いつも通り侍女を鞭で折檻していたところ、その侍女の鮮血がエリザベートに降りかかった。血を拭うとその部分だけが若返ったように見えた。それ以降は美容のため農奴から生き血を搾り取るために残虐な屠殺を行うようになる。
ドイツから高額な費用をかけて処刑人を呼びよせ鉄の処女(アイアン・メイデン、鉄像の中身が針地獄になっており中に受刑者を入れて失血死させる)などの拷問具を買い漁り、仕事を紹介すると誘い出した上で農奴の娘を次々に屠殺して行った。最初は鉄の処女で満足していたが、徐々にそれでは飽き足らなくなり、皮はぎや手足の切断または破壊、腸や膣のえぐり出しなど性的な拷問にも発展。
また、拷問具・処刑具の開発には非常に熱心で自身でも日々研究を重ねた。鉄の処女の底部にチューブをとりつけ血を一滴も余すことなく搾り取れるように改良したのも彼女である。ついには鳥かご状の監禁具に剣やナイフなどの刃物を括り付け、受刑者を放り込んだのちミキサーのように回転させることで血や肉片をまき散らすシャワーとする「美容道具」も発明。鮮血で満たされた浴槽につかり恍惚しながら入浴を楽しんだと伝わる。死体が流れても問題が起きないよう、城の下水管にも刃物をとりつけ浄水槽とする画期的なリフォームも行い、環境にも配慮したため発覚は遅れた。
やがて、農奴の屠殺によって得られる血よりも人間である貴族を殺害して得られる血の方が美容に良いと思ったのか、下級貴族にまで殺戮の魔の手が及ぶようになる。しかし、ここまで来ると流石に問題になり始め、生き残りが密告したことをきっかけに城に対する捜索が行われた。結果、大量の死体が積み重なった部屋や拷問具が見つかり、地下にはさらに多くの死体が埋められていることが発覚。エリザベートは逮捕され、裁判の結果終身刑(貴族のために死刑は免れた)となり自身の城の粗末な部屋に監禁され、裁判から三年後にそこで生涯を閉じた。
串刺し公ヴラド3世や青髭ジル・ド・レと並び、女性の身でありながら現在まで人気のある創作ジャンル「吸血鬼」のモデルと言う栄誉に浴した彼女であるが、実際には誇張されているとされる。バートリ家は資産家で王家であるハプスブルク家にも債権を有していたため、彼らから見れば目の上のたんこぶでしかなかったのである。また、莫大な財産を持つ未亡人と言う地位は今と同様に非常に危ういものであり、遺産相続をめぐる争いに巻き込まれたのではないかともされる。実際に、告発者の中には本来味方であるはずのバートリ家縁者が多数含まれていたことや、エリザベート自身が再婚を考えて周囲と揉めていたこともこの説を裏付ける。さらに言ってしまえば、彼女の今日的なイメージである鉄の処女はそもそも18世紀に開発されたものとされ、彼女の時代には存在していないことも明らかになりつつある。
侍女への殺害を含めた虐待は事実であろうが、当時としては農奴は人間ではないため彼らを屠殺したところで豚を潰すことと同様に何の問題もなく(もちろん、経済上は「もったいない」浪費で現代的に言えば「動物福祉」から見ても望ましくはないが)、その程度ならどの貴族の家でも多かれ少なかれ行われていた。ただ、身分が高い故に犠牲者の中には下級とは言え貴族も混ざり、これが目に余ると口実にされてしまったのが真実なのかもしれない。とは言え、彼女の存在は人類残虐史の中では不惑であり、男女問わずに多くの模倣犯・信奉者を生むことになる。 - エカチェリーナ2世-日本人を最初に謁見したロシア皇帝
近世ロシア、ロシア皇帝ピョートル3世の皇妃でロシア皇帝(女帝)。最初の名前はゾフィー。プロイセン貴族の家からロマノフ家に嫁いだ。夫ピョートル3世は脆弱な皇帝であり性的にも不能。ロシア的な文化を嫌い親西欧的な君主でロシア貴族や人民からの人気は薄かった。一方のゾフィーはプロイセン出身で西欧的な教育を受けていたが、ロシアへ赴いてからはロシア語を学びロシア正教に改宗し名前もエカチェリーナに戒名するなど当地の文化を尊重。外国出身でありながら声望が高かった。夫婦関係は早くから破たんし、愛人との間にパーヴェル・ペトロヴィッチ大公(のちのパーヴェル1世)を産むなど仮面夫婦を続けた。
姑である女帝エリザヴェータが死去するとピョートル3世が即位したが、親プロイセンの立場(妻がプロイセン貴族なのだから順当ではあるが)から有利な情勢であったにも関わらず七年戦争を終結させた。さらにルター派への信仰からロシア正教への弾圧を開始し、ロシア国内には貴族から人民にまで怨嗟の声があがった。
これを見かねた、あるいは皇后位から廃位されることを恐れたエカチェリーナは自ら軍服を着てクーデターを決行。信望を失っていた夫につく者は貴族から近衛兵に至るまで皆無で、即位から半年ほどで廃位・幽閉されてしまう。のちに幽閉先で殺害されたが「痔の痛みに耐えられずに死んでしまった」と元夫とは言え、あんまりな死因をねつ造されてヨーロッパ中に発表されてしまい嘲笑を受けた。
一方、エカチェリーナはエカチェリーナ2世として即位。元来の教養の深さと高い愛国心から内政は啓蒙的で善政を敷き、対外戦争では勝利を重ねクリミアを併合。バルカン半島に足場を作り次いでポーランドを併合した。いずれも今日的なロシアの勢力図に関わるものであり、ピョートル1世と並びロシアが誇る啓蒙専制君主の一人と評される。
日本との関係では漂着した大黒屋光太夫を謁見。日本人と最初に接触したロシア元首として知られる。光太夫は外国出身の女性を実力のみで頂く当時のロシアの風潮に驚いたと伝えられる。 - マリア・アンナ・アロイジア・アポロニア・ケラー-何故か音楽家は本命の姉妹と結婚する
近世ヨーロッパ、オーストリアの音楽家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの妻。音楽家三大悪女の一人。ハイドンはマリアの妹のテレーゼと結婚するつもりであったが、テレーゼは修道院に入ってしまい果たせなかった。気落ちしていたハイドンは代わりに姉のマリアと結婚したが…音楽的素養はもちろん、夫を立てることを全く知らない女性であり、ハイドンが書いた楽譜に肉やパンを包んだと言う逸話が残る。ハイドンより先に亡くなると、彼は喜びあてつけとばかりに「悪妻」と言う題のカノンを作曲した。 - コンスタンツェ・モーツァルト-悪妻の真実
近世ヨーロッパ、オーストリアの音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの妻。世界三大悪妻の一人で音楽家三大悪妻の一人。モーツァルトはコンスタンツェの姉のアロイジアと結婚するつもりであったが、アロイジアは既に他の男と結婚していた。気落ちしていたモーツァルトは代わりに妹のコンスタンツェと結婚したが…大変な浪費家であり愛のない女性であったとされる。モーツァルト死去の際は別荘で遊んでおり、葬儀や墓地も簡素で偉大な音楽家にも関わらず墓が分からないと言う悲劇を生んだ。死後は楽譜を売却して散逸させてしまい、自身はとっとと再婚してしまった。モーツァルトの伝記を書いたが、自身に都合の良いように曲筆した疑いが持たれている。
ただし、二人の子供を抱えた未亡人となり困窮した結果であることは否定できない。別荘にいたのも無茶な出産(8年で6回)で疲弊していたことを、モーツァルト自体が気遣い療養させていたためである。現在では悪妻説に否定的な意見が強く、映画アマデウスでは気は強いが全てにおいて破天荒な夫を支える女性として描かれている。 - マリー・アントワネット-パンがないからジャガイモを作ろう←(これ正論)
近代ヨーロッパ、フランス王ルイ16世の王妃。オーストリアのハプスブルク家から嫁いだ。生来の浪費癖があり国家財政を悪化させた。「国民が飢えに苦しんでいる」と言う諫言にも耳を貸さず「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」と返して国民の反感を買った。フランス革命が起きると、フランス国民を恐れて実家のオーストリアにフランス軍の情報を意図的に漏洩させた。自身もルイ16世と共に亡命を企てるが失敗してパリに連れ戻された。幽閉後、革命裁判所により夫がギロチンで処刑され、自身も同様の最期を遂げた。
しかし、実際には革命前はむしろフランス王家の悪習であった冗長な儀礼を廃止または省略し、宮廷費を節約した上で公妾制度の撤廃とデュ・バリー夫人など関わった人物を冷遇した(母である女帝マリア・テレジアの影響が大きい)ため「フランス王家を蔑ろにしている」と言う感情を持たれたことが不人気の原因であった。また、博物学や農耕に理解があり農学者のパルマンティエを重用して、彼が献策したジャガイモの普及政策に尽力した。手紙や裁判記録を見ても革命の原動力となった自然権思想には深い理解があり、思想も言動も真逆であった。夫のルイ16世と並んで相当に損な役回りであったと言えるだろう。 - ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ-相思相愛の悪妻
近代ヨーロッパ、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの皇妃。生来の浪費癖があり最初の夫と離婚。二人の子供を育てるため社交界で様々な男性と浮名を流した。フランス総裁ポール・バラスの愛人となったが、飽きてしまった彼は部下の一人であったナポレオン・ボナパルトにジョゼフィーヌを押し付けた。ナポレオンはジョゼフィーヌに惚れこみ周囲の反対を押し切って結婚した。
しかし、結婚後も浪費癖が改まることはなく、夫が遠征で留守がちなのを良いことに服飾や宝石を大量に買い漁った。商人からの請求書を見てことを知ったナポレオンは「一体、何人のジョゼフィーヌがいるのだ」とつぶやいたと言われる。また、浮気癖も酷く、美男の騎兵大尉を囲っていたことは公然の秘密だった。ナポレオンがこれを諌める手紙を送ったところ、敵国のイギリスに手紙を押収されてしまい大々的に宣伝されてしまった。
怒ったナポレオンは離婚を考えたが、二人の連れ子を気にかけていたことやジョゼフィーヌ自身が涙ながらに謝罪したため一度目の離婚危機は去った。以降は夫婦関係も落ち着き、ジョゼフィーヌも社交界の人脈を使って夫を支えた。
ナポレオンが皇帝位に付くとジョゼフィーヌも皇后となった。しかし、二人の間に子供は出来ず、後継者を憂慮したナポレオンから穏便に離縁をほのめかされて離婚した。
離婚後は莫大な年金と皇后の称号は残されたものの、かえって元夫に対する敬慕の情が強くなり、かつて共にした寝室を聖遺物として保管するなどしている。その後、ナポレオンが失脚すると衝撃を受けて老け込むようになり「ボナパルト」と言い残して死去したと伝えられる。
一方のナポレオンも配流先のセントヘレナ島で死去した際、「ジョゼフィーヌ」とつぶやいたとされ、問題を起こしながらも結局は相思相愛の夫婦であった。
二人の連れ子はナポレオン失脚後も優遇され、スウェーデンやデンマーク王家にその血を残している。 - ソフィア・トルスタヤ-生活力のない夫の夢想
近代ヨーロッパ、文豪レフ・トルストイの妻。世界三大悪妻の一人。晩年のトルストイは貴族出身者で贅沢な生活をしていることを恥、印税や農民からの地代を受け取らなくなって行った。また、当時芽生え始めていた著作権にも否定的で自著の保護を行わなかった。このため、妻のソフィアと不仲になってしまい口論が絶えなかった。82歳の冬に火宅化した家庭にいられなくなってしまい家出。しかし、高齢で冬のロシアを旅することは無理があり、途中下車した駅舎で客死してしまった。
夫の真意を最後まで理解出来なかったと言われるが、十人以上の子供をかかえており家庭的にはトルストイの方が失格であったとも言える。また、死去の報に接して自責の念にかられて泣いていたと言う逸話も残っており、必ずしも愛情の欠けた女性ではなかったようだ。そもそも、思想家や芸術家の妻では幸せは望めないのが現実であろう。 - アレクサンドラ・フョードロヴナ-良妻が求められない時代の悲劇
近代ロシア、ロシア皇帝ニコライ2世の皇妃。最初の名前はヴィクトリア・アリックス。ドイツ・ヘッセン大公家の出で、母方の祖母はイギリスのヴィクトリア女王と言う大変な貴種であった。ニコライ2世とは当時王家としてはあまり類例のない恋愛結婚であり、夫婦仲は大変良かったが姑や他のロシア貴族・国民とは不仲であった。待望の皇太子アレクセイエフをなしたが、血友病患者であったため心労を重ねた。精神的に不安定となった夫婦は祈祷師のラスプーチンを重用したが、得体の知れない怪人物が国政を壟断することへの反発が高まった。また、ヴィクトリア女王のもとに留め置かれイギリス育ちにも関わらず、議会に理解がなくツアーリズム支持者であった。
第一次世界大戦が勃発し、母国であるドイツと戦争状態に陥るとロシアの伝統にのっとり銃後の代表として夫を支えたが、ドイツ人であると言う理由から軍や国民にも嫌われ革命の遠因を作ってしまう。七月革命でニコライ2世が退位すると、夫に従い各地を連れまわされた上、レーニンの支持を受けた革命軍により一族もろとも銃殺刑に処せられた。
ニコライ2世自体は家庭的な善夫であったが、疲弊したツアー体制とうち続いた戦乱に向いた性格ではなかった。皮肉なことに、内向的で夫を立てること以外知らないアレクサンドラの性格がこれに拍車をかけてしまった印象はある。どちらかが相手に厳しく出来るか、あるいは家庭など顧みない人物(それこそピョートル3世とエカチェリーナ2世のような夫婦)であったならロシア革命はあそこまでは酷くはならなかったと考えると皮肉である。
日本の悪妻
- 藤原薬子-母娘丼は美味しいです(^q^)
平安時代、藤原縄主の妻で藤原種継の娘。幼少の娘が桓武天皇と皇太子安殿親王の宮女となり自身も安殿親王に仕えたが、安殿親王は年上の薬子の色香に参ってしまい母娘丼にして美味しく頂いてしまった。それなんてエロゲ展開を妬んだ人倫に悖る性愛に激怒した父君の桓武天皇は薬子を追放した。安殿親王が即位の器なのかをも危ぶみだし崩御の際、安殿親王の子供たちには皇位を継がせず弟の神野親王を皇太弟とするように遺言した。
こうして安殿親王は即位(平城天皇)したが、この遺言は皇位継承争いに油を注いでしまい権力闘争は激化。平城天皇の異母弟であった伊予親王が謀反の罪で死に追い込まれるなどの事態が起きた。また、桓武天皇の崩御で薬子との関係を遠慮する必要もなくなり手元に呼び寄せる一方、夫の藤原縄主を強制的に昇進させて大宰府に飛ばすと言うジャイアン的な横暴も行っている。薬子の一族、特に兄の藤原仲成は厚遇され朝廷で重きをなした。
これだけ見るとただのバカ息子である平城天皇だが、政治的能力は優れており冗官の削減や公共事業の停止などの民力休養政策を行い人民には善政を敷いた。しかし、元来病気がちであったため在位三年で神野親王に譲位(嵯峨天皇)し上皇となった。
退位と共に旧都である平城京に移った平城上皇だったが、依然に朝廷内への影響力を有しており嵯峨天皇との対立関係は退位後にむしろ激化。ニ所朝廷と揶揄される二重権力状態となってしまった。薬子や仲成も平城上皇の復位を企図するようになり、平城京への再遷都を計画した。
ついに嵯峨天皇が平城上皇在位中の改革を否定し始めると、平城上皇は平城京への再遷都を宣言。嵯峨天皇は表向きこれを尊重しつつ、平城上皇側に親嵯峨派を送り込むことで地盤を切り崩して行った。頃合いを見た嵯峨天皇が遷都を取りやめ近畿一円を兵をもって封鎖。仲成と薬子を逮捕した。平城上皇は東北に逃れようとしたものの、坂上田村麻呂の軍に阻まれてしまい抵抗を諦め剃髪して嵯峨側に出頭した。
仲成は処刑され(ちなみに平安時代は死刑が廃止されていたと言われるが、実際に仲成から346年後の源為義まで貴族に対する死刑はなくなった)薬子は自害に追い込まれた。嵯峨天皇はこれ以上の報復は求めず、平城上皇はお咎めなしとされ皇位継承は諦める代わりに莫大な宮廷費を支出され余生を過ごした。
薬子は変の首謀者とされ事件自体が「薬子の変」と称されるがごとく千年以上に渡り中傷を受けたが、実際は嵯峨天皇側の挑発行為が変を招いたことや平城上皇の資質及び二重権力体制にも問題があったと言う中立的な見解が主流になり、近年は平城太上天皇の変と呼ぶようになっている。 - 阿野廉子-雌鶏の口先
鎌倉時代から南北朝期、後醍醐天皇の妃。最初は後醍醐天皇の中宮であった西園寺禧子に仕える女官だったが、後醍醐天皇の寵愛を受けて三位にまで出世。三位の局と呼ばれた。元弘の乱で後醍醐天皇が隠岐島に配流された際も周囲の反対を押し切って随伴した。やがて逃亡していた護良親王を旗印に楠木正成や新田義貞らが兵を挙げ、足利尊氏がこれに同調し鎌倉幕府を滅ぼすと夫と共に復位。建武の新政の一翼を担った。
しかし、建武の新政は現実を見ない失策であり、自身の子である憲良親王を後継にしようと画策した廉子と武勲第一の護良親王との対立も激化。護良親王は乱心と叛意を理由に失脚してしまい、中先代の乱のゴタゴタの間に殺害された(利害が一致した尊氏と廉子が連携していた説が根強い)。
最大の政敵を排除した廉子だったが、夫である後醍醐天皇は足利尊氏と対立。一旦は尊氏を九州にまで退けるも反攻を受けて吉野へ退避。ここに南北朝時代が幕を開けた。廉子は夫の死を見届けたのちに憲良親王を即位させ(後村上天皇)後見を行った。
太平記では便佞(口先だけが達者)とされ、建武の新政の失敗の責を彼女に帰し「雌鳥がないて夜明けを報せると一家が滅ぶ」と言う中国故事まで取り上げて激しい非難を行っている。また、南北朝期でも好感は持たれず南朝が不利になる遠因ともなっている。ただし、後醍醐天皇とは両輪の輪であった側面も否定できず、夫の評価と同様に時代によって揺れ動く点は見逃せない事実だろう。 - 日野富子-戦国を招いた銭ゲバ女王
室町時代、足利義政の正室。非常に嫉妬深く、その嫉妬も被害妄想寄りで最初の出産が死産に終わると、義政の乳母が呪詛をしたと誣告して自殺に追い込んだ。返す刀で義政側室の追放も行い、義政を恐れおののかせ不仲は決定的となった。
その後も子を成せなかったことや義政自身が隠棲を望んだことから、義政は弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ足利義視とし細川勝元を後見として後継者とした。しかし、富子はこれに不満で幸か不幸か義政の間に義尚が生まれた。富子は勝元と対立していた山名宗全と組み義視・勝元派を排撃。斯波氏と畠山氏の後継者争いもあって大規模な軍事衝突に発展した(応仁の乱)。
応仁の乱自体には東軍である勝元派についたが、一方で西軍諸将にも金銭の貸付を行い、米相場に投資してがっぽり稼いだ。まさに銭ゲバであり、賄賂と合わせて夫との不仲を金銭欲で補うがごとく私腹を肥やして行く。
戦乱は十数年に及んだが、西軍を賄賂で許す方策が功をなし大内政弘が撤兵したことで終結。都はボロボロになったものの、富子周辺だけは肥え太っていた。復興が急がれたが、富子は税の徴収を理由に各所に関所を設けて流通を阻害。しかも、その税のほとんどを懐に入れたため、貴賤問わずルサンチマンが渦巻いた。
夫との不仲は相変わらずで火事により再び同居を始めたが、義政が耐え切れず東山の山荘(のちの慈照寺、通称は銀閣寺)へと逃走。義尚・富子組と義政の二重権力体制となってしまう。また、夫の造園趣味にはビタ一文出すことはしなかったと伝えられる。
義政の死後は義尚の後見に当たったが、義尚は六角氏討伐の最中に陣没。将軍位は結局のところ義視と富子の妹との間の子であった義材に転がりこんだ。後見人となった義視は息子と共に報復とばかりに富子の財産没収を開始。これにキレた富子は勝元の跡を継いでいた細川政元と組んでクーデターを起こし義政の甥である足利義澄を立てた(明応の政変)。以降、足利幕府は幕府としての能力を喪失し、臣下のお飾りにすぎない存在にまで落ちぶれ戦国時代が幕を開けた。
まさに絵に描いたような悪妻ぶりであり、特に蓄財は生前から激しい非難にさらされていた。ただし、賄賂については既に直轄領収入が滞り始めており、儀礼や和平交渉で稼ぐこと自体は合理的であったと言う意見もある。いずれにせよ、暗君の陰(どころではなかったが)に悪妻ありの典型ではあった。 - 築山殿-家康くんの黒歴史
戦国時代、徳川家康の正室。人質として送り込まれた今川家当主である義元の姪にあたる女性。嫡男松平信康を産む。しかし、家康が今川と手を切り独立を果たすと実質的な離縁となり、家康が本拠地とした曳馬城には住むこともなく息子と共に岡崎に残った。
悪質で妬み深く、夫を立てることも知らずに唐人医師と密会したと伝えられる。信康が織田信長(娘を信康に嫁がせており舅にあたる)から武田家と密通していると言う疑いをかけられ失脚すると、責任を取らされ家康の家臣に殺害された。信康ものちに切腹。家臣も粛清を受け、岡崎勢は排除された。
後世信長の言いがかりで泣く泣く息子を処刑した悲劇とされ、逆に徳川家初代御台所でありながら築山殿は激しい中傷を受けることになった。しかし、近年では信康が親武田であったことは事実であり、実際に家康とは独立した家臣団を率いていたことからも、むしろ家康から見て妻子共々目の上のたんこぶに成りつつあったのが実情であったようだ。嫁である信長の娘との仲も悪く、織田家との関係を口実にして家康が進んで粛清を行ったのではないかと言う説が現在では有力。また、性格や密通に対する一次資料も存在していない。
いずれにせよ、家康はこの結婚に懲りて、以降は身分の高い女性は避けるようになった。性癖的に合わなかったのか、築山殿のように男の世界の政略に巻き込まれるのは哀れだと思ったかは定かではない。 - 淀の方-女三界に家無し、では四回目は?
安土桃山時代、豊臣秀吉の側室。浅井長政とお市の娘で浅井三姉妹の一人。本名は浅井茶々または菊子。父である浅井長政が伯父である織田信長に討たれると救出され、信長の本拠地である尾張に移り住んだ。信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されたのち、お市が家臣であった柴田勝家と再婚すると越前国の北の庄城に移る。やがて、勝家が豊臣秀吉との争いに敗れて自害するとお市もそれに殉じた。三人の姉妹は生き延び、織田縁者に引き続き養育された。
成人すると天下人として力をつけていた豊臣秀吉の側室となり、捨(鶴松、夭折)と拾(豊臣秀頼)を産み側室として大きな権勢を誇った。秀吉死後は秀頼の後見として乳母の大蔵卿局と彼女の息子たち(大野治長ら)を重用して豊臣家の実権を握る。
秀吉はダース単位で愛人を抱えるほどの好色であったが、子供はほとんど出来ず、出来ても死産ばかりであったため、秀頼の出生に対する疑念は当世から疑われていた。また、秀吉最期の一大イベント「醍醐の花見」において側室たちと杯の順番を争ったなど権勢欲が強い女性と言う逸話も残る。
関ヶ原の戦い以降は豊臣家の威信は順次低下し、五大老の一人であった徳川家康が台頭。淀の方は家康への臣従(自身が人質となるまたは転封など)を拒否して対家康強硬論を主導。大阪の陣を起こし母子共に自害に追い込まれ豊臣家を滅亡させた。
戦後、勝者となった徳川家は真田信繁や後藤又兵衛など大阪方の勇士を賞賛してガス抜きを行う一方、大野長治や淀の方ら秀頼側近・後見を誹謗中傷し責任を全て負わせた。これにより、非常に評価が低くなってしまった淀の方だが、実際に家康への臣従を拒否したのは秀頼であると言う説も強くなっており、彼女一人の責ではないと言う意見もある。良くも悪くも大阪の陣では武装して前線の諸将を督戦するなど、三回の家の滅亡(浅井→織田→柴田、豊臣も入れると四回)を経験と合わせて戦国の気風を最後まで残した女性であったことは事実であるようだ。 - 於万の方(聖光院)-名君の悪妻
江戸時代、徳川秀忠のご落胤であった会津藩藩主保科正之の継室。名君と誉れ高い正之には全く釣り合わない悪妻であり、側室の子供が自分の子供よりも大藩である加賀藩に嫁ぐことに嫉妬し毒殺を企図。しかし、誤って自分の子供に毒入りのお膳が回ってしまいその子供が死んでしまった。また、自身の子供である保科正経が子をなさずに早世してしまい異母弟である保科正容(松平正容)が藩主となると、あまりの口惜しさに死後、遺体となったにも関わらず弔問に訪れた正容の袖を握ったと言う怪談話まで残る。
ただし、毒殺説は百年近くのちの伝記類であるためこの説は疑わしい。怪談話は当然ながら嘘であり、そもそも正容との仲は良好で、彼が藩主となったのちは藩政からは距離を置いて夫の菩提を弔うことに専念している。名君の妻が悪妻だったと言う風聞が、後世において面白おかしく受け入れられたのが事実であるようだ。 - 六姫-最恐のヤンデレ鬼姫
江戸時代、岡山藩藩士池田由貞の妻、のちに同じく藩士滝川一宗の妻。初代藩主池田光政の庶子であったが、正室に憚って母子共に冷遇し家臣であった祖父母の家で育てられた。流石に哀れと思った家臣たちの意見もあって子と認知した上で城に迎えたが、愛情のなさは相変わらずでこの生い立ちのため人格形成は歪んだと思われる。
最初に岡山藩家老の嫡男で池田家縁者であった池田由貞に嫁いだ。しかし、六姫の嫉妬心はもはや狂気のレベルであり、外出するたびに「どこへ行くのか、帰宅はいつになるのか」を問いただした。少しでも六姫が定めた門限を破ると大暴れし家屋や家財を破壊した。由貞の妹にすら嫉妬し、久々の里帰りの際に温かく迎えた由貞と歓待を受けた妹を罵倒し家中は険悪なものとなった。池田家が火宅であることは藩中で知らぬ者がいないほどになり、由貞の精神状態は悪化。月代を剃らず帯剣もせずに登城し、舅の光政から叱責を受けるハメにもなった。
そんなある日、隣家の女性が琴を弾いている音が由貞に聞こえてきたのでその音を楽しんでいると、六姫に見つかってしまい彼女はプッチン。暴れに暴れ、這う這うの体で由貞は家からはもちろん藩からも逐電した。やがて倉敷の天城に潜伏しているところを発見されてしまい、哀れ由貞は娘の蛮行が明るみに出るのを恐れた光政から士道不覚悟を理由に切腹を申し付けられた。しかし、夫の死にも彼女は「当然」としか答えなかったと言う。
この段階で落飾させるべきだったと思われるが、光政は出生に対する負い目もあったのかそれはさせず、かと言って嫁に出せばまたとんでもないことをしでかすのは目に見えていたので、出戻りのまま彼女を屋敷に置いた。
由貞死去から一年半後、屋敷に狩の獲物を献上した岡山藩士滝川一宗(滝川一益の子孫)に六姫は一目ぼれ。今度は六姫側からの求婚なのだから上手く行くだろうと言う父の思いもあって再婚した。
実際に六姫と一宗は仲の良い夫婦となり子供もなした。幸薄い幼少時代の思い出もあったのか、子供には掛け値なしの愛情を注ぎ家庭は円満であった。ところが、夫の体を気遣い早めに寝るように促したところ、一宗はこれ幸いにと侍女に手を出してしまいそれが六姫に見つかってしまった。もっとも、六姫もさすがに大人になっており、かつてのように嫉妬から暴れることはせず、冷静に床の間の刀掛けにおいてあった一宗の小刀を抜き夫をザシュした。
悲鳴から惨劇を知った家人や義父は冷静に対処し、侍女を始末すると一宗は乱心で自害したことにされ六姫は再び実家に送り返された。
岡山藩で一宗の自害を信じる者はなく、六姫は夫を次々に死に追いやった鬼姫と呼ばれ恐れられた。光政は娘を嫁がせることを諦め生涯手元に置くことを決意。孫も同時に引き取り、以後は平穏に暮らしたと伝えられる。
光政本人はいわゆるえた・非人も領民であるとして横暴を振るった役人を一喝し、人道的に接するように命じたことで知られる江戸時代でも屈指の名君であるが、その子供が家庭環境の悪さでここまでのヤンデレ少女に育つのだから、つくづく人間とは生まれより育ちであることを思い知らされる逸話であった。 - 本寿院(福)-伝わってしまった淫乱伝説
江戸時代、尾張藩藩主徳川綱誠の側室。徳川吉通生母。江戸の商家の娘であったが、美女であったので綱誠の側室となった。綱誠死後は藩主となった吉通の後見として藩政に絶大な影響力を保った。好色絶倫であり「ナニがデカいと言う理由だけで相撲取りを幾人も抱えた」「町中にお忍びで出かけた際に気に入った町人に声をかけて乱交パーティーに興じた」「誰の子かも分からぬ子を宿して堕胎した」などの所業を江戸時代の風俗ルポライターである朝日重章(有名な鸚鵡籠中日記作者)に書かれてしまい、江戸時代屈指の強欲女性と言う伝説を後世にまで残すことになってしまった。
吉通が藩主を勤める尾張藩は御三家筆頭であり、当時は江戸徳川将軍家でも後継者不足による断絶が危惧され始めていた。将来的に将軍職に就く可能性も高まり出したため、本寿院の乱交振りは幕閣の間でも無視できないものとなって行く。最終的に将軍である徳川綱吉生母であった桂昌院の死去に際し、芝居見物をしていたことを理由に蟄居処分となり江戸屋敷に幽閉。吉通死後は名古屋に移されたが蟄居処分は解かれなかった。
幽閉先でも好色さは相変わらずで、庭木に性器をくくりつけて自慰をしていたと言われる。男もいない派手さもない生活は彼女にとってまさに生き地獄であったが、同じく好色で派手好きだった徳川宗春が藩主となると、同情されたのか恩赦を受けて26年ぶりに幽閉を解かれた。以降は市中の祭を楽しむなど穏便な晩年生活を送ったと伝えられる。
尾張は風土的に女性の力が極めて強く、本寿院も母系社会を形成していた江戸商家の出で、悪い意味で化学反応を起こした観はある。尾張藩の良く言えばおおらかな性風俗、悪く言えば風紀の弛緩は江戸時代を通じて維持されてしまい、御三家の中では軽んじられ幾度とない断絶危機を迎えても将軍を出すことはついぞなかった。 - 真如院(貞)-巻き込まれた毒婦
江戸時代、加賀藩藩主前田吉徳の側室。前田利和らの生母。吉徳死後、自身の息子である利和を藩主の座につけようとし、位を継いだ前田宗辰生母である浄珠院を毒殺を図るも失敗。捜査の過程で重臣であった大槻伝蔵との密通が発覚し藩の乗っ取り計画が露見。子供たちの出生も疑われた。真如院は殺害され、大槻は自害。利和ら男子二人は幽閉された上で早世し、稀代の奸臣である伝蔵と毒婦の真如院は天罰を受けてめでたしめでたし(加賀騒動)。
と言われているが、実際のところ一連の姦通から乗っ取り計画まで全くと言ってよいほど資料はない。むしろ、伝蔵の来歴を見ると一介の足軽の家の出でありながら、米相場を利用した見事な経営手腕と新税や倹約を中心とした堅実な財政手腕を発揮し、米沢藩の上杉鷹山に半世紀ほど先駆ける藩政改革を行っていた。これが既得権益を侵害されたと考えた保守派の逆鱗に触れ、失脚させられた末に貶められてしまった可能性が高いとされる。実際、前述の鷹山ですら保守派による主君押し込めの危機に常に怯えていたと言われており、能力があり前藩主吉徳の支持を得ていたとは言え、身分が低い彼が吉徳の死後に生き残れる可能性は皆無であった。
政治と言う男の世界の都合に巻き込まれてしまった真如院とその子供たちであったが、加賀藩の藩政がこの騒動によって立ち直ることもなく、幕末に至るまで大きな足跡を残すこともなかった。 - 葛飾応為-世界史にも名を残した稀代の醜女
江戸時代、絵師である葛飾北斎の娘。自身も父譲りの画才に恵まれていたが、一度は同じく絵師の南沢等明に嫁いだ。しかし、家事はクリエイティブな仕事とは思えなかったのか全くせず、画力が父はもちろん自身よりも劣る夫を立てることも出来ずに彼が描いた絵を馬鹿にしていた(あるいは彼女なりに内助のつもりでダメ出しした)と言われる。これでは夫婦生活など送れるはずもなく、離縁されてしまい父のもとに出戻った。
北斎は性格の悪さとアゴが飛び出た醜女と言うハンデを考慮したのか、あるいは才能さえあれば男だろうが女だろうがどうでもよいと思ったのか、再婚はさせずに自身の助手として迎えて晩年までの二十年を共に過ごした。醜女と言うコンプがあったためか、美人画を得意とし北斎すら自身より上だ評するほど。また、北斎晩年の作の彩色は彼女が担当していたと言う説もあり、絵師としては大きな足跡を残した。
応為自体の人間性はともかくとして、世界の北斎を父に持った時点で絵師を見る目について厳しくなってしまうのは当然で、同業者を夫にしてしまったことに無理があったと思われる。 - 小林はつ-一方的に貶められた継母日本代表
江戸時代、小林弥太郎の妻。俳諧師小林一茶の継母。気性の激しい性格で、内向的だった一茶とはソリが合わず、姑の死後は容赦なく一茶をイジメたとされる。見かねた父は一茶が長男であったにも関わらず、あえて江戸に奉公に出して離れさせた。
一茶は奉公先を転々として苦労したものの、俳句に目覚め俳諧師となり旅を始めた。松尾芭蕉の奥の細道から現代的視点では俳諧師の旅は物見遊山な印象があるが、実際は厳しい修行の旅であり、ネットはもちろん出版流通すら満足に存在しない江戸時代では渡世人と同様に自分の名を売りパトロンを探す営業でもあった。
こう言った苦労が実り、多少は名の知られた俳諧師となったが、はつや異母弟である仙六は浮草のような生活をしていた一茶をよく思わず、弥太郎危篤の際に帰郷した一茶を遺産目当てではないかと疑った。弥太郎は死去の際、財産を兄弟で等分するように遺言を残して死去。しかし、小林家の財産はほとんど自分たちが盛り立てたものだと考えていたはつと仙六はこれを認めずに13年にも及ぶ骨肉の争いに発展した。
一茶はこの過程を「父の終焉日記」として私小説としてまとめ、後世において近代小説のハシリと賞されるほどの人気を産んだ。現代の遺産相続と同様、対立当事者を悪者にする傾向が一茶にもあり、この作品ではつと仙六は悪役になってしまったため、一農民に過ぎないにも関わらず悪名を残してしまう結果となった。
ただ、前述の通り俳諧師と言う一茶の職業が正業として認知されていたとは思えず、小林家の財産の大半を実際に形成したのははつと仙六であったのも事実であった。相当に損な役回りだったのも事実で、日本文学史に不朽の名を残した一茶を親族として持ってしまったゆえの悲劇であった。 - お由羅の方-皇室にも血を残した悪妻
江戸時代、薩摩藩藩主島津斉興の側室。島津久光の生母。息子久光のために、斉興の嫡男であった島津斉彬を呪詛しその子息を呪い殺したと言う逸話が残る。実際のところ、斉興と斉彬は不仲であり斉彬の廃嫡または逆に斉興の隠居を巡って血生臭い粛清事件が相次いだ(お由羅騒動)。
この緊張は60歳藩主で40歳世子と言う異常事態を生み(江戸時代は世子が元服して落ち着いたら隠居するのが常識)、幕閣の間でも問題になってしまった。結局、斉彬と親しく海外情勢にも通じていたことを期待した老中の阿部正弘の裁定により斉興は隠居。斉彬が藩主となった。
その後、開国後に起きた安政の大獄に抗議するため斉彬は藩兵を率いた上洛を計画したが、直前になって急死してしまった。これは毒殺説が根強く、お由羅の方が関与したのではないかと言う風聞が現在でもある。
西郷隆盛はお由羅騒動において斉彬派であった父の上司が切腹し、その最期を聞かされて育ったためお由羅と久光を嫌っており、そこに加えて斉彬の毒殺説を信じたため主君の久光とは生涯不仲であったと伝えられる。大久保利通の父もお由羅騒動に巻き込まれ遠島に処せられるなど、多くの薩摩藩士の人生に影響を与えた。
お由羅の方自身は久光の藩主就任を見届けたのちは静かに余生を送り、明治になる直前に没した。なお、昭和天皇の妃であった香淳皇后はお由羅の方の玄孫に当たる。 - 溶姫-東大の別称「赤門」の由緒
江戸時代、加賀藩藩主前田斉泰正室。徳川家将軍徳川家斉の子女。家斉の外様大名への懐柔(統制)政策の一環として加賀藩前田家に嫁いだ。夫よりも高貴かつ嫁ぎ先が外様大名と言う負い目もあって格差婚と言えた。多数の女中を連れて輿入れしたが、この女中たちは事あるごとに前田家の侍や女中を「田舎者」と馬鹿にしたため家中の雰囲気は険悪なものとなってしまう。また、輿入れ費用は前田藩が持ったため、ただでさえ逼迫していた藩財政は破滅的なものとなった。
溶姫の母、お美代の方は権勢欲が大変に強い女性であり、溶姫の子で孫にあたる前田慶寧を次期将軍にと画策した。しかし、女系かつ外様大名の男系では見込みなどほとんどなく、権力闘争に敗れて大奥から実質的に追放されてしまった。哀れに思った斉泰と溶姫はお美代の方を引き取ったが、大奥同様の暮らしぶりで散財したため藩士たちの更なる憎しみを買った。
この婚姻関係は幕末の藩論にも影響を与え、斉泰は佐幕派だったが、息子の慶寧は父母への反発かはたまた将軍になれなかったことへのあてつけ故か尊王派だった。禁門の変の際に加賀藩は御所警備についたが、慶寧は長州藩との内通が疑われ斉泰は謹慎処分に付し尊王派を弾圧した。慶寧が藩主となると、今度は佐幕派への弾圧を開始し藩論の統一は遅れに遅れた。結果、百万石の大藩でありながら維新に何の貢献も残せず明治を迎えることとなり、藩士は新政府において冷遇された。遺臣たちは溶姫の輿入れは貧乏くじだった公言して憚らなかったと伝えられる。
ただし、加賀藩自体、溶姫が嫁ぐ以前より加賀騒動の遺恨などから藩政改革は常に失敗を重ねており、当然ながら溶姫のみの責任ではない。妻としては鷹狩から帰った夫の草履を進んで脱がせたと言うエピソードも伝わり、夫婦仲は大変良く斉泰は最後まで佐幕派に留まった。評判の良くない家斉の降嫁・養子縁組政策だが、将軍家との関係を考えればこの婚姻は例外的にその役目を果たしたと言えなくもない。
なお、加賀藩の財政逼迫化の遠因となり不評の主因となった溶姫御殿の正門、通称「赤門」は明治になって敷地が東京大学となったのちも門として残され現在でも日本の最高学府にその威信を伝えている。 - 森志げ-文豪の嫁はやはり悪妻
明治~昭和時代、文豪森鷗外の妻。大金持ちの娘であり、婚姻後は金銭についてはしまり屋だった姑の峰と仲が悪く別居してしまった。鷗外は困り果て、実家と妻の家を行き来する二重生活を送る。家庭内不和は創作意欲を掻き立てるものなのか、この時期の苦労が家族愛と人間の尊厳を書いた高瀬舟につながったと言われる。
容姿に対して極端なまでのこだわりがあり、娘たちを器量が悪いと叱ったり皮肉を言ったりしたエピソードが伝わる。器量など叱責したところでどうにかなるものでもなく、この仕打ちは大変に恨まれ、子供たちは成人したのち、森家や夫の文人仲間から虐げられる志げを擁護することなく、彼女自身晩年は孤独であったと言われる。死後も憂さ晴らしとばかりに文人となった子供たちに悪妻振りを喧伝されてしまい、前述のトルスタヤばりの悪評が残ることになった。もう一人の巨頭、夏目漱石の妻である鏡子が漱石死後も文人たちから慕われたのとは対照的であったと言える。 - 吉井徳子-華族から槍手に
昭和時代、伯爵歌人吉井勇の妻。伯爵家である柳原家の出で、大正天皇の生母である柳原愛子は大叔母に当たる。14歳年上の夫である勇は遊び人であり家庭を顧みることはなく、寂しさのあまりダンスホールに通い詰めるようになる。そこでダンス教師と意気投合し密通。ところが、ダンス教師は「色魔」と評されるがごとく色情狂いであり、徳子を通じて様々な上流階級女性と関係を結んで行く。
やがて戦時色が濃くなり娯楽施設や西洋文化への風当たりが強くなると、ダンスホールにも綱紀粛正を理由に警察の手入れが入るようになる。その過程で徳子の密通事件が発覚。当時は姦通罪があったため、不倫は犯罪(夫側が未婚女性と不倫をすることは問題がない)であった。
身分の高さ故に最終的には不起訴となったが、一大スキャンダルとなってしまい夫婦は離婚。徳子は実家の柳原家に戻った。阿部定のチン切り事件と並んで当時のエログロナンセンスを象徴する事件であり、自由恋愛観も芽生えていたおおらかな大正期の最後の残滓と言えなくもないが、警察の目が特権階級にも向けられるきっかけともなった。なお、実質的に夫婦仲は破たんしていたために、同じ華族や上流階級の間ではむしろ徳子に同情する声が多かったとも伝えられる。
近現代の悪妻
- 江青-人生と言う舞台で悪妻を演じた女優
毛沢東の妻。中堅女優であったが、当時は強力なライバルである王瑩が活躍しており主演には恵まれなかった。日本軍との戦闘に巻き込まれ活動域であった上海を脱出。そこで毛沢東と出会い寵愛を受けた。夫とは不倫の末の婚姻であったため党幹部の受けは悪く、表舞台に立たないことを約束させられた上でようやく認められた。このため、党幹部、特に朱徳や周恩来を憎むことになった。
婚姻後も毛沢東の浮気癖は相変わらずで、中華人民共和国成立後もそれは改まらなかった。権力掌握後は判断力も衰え、夫人を抑えることが出来ず、浮気の負い目もあってかつての約束を反故にし江青の政治活動を認めた。
権力を握った江青は毛沢東による権力闘争、文化大革命にのって他の党幹部の妻に対する攻撃を開始。劉少奇の妻であった王光美を吊し上げにして晒し者にし刑務所にぶち込んだ。かつてのライバルに対する報復にも容赦はなく、王瑩をアメリカのスパイに仕立てて糾弾し、かつてのローマの記録抹消刑のごとくフィルムや写真を焼いた上で獄死させた。また、自分を冷遇した映画界や演劇界、特に京劇を嫌って排斥し伝統芸能は文化大革命による批判もあって衰退。攻撃の矛先は他の芸能・芸術にも及び、現在にまで続く多大な国力に見合わない中国文化の不振振りに続く。
毛沢東死後、かつての武則天やアルゼンチンのイザベル・ペロンを真似て夫の後継者につこうと図ったが、党の支持はなく鄧小平によって逮捕され失脚。文化大革命も終焉を迎えた。公開裁判では終始争う構えを見せ、毒づいたり嘲笑したりする言動を取りたびたび退廷させられた。見様によっては亡き夫を立て毅然としていたとも言えるが、彼女が常々指摘していた通り判決など最初から決まっており、文革の責任を一手に負わされて死刑判決を受けた。その後、無期懲役に減刑され病気を理由に一般住宅へと移されたが、屈辱には耐えきれずに自殺した。
中国史にたびたび現れる権力欲の強い女性の一人(強くなければ名など残りはしないが)であり、もっとも現代に近いためかはたまた結果が全ての厳しい中国史観もあるためか評判は良くない。しかし、日本では夫の失政の責任を全て担ったと言う同情論もある。また、近年の中国の民間史家の間でも毛沢東の神話化には一定の距離を置く態度も見られ、ドラマのヒロインになるなど細々と再評価も進められてる。 - エレナ・チャウシェスク-自称リケジョの暴走
ルーマニアの国家元首、ニコラエ・チャウシェスクの妻。夫ニコラエがルーマニア共産党の中央書記(党の責任者だが、共産主義国では国家よりも党が上なので事実上の国家元首)になると権勢を握る様になる。
元来は子供好きで家族の世話も卒なくこなす女性であったのだが、幼少期の学歴コンプからリケジョを気取って天才科学者を自称するようになり個人崇拝を始めた。これにはルーマニアの友好国であった中国の江青の影響があったとされる。夫は国際政治の時流を読むことには長けており、ハンガリー動乱以降はソ連と距離を置いて西側諸国とも比較的友好関係を保ち、融資も受け1970年代までは経済成長を続けていた。これに加えて、子供向け福祉政策も主導し学校や保健所を多く建設。内外の評価も高まった。
しかし、1980年代に入ると三十年にも及ぶ長い独裁故に次第に腐敗が深刻化。秘密警察セクリタテアを使った監視や抑圧に加え、国際債務返済のために小麦から工場機械までを接収した飢餓輸出まで始めて国民の支持を失う。また、子供への福祉を名目に無秩序な出産奨励と堕胎手術の禁止を行い、大量の孤児や捨て子を生んだ。折り悪くエイズの波も東側諸国に到来。「退廃的な西側の病気」と言う誤った認識のもと、青少年にセーフセックスについての教育を行わず望まない妊娠出産に加えて事態を悪化させた。天才科学者を自称していたエレナに異を唱える者はなく対処は後手後手に。これは貧困や児童買春、エイズが絡むストリートチルドレン問題として、世代を経た現代でもルーマニアに暗い影を落としている。
東西冷戦が終局を迎えつつある中で、自由主義的な空気がルーマニアにも伝播。党大会で聴衆がニコラエに対する不満をぶちまけたことをきっかけに各所で暴動が発生。鎮圧を主張するも、軍も既に夫妻を見放しており、ソ連も国際情勢の変化やハンガリー動乱での裏切りを根にもっていたため支持しなかった。劣勢を悟った夫妻はヘリで逃亡を図る。しかし、逃亡先のルーマニア南部で逮捕され即決の軍事裁判にかけられ公開処刑された(ルーマニア革命)。この処刑の終始は映像に残され全世界に公開され衝撃を与えた。
他の旧東側指導者と同様、革命後の評価は最悪であったが、ルーマニアの共産党政権崩壊後も混乱が続き、むしろ生活水準は冷戦期より悪化。革命十周年を記念した世論調査ではチャウシェスク時代を懐かしむ声も目立ち、支持者も大っぴらに活動するようになる。革命から二十年後の2010年には立派な墓も建てられ、良くも悪くも時代の象徴としての復権を遂げている。 - チャン・レ・スアン-本家ドラゴンレディ
南ベトナム大統領顧問ゴ・ディン・ヌー(大統領ゴ・ディン・ジエムの実弟)の妻。マダム・ヌーで知られる。一族をベトミンに殺され自身も虐待を受けたことから強烈な反共主義者であった。
夫の一族はキリスト教カトリックであり、結婚とともに改宗。義兄のゴ・ディン・ジエムが大統領となると仏教への弾圧を開始した。これに反発した僧侶が焼身自殺をして抗議すると、西側諸国のインタビューに対し「あんなのは人間バーベキュー」「僧侶がバーベキューになって何の意味があるの」「西欧化に反発したクセにアメリカのガソリンを使うなんて矛盾してるじゃない」と言い放った。これは南ベトナム国内はおろか宗主国であるアメリカのケネディ大統領の怒りを買い、軍事クーデターを誘発した際に夫や義兄が見捨てられる遠因となった。
気が強いアジア人女性をドラゴンレディと呼ぶが、これは彼女の二つ名となり、現在のイメージを定着させたのも間違いなく彼女である。 - イメルダ・マルコス-唯一復権した独裁者夫人
フィリピン大統領、フェルディナンド・マルコスの妻。夫であるフェルディナンドが大統領となると、特命全権大使として世界中を奔走。親米であったが、ソ連や中国、キューバなどの東側諸国や非同盟諸国とも友好関係を築き、武器供与で深刻化していたミンダナオ島におけるムスリムとの内戦を有利に進めた。
相当に有能な女性であり夫をよく支えていたのだが、派手好きで外遊の先々でそのファッションが話題となった。靴の収集癖は特に有名で、千を超える靴を所持していた。
冷戦期における他の独裁国家の御多分に漏れず、二十年に及ぶ長期政権は腐敗を呼び国内外からの批判も高まり出す。マルコスに批判的でアメリカに亡命していた二ノイ・アキノはこの風を読んでフィリピンに帰国したが、直後に空港で暗殺された。この暗殺の真相は定かではないが、マルコス側が共産ゲリラの犯行であると虚偽の捜査報告を挙げ、それが独自調査をしていた日本の報道機関に喝破されてしまったためマルコス側の権威は失墜。
アキノ暗殺から三年後、選挙の不正をきっかけについにフィリピン軍がクーデターを起こしてマルコス夫婦を亡命に追いやった。アメリカも支持を失ったマルコスを諦め新政権を承認。亡命を受け入れたが、イメルダはアメリカに裏切られたと訴え続けた。
夫の死後亡命から五年で帰国。裁判にかけられたが、不正蓄財については証明出来ずに無罪となった。贅沢をしていたのは事実なものの、もともと裕福な家庭であったため私財との区別がつかなかった。裁判期間中は国政復帰のための運動を行い、大統領選には落選したが下院議員の地位を手に入れることに成功した。かつての外交の成果はもちろん、地場産業の振興(靴もフィリピンの重要産業の一つであり、外遊先で着飾ったのも国際的な場でアピールする狙いがあった)や環境美化、乳幼児死亡率の低下などで功績があったため地方では人気が残っていた。また、娘や息子も国会議員となっており、政敵であったアキノ一族と同様フィリピンの「王家」的な地位を得ることにも成功。獄死(江青)、銃殺(エレナ・チャウシェスク)と悲劇が多かった他の冷戦期独裁者夫人の中では例外的に幸福な余生を送っている。 - ジャクリーン・ケネディ・オナシス-最悪のファーストレディ
アメリカ大統領、ジョン・F・ケネディの妻。夫が暗殺されると息子であるジュニアと共に多くのアメリカ国民の同情を買った。このまま悲劇のヒロインとしてケネディの伝説を彩ることを周囲から求められたが、彼女自身はそんなものには興味がなく、ケネディ家や周囲に遠慮することもなくギリシャの造船王であるアリストテレス・オナシスと再婚した。
この再婚で今度はアメリカ国民の怒りを買い「ファーストレディの地位を金で売った」と誹謗中傷を受けた。また、この結婚自体も不幸であり、オナシスの息子が飛行機事故で死ぬと遺産を巡る争いが激化。オナシスはジャクリーンを見放し、離婚こそしなかったが遺産のほとんどを残された娘に渡すように遺言して亡くなった。
これに腹を立てたジャクリーンは連れ子にあたる娘を提訴。莫大な和解金を手に入れた上で絶縁した。その後は結婚そのものに懲りたのか、ダイヤモンド商と愛人になるものの婚姻はせず事実婚のまま生涯を終えた。
最悪のファーストレディと評される彼女だが、ケネディの愛情はもともと薄く平然と愛人を囲っていた。最初の子が流産に終わった際も、ケネディはジャクリーンを気遣わず地中海でクルージングを楽しんでいたとも伝えられる。この時、真剣に(と言うか当然に)離婚を検討したが、ケネディの父であるジョーにカトリックの離婚はケネディにとって致命傷になりかねないと説得されて翻意した。この時も莫大な信託金をチラつかされてのことであったが、女性としてはよく耐えたと言えるかもしれない。
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たいていの男は、誰も自分の妻をさらってくれないことを嘆く。
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byニーチェ
女房に愛される技術というものは発明されないものだろうか
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byラ・ブリュイエール
結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。
●y一 ̄ ̄
(| へ
」 ○| ̄|_
宝くじなら当たることもあるのだから。
byバーナード・ショウ
女房は死んだ、俺は自由だ!
\○ノ
へ/
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byボードレール
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